平日の午後。
 尽紫は人間社会に合わせたスーツ姿で篠崎(おとうと)の会社で待機していた。

 会社に訪れたのは若い磯女だった。人間の会社で勤めているらしく、本日は勤務先で試用期間から正社員になれたという報告でやって来たらしい。
 残暑の季節というのに長袖に帽子を被った重装備の彼女は、応接間で出迎えた私を見て目を丸くした。頭を下げて椅子に腰掛け、彼女はおずおずと問いかけてくる。

「あの、私、雫紅(しずく)と申します。あの、お会いするのは初めてでしょうか……?」
「わざわざ御足労ありがとうございます。私篠崎の姉です」
「お姉様……?」

 彼女がキョトンとしている隙をついて、尽紫は九尾の尻尾を広げ、ふっと彼女に息を吹きかける。

「ーーッ!!!」

 瞬間、彼女は凍りついたように固まりーーそして、虚ろな催眠状態となる。
 尽紫は彼女の隣に寄り添うように座り、彼女の耳元に唇を寄せた。

「貴女のが知る『楓』の記憶は、全て私との思い出。私との幻覚。霊狐尽紫の名によって命ずーー忘れてしまいなさい」
「……はい……」
「貴女の正式雇用に関する手続きも、記憶も全て滞りなく完了したわ」

 これで万が一、彼女と楓がメッセージなどでやりとりしている記録があったとしても、彼女は「不思議と」、それは尽紫とのやり取りと勘違いするようにできている。

「行きなさい」

 彼女は力なく頷き、そして立ち上がる。
 磯女が会社を出たところで、尽紫は捕らえた弟から取り上げたタブレットを開いた。

「さて、次のターゲットは……古寺の住職ね。多くのあやかしに顔を見られていた中洲や糸島は面倒だったけれど、住職なら簡単ね。後の黒猫又の雄は……絆を切ってしまえば霊力が尽きてしまいそうだし、ほっといてもいいわね。死なれちゃったら目覚めが悪いわ」

 応接室のソファに座り、尽紫は体を大人姿から少女の姿に戻した。ソファーに深く座っても尻尾が痛くない。見ればソファも尻尾が引っかからないように、腰の所に空きのあるものが使われていた。
 弟らしい細かな趣味に、尽紫の頬が自然と緩む。
 ーーその時。

「楽しそうにやってるわね〜、筑紫野の女狐さん」

 不意に応接間の扉が開き、ふわりと薫り高いコーヒーの匂いが部屋に漂う。
 コーヒーカップをテーブルに置き、半獣姿の黒柴犬の女はゆったりと、対のソファーへと腰をおろした。

「私、浅煎りのコーヒーが好きなの。酸味が強いコーヒーをブラックで飲んでいると、人の姿で生きる醍醐味だわ〜って思っちゃう」

 いつの間にか黒柴犬の女は、長い足をOL服からまろびだす長身の美しい女に変わっていた。艶やかな黒髪を打掛のようにソファーに広げ、頭には狐より分厚く、ふかふかの焦げたトーストのような耳が立っている。

「羽犬姫さん。普段犬の姿なのに、人として生きる醍醐味なんて言っちゃうの?」

 尽紫の言葉を受けて、霊犬は大袈裟に肩をすくめる。意志の強い黒々とした眉と、はっきりと大きな眼差し。彫りの深いはっきりとした顔立ちで、羽犬姫は私を見て笑う。

「あら、犬の姿でもしていなければ、私が弟君の後ろ盾になるのは許さないでしょう? 弟に溺れる誰かさんが」
「そうね。八つ裂きにしていたかも」

 勧められるままに珈琲を飲むと、ふわりと甘い。

 太閤秀吉の他、様々な時代の勢盛んな支配者達に寵愛されてきた羽犬姫は率直に趣味がいいことは尽紫も認めている。
 羽犬姫は土地に根付く霊力を持つ霊犬で、九尾でも迂闊に手を出せない相手だ。彼女には純然たる暴力以外の、強固な繋がりや歴史がある。

 羽犬姫はじっと、尽紫の顔を見た。

「本当に楓ちゃんを、弟から引き離す気なのかしら?」
「だって、ようやくの好機よ? 弟を忌まわしい因縁から解き放ってあげたいのよ」
「忌まわしい因縁、ねえ……」

 羽犬姫は思わせぶりに足を組み替える。

「愛情に囚われた執着を『忌まわしい因縁』とするのなら、姉弟愛としては行き過ぎたそれも『忌まわしい因縁』じゃないの?」
「行き過ぎてなんかないわ」

 狐の美少女は唇で弧を描いて胸を張る。

「私たちは古来から一対の雌雄で双子。この世でたった二人ぼっちの姉弟なんだから」
「まー、古来ならそういうものだったのは、わかるけど」
「時代が変わったって、変わらないものはあるわ。ーーコーヒーご馳走様」

 尽紫は立ち上がり、会社を後にした。

「紫野ちゃんの為にも、……楓ちゃんの為にも、これが一番なのよ……」 

ーーー

「まあ、世の為人の為、『してあげてる』って思い始めると止まらないわよね〜」

 羽犬塚は女狐を見送り、ひとり温くなったコーヒーに口をつける。人間の姿でこうして過ごすのはいつぶりだろう、と思う。
 羽犬塚ーー羽犬姫は自分の元々の犬の姿が大好きだ。けれど相手や時代によって、柔軟に姿を変えることも厭わないし、それもまた好きだった。

「けれど、楓ちゃんの記憶を消すなんてそうそう上手くいくかしら」

 羽犬塚はひとり笑う。

「だって貴女だって全然胸のあれ、消してないじゃない」

 女狐ーー尽紫はずっと、弟のため、弟のためと行動しているようでありながら、けれど彼女はまだ胸の紋様を消していない。
 前世の桜に刻まれた絆ーー弟の方は消させておきながら、自分は残しておくなんて。

「弟が一番って言いながら、本当は……どうなのかしらね〜。まあ……絆を消さない限りは『九尾』だとしても、主人を完全に欺くことはできないわ」

 彼女の主従契約は桜から楓に引き継がれ、未だ消えていない。ならば楓の()()()()()()を持ってすれば、主人である楓の側から、記憶封印を破ることは造作もない事だ。

 但し、それは楓が「普通」の霊力者ならばという話。
 普通の霊力者ならば、従属したあやかしに万が一術をかけられた場合の対処は怠らない。
 菊井楓は何も知らない、あくまで普通の女の子だ。契約を結んだ霊狐が叛逆した場合の対処などしている訳がない。

「でも」

 羽犬姫は一人で笑む。

「あの子って『変な子』だから」

 霊犬は菊井楓という女を思う。
 四百年の未練を拗らせた狐が連れてきた娘。
 ごく普通になりたいと言いながら、あまりにも自然に己の霊力を操り、ごく当たり前のようにあやかしの世界に馴染んだ娘。
 ちょっと抜けていて、それでいて目敏くて、毒気のなくて、いつも一生懸命なあの子。

「世の中なんだって、番狂わせってあるものよ。あの子と縁を切りたくないと思うのは、私だけじゃないと思うから」

 羽犬姫に未来予知の能力はない。
 けれど、いきなり始まった騒々しい日々が、こう簡単に収束するとは思えないのだった。