「篠崎さん……!」

 私は駆け寄ろうとしたけれど、金縛りにあったように指一本動かない。自由になったのは声だけのようだ。

「私の可愛い紫野ちゃん。柳川で会うのは四百年ぶりかしら」

 春ちゃんはゆったりとした歩調で篠崎さんへと近づき、彼の前に立つ。
 女性としても華奢な春ちゃんより、篠崎さんの方がずっと背も高くて、体の厚みも手の大きさもまるで違う。
 それなのに。近くに立つだけで、はっきりと篠崎さんが圧されているのを感じた。
 全国各地、多様なあやかしと交渉できる篠崎さんでも、九尾狐(はるちゃん)には気圧されるーーそんな子が幼馴染だったんだ。
 私は背筋が震えるのを感じる。冷たい汗が、背中を雫となってこぼれ落ちる。

 ーー狐色の髪で並ぶと、二人は同じ作りの顔だちをしているのがはっきりした。
 年齢は逆に見えるけれど、姉弟なのは本当なんだ。

 春ちゃんは背伸びして肩に手を添え、真っ白な指で篠崎さんの顎をするりと撫でた。それだけで篠崎さんの体がびくりと強張る。

「かわいそうに。ここに立つだけでもどれだけ苦しいのか」

 言いながら春ちゃんは、私を妖艶に振り返る。

「紫野ちゃんはね。ここーー柳川の地で前世の桜(あなた)と最後に御別れをしたの。だからここには、四百年以上足を踏み入れてなかったの。けれど今日は楓ちゃんを追いかけて、ここまで来たのよ」
「篠崎さん……」
「ね、とっても偉いでしょう? その上、私の霊力に耐えて結界を押し破って、苦しいでしょうにそれでも獣の姿に戻らない。ああ、とても愁傷だわ」
「篠崎さん」

 私は春ちゃんの後ろから、篠崎さんへと声を振り絞った。

「篠崎さん……私は……」
「……聞いちまったか、全部」

 篠崎さんの問いかけに対して、私は金縛りの体で頷けない。言葉で答えるしかなかった。

「はい。篠崎さんが春ちゃんと姉弟だということや……私の前世が、篠崎さんのご主人だったと言うことを」
「俺が週明けに言いたかったことは、それだ」

 篠崎さんは疲れたように笑みを浮かべ、汗を零しながら呟いた。

「ごめんなさい。私、篠崎さんから聞く前に、先に聞いちゃって」
「楓は何も悪くない。気にするな」

 そして姉の春ちゃんを睨んだ。

「尽紫……お前が、楓の霊力を封印していたんだな」
「えっ」

 話の予想外の方向に、思わず変な声が出る私。春ちゃんは篠崎さんへと頷いた。

「九尾だもの。それくらい今の私なら容易いの、わかるでしょう?」
「立花山のそばで暮らしていた尽紫なら、ほど近い香椎で生まれ育った楓の存在にすぐに気づける。……霊力を封印し続けていたから、俺もずっと楓に気づかなかったんだな」
「ふふ、そういうこと。修行が足りなかったわね、紫野ちゃん」

 瞬間、春ちゃんの尻尾が大きく広がる。

「……ぐ、ぁ……!」

 それだけで篠崎さんはガクンと膝をつく。立ち上がろうとする篠崎さんのネクタイを掴み、春ちゃんはぐいっと篠崎さんの顔を上に向けた。

「っ……尽紫……」
「情けないわね、紫野ちゃん。昔はあなたの方が姉の私より、うんと戦上手で強かったのに」

 春ちゃんはネクタイを掴み上げたまま愛情たっぷりに呟き、春ちゃんは長い睫毛を伏せる。

「紫野ちゃん……恋心を拗らせて、未だそよ風のような霊力のままの幼(いとけな)さで懸命に生きている、愚かでばかな可愛い弟」

 愛情を滲ませた蕩ける声音に反して荒っぽい手つきで、春ちゃんは篠崎さんのネクタイを強く引っ張り引き寄せる。
 汗で濡れた前髪を愛おしそうに避け、篠崎さんの額へと口付ける。
 篠崎さんは指一本抵抗できないらしく、ただ顔を歪めて姉を睨みつける。

「ねえ、紫野ちゃん。私は楓が産声を上げた時、すぐに『桜』だと気づいたわ。だから、だだ漏れの霊力で再び不幸な目に遭わないよう、見た目と立場を変えて楓を守り続けた」

 篠崎さんを見下ろす、春ちゃんの容姿がさまざまに変わる。
 保育士の先生。学校の担任の先生。クラスメイト。そして懐かしい、いろんな年齢の春ちゃん。
 ーー私はずっと、春ちゃんに見守られていたんだ。

 愕然とする私にチラリと視線をよこし、春ちゃんは話を続ける。

「けれど楓ちゃんが就職した頃から、『春ちゃん』として頻繁に会うことができなくなって、張り続けていた結界が弱くなった。そんな時、天神駅の改札口で楓ちゃんは貴方に見つけられてしまったの。……貴方と出会ったことで最後の結界が剥がれたのよ」

 春ちゃは私を振り返った。鋭い眼差しを向けられ、ぶわ、と前髪が浮くほどの霊力を感じる。

「楓ちゃん。私の弟と離れて頂戴」
「春ちゃん……」
「『桜』の魂を持つあなたに囚われて、弟は哀れにも四〇〇年もの間『天神のはぐれ狐』としてあなたを待っていたの。けれどあなたは『桜』じゃないわ。もし貴方がそれでも紫野の傍にいたい、離れたくないと言うのなら」

 その瞬間。
 圧倒的な風に吹き飛ばされるような感覚がした。
 鞄に吊るした愛用のICカードがバキンと割れる。九尾の狐の霊力で、私は気を失いそうになった。

「止めろ!」

 振り絞るように、篠崎さんが叫ぶ。嘘のように風が止む。
 篠崎さんは庇うように、私と春ちゃんの間に立ち塞がった。

「なあ、尽紫。目的は俺なんだろう? 楓に手を出すなら許さねえ」
「九尾相手に、たかが一尾のあなたがどう抗うの?」
「俺は楓(こいつ)のためなら命だって惜しくない。だがお前も、俺(おとうと)を殺すことはできないだろ?」

 すっと春ちゃんの表情が消える。本心を突かれた彼女に篠崎さんは声を張る。

「尽紫。今後未来永劫、楓が人生を全うするまで、陰日向でこれまでのように守り続けろ。楓が「安全」に「普通」に生きられるなら、俺は何ももういらない。……姉さんと『彼方』にいくよ」

 私は弾かれるように目の前の背中を見た。

「楓に、最後の挨拶くらいさせてくれるよな?」
「好きにしなさい」

 篠崎さんはゆっくりと振り返り、私に目を眇めて笑った。
 いつも身なりを綺麗に整えている人なのに、髪は乱れてシャツはぼろぼろだった。

「すまない。結局、巻き込んだだけになっちまったな」

 疲れた笑顔で、篠崎さんは私の髪を撫でた。そしておもむろに私の手をとると、篠崎さん自身の胸元に導いた。シャツ越しに紋様に触れると、パチン、と何かが弾けた音がする。

「ーーもしかして今、契約を……解いたんですか?」

 穏やかな篠崎さんの表情が全てを物語っていた。

「楓が楓として生まれ変わったことを、こうして示せば契約は消える。もう、別人だから」
「そんな」

 私は首を振る。

「篠崎さんの、大切なものだったんじゃないですか!?」
「それは俺の勝手だ。楓にはもう、俺から解放されてほしい」
「解放、って」

 篠崎さんは私を腕に捉えて抱きしめた。
 脛に尻尾も絡めてくれて、その温かさに私は泣きそうになった。
 そういえば、私はキスもされていたのに、抱きしめられたのは初めてだった。

 離れなくていいのに。
 篠崎さんはどこに行っちゃうの。
 勝手に決めないで。

 言葉が出ないまま私はただ、篠崎さんの腕の中に囚われた。
 心地いいのに、感情がめちゃくちゃになって何も言葉として紡げない。

「最初、楓に口付けたのは下心でも、お前が桜だったからでもない。本当に必要だったからだ」

 篠崎さんのくぐもった低い声が、耳朶を掠めるように響いた。

「けれど一緒にいるうちに、まともに口付けるのが気恥ずかしくなっちまった。それくらいには、お前が……」
「意識してるの、私だけかと思ってました」
「……俺は馬鹿なんだよ。一度前世でお前を不幸にしちまったのに、性懲りも無くお前を離したくないと思うなんて」
「篠崎さん、私……」
「霊力をなんとかした後に、別の就職先でも見つけてやらねえとと思ってたのにな……」

 篠崎さんの腕の力が強くなる。結んでいた私の髪を解いて、髪を撫でて、頭に口付けられる感触がする。
 私は目を閉じる。篠崎さんの息遣いと温度が、もっと強くなる。

「俺が前世のお前ーー桜を待っていたのは事実だ。だが、楓を前世の女の代わりだから愛しいなんて思ったことは一度もない。だからこそ心苦しかった。楓が前世の因縁に巻き込まれて、普通に暮らせなくなるのが」

 私は篠崎さんの胸を押し、腕の中から顔を上げる。篠崎さんは狐耳を寝かして私を見下ろしていた。篠崎さんの乱れた髪を手櫛で整えれば、ぺたんと寝た耳が喜ぶように震えた。感情が素直に出る篠崎さんの耳はいつだって愛おしい。私は思いのまま口を開いた。

「篠崎さん、私あなたのことが好きです」
「好きになったら駄目だろ」
「離れないで」
「駄目だ。不幸になる」

 篠崎さんは困ったように笑う。そんなに優しい顔をして、これを別れ話にしないでほしい。

「お前の霊力はこれからも陰ながら俺たち二人で封印する。どうか「普通」に生きてくれ」

 その瞬間。雨がざっと葉を濡らす音が聞こえる。

「え」

 振り返ったとき、私の目の前には通り雨で濡れる色鮮やかな庭園が広がっていた。
 板張りに座っていた私の爪先が湿度を帯びる。

「私……どうして一人で柳川に来ているんだっけ」

 通り雨を眺めながら、思い出せない記憶を手繰り寄せる。庭が綺麗すぎて意識が飛んでいたのか。

「あそっか。確かチケットを貰ったんだよね。それで柳川観光したことないから、おひとり様でちょっと遠出しようと思って……そう、だよね」

 ここにずっといては雨に濡れてしまう。
 狐につままれたような気持ちでぼーっと立ち上がり、私はトートバックを持ち上げる。

「うわ、はや●かけんが割れてる。何で!?」

  ふと体を見れば、肩のあたりに犬の抜け毛のようなものが数本ついていた。
 まるで獣が、最後にふわりと撫でていったかのようだったけれどーー楓はそれすらも、柳川を出た頃には忘れてしまった。