今まで聞いたことのない、春ちゃんのざらついた声。

「え……」

 弾かれるように彼女の顔を見れば、美しい親友の、金色の双眸と目がかち合う。
 金色の、目?
 まるで金箔を貼り付けて光にかざしたような、キラキラとした強烈な瞳の色。眩い瞳の色に反して美貌は氷のように冷たい。
 金の瞳の、美しい顔ーー私はよく似たものに見覚えがある。
 春ちゃんは篠崎さんに、よく似ているのだーー目の色が金になると、より鮮明に。

「楓ちゃん。あのね。紫野は楓を見てはいないのよ。桜を見てるの」
「え? しの、って……それに、さくら……?」
「紫野の気持ちに、まだ気づいていないのでしょう?」
「……待って。その名前ってもしかして」
「篠崎雷(しのざき らい)。今は人間の真似をして、そう名乗っているのだったっけ?」

 春ちゃんに私は、篠崎さんのフルネームを教えた覚えはない。私はいつも「社長」とだけ言って、篠崎さんの名前を言ってないはずだ。

「一体、どういう事なの? 春ちゃん」
「春ちゃんも、そろそろ終わりかしら」

 彼女が言った瞬間。ガラスが割れるように景色がパキンと音を鳴らして割れる。
 あたり一帯の景色がモノクロになる。

「結界……!?」

 これは最初に、夜さんに大濠公園で襲われた時と同じだ。
 この空間に閉じ込められると、私たちは普通の人間からは見えない存在となる。
 春ちゃんは立ち上がり、長い黒髪をふわ、と大きく靡かせる。金箔で掃くように毛先から輝き、あっという間にロングヘアは足首まで隠れる狐色の長髪へと変わる。
 頭の上にピン、と大きな耳が立つ。
 白いワンピースの裾がもこもこと蠢き、太ももを露わにしながら柔らかで大きな狐尾が次々と飛び出した。

「春ちゃん……狐のあやかしさん、だったの……?」
「あなたの前では春(はる)。獣としての名は「春(しゅん)」。そして主従契約で与えられた名は「尽紫(つくし)」ーー筑紫野を駆ける古き霊狐、その対の雌狐よ」
「つくし……筑紫野……あ! つくし、と、しの って……こと!?」
「正解。かの猛将であり霊狐遣いの雄(ゆう)、戸次道雪が筑前立花山城を守護する時に契約を求めた、筑紫野の守護狐」
「ま、待って。べっき……さんって? 立花山城が……あれ? どういうこと?」
「そうね…いきなり言っても混乱するわよね。ごめんなさい」

 はあ、と溜息をついて髪をかきあげる仕草は、髪色と目の色が同じになると篠崎さんそっくりだ。

「私と篠崎こと、紫野ちゃんは二人っきりの姉弟なの。そして私たちはとある偉い人に、霊狐として主従契約を求められたの。で、応じたの」
「噛み砕いてくれてありがとう」
「そして偉い人……彼の娘に仕えている巫女が、私たち姉弟と直接使役関係を結んだの」
「本社の社長さんが承認した上で、子会社の社員が姉弟と契約の取り交わしをしたって感じ?」
「今はそれでいいわ。本題はそこじゃないから」
「本題?」

 ここで春ちゃんは、急に表情をなくして私を見た。私の頬に手を伸ばし、冷たい指先でそっと頬を包みこむ。
 会話している間に、ふさふさの尻尾は数を増し、今はスカートをたくし上げて9本の尻尾が揺れていた。
 九尾の狐ーー話には聞くけれど、本当に存在するなんて。

「私たち姉弟と契約した巫女というのが、あなたの前世ーー桜よ」
「桜……前世……?」
「そう。強靭な霊力を見出されて立花家に仕え、私と紫野ちゃんを使役した巫女」

 情報が多すぎて、私は頭が真っ白になっていた。
 春ちゃんと篠崎さんは姉弟。そして二人のかつての主人は「桜」という巫女。
 篠崎さんの主人ーー篠崎さんが四〇〇年も胸に紋様を刻んで大切にしてきた、好きだった人。
 それは前世の私、桜なのだ。

「桜……馬鹿な女よ。紫野ちゃんが将来を約束していたのに、あやかしの呪術をまともに浴びて死んでしまった女」

 春ちゃんは篠崎さんに良く似た美貌で眉を歪めて笑う。唇の赤さが目立つ笑顔だった。

「楓ちゃん、よく聞いて。弟は楓ちゃんを桜の代わりとして見ているのよ。同じ魂のあなたに、過去の女を重ねているだけ。……そんな雄(おとこ)に告白したって、詮無いことと思わない?」

 私の頬を撫でる春ちゃんは、どこか篠崎さんとよく似た匂いがする。甘いような、香水のようなーー嗅覚ではなく感覚で感じるような、蕩けるような匂い。
 ふと視線を落とせば、春ちゃんのデコルテが光っている。ワンピースの襟元から覗いた胸元で紋様が光っている。篠崎さんとお揃いだ。

 呆然とする私に、春ちゃんは堰を切ったように話を続ける。

「私は楓ちゃんと紫野(おとうと)が出会ったのも、そして紫野(おとうと)が楓ちゃんを雇用するという名目で囲っているのも知っていた。陰ながら、どうなるのか様子をずっと見ていたの。けれどもう駄目ね。楓ちゃんは、私の弟を救えない」
「……っ」

 私は言葉を発そうとして、口が開かないことに気づく。
 指一本動かせない。ただ頬を撫でられて、おくれ毛を指先でくすぐられるのを感じるしかない。

「ねえ楓ちゃん。あなたは結局、桜の代わりでしかないの」

 九本の尻尾がそれぞれ別の意志を持つようにぞわぞわと蠢く。

「楓ちゃんも幸せになれないわ。だって紫野ちゃんは、あなたに桜を重ねてるだけだもの」

 親友は狐だった。そして悩みの種だった篠崎さんのご主人は、前世の私だった。
 前世って何? 情報量が多すぎる。私はどんな顔をすればいいの……?

「楓ちゃん。私は貴方に前世みたいに悲惨な目に遭わず、「普通」の人生を送って欲しいのよ」

 春ちゃんの言葉に、私はハッとする。
 私が「普通」に生きなくちゃと思うきっかけは、生きてきた中で何度もあった。
 学校で浮いた時をはじめとして、人生で色々「変な」自分を自覚してしまった時に何度も。
 この間もまさに、友達との飲み会で「普通」を意識した。
 ーーもしかして。
 春ちゃんが、親友の顔をしてーー私に「普通」を勧めてくれていたのは、そういうことだったの?

 その時。

「尽紫(つくし)。いい加減にしろ」

 聴きなれた声が届き、私の体がふわ、と自由になる。
 反射的に振り返れば、スーツ姿の篠崎さんが肩で息をして立っていた。
 狐色の髪は汗でぐっしょりに濡れ、青ざめて色を失った頬に張り付いている。
 ぎゅっと握りしめた拳が震えている。ーー尋常ではない様子だった。

「よく頑張ってここまで来れたわね、紫野ちゃん」

 尽紫と呼ばれた春ちゃんは、瞳を光らせ唇で弧を描いた。