筑前福岡の武家屋敷。
庭の木々を揺らす海風が、開け放たれた障子から、びゅうと屋敷の中を通り抜ける。
血を分けた姉狐は、紫野の前で努めて淡々と話を続ける。
「病に伏せた誾千代姫に、数々の呪いが襲いかかったわ。私たち霊狐は桜と共に守り続けたけれど……大名家正室としての立場を失った彼女は、身の回りの侍女達に少しずつ暇を出していたの。そんな中でも桜はまるで本当の姉のように寄り添って、誾千代姫のお世話をしていたわ。……まるで仲良く暮らしていた子供時代のように」
紫野の顔を見て、尽紫は細く痩せた肩をすくめ、言葉を切る。気丈なふりをしているが姉もずいぶん憔悴している様子だった。
「夏のことよ。ちょうど姫が一度危篤に陥った時ーー狙い定めたように次々と呪詛が襲いかかってきて、姫の命を狙おうとした。その時桜が、姫の衣と護符を身につけて……身代わりになって全ての呪いを受けたの。……姫は一命を取り留めたわ。けれどもう、熱が下がることがないまま……秋の一際寒くなった日に」
桜は、どうなった。
呪いを受けた後、井戸に落ちて。どうなった。ーー亡骸は。
聞きたいことは山ほどあっても、紫野はもう何も口にできなかった。
ーー自分が無理にでも、桜を連れて博多に行けばよかったのか。
ーー自分という霊狐と契約しなければ、彼女は普通の巫女として違う人生を送れたのか。
ーー自分が桜を愛さなければ、桜は普通の男と夫婦になり、巫女を辞して普通の女の幸福を得られたのか。
「紫野ちゃん。可哀想に……涙すら流せないのね」
姉は立ち上がり、紫野に寄り添うとそっと頭を抱き寄せてくる。
胸に顔を埋めるようにされ、はっとして紫野は姉の身を突き放した。
「……辞めてくれ、尽紫。俺は」
「紫野ちゃん。あなたは疲れているわ。私もちょっと疲れちゃった……一緒に狐となって、山に帰りましょう?」
突き放された姉は軽く小袖の裾を払い、改めて紫野の手を握る。真っ白で柔らかな姉の手が目に入る。
美しい女の手だ、と思う。
けれど紫野がずっと求めていた女の手はこんなに滑らかで柔らかな美しい手ではない。
爪の奥まで薬草や呪符の色が滲んで。あちこちに切り傷や火傷の跡があって。日に焼けて、少しざらついていて、働いてささくれだっていてーーけれど骨が細くて握り込んで仕舞えば小さく収まる、あのきれいな手だ。
「……俺は、行けない」
「紫野、ちゃん?」
「帰ってくれ。俺は姉さんと一緒に山には帰れない」
「紫野ちゃん。よく聞いて。あなたは今、とても」
「……帰ってくれ」
ぶわ、と毛が逆立つのを感じる。客間に飾られた花瓶が震え、生けられた花が枯れる。板張りの色が途端に色褪せ、畳がボロボロと崩れていく。
「ーー紫野ちゃん、あなた」
もう辞めてくれ。俺にこれ以上、話しかけないでくれ。
紫野は狐の声で咆哮した。
ーーその後数年に渡り、紫野は呪いを放つ悪狐として暴れ回る事となった。
ーーー
紫野は待ち侘びていた。愛する巫女と再会することを。
しかし巫女は姫城督の頃から敬愛する誾千代姫を庇って殉死し、その魂を輪廻の輪に投げた。
狐は荒れた。
荒れに荒れ、終いには姉狐により徹底的に打ちのめされ、積み重ねた600年の功徳を失った、一本尾の妖狐と成り果ててしまった。
「紫野ちゃん。私はあなたを殺せない。無理矢理『彼方』に連れて行くこともできない」
霊力をあげて尾を増やした姉狐は、悲しげな顔をして踏みつけにした弟を見下ろした。
「私は、やる事があるから暫く『此方』に居るわ。落ち着いた時に、一緒に『彼方』に行きましょう」
人の姿も保てなくなった紫野は、踏みつけられ霊力で封印され、筑紫の森の一角に置き去りにされた。
己の名も、苦しみの根源も見失うほどに荒れ狂った傷ついた雄狐。
それから数十年経過したある日、雄狐は気まぐれな霊犬に話しかけられた。
「あら、まだあなた生きてたの? 根性だけは立派ねえ」
花魁のように着飾った極上の美貌の霊犬は、黒柴犬の霊犬だった。細い頸から下をしどけなく開いた襟からは、大きな白鳥のごとき翼を広げている。
ーー羽犬姫。筑前より南方、筑後に古くより住まうあやかしの姫は、ボロきれになった雄狐に息を吹きかける。
ぱきりと結界が音を立てて壊れ、雄の霊狐は人の姿を取り戻した。
「美男子(よかにせ)が勿体無いわね、船小屋の霊泉にでも浸かって早く綺麗になさいな」
「……何故助けた」
翼を持つ雌の霊犬は、赤い唇でにっこり笑う。
「気分かしら」
「気分……だと?」
「そう、気分。人間に恋して壊れた雄狐って、ちょっとした御伽噺のようで可愛らしいから」
羽犬姫は酔狂なあやかしとして名が知れていた。かの豊臣秀吉が九州平定で進軍した折、珍しいものと極上の女を好む彼に気に入られ、こっそりと彼の九州屋敷の側室として寵愛されたという。
子供に恵まれない彼の側室に古来のあやかしの秘術を吹き込んだのも彼女という噂さえある。
酔狂な女に、酔狂で助けられたというわけだ。
「狐ちゃん。こちらに生きるのが嫌ならとっとと『彼方』に行きなさいな。お姉さんも貴方と一緒に行きたがってるんでしょ?」
「……俺は……」
「拗ねた子供みたいね、あなた。そりゃあ尻尾も一本に戻っちゃうわよ」
呆れた霊犬は霊狐を優しく、そして厳しく諭した。
「『此方』にしがみつきたいのなら、順応しなさい。人間の世界に慣れなさい。これからどんどん世の中は変わっていく。こちらで思い人ともう一度会いたいのなら。待ちたいのなら」
「……待つ、だと? あいつはもう!」
「あらやだ、そこまで考えてなかったの?」
羽犬姫は優しく微笑んだ。
「人間は生まれ変わるわ。それを待てるのは、妾たちあやかしの喜びではなくて?」
霊犬はこの土地が筑紫の名を受ける前より存在する、旧い旧い土地神であった。彼女は時代の流れに呑まれて消えることを良しとせず、太閤秀吉に寵愛を受け今も『此方』に生きていた。
その言葉は、霊狐にとってとても重みがあるものだった。
「ああ、それとも……姿形が変わって仕舞えば、あなたにとって恋はもう終わりなのかしら。やあねえ」
「そんなこと! 俺はどんな姿だろうと、桜を」
弾かれるように反論した紫野に、羽犬姫は優しく微笑んだ。ぱたぱたと愛らしい巻き尻尾を揺らす。
「それでこそ御伽噺だわ。可愛い雄狐ちゃん。……覚悟があるのなら、妾がすこし、力を貸してあげる」
ーーー
狐はそれから数百年を生きながら考えた。
狐は賭けた。
巫女がもう一度魂だけでも、自分の元に戻ってきてくれることを。
狐は立花の霊狐として与えられた「紫野」の名を改め、篠崎と名乗るようになった。
あっという間に400年の月日が流れ、人間社会にすっかり順応した霊狐篠崎はある日運命の出会いを果たす。
「え、ええと…私は本当に、お金が無くて……それに、ただ普通に、就職をして、親を安心させて、人生無難に過ごせたらそれでよくて…」
「『井の中の蛙大海を知らず』と古来より言う。まずは挑戦だ」
「話聞いてください……」
最近マークしていた不法営業の黒猫又の男が、くたびれた作り笑いでタジタジの女を相手している。
気づいた瞬間、意識するより先に体が反応した。身体中の毛が逆立つ。
灰色の世界で一箇所だけ、まるで春がきたように鮮烈に浮かび上がるその姿。
甘い匂いがあたり一面に漂うような、だだもれの霊力。
「さくら、」
篠崎は意識するより前に駆け出していた。思い切り真っ直ぐ近づいてきた篠崎に驚いた顔をして挙動不審になるリクルートスーツ姿の女。
「き、きつね……?」
露骨に怯えていた癖に、篠崎の尻尾と耳に気づいた瞬間、わずかに顔が緩むその図太さ。
ーーああ、見覚えがある。
篠崎は熱くなる涙腺を堪え、彼女を睨みつけて一瞥し、すぐに黒猫又へと目を向けた。
魂が同じといえど、生まれ変われば他人かもしれないと恐れていた。
けれどーー篠崎は確信した。
この変な女に、また同じように自分は身も心もめちゃくちゃになってしまうと。
庭の木々を揺らす海風が、開け放たれた障子から、びゅうと屋敷の中を通り抜ける。
血を分けた姉狐は、紫野の前で努めて淡々と話を続ける。
「病に伏せた誾千代姫に、数々の呪いが襲いかかったわ。私たち霊狐は桜と共に守り続けたけれど……大名家正室としての立場を失った彼女は、身の回りの侍女達に少しずつ暇を出していたの。そんな中でも桜はまるで本当の姉のように寄り添って、誾千代姫のお世話をしていたわ。……まるで仲良く暮らしていた子供時代のように」
紫野の顔を見て、尽紫は細く痩せた肩をすくめ、言葉を切る。気丈なふりをしているが姉もずいぶん憔悴している様子だった。
「夏のことよ。ちょうど姫が一度危篤に陥った時ーー狙い定めたように次々と呪詛が襲いかかってきて、姫の命を狙おうとした。その時桜が、姫の衣と護符を身につけて……身代わりになって全ての呪いを受けたの。……姫は一命を取り留めたわ。けれどもう、熱が下がることがないまま……秋の一際寒くなった日に」
桜は、どうなった。
呪いを受けた後、井戸に落ちて。どうなった。ーー亡骸は。
聞きたいことは山ほどあっても、紫野はもう何も口にできなかった。
ーー自分が無理にでも、桜を連れて博多に行けばよかったのか。
ーー自分という霊狐と契約しなければ、彼女は普通の巫女として違う人生を送れたのか。
ーー自分が桜を愛さなければ、桜は普通の男と夫婦になり、巫女を辞して普通の女の幸福を得られたのか。
「紫野ちゃん。可哀想に……涙すら流せないのね」
姉は立ち上がり、紫野に寄り添うとそっと頭を抱き寄せてくる。
胸に顔を埋めるようにされ、はっとして紫野は姉の身を突き放した。
「……辞めてくれ、尽紫。俺は」
「紫野ちゃん。あなたは疲れているわ。私もちょっと疲れちゃった……一緒に狐となって、山に帰りましょう?」
突き放された姉は軽く小袖の裾を払い、改めて紫野の手を握る。真っ白で柔らかな姉の手が目に入る。
美しい女の手だ、と思う。
けれど紫野がずっと求めていた女の手はこんなに滑らかで柔らかな美しい手ではない。
爪の奥まで薬草や呪符の色が滲んで。あちこちに切り傷や火傷の跡があって。日に焼けて、少しざらついていて、働いてささくれだっていてーーけれど骨が細くて握り込んで仕舞えば小さく収まる、あのきれいな手だ。
「……俺は、行けない」
「紫野、ちゃん?」
「帰ってくれ。俺は姉さんと一緒に山には帰れない」
「紫野ちゃん。よく聞いて。あなたは今、とても」
「……帰ってくれ」
ぶわ、と毛が逆立つのを感じる。客間に飾られた花瓶が震え、生けられた花が枯れる。板張りの色が途端に色褪せ、畳がボロボロと崩れていく。
「ーー紫野ちゃん、あなた」
もう辞めてくれ。俺にこれ以上、話しかけないでくれ。
紫野は狐の声で咆哮した。
ーーその後数年に渡り、紫野は呪いを放つ悪狐として暴れ回る事となった。
ーーー
紫野は待ち侘びていた。愛する巫女と再会することを。
しかし巫女は姫城督の頃から敬愛する誾千代姫を庇って殉死し、その魂を輪廻の輪に投げた。
狐は荒れた。
荒れに荒れ、終いには姉狐により徹底的に打ちのめされ、積み重ねた600年の功徳を失った、一本尾の妖狐と成り果ててしまった。
「紫野ちゃん。私はあなたを殺せない。無理矢理『彼方』に連れて行くこともできない」
霊力をあげて尾を増やした姉狐は、悲しげな顔をして踏みつけにした弟を見下ろした。
「私は、やる事があるから暫く『此方』に居るわ。落ち着いた時に、一緒に『彼方』に行きましょう」
人の姿も保てなくなった紫野は、踏みつけられ霊力で封印され、筑紫の森の一角に置き去りにされた。
己の名も、苦しみの根源も見失うほどに荒れ狂った傷ついた雄狐。
それから数十年経過したある日、雄狐は気まぐれな霊犬に話しかけられた。
「あら、まだあなた生きてたの? 根性だけは立派ねえ」
花魁のように着飾った極上の美貌の霊犬は、黒柴犬の霊犬だった。細い頸から下をしどけなく開いた襟からは、大きな白鳥のごとき翼を広げている。
ーー羽犬姫。筑前より南方、筑後に古くより住まうあやかしの姫は、ボロきれになった雄狐に息を吹きかける。
ぱきりと結界が音を立てて壊れ、雄の霊狐は人の姿を取り戻した。
「美男子(よかにせ)が勿体無いわね、船小屋の霊泉にでも浸かって早く綺麗になさいな」
「……何故助けた」
翼を持つ雌の霊犬は、赤い唇でにっこり笑う。
「気分かしら」
「気分……だと?」
「そう、気分。人間に恋して壊れた雄狐って、ちょっとした御伽噺のようで可愛らしいから」
羽犬姫は酔狂なあやかしとして名が知れていた。かの豊臣秀吉が九州平定で進軍した折、珍しいものと極上の女を好む彼に気に入られ、こっそりと彼の九州屋敷の側室として寵愛されたという。
子供に恵まれない彼の側室に古来のあやかしの秘術を吹き込んだのも彼女という噂さえある。
酔狂な女に、酔狂で助けられたというわけだ。
「狐ちゃん。こちらに生きるのが嫌ならとっとと『彼方』に行きなさいな。お姉さんも貴方と一緒に行きたがってるんでしょ?」
「……俺は……」
「拗ねた子供みたいね、あなた。そりゃあ尻尾も一本に戻っちゃうわよ」
呆れた霊犬は霊狐を優しく、そして厳しく諭した。
「『此方』にしがみつきたいのなら、順応しなさい。人間の世界に慣れなさい。これからどんどん世の中は変わっていく。こちらで思い人ともう一度会いたいのなら。待ちたいのなら」
「……待つ、だと? あいつはもう!」
「あらやだ、そこまで考えてなかったの?」
羽犬姫は優しく微笑んだ。
「人間は生まれ変わるわ。それを待てるのは、妾たちあやかしの喜びではなくて?」
霊犬はこの土地が筑紫の名を受ける前より存在する、旧い旧い土地神であった。彼女は時代の流れに呑まれて消えることを良しとせず、太閤秀吉に寵愛を受け今も『此方』に生きていた。
その言葉は、霊狐にとってとても重みがあるものだった。
「ああ、それとも……姿形が変わって仕舞えば、あなたにとって恋はもう終わりなのかしら。やあねえ」
「そんなこと! 俺はどんな姿だろうと、桜を」
弾かれるように反論した紫野に、羽犬姫は優しく微笑んだ。ぱたぱたと愛らしい巻き尻尾を揺らす。
「それでこそ御伽噺だわ。可愛い雄狐ちゃん。……覚悟があるのなら、妾がすこし、力を貸してあげる」
ーーー
狐はそれから数百年を生きながら考えた。
狐は賭けた。
巫女がもう一度魂だけでも、自分の元に戻ってきてくれることを。
狐は立花の霊狐として与えられた「紫野」の名を改め、篠崎と名乗るようになった。
あっという間に400年の月日が流れ、人間社会にすっかり順応した霊狐篠崎はある日運命の出会いを果たす。
「え、ええと…私は本当に、お金が無くて……それに、ただ普通に、就職をして、親を安心させて、人生無難に過ごせたらそれでよくて…」
「『井の中の蛙大海を知らず』と古来より言う。まずは挑戦だ」
「話聞いてください……」
最近マークしていた不法営業の黒猫又の男が、くたびれた作り笑いでタジタジの女を相手している。
気づいた瞬間、意識するより先に体が反応した。身体中の毛が逆立つ。
灰色の世界で一箇所だけ、まるで春がきたように鮮烈に浮かび上がるその姿。
甘い匂いがあたり一面に漂うような、だだもれの霊力。
「さくら、」
篠崎は意識するより前に駆け出していた。思い切り真っ直ぐ近づいてきた篠崎に驚いた顔をして挙動不審になるリクルートスーツ姿の女。
「き、きつね……?」
露骨に怯えていた癖に、篠崎の尻尾と耳に気づいた瞬間、わずかに顔が緩むその図太さ。
ーーああ、見覚えがある。
篠崎は熱くなる涙腺を堪え、彼女を睨みつけて一瞥し、すぐに黒猫又へと目を向けた。
魂が同じといえど、生まれ変われば他人かもしれないと恐れていた。
けれどーー篠崎は確信した。
この変な女に、また同じように自分は身も心もめちゃくちゃになってしまうと。