マッサージと温泉で心身ともにとろとろにされてしまっていると、ソファーにぐったりとした私の元に篠崎さんが迎えにやってきてくれた。

「篠崎さん……」
「帰るぞ」

 静かな声音で言うと、私に手を伸ばしてくれる。手を取りながら、私は彼の優しさに苦しくなる。
 迷惑をかけた私にこの人はいつだって優しい。

「申し訳ありません。お仕事は」
「羽犬塚さんに任せた。元々は今日はお前に休ませようと思ってたんだ、気にするな」
「……お迎えありがとうございます」
「ああ」

 部屋を出ると、賑やかで人の気配が満ちていた旅館は無人のように静まりかえっていた。見送りの従業員も誰もおらず、古びた売店コーナーの自販機の音がヴン……と煩い。
 旅館から外に出ると、すでに少し夕日が翳り始めていた。

 車に乗ると、ポツポツと雨が降り出す。夕立だ。篠崎さんは黙って車のキーを回す。
 ハンドルを握る前、篠崎さんが話を切り出した。

「ずっと、黙ってて悪かったな。楓に、俺の主人についてきちんと説明する」
「篠崎さん、」
「聞いて……それから、今後についてお前が決めてほしい」

 私をまっすぐ見る琥珀の瞳。雨がざ、とふり始める。彼の眼差しは、真剣だった。

「だが。忘れないでほしい。俺が何を告白したとしても、楓は楓が一番幸せになれる道を選んでくれ。俺に対する気遣いや遠慮は必要ない。俺は、楓が自由に未来を選び、幸せになってくれることが願いだから」
「篠崎さん……」

 肩をすくめて、篠崎さんは笑う。

「四百年胸に秘めたことを口にするんだ。俺も腹を決めないと話せない。改めて後日、時間を作って構わないか?」
「はい。勿論です」

 車が発車する。ラジオのひとつもつけない社用車の中で、車を叩く雨音ばかりが大きく響く。沈黙しているのに、不思議と居心地は悪くなかった。篠崎さんの腕まくりしたワイシャツの肘から下を見る。筋張った長い腕と、なれた様子でハンドルを握る長い指を、いつまでも見ていたいと思った。

「篠崎さん」
「ん」
「私は、篠崎さんにキスされるのが好きです」

 篠崎さんは返事をしない。私は湿度に溶け出すように、自分の気持ちを吐露していく。

「最初こそびっくりしましたが、嫌だと思うことはありませんでした。……篠崎さんが初めてのキスで、よかったと私は思ってます。それは篠崎さんが今後何をおっしゃられても変わらない私の気持ちです」

 私は息を吐く。一息には、気持ちをとても言い切れない。

「篠崎さんの方がキスするのが嫌じゃなかったら、これからも……霊力を吸われるのは篠崎さんがいいです。篠崎さん以外、嫌です。今日、はっきり思いました」
「……そりゃあ、光栄だな」

 たっぷり時間をかけて、篠崎さんはそう答えてくれた。私は横顔を見た。

「一つだけ、今聞きたい質問がありますが、良いですか?」
「なんだ?」
「篠崎さんは、霊力を吸う名目がなくても、私とキスできますか? ……あ、できるかどうか、ではなくて……その、義務を抜きにしても、私とキスして、嫌じゃないのかどうかだけ、教えて欲しくて」

 太宰府ICの直前。国道の流れを堰き止める信号で一時停車する。
 指先が私の髪を避けて、顎に触れる。
 雨の音。ウインカーの音。ワイパーの音が世界の全てだった。
 篠崎さんはゆっくり長く、私に触れるだけのキスをした。今までとは違って霊力も吸われない。
 いつもより、ほんの少し長くて温かな名残の残るキスだった。

「……俺も、少なくとも楓以外にはこんなことはしないよ。前世も含めて、誓って」

 信号が点滅する。
 篠崎さんはそれだけを告げると、再び車を運転した。

「だから俺がどうのとか、元の主人がどうのってことは考えなくていい……楓としての結論を、今度聞かせてくれ」

 私は言葉が出ないまま、ただ静かに頷いた。

 一本の尻尾が私のそばでゆらりと揺れる。まるで触れて構わないと言うように。
 私は尻尾の先に指先で触れた。篠崎さんが、声に出さず少し微笑んだ気がした。