「それに、『紫野』も実のところ本名じゃない。過去に主従契約を結んだ時につけられた名だ」

 意外にも、篠崎さんはつらつらと説明を続ける。

「本来の狐としての名は、雷の「らい」だ」
「ああ……下のお名前、確かそれでしたよね」

 私は名刺を思い出す。篠崎さんは頷いた。

「俺が霊狐として力を得た古代(じだい)は、農耕神として人から祀られていたから……まあ、妥当な名だな。だからむしろ、今の篠崎雷(しのざきらい)の方が本当の名に近いよ」
「すごく丁寧に教えてくださるんですね」
「教えないと思ったのか?」
「……篠崎さんは私に、過去のことは教えてくださらないので。あのお武家さんとお知り合いってことも知らなかったし」

 私は先日の太宰府での仕事後、殿と呼ばれていた人と家臣の方の名前を検索した。家臣の方の名前は出なかったものの、殿と呼ばれていた人の名前はすぐにWikipediaが表示された。ちょうど400年前くらいの歴史上の人物だった。
 私は検索結果を見てぞくりとした。
 ーー本当に、篠崎さんは400年前も生きていたんだ。そう実感した瞬間、篠崎さんがとても遠く感じた。

「最近妙に様子が変だと思ったら、その事を気にしてたんだな」

 篠崎さんが肩をすくめる。

「悪かったな、黙ってて。別に他意はない」
「……はい……」
「他にも何か気になることあるなら、なんでも聞いてくれて構わねえよ」

 私は腕時計をへと目を落とす。待ち合わせの時間まで十五分以上ある。
 もしかして篠崎さんは、最初から私の話を聞くために、時間にゆとりを持って博多駅に車を着けたのかもしれない。具合が悪ければ遠出をする前に早退できるように、と。
 優しい人だと思う。けれど今は、その気遣いで与えられた空白の二人っきりの時間が、辛い。

「篠崎さん」
「ん」
「篠崎さんは、今も主従を結んだご主人のことを想っていますか?」

 私の言葉に篠崎さんは真顔になって私を見た。
 金色の瞳を軽く見開いて、じっと私を見た。
 交差点から聞こえる、とおりゃんせのメロディーがやけに大きく私たちの間を流れていく。

「……それは……なんで、そんな事を気にするんだ、お前が」

 いつもより、少し低くてざらついた声。それだけで、触れてはいけない場所に踏み込んでしまったのだと感じる。

「……元のご主人のこと、お好きなんですか?」

 尋ねた瞬間。
 しん、と、車の中の空気が変わった気配がした。

「それは……」
「恋の意味で、お好きだったんですか」

 篠崎さんの綺麗な顔が、瞬間真っ赤に染まる。火の目を見るよりも明らかだ。
 いつもの篠崎さんなら、「そりゃ好きに決まってんだろ」と言うだろう。けれど咄嗟に彼は言葉が出ない。私になんと返事をすればいいのか悩んでいる。
 私ははっきりと悟ったーーこの人は、元のご主人を愛しているんだ。

「篠崎さん」
「なんだ」
「大切な人がいらっしゃるのに……私が「だだもれ霊力」だったせいで、キスさせちゃってたんですね」
「……は?」

 私の言葉に篠崎さんは目を瞠る。
 狼狽した様子を隠せていない。その所作全てが私の想像が正しいことを示している。

「いや、楓、あの。……待て」
「篠崎さんは、本当は心に誓った方がいるのに、私はなんてことを……」
「待て。俺のことはともかく、待て。キスに関しちゃあ、俺よりお前の方がダメージがでかいんじゃないのか? なあ」

 私は首を横に振る。

「私のことなんて、どうでもいいんです。自分がファーストキスだった事ばかり気にしちゃって、篠崎さんの気持ちを汲む余裕なくて……全然考えられてなかったのが、申し訳なくて」

 篠崎さんはファーストキスだった私に、ちゃんとフォローをしてくれていた。
 けれど本当にフォローされるべきだったのは篠崎さんだったんだ。
 篠崎さんは本当にキスをしたい相手は、別にいるのだから。

「すみません。……申し訳なさすぎて泣けてきたので、ちょっとコンビニ行ってきます。すぐ、戻ります」
「あ、おい」

 平静を装えると思っていたけれど、やっぱりだめだ。
 私は笑顔を作り、逃げるように駅前のトイレへと駆け込む。個室に入った途端涙が溢れた。限界だった。

「う……」

 篠崎さんは天神の平和と私のために、私とキスをして霊力を吸って世話してくれている。
 彼の優しさに勝手に惹かれて、勝手に好きになっている自分の迷惑さにほとほと嫌になる。

「馬鹿だなあ、私。……これ以上、篠崎さんに迷惑かけたくないのに」

 後から後から溢れ出す涙を拭う私を、頭の中で何人もの「私」が責める。

 冷静な私が「自己憐憫で泣くなんてみっともない」と呆れている。
 社会人の私が「昼間から泣いて迷惑かけるなんて最低」と侮蔑している。
 良心のある私が「一番泣きたいのは篠崎さんじゃないの?」と困惑してる。

 わかってる。
 私が自分勝手に恋をして、好きになっちゃって。迷惑かけてるのは自覚してるってば。
 1分間だけ、気持ちの切り替えをするだけの時間を頂戴。
 
 1分アラームをかけてひとしきり泣き、私は鼻水を思い切り噛み、吹っ切るようにトイレに流した。

「はー……仕事に集中しなくちゃ。よし!!」

 とにかく今は、仕事の事が優先だ。私は足早にトイレを出て、駐車場に停車している篠崎さんの車へと戻ろうと急いだ。

 その時。
 私と篠崎さんの車の間を遮るように、一台のワゴン車が割り込んできた。

「ひゃっ!?」

 何かの送迎車らしく、文字が書いてある。文字を読み取る前に、運転手が窓ガラスを下ろして勢いよく話しかけてきた。 

「はあい! 你好(こんにちは)! 你现在一个人吗(いまひとり)? いい霊力してるね!? 我们加SNS吧(えすえぬえすこうかんして)! 微○でもLI○Eでもなんでもあるよ!」
「え、は、はい……!?」

 艶々とした紫がかった長い黒髪に、細やかな刺繍が施されたチャイナ服風の服を纏った男性だ。ちょこんとしたお洒落な丸メガネをかけた眼差しは愛想がよく、私にニコニコと捲し立ててくる。

「その霊力、ダダ漏れでいい感じだねー! もしかして君が篠崎のところの、例の新人さんだよね」
「えっと、あ、あの……あっ! もしかして貴方が噂の、商売敵さん!?」
「いやいや、敵だなんてそんな。我は御社より、ただより良い提案をしているだけだよ♡」

 ワゴン車の後部座席が開く。
 ぞろぞろとチャイナ襟の制服を着た女性が出てきて、私をあっという間に捕まえた。

「えっあっちょ、離してください……!!」
「まあまあまあ。立ち話もなんだから、続きは我の温泉旅館で。サービスしちゃうよ♡」
「ひ、ひえー!!!」

 そのまま。私は有無を言わさずワゴン車に乗せられてーー謎の商売敵さんに連れて行かれてしまった。