時は慶長七年(1602年)。筑紫野の霊狐、紫野は夢をみていた。
立花山城の麓に建てられた居城で、普通の子供のように遊んでいた頃の夢だ。
「紫野ー!!! 見て! 尻尾が生えちゃった!」
巫女の少女が帯に薄(すすき)を何本か挿し、紫野の尻尾の真似をして腰を振る。
「何やってるんだよ、桜……」
「これこれ、桜よ。尻尾だけでは狐には成れぬぞ。私が耳もつけてやろう」
「わぁ、姫、ありがとうございます!」
紫野は呆れながら、誾千代(ぎんちよ)姫へと声をかける。
「……姫も付き合ってやらなくてよろしいんですよ」
「ふふ、楽しいのだから良いではないか。ほら尻尾も、紫野の真似なら五本だ」
「ひゃーくすぐったい」
隣で楽しそうにお手玉を選び、巫女の頭にくくりつけようとしたり、尻尾を増やしたりする誾千代姫。
二人の周りには侍女や他の雌の霊狐も控えていて、皆、幼い戯れを温かな目で見守っている。
紫野と主従関係を結んだ主人である巫女の名は桜(さくら)。「人の話をよく聞く」という意味を持つ「誾」の字を与えられた誾千代姫が、父似で自我のはっきりした姫君に成長したように、「桜」という儚い名を与えられた巫女はどうにも元気いっぱいで、多少のことでは動じない元気な娘に成長していた。
「しかし桜。なんで、狐の真似なんかしているんだよ」
「だって私、いつか紫野のお嫁さんになるんだもん。今から練習!」
「練習って……」
嫁になりたいと、あどけなく笑う幼い主人。
六百年を生きた霊狐・紫野は立花山城城督・戸次道雪(べっきどうせつ)に導かれ彼女と主従を結んだが、当初はただ可愛らしく無邪気な子供でしかなかった。
だったのに。
夢の景色が歪む。
穏やかな陽光の中、成長した桜が立花山城から博多を見下ろしながら、幸せそうに微笑んでいる。
「紫野。誾千代様の祝言、綺麗だったね」
「……ああ」
「紫野もいて、誾千代様も幸せになって。私は本当に幸せだなあ」
祝言もあげられない身の上なのに、彼女は心から嬉しそうに姫の婚礼を喜んでいる。
彼女と自分は所詮(しょせん)、人間と霊狐の関係だ。
幼い頃から無邪気に恋慕を告げてくる彼女も、いずれ人の男と番(つが)い、紫野への思いもすっかり忘れていくものだと思っていた。
けれど彼女は大人の女性へと成長しても、変わりなく、紫野の妻になりたいと言い続けた。
「紫野、大好き」
成長した桜に、まっすぐな情を向けられて、紫野は己の心が変わっていくのを感じていた。
まるで人間の男のように、紫野は桜と共に夫婦になりたいと思う。
霊狐と人が夫婦になるなど、前代未聞のはずなのに、見た目の年がちょうど似合いの年頃になると、立花の者たちは二人を霊狐と巫女ではなく、似合いの男女として囃し立てた。
「仲が良いのは良いことだ。儂の両親もそれはもう、仲睦まじいこと限りない夫婦だったからな」
婿殿さえもそう言う始末だ。
囃されるたび桜は嬉しそうにはにかみ、紫野も悪い気はしなかった。
ーーー
「霊狐殿。霊狐殿」
「ん……?」
祠にて微睡んでいた紫野が目を覚ませば、祠の前に屋敷の侍がいた。
幸せな夢が遮られ、顔を顰(しか)めながら祠から姿を顕現した紫野に、彼は来客が来た事を告げる。
「霊狐殿の姉上と仰せの、随分と若い女ですが……」
「ああ、それは姉だ。今行く」
紫野は装いを整え、秋風が吹き込む廊下を足早に歩き、姉が待たされた部屋へと向かう。紫野の今の住まいは『福岡城』の城下、黒田家家臣の邸宅に祀られた小さな祠だった。
話は天正十五年(1586年)ーー16年前に遡る。
太閤秀吉による九州平定の後、博多の街は大規模な復興事業が執り行われた。
何度も灰燼に帰した博多の街。
しかし瓦礫を混ぜて再構築した博多塀のように、商人たちは何度でもしぶとく強かに街を再建し続けた。
商人たちが奮闘する傍らで、博多を守護する武家社会は大きな変遷を遂げていた。
立花家が筑後柳川に転封されたのち、筑前立花山城は廃城となり、筑前名島城に入った小早川家が筑前守護の大名となった。
しかし関ヶ原の戦いを経て再び大名は入れ替わり、小早川に変わって外様大名・黒田家が筑前を治めることになった。
黒田家は名島城を廃し、博多の西・警固村福崎(けごむらふくざき)に新たな城、福岡城を築城した。
商人の博多と、武家の福岡。
二つの面を持つ土地で、紫野は筑紫野に住まう六〇〇年の霊狐として、そして武家に使役され戦も知る雄の霊狐として、とある黒田家家臣の屋敷で祀られるようになっていた。
土地勘のない黒田武士を助け、寄る方のないあやかし達の世話をしながら過ごす日々は、桜のいない空虚な日々を埋めるには充分だったがーー
「嫌な予感しかしねえな」
広い屋敷の中を歩きながら、紫野は一人呟く。
かつての主君・立花家は、関ヶ原の戦いで西軍に与し、今は改易処分となっていた。誾千代姫は肥後腹赤(ひごはらあか)で少数の侍女や母と共に、ひっそりと暮らしているらしい。
それ以上の情報を紫野は知らない。
もちろん、紫野は誾千代姫と桜のことが気にかかっていたが、紫野が彼女の元に向かう訳にはいかなかった。
秀吉はあやかしを嫌い、そして必要以上に旧いあやかしを使役する大名を嫌った。
立花家に仕える霊狐は稲荷神の神使として転身し、紫野とは格の異なる存在へと変わっていた。よって、ただの霊狐である紫野が迂闊に誾千代姫の元に行けば、以前以上に角がたつ。
彼女を慕って仕送りをしていた柳川の農民が磔刑に処されたとも聞く程だ。
客間には懐かしい姿が、以前と変わりない姿で佇んでいた。
瀟洒な小袖を纏った肩の薄い女。紫野と同じ狐色の長い髪に大きな耳、5本の尻尾を持つ姉。
旅装束を纏っていない様子から、どこかで一旦着替えてきたのだと察せられた。
「尽紫(つくし)」
紫野の言葉に姉ーー尽紫は少し疲れた笑顔で笑う。
「元気そうね、紫野ちゃん」
「ああ。尽紫はどうだ?」
「だいじょーぶ。人間と違って、狐だから特に変わりなんてないわ。紫野ちゃんと離れて、たかが十年ちょっとだもの」
尽紫は肩をすくめて首を振ると、前に座した紫野へと向き直る。
「紫野ちゃん。殿が今、京(みやこ)で再士官の嘆願をしているのは知っているわよね?」
「ああ」
紫野は頷く。
誾千代姫の婿ーー立花宗茂は家臣たちと共に上京し、新たに職を得るために徳川家に嘆願をし続けている。
「もしかして殿の再士官が決まったのか?!」
「まさか。それはむしろ、ほぼ絶望的よ。あらかたの家臣も肥後の加藤家に引き取ってもらったし」
「そうか……んじゃあ、なんでこんなとこまで来たんだよ」
「これから私は殿に誾千代様についてお伝えするために、京に行くの。その道すがら、ようやく紫野ちゃんに会うことができた」
「誾千代様に、ついて?」
紫野を真正面から見据え、尽紫はじっと口を結ぶ。
「尽紫……? まさか、」
「誾千代姫が身罷られたわ」
姉の言葉が、鐘が響くように紫野の体いっぱいに反響する。
わかっていた。彼女がここに来た時点で、紫野は悪い予感をすでに察していたのだから。
「去年から病に伏しておいでだったのだけれど、稲荷神の御加護を全て殿の再士官の為に差し出して。お一人でずっと耐えていらっしゃったわ。加治祈祷もお医者様も駆り出して、できる限り尽くしたのだけれど……先日、寒い日が数日続いた時に体調を崩されて、そのまま」
「……そうか」
頭がぐらぐらする中で、紫野はつぶやく。
明るく気丈で美しかった、強い姫の笑顔が通り抜けていく。
「もう一目だけでも、誾千代姫様にお会いしたかった」
「姫もずっと、紫野ちゃんに会いたがっていた。……あなたと桜を引き裂いたのは自分のせいだと、ずっと後悔なさっていたわ」
「そんな後悔なんて、いらないのに」
自分たちの決断は自分たちの決断だ。誾千代姫が何も気を遣うことは無いというのに。
「桜は?」
ハッとして、紫野は顔をあげた。
「桜はどうした。あいつは」
尽紫は目を見開き、そして唇を噛み締める。深く深呼吸をして、彼女は続けた。
「誾千代姫より少し前に、桜は逝ったわ。……誾千代姫にかけられた呪いを身代わりに一身に受けて、正気を失いながら井戸で……そのまま……」
立花山城の麓に建てられた居城で、普通の子供のように遊んでいた頃の夢だ。
「紫野ー!!! 見て! 尻尾が生えちゃった!」
巫女の少女が帯に薄(すすき)を何本か挿し、紫野の尻尾の真似をして腰を振る。
「何やってるんだよ、桜……」
「これこれ、桜よ。尻尾だけでは狐には成れぬぞ。私が耳もつけてやろう」
「わぁ、姫、ありがとうございます!」
紫野は呆れながら、誾千代(ぎんちよ)姫へと声をかける。
「……姫も付き合ってやらなくてよろしいんですよ」
「ふふ、楽しいのだから良いではないか。ほら尻尾も、紫野の真似なら五本だ」
「ひゃーくすぐったい」
隣で楽しそうにお手玉を選び、巫女の頭にくくりつけようとしたり、尻尾を増やしたりする誾千代姫。
二人の周りには侍女や他の雌の霊狐も控えていて、皆、幼い戯れを温かな目で見守っている。
紫野と主従関係を結んだ主人である巫女の名は桜(さくら)。「人の話をよく聞く」という意味を持つ「誾」の字を与えられた誾千代姫が、父似で自我のはっきりした姫君に成長したように、「桜」という儚い名を与えられた巫女はどうにも元気いっぱいで、多少のことでは動じない元気な娘に成長していた。
「しかし桜。なんで、狐の真似なんかしているんだよ」
「だって私、いつか紫野のお嫁さんになるんだもん。今から練習!」
「練習って……」
嫁になりたいと、あどけなく笑う幼い主人。
六百年を生きた霊狐・紫野は立花山城城督・戸次道雪(べっきどうせつ)に導かれ彼女と主従を結んだが、当初はただ可愛らしく無邪気な子供でしかなかった。
だったのに。
夢の景色が歪む。
穏やかな陽光の中、成長した桜が立花山城から博多を見下ろしながら、幸せそうに微笑んでいる。
「紫野。誾千代様の祝言、綺麗だったね」
「……ああ」
「紫野もいて、誾千代様も幸せになって。私は本当に幸せだなあ」
祝言もあげられない身の上なのに、彼女は心から嬉しそうに姫の婚礼を喜んでいる。
彼女と自分は所詮(しょせん)、人間と霊狐の関係だ。
幼い頃から無邪気に恋慕を告げてくる彼女も、いずれ人の男と番(つが)い、紫野への思いもすっかり忘れていくものだと思っていた。
けれど彼女は大人の女性へと成長しても、変わりなく、紫野の妻になりたいと言い続けた。
「紫野、大好き」
成長した桜に、まっすぐな情を向けられて、紫野は己の心が変わっていくのを感じていた。
まるで人間の男のように、紫野は桜と共に夫婦になりたいと思う。
霊狐と人が夫婦になるなど、前代未聞のはずなのに、見た目の年がちょうど似合いの年頃になると、立花の者たちは二人を霊狐と巫女ではなく、似合いの男女として囃し立てた。
「仲が良いのは良いことだ。儂の両親もそれはもう、仲睦まじいこと限りない夫婦だったからな」
婿殿さえもそう言う始末だ。
囃されるたび桜は嬉しそうにはにかみ、紫野も悪い気はしなかった。
ーーー
「霊狐殿。霊狐殿」
「ん……?」
祠にて微睡んでいた紫野が目を覚ませば、祠の前に屋敷の侍がいた。
幸せな夢が遮られ、顔を顰(しか)めながら祠から姿を顕現した紫野に、彼は来客が来た事を告げる。
「霊狐殿の姉上と仰せの、随分と若い女ですが……」
「ああ、それは姉だ。今行く」
紫野は装いを整え、秋風が吹き込む廊下を足早に歩き、姉が待たされた部屋へと向かう。紫野の今の住まいは『福岡城』の城下、黒田家家臣の邸宅に祀られた小さな祠だった。
話は天正十五年(1586年)ーー16年前に遡る。
太閤秀吉による九州平定の後、博多の街は大規模な復興事業が執り行われた。
何度も灰燼に帰した博多の街。
しかし瓦礫を混ぜて再構築した博多塀のように、商人たちは何度でもしぶとく強かに街を再建し続けた。
商人たちが奮闘する傍らで、博多を守護する武家社会は大きな変遷を遂げていた。
立花家が筑後柳川に転封されたのち、筑前立花山城は廃城となり、筑前名島城に入った小早川家が筑前守護の大名となった。
しかし関ヶ原の戦いを経て再び大名は入れ替わり、小早川に変わって外様大名・黒田家が筑前を治めることになった。
黒田家は名島城を廃し、博多の西・警固村福崎(けごむらふくざき)に新たな城、福岡城を築城した。
商人の博多と、武家の福岡。
二つの面を持つ土地で、紫野は筑紫野に住まう六〇〇年の霊狐として、そして武家に使役され戦も知る雄の霊狐として、とある黒田家家臣の屋敷で祀られるようになっていた。
土地勘のない黒田武士を助け、寄る方のないあやかし達の世話をしながら過ごす日々は、桜のいない空虚な日々を埋めるには充分だったがーー
「嫌な予感しかしねえな」
広い屋敷の中を歩きながら、紫野は一人呟く。
かつての主君・立花家は、関ヶ原の戦いで西軍に与し、今は改易処分となっていた。誾千代姫は肥後腹赤(ひごはらあか)で少数の侍女や母と共に、ひっそりと暮らしているらしい。
それ以上の情報を紫野は知らない。
もちろん、紫野は誾千代姫と桜のことが気にかかっていたが、紫野が彼女の元に向かう訳にはいかなかった。
秀吉はあやかしを嫌い、そして必要以上に旧いあやかしを使役する大名を嫌った。
立花家に仕える霊狐は稲荷神の神使として転身し、紫野とは格の異なる存在へと変わっていた。よって、ただの霊狐である紫野が迂闊に誾千代姫の元に行けば、以前以上に角がたつ。
彼女を慕って仕送りをしていた柳川の農民が磔刑に処されたとも聞く程だ。
客間には懐かしい姿が、以前と変わりない姿で佇んでいた。
瀟洒な小袖を纏った肩の薄い女。紫野と同じ狐色の長い髪に大きな耳、5本の尻尾を持つ姉。
旅装束を纏っていない様子から、どこかで一旦着替えてきたのだと察せられた。
「尽紫(つくし)」
紫野の言葉に姉ーー尽紫は少し疲れた笑顔で笑う。
「元気そうね、紫野ちゃん」
「ああ。尽紫はどうだ?」
「だいじょーぶ。人間と違って、狐だから特に変わりなんてないわ。紫野ちゃんと離れて、たかが十年ちょっとだもの」
尽紫は肩をすくめて首を振ると、前に座した紫野へと向き直る。
「紫野ちゃん。殿が今、京(みやこ)で再士官の嘆願をしているのは知っているわよね?」
「ああ」
紫野は頷く。
誾千代姫の婿ーー立花宗茂は家臣たちと共に上京し、新たに職を得るために徳川家に嘆願をし続けている。
「もしかして殿の再士官が決まったのか?!」
「まさか。それはむしろ、ほぼ絶望的よ。あらかたの家臣も肥後の加藤家に引き取ってもらったし」
「そうか……んじゃあ、なんでこんなとこまで来たんだよ」
「これから私は殿に誾千代様についてお伝えするために、京に行くの。その道すがら、ようやく紫野ちゃんに会うことができた」
「誾千代様に、ついて?」
紫野を真正面から見据え、尽紫はじっと口を結ぶ。
「尽紫……? まさか、」
「誾千代姫が身罷られたわ」
姉の言葉が、鐘が響くように紫野の体いっぱいに反響する。
わかっていた。彼女がここに来た時点で、紫野は悪い予感をすでに察していたのだから。
「去年から病に伏しておいでだったのだけれど、稲荷神の御加護を全て殿の再士官の為に差し出して。お一人でずっと耐えていらっしゃったわ。加治祈祷もお医者様も駆り出して、できる限り尽くしたのだけれど……先日、寒い日が数日続いた時に体調を崩されて、そのまま」
「……そうか」
頭がぐらぐらする中で、紫野はつぶやく。
明るく気丈で美しかった、強い姫の笑顔が通り抜けていく。
「もう一目だけでも、誾千代姫様にお会いしたかった」
「姫もずっと、紫野ちゃんに会いたがっていた。……あなたと桜を引き裂いたのは自分のせいだと、ずっと後悔なさっていたわ」
「そんな後悔なんて、いらないのに」
自分たちの決断は自分たちの決断だ。誾千代姫が何も気を遣うことは無いというのに。
「桜は?」
ハッとして、紫野は顔をあげた。
「桜はどうした。あいつは」
尽紫は目を見開き、そして唇を噛み締める。深く深呼吸をして、彼女は続けた。
「誾千代姫より少し前に、桜は逝ったわ。……誾千代姫にかけられた呪いを身代わりに一身に受けて、正気を失いながら井戸で……そのまま……」