たった一人の事務所に夕日が差している。
真夏の西日が眩しくてブラインドを下ろしていると、篠崎さんが事務所に帰ってきた。
「休憩にしないか」
篠崎さんが包みをこちらに見せてくれる。
「苺大福、余ってるやつ一緒に食おうぜ」
「えっいいんですか」
「二人分しかないから急いで、な」
「わー、ありがとうございます! 篠崎さんは飲み物どうします?」
「麦茶まだ余ってたか?」
「はい。じゃあ用意しますね」
二人で事務所の机に並び、麦茶と苺大福をいただく。
午後の小腹が空いた時間に食べる甘味は格別だ。そのままかぶりつくと中身が飛び出しそうな大きな苺。お土産で買ったことはあるけれど、自分で食べるのは初めてだ。
篠崎さんの視線が、机に引っ掛けた私のICカードケースに向けられている。
「は○かけんシールド、役に立ったな」
「そうですね。本当はもう少し緊張感ある呪符がいいんですけど」
私はちょっと苦笑いした。主任が「ふざけないでよ!」と怒る意味もちょっとわかる気がする。
すると篠崎さんは柄になく、静かに口元だけで笑う。
「……素人っぽいから、かえっていいんだよ。お前が下手に本格的な巫女の呪術を使うと」
「使うと?」
篠崎さんは言葉を切る。ほんのコンマ数秒だけ、篠崎さんの表情が陰った気がした。
「……それっぽすぎて、余計危険な目に遭ったら意味ねえからな」
「そうですね」
答えながら私は、なんとも言えない切ない気持ちになっていた。
篠崎さんは何かを隠している。そりゃあ、ただの上司と部下だし隠していることだってたくさんあるだろう。プライベートな関係じゃないんだし。
ーープライベートな関係じゃ、ないんだし。
「どうした、口止まってんぞ」
篠崎さんが怪訝に首を傾げる。私は彼の顔を見た。
金色の綺麗な双眸に、スッと整った頬の線。大福を咀嚼して唇を舐めるその仕草。
顔が熱くなる。目が離せない。
硬直した私を置いて篠崎さんは立ち上がり、麦茶のおかわりをトポトポと入れてくれる。
「ん」
手渡され、私は呪縛から解けるように手を動かす。
「あ、ありがとうございまーー」
受け取ろうとした私の顎を取り、篠崎さんは唇を重ねた。
「ーーーーーー!!!!!」
完全なる不意打ちだ。頭が真っ白になる。
体の奥に甘く着火されたように、全身がブワッと火照る。最初のキスの時は分からなかったけれど、今なら全身の細胞という細胞から、霊力が吸い上げられているのが生々しく知覚できる。ぞくぞくする。
身を乗り出してさらにキスをしてくる篠崎さんのシャツにしがみつき、私はされるがままだ。
「……は…」
きっと時間では1秒も満たない、触れるだけのキス。
それなのに私は5年くらい口付けられてる心地がした。
唇が離れると篠崎さんはすぐに離れようとする。私は反射的に、シャツの腕を掴んだ。
目が合う。篠崎さんの金色の瞳に、私が映っている。
「篠崎さん」
「……驚かせて悪いな」
「いや、それはいいんですけど。……なんだか悔しいです」
「何が」
「私ばっかり、キスひとつにぐちゃぐちゃになってて」
「こんなにってまだ2回目」
「もー2回目ですよ!」
「……悪いと思ってるよ。心から」
篠崎さんは私の頭を撫でる。優しいその手が、眼差しが、嫌じゃない自分が悔しい。
「悪い、以外には……何かあったりしないんですか」
「何かってなんだ。あ、尻尾か? 好きに触れよ」
「えっと……そうじゃなくて………申し訳ありません。私も、自分で何を言ってるのか」
私は訊ねながら、どんな返事が来て欲しいのか自分でわからないでいた。
差し出された尻尾をとりあえずもふもふ堪能しつつも、困らせるような事を言ってしまった、と罪悪感が湧いてくる。
「楓」
篠崎さんが口を開いた。
「なんとも思わないわけじゃない。このやり方しか出来なくて、心から悪いと思っている」
たっぷりと時間をかけて、篠崎さんは答えてくれた。
私だって篠崎さんがとても気を遣ってキスをしてくれている事くらい解っている。
誰もいない、業務内の時間を見計らって、私が気構えないようなタイミングで、不意打ちでキスをしてくれる。
軽く。まるで行為にそれ以上の意味などないように振る舞う配慮。尻尾だって好きに触ってくれていいと言ってくれる。
だだ漏れの霊力を吸い上げるにはキスしかない。だから、キスは「仕方ない」のだ。
最大限に気遣いをしてもらっているはずなのに、私はどうしてこんなに気持ちがぐちゃぐちゃなんだろう。
「楓は楓の人生がある。キスなんてして気分が悪いだろうが、……狐に噛まれたと思ってノーカウントにして、いつかちゃんとしたキスで上書きしてくれ」
「上書き、って」
篠崎さんは「すまない」ともう一度だけ告げると、空になった皿を下げて事務所を後にした。
ーー私は、篠崎さんに私のことをどう思って欲しいんだろう。
そう思った瞬間。ひらめきが頭を駆け抜け、私は一人残された事務所で、自らの唇に触れる。
「そうか……私は、謝って欲しいんじゃなくて……『私とキスしてる』ってことを…どう思ってるのか、知りたいんだ」
私がどう思うか気遣ってくれる、篠崎さんの気持ちは十分伝わってくる。言葉でだって説明してくれている。
けれど。
キスに関して、篠崎さんがどう思っているかはーー全くわからないんだ。
ーーー
とある船着場。
雲ひとつない青空に似つかわしくない鬱屈した表情で、秋平与志古(あきひらよしこ)は爪を噛んでいた。
もうすぐ実家に帰る便が出る。ただただこのまま、情けなさばかりを引きずって故郷に帰るのが悔しくてたまらなかった。
「こんにちは、秋平さん」
彼女の背中に、涼やかな少女の声がかけられる。
秋平が振り返るとそこには、目に眩しい真っ白なワンピースを着た黒髪の美少女が佇んでいた。夏の日差しの下、美少女の手足は不自然なほどに肌が白く、海風に靡く黒髪は夜を切り取ったように昏い。
彼女を前に、秋平は見えないものを見て、目を大きく見開く。
「あなたは……」
「ありがとう。私がやったことも、全部あなたのおかげになったわ」
美少女は秋平に音もなく近づくと、白い腕でぎゅっと秋平を抱きしめる。
呆然とする彼女に背伸びをして顔を近づけ、唇を奪う。
「……!!!!!!」
そして数秒。
秋平はそのまま、ばたりと船着場に倒れ込んだ。
「不味(まっず)。なにこの、雑味が強すぎる霊力? 半端な修行しかしてないのね」
美少女は唇を拭い、露骨に顔を顰めて秋平を見下ろす。秋平はもうすでに気を失っていた。
「まあいいわ。これで大人しく島まで帰ってくれるわね」
美少女は置いていたレースの日傘を手に取ると開き、くるくる回しながら船着場を後にする。
バスに乗って駅まで向かい、駅から何度か乗り換えて、天神へ。
夕方の天神。ゆっくり人混みを歩く彼女は、異質なほどに美しい容姿をしているものの、通行人の誰も彼女を目に留めない。
彼女は最終的に春吉の、一件のアパートにたどり着いた。
アパートにはちょうど、一人のリクルートスーツ姿の女が近づいていた。
美少女は彼女から見られない位置に佇み、スーツ女の様子を伺う。女は縞合板の階段をカンカンと登り、鍵を開けて部屋に入っていく。
ーー無防備な女の様子を見届けた後、美少女はにっこりと笑った。
「楓ちゃん。元気そうね。紫野(しの)とも仲良くしているみたいで何よりだわ」
美少女の持つスマートフォンが震える。彼女は上機嫌に画面をスワイプした。
真夏の西日が眩しくてブラインドを下ろしていると、篠崎さんが事務所に帰ってきた。
「休憩にしないか」
篠崎さんが包みをこちらに見せてくれる。
「苺大福、余ってるやつ一緒に食おうぜ」
「えっいいんですか」
「二人分しかないから急いで、な」
「わー、ありがとうございます! 篠崎さんは飲み物どうします?」
「麦茶まだ余ってたか?」
「はい。じゃあ用意しますね」
二人で事務所の机に並び、麦茶と苺大福をいただく。
午後の小腹が空いた時間に食べる甘味は格別だ。そのままかぶりつくと中身が飛び出しそうな大きな苺。お土産で買ったことはあるけれど、自分で食べるのは初めてだ。
篠崎さんの視線が、机に引っ掛けた私のICカードケースに向けられている。
「は○かけんシールド、役に立ったな」
「そうですね。本当はもう少し緊張感ある呪符がいいんですけど」
私はちょっと苦笑いした。主任が「ふざけないでよ!」と怒る意味もちょっとわかる気がする。
すると篠崎さんは柄になく、静かに口元だけで笑う。
「……素人っぽいから、かえっていいんだよ。お前が下手に本格的な巫女の呪術を使うと」
「使うと?」
篠崎さんは言葉を切る。ほんのコンマ数秒だけ、篠崎さんの表情が陰った気がした。
「……それっぽすぎて、余計危険な目に遭ったら意味ねえからな」
「そうですね」
答えながら私は、なんとも言えない切ない気持ちになっていた。
篠崎さんは何かを隠している。そりゃあ、ただの上司と部下だし隠していることだってたくさんあるだろう。プライベートな関係じゃないんだし。
ーープライベートな関係じゃ、ないんだし。
「どうした、口止まってんぞ」
篠崎さんが怪訝に首を傾げる。私は彼の顔を見た。
金色の綺麗な双眸に、スッと整った頬の線。大福を咀嚼して唇を舐めるその仕草。
顔が熱くなる。目が離せない。
硬直した私を置いて篠崎さんは立ち上がり、麦茶のおかわりをトポトポと入れてくれる。
「ん」
手渡され、私は呪縛から解けるように手を動かす。
「あ、ありがとうございまーー」
受け取ろうとした私の顎を取り、篠崎さんは唇を重ねた。
「ーーーーーー!!!!!」
完全なる不意打ちだ。頭が真っ白になる。
体の奥に甘く着火されたように、全身がブワッと火照る。最初のキスの時は分からなかったけれど、今なら全身の細胞という細胞から、霊力が吸い上げられているのが生々しく知覚できる。ぞくぞくする。
身を乗り出してさらにキスをしてくる篠崎さんのシャツにしがみつき、私はされるがままだ。
「……は…」
きっと時間では1秒も満たない、触れるだけのキス。
それなのに私は5年くらい口付けられてる心地がした。
唇が離れると篠崎さんはすぐに離れようとする。私は反射的に、シャツの腕を掴んだ。
目が合う。篠崎さんの金色の瞳に、私が映っている。
「篠崎さん」
「……驚かせて悪いな」
「いや、それはいいんですけど。……なんだか悔しいです」
「何が」
「私ばっかり、キスひとつにぐちゃぐちゃになってて」
「こんなにってまだ2回目」
「もー2回目ですよ!」
「……悪いと思ってるよ。心から」
篠崎さんは私の頭を撫でる。優しいその手が、眼差しが、嫌じゃない自分が悔しい。
「悪い、以外には……何かあったりしないんですか」
「何かってなんだ。あ、尻尾か? 好きに触れよ」
「えっと……そうじゃなくて………申し訳ありません。私も、自分で何を言ってるのか」
私は訊ねながら、どんな返事が来て欲しいのか自分でわからないでいた。
差し出された尻尾をとりあえずもふもふ堪能しつつも、困らせるような事を言ってしまった、と罪悪感が湧いてくる。
「楓」
篠崎さんが口を開いた。
「なんとも思わないわけじゃない。このやり方しか出来なくて、心から悪いと思っている」
たっぷりと時間をかけて、篠崎さんは答えてくれた。
私だって篠崎さんがとても気を遣ってキスをしてくれている事くらい解っている。
誰もいない、業務内の時間を見計らって、私が気構えないようなタイミングで、不意打ちでキスをしてくれる。
軽く。まるで行為にそれ以上の意味などないように振る舞う配慮。尻尾だって好きに触ってくれていいと言ってくれる。
だだ漏れの霊力を吸い上げるにはキスしかない。だから、キスは「仕方ない」のだ。
最大限に気遣いをしてもらっているはずなのに、私はどうしてこんなに気持ちがぐちゃぐちゃなんだろう。
「楓は楓の人生がある。キスなんてして気分が悪いだろうが、……狐に噛まれたと思ってノーカウントにして、いつかちゃんとしたキスで上書きしてくれ」
「上書き、って」
篠崎さんは「すまない」ともう一度だけ告げると、空になった皿を下げて事務所を後にした。
ーー私は、篠崎さんに私のことをどう思って欲しいんだろう。
そう思った瞬間。ひらめきが頭を駆け抜け、私は一人残された事務所で、自らの唇に触れる。
「そうか……私は、謝って欲しいんじゃなくて……『私とキスしてる』ってことを…どう思ってるのか、知りたいんだ」
私がどう思うか気遣ってくれる、篠崎さんの気持ちは十分伝わってくる。言葉でだって説明してくれている。
けれど。
キスに関して、篠崎さんがどう思っているかはーー全くわからないんだ。
ーーー
とある船着場。
雲ひとつない青空に似つかわしくない鬱屈した表情で、秋平与志古(あきひらよしこ)は爪を噛んでいた。
もうすぐ実家に帰る便が出る。ただただこのまま、情けなさばかりを引きずって故郷に帰るのが悔しくてたまらなかった。
「こんにちは、秋平さん」
彼女の背中に、涼やかな少女の声がかけられる。
秋平が振り返るとそこには、目に眩しい真っ白なワンピースを着た黒髪の美少女が佇んでいた。夏の日差しの下、美少女の手足は不自然なほどに肌が白く、海風に靡く黒髪は夜を切り取ったように昏い。
彼女を前に、秋平は見えないものを見て、目を大きく見開く。
「あなたは……」
「ありがとう。私がやったことも、全部あなたのおかげになったわ」
美少女は秋平に音もなく近づくと、白い腕でぎゅっと秋平を抱きしめる。
呆然とする彼女に背伸びをして顔を近づけ、唇を奪う。
「……!!!!!!」
そして数秒。
秋平はそのまま、ばたりと船着場に倒れ込んだ。
「不味(まっず)。なにこの、雑味が強すぎる霊力? 半端な修行しかしてないのね」
美少女は唇を拭い、露骨に顔を顰めて秋平を見下ろす。秋平はもうすでに気を失っていた。
「まあいいわ。これで大人しく島まで帰ってくれるわね」
美少女は置いていたレースの日傘を手に取ると開き、くるくる回しながら船着場を後にする。
バスに乗って駅まで向かい、駅から何度か乗り換えて、天神へ。
夕方の天神。ゆっくり人混みを歩く彼女は、異質なほどに美しい容姿をしているものの、通行人の誰も彼女を目に留めない。
彼女は最終的に春吉の、一件のアパートにたどり着いた。
アパートにはちょうど、一人のリクルートスーツ姿の女が近づいていた。
美少女は彼女から見られない位置に佇み、スーツ女の様子を伺う。女は縞合板の階段をカンカンと登り、鍵を開けて部屋に入っていく。
ーー無防備な女の様子を見届けた後、美少女はにっこりと笑った。
「楓ちゃん。元気そうね。紫野(しの)とも仲良くしているみたいで何よりだわ」
美少女の持つスマートフォンが震える。彼女は上機嫌に画面をスワイプした。