ーーそれから数日間、私は昼の仕事を休んでクラブの黒服として働くことになった。
 帰宅して潰れるように寝て、昼に起きてご飯を食べて、夕方から出勤する生活。

 その間、雌猫又さんたちに食われそうになることは起きなかった。
 篠崎さんの歯形ーーもとい、印付(マーキング)が功を奏しているのだろう。

 夏の夕方はエアコンをつけていてもどこか汗ばんでいる。
 私は今日も夕方に向けてシャワーを浴び、就活時代から愛用している形状記憶シャツに袖を通す。
 着ながら、私は鏡に映った自分の首元に指を添える。

「……噛み跡、見た目には見えないんだけどなあ」

 それでも()()()()()、篠崎さんの歯形が残っているような気がする。霊力で感じているのだろうか。
 学生時代、キスマークを気にしていた友達を思い出して、私はとても気恥ずかしくなる。

「……彼氏もできたことがない女には、刺激が強すぎるよ篠崎さん……」

 私は頬が熱くなるのを溜息で誤魔化して、きっちり第一ボタンまで止めて首元を隠す。
 化粧を済ませて髪を整えた頃に、ちょうどアパートの前に車が止まる音がする。
 今夜も、仕事が始まる。

ーーー

 深夜。
 忙しくて長い夏の夜は終わりのBGMと共に終了し、お客様は行儀良く時間を守って帰っていく。治安が治安なのでアフターはないらしい。
 それに関しては、雌猫又(ホステス)さん達は「断る口実ができてよかった〜」とはしゃいでいる様子だった。

 私は掃除やゴミ出しやお客さんの見送りをしながら通り魔巫女を見張った。篠崎さんと同じ空間にいるのが気恥ずかしくて、ちょっと耐えられなかったので、外に出る仕事が多いのは助かった。

「楓ちゃんお疲れ〜!」

 着替え終わった雌猫又さんたちが、私を見つけてにゃあにゃあと話しかけてきた。見た目は10代後半からアラサーまで。世代が近い見た目ながらも、皆頭が小さくて手足が細長くてモデルや芸能人のような美猫だ。

「今日お客さん喜んでたよ〜! ありがとね!」
「よく気が利いてすっごく助かったよ! なに? ボーイ慣れてんの?」
「人間にしちゃ、すっごく頭いいじゃない」
「明日からも働いてよー。ねえ篠崎さん、この子ちょうだーい」
「スカウトしないでくださいよ、うちの社員です」

 雌猫又さんたちに揉みくちゃにされる私に、通りすがった篠崎さんが呆れた風にツッコミを入れる。

「……」
「ん? 楓、どうした」
「なんでもないです」

 美女猫集団に囲まれた地味で平凡な自分が普段より余計に野暮ったく感じて、私は篠崎さんの顔がうまく見られない。
 その時ちょうど送迎タクシーが着いたとの連絡が入ったので、私は雌猫又さんたちと一緒にエレベーターを降り、彼女たち一人一人を車まで見送った。
 最後に、夜間保育園までママさんたちとワゴン車でぎゅうぎゅうになりながら向かう。

「ママー!」
「ママおかえりー!」

 子猫姿の子から幼児姿の子まで、待ち侘びたママの姿を見て、もふもふっと一目散に飛び出してくる。飛びつく子猫たちを、美女は母猫の顔をして抱きしめる。

「元気にしてたー?」
「うん! 夜しゃんと剣術ごっこしてた!」
「剣術ごっこー?」

 賑やかな様子から目を園舎の方へと向けると、可愛いエプロンを着せられた夜さんが、手のひらサイズの子猫を両手にたくさん抱えて出てきたところだった。

「お疲れさま、夜さん」
「楓殿も」

 母猫たちは両手に子猫たちを抱き、次々とワゴン車に再び乗り込んでいく。
 その仲睦まじい「普通」の母子の姿に、なんだか急にジンとしてしまう。深夜の月明かりの下、猫さんたちがにゃあにゃあ賑やかに仲睦まじく帰る姿は、守っていきたい尊い光景だと思う。

 ママたちに引き渡したところで、夜さんが黒い猫耳をぺしょりと下げて甘えてきた。

「疲れた」
「あはは。護衛がてら保育士さんやってたんだね」

 顎の下を撫でるとゴロゴロと鳴る。

「俺は疲れた。雄猫には荷が重い」
「お疲れ様。まあまあ、頑張ったから懐かれてよかったじゃない」

 夜さんは満更でもない顏で頷き、ワゴン車に入っていく猫たちを眩しそうに見やる。

「もうひと頑張りだ。保育士達を護衛して合流する」
「お疲れ。帰ったらちゅーる食べようね」
「ん」

 夜さんと別れ、私は空っぽになったワゴン車に乗り込んで店に戻る。そのまま寮に猫たちを送り届け、ようやくワゴン車の中に静寂が訪れた。

「終わった……」

 ぐったりとしながら車窓から中洲を見やる。
 人間世界もあやかしも問わず、様々な店舗からお客さんやキャストさんたちが家路に帰って行く様子が見えた。今夜は何もなかったみたいだ。

 安心して戻ろうとしたところで、ピリ、と嫌な気配を感じる。

 ポケットに忍ばせていたICカード○やか○んを取り出す。ちか○るくんの目が、輝いている。
 ーー誰かが、霊力を使っているのだ!

「運転手さん。私ちょっと行ってきます!」
「お気をつけて! 篠崎さんに伝えておきますね」
「よろしくお願いします!」

 私は車を飛び出すとICカードを手に掴み、勘を働かせて走る。
 ネオン街の飲み疲れた人々の間をかき分け、裏路地に入ったところで、背後からゾクゾクとした悪寒を感じて、反射的に振り返り様にICカードを掲げた。

「は○かけんシールド!!!!」

 静電気が放出するような音が響き、私の前に薄い防御壁が形成される。
 次の瞬間、ばしゃ、と防御壁に水飛沫が飛ぶ。

 ーー通り魔巫女だ!

 身構えた私の前から防御壁が消えていく。その向こうに居たのは、懐かしくも胃が痛くなる、信じられない相手だった。

「……主任……?」

 夜の街中洲に似つかわしくない、ごく普通のスーツ姿の女。
 それは忘れもしない、前の職場で一緒だった主任の姿だった。