九州屈指の夜の街、中洲。
 きらきらと輝く歓楽街は、既に黒服とキャストと客引きと老若男女の客でごった返していた。

 篠崎さんは肩で風を切るようにスタスタと歩くので、私は後ろからカバンを抱いて足早についていく。私たちの姿が見えていないかのように、私たちは誰からも声をかけられない。
 私は篠崎さんの背中に声をかけた。

「私たち、どんな風に見られてるんでしょうね」
「さあな」

 篠崎さんはチラリと私を見下ろす。

「強いていうなら贔屓のクラブに新人を連れて行く上司にでも見えてんじゃねえの」
「ど、同伴出勤にみられるとかないですか?」
「……お前みたいな女を店に引っ張るような、しみったれたホストには見られたくねえな……」
「篠崎さんがホスト側ですか」

 篠崎さんが半眼で見下ろしてくる。

「お前、自分がホステスに見えるでも思ってんの」
「私、恥ずかしながら学生時代もこの辺で歩いてて、一度もホステス勧誘されたことないんです」
「わかるわ〜」

 私たちは軽口を叩きながら入り組んだ路地の奥に入ると、大理石の床がキラキラと輝くクラブへとたどり着く。篠崎さんの姿を見るだけで黒服が静かに奥のエレベーターに案内し、厳かにボタンを押して頭を下げて見送る。
 慣れた様子の篠崎さんの隣で、私はガチガチに固まる。

「緊張してるので、しっぽ握ってていいですか」
「止めろバカ」

 案内されてまず目に飛び込んだのは、黄金の雫を固めたような豪奢なシャンデリア。床から壁まで、今までみたことがない美しさで輝いている。まだ準備中なのだろう。業者らしき人々があちこちを掃除して、黒服たちがママと打ち合わせをしているのが見えた。
 黒髪を見事に結い上げた和装のママの頭からは三毛猫の耳が飛び出し、鍵しっぽがゆらゆらと揺れている。
 黒服に耳打ちされ、ママは篠崎さんを振り返ってパッと笑顔になった。

「しのさん。いつもうちの子達がお世話になっております」

 ーーしのさん?
 私は頭の中で疑問符を浮かべる。愛称だろうか。しかし愛称で呼び合うほどの仲にもあまり見えない。篠崎さんの下の名前は雷(らい)のはず。

 不思議に思う私の隣で、篠崎さんは他所行きの顔で挨拶する。

「阿騎野(あきの)さん、女の子は今日は無事ですか?」
「ええ。あの武家上がりの雄猫さんがしっかり守ってくれています」

 夜さんのことだ。私は彼女にピシリと頭を下げた。

「初めまして、菊井楓と申します。今日は自治会の皆さんより、私がホステスさんの姿をして皆さんをお守りすることとなりました。よろしくお願いします」
「あらあら……」

 阿騎野(あきの)さんは妖艶に口元に手を当て、じっと私をみて考え込む顔をする。
 そして篠崎さんを困惑するように見上げた。

「……裏方のほうがこの子は向いているんじゃないかしら」
「ええ。私もそう思います」

 きっぱりと、私のホステスコスプレは却下されることになった。


ーーー

 キラキラの衣装を着るのはちょっと楽しみだったけれど、女性黒服の衣装を着て仕事をする方が私にはずっと気楽だった。普段からパンツのリクルートスーツで仕事をしているから通常営業、という感じだ。

 私は女性黒服の姿で、出勤する雌猫又(ホステス)さんを出迎えたり、お店の周りを巡回したりした。同伴出勤の雌猫又さんに連絡を受ければ、彼女とお客さんの後をつけてそっと見守ったり、送迎タクシーに一緒に乗ったり。
 夜間保育園の方は夜さんが待機してくれているので、万全だ。

 水炊き屋の同伴から出勤の連絡が入る。送迎タクシーの助手席に乗って水炊き屋まで向かうと、タクシーに乗り込んできたのは昨日、夜さんが助けた子猫のママ猫さんだった。
 綺麗に巻いた髪に同伴用の瀟洒なスーツを着たママ猫さんは、私を見て軽くウインク一つを飛ばす。
 
 その後、如何(いか)にも裕福そうな社長さんと楽しそうに会話して同伴出勤した彼女は、お客様を席に案内して一旦席を立ち、裏方でヘアメイクと化粧とドレスを手早く整える。
 美容師さんにセットされながら、彼女は私に素の笑顔で笑った。

「楓ちゃん、昨日はうちの子がお世話になったわ。ありがとう」

 早朝迎えに来てくれた時は普通のママのような装いだったが、こうして見ると完璧な夜の蝶だ。艶やかに整えた巻毛の上に、三毛猫の耳が美しく尖っている。

「娘さん、あれから大丈夫でした?」
「大丈夫だったわ! ちょっとびっくりしてたけど、今日も保育園に行く前に「夜しゃんがいるの!?」って大はしゃぎでね。夜さん、すっかりあの子のヒーローみたい」
「安心しました」
「さて、昨日嫌な思いさせられた分、きっちり今夜は働くわよ」

 彼女は細い肩で気合を入れると、力強く笑ってホールへと戻っていく。
 高いヒールを履いて煌びやかなドレスを纏って、颯爽とお客さんに向かっていく彼女はとても凛々しい。
 鍵しっぽの先端で揺れる、スワロフスキーのアクセサリーが綺麗だ。そういえば鍵しっぽと言えば、長崎だーーもしかしてママ猫さんは、あちらから移住の猫さんなのかもしれない。

 彼女を見送ってすぐに、篠崎さんが私に声をかけてきた。

「楓。外の様子はどうだったか?」

 私は首を横に振る。

「今のところは。でも帰り際を襲った事例もありますし、引き続き警戒は続けます」
「頼んだ」

 肩をポンと叩き、篠崎さんもまた、ホールへと出ていく。
 篠崎さんの姿を見て、お客様のあやかしが上機嫌に破顔した。

「おお、貴方が噂の『天神のはぐれ狐』殿ですか。いやはやお噂には」
「偶然私も中洲で仕事がありましたので、よろしければご挨拶だけでもできたらと思い伺いました」
「会いたかったですよ、さ、こちらへ」

 ホストだ……と出そうになった言葉を飲み込む。
 
 篠崎さんはここで働いている訳では勿論はないけれど、色々と顔見知りの社長さんやあやかしがご来店しているので挨拶しない訳にはいかないらしい。
 蛸のお化けのようなあやかしの社長さんや、武士のような姿をしたあやかしさん。人間の団体の方々。

 手が空いた私は灰皿を磨いて席に置きながら、そっとホールを見回す。
 ーー猫又屋敷(クラブ)に訪れる、お客様は様々だ。
 お店に入った瞬間から人間の姿を解いて、あやかしの姿で接客を受ける人たちや、あやかしの存在を知る普通の会社の社長さん。少なくとも共通しているのは、彼らにとって「あやかし」が当然の存在であること。

 裏に戻る前に最後に、チラリと篠崎さんを目で追う。
 色んな人たちとにこやかに話す、篠崎さんはとても慣れた様子だ。

「大変そうだな……」

 私は率直な感想を漏らしながら、同時に篠崎さんを格好いいと思う。
 居場所のないあやかし達に居場所を作るために、彼は一生懸命、縁故を繋いでいる。
 私も彼に助けられた一人だ。

 黒服の人に指示されてゴミを纏めていたところで、背後からそっと誰かが近づいてきた。
 ママの阿騎野(あきの)さんだ。

「随分と手慣れた働きぶりね。飲食店は慣れてるの?」
「いえ、実はバイトでも飲食店で働いたことはなくて。黒服の方に教えてもらった通りやってます」
「あら」彼女は目を軽く瞠る。「目が色んなところに行き届いているから、ベテランかと思っていたわ」
「恐れ入ります」

 本物の中洲のママに褒められると照れてしまう。
 阿騎野さんは私に微笑むと、篠崎さんへと目を向けた。

「しのさん、いい男よね」
「はい。とても頼りになる上司です」
「女性としてはどうなの? あなた、凄くしのさんのこと見てるじゃない」
「あ、えっと……」

 いい匂いがする。
 思った瞬間、私は壁際に追い詰められていた。トン、と阿騎野さんが壁に手を添える。いわゆる壁ドンだ。

「あ、ああああの、阿騎野さん?」
「貴女、しのさんに齧られた匂いがするわね。凄く美味しそうな霊力だけど、福岡のあやかしなら、紫乃さんのお手つきには手を出せない。……大事にされてるのね?」
「い、いち社員として、とても良くしていただいています……」
「ただの、いち社員? 本当に?」

 妖艶な眼差しに見つめられ、顎を撫でられ、背筋に汗がダラダラと溢れる。

「もしかして、貴女はしのさんが待っていた、」

 その時。

「あんま揶揄(からか)わないでやってくださいよ」

 篠崎さんが呆れた声を出してこちらにやってきた。
 阿騎野さんは一転ころりと笑顔になり、私から離れて肩をすくめる。

「やぁだ。冗談よ。可愛いからちょっとね。貴方が従業員を雇うなんて珍しいし。しかも人間の女の子」
「治安維持の一つですよ。こんなのがそのへんうろついてたら、『天神さまのお膝元』がどうなるか」
「ふふ。それは言えてるわ。この歳までよく生きてたわね、佐賀牛の焼き肉ぶら下げてうろついてるくらい美味しそうなのに」
「佐賀牛!?」

 阿騎野さんはそのまま、私から離れてホールへと戻っていく。
 私はぐったり疲れた気分になり、肩で溜息をついた。

「ありがとうございます、篠崎さん〜。私、食われちゃうかと思いまし、」

 篠崎さんにお礼を言おうとして彼を見上げて、私は言葉を失う。
 彼は表情を無くしてじっと、私を金の双眸で見下ろしていた。狐耳と尻尾が、少し毛が立っている気がする。
 怒っている、の?

「あ、篠崎さん」

 篠崎さんは無言で私を壁に追い詰め、そして無断で第一ボタンに指をかける。襟を開き、私の首にかぷり、と噛み付いた。

「っ……」
「霊力がもう溢れ出してたな。危ないところだった」
「篠崎、さん……」
「俺がうっかりしていた。……今日は印付(マーキング)しとくから、なんとか乗り切ってくれ」

 篠崎さんの掠れた声が、耳元で囁く。ぞくぞくして言葉を失った私の襟を再び閉じると、彼は唇を拭った。
 ゆら、と揺れる尻尾がほのかに輝いている気がする。

「……悪いな、上手く守れてなくて」

 篠崎さんはくしゃりと私の髪をなで、再びホールへと戻っていく。
 私はヘナヘナと腰が砕けて、しばらく立ち上がれなくなっていた。