雫紅(しずく)さんを見送った後の私は、昼寝で異常なくらいにスッキリしていた。

 霊力を吸ったから、霊力が増えた分、篠崎さんにまた吸われてしまうのかとヒヤヒヤしていたが、意外にも篠崎さんはそのまま帰宅を許してくれた。

「大して溜まってないから安心しろ。つか、霊力が強いだけの素人が行き当たりばったりで霊力吸っても、そりゃ大した量は吸えねえよ」
「そんなものなんですか……?」

 戸惑う私に、篠崎さんは目を眇めて笑んで見せる。

「なんだ? して欲しかったのか?」
「失礼します!!!! お疲れ様でした!!!!」

 音速でタイムカードを切った私は退勤後、息切れするまで今泉を駆けた。
 地下街に入り、ゼエハアと息をする。

「……べ、別に違うし……キスして欲しかったわけじゃないし……」

 私は気を取り直し、ドラッグストアと100円均一でちょっとした日用品の買い物を済ませる。
 以前は人混みに入ると色々勘が冴えすぎてちょっと気持ち悪くなることもあったのだけれど、篠崎さんに吸われてからは人混みが随分と平気になった。
 
「無理をしてたんだな、私……」

 人混みが苦手なのも、霊力が影響していたなんて知らなかった。

 再び地下から地上に出ると、紫に染まった夜空の下、これから飲みに行く人、帰宅途中の人々が溢れていた。
 警固公園には既にこれから遊びに繰り出す学生たちの姿が見える。

 信号待ちでSNSを一通りくまなくチェックした私は、天神駅の怪しいニュースが出回ってなくてホッとした。

『ーー怪奇! 白昼堂々出現! 怪しい黒髪美少女とゾンビィと化した男たち!!!』

 みたいなニュースになってたら、福岡天神のあやかしの皆さんに多大なるご迷惑をおかけするところだった。

「あ、ちょうどお昼にゲリラ豪雨があったんだ」

 代わりに見つけた情報は、お昼に天神地区で大規模な通り雨があったことだった。そういえば、私が今立っている路面も濡れている。 

 ーー雨。
 そして人間の記憶に残らない昼のトラブル。

「もしかしてこれ、篠崎さんの……」
「にゃあ」

 その時。背後から低く囁かれ、私はびくり、とスマートフォンを取りこぼす。
 落とす前に拾い上げてくれたのは、初夏にはちょっと暑苦しいくらいの黒いスーツを涼しげに着こなす夜さんだ。

「びっくりしたぁ。夜さんも帰り? お疲れ様」

 私の言葉には返事をせず、彼はくんくんと空を見上げて匂いを嗅ぐ。

「雨の匂いが狐くさい。雨は、篠崎社長が降らせたのだと思う」
「すごいね、わかるんだ」
「狐の匂いはすぐわかる。臭いから」
「……もしかして、あんまり仲良くない?」
「別に」

 そういえば入社後すぐの研修で、篠崎さんの霊力について教えてもらった時、ちらっと聞いた気がする。通り雨を降らせることで一定の範囲に居る人々の記憶を操作することができると。
 天気予報にも出ないような突然の『狐の嫁入り』は、霊狐が降らせていることも多い、と。

「だからSNSにあやかしの事件が書き込まれてないのね……」

 その時、信号が青になる。
 私と夜さんは二人並んで、喧騒から離れていくように春吉のアパートの方へと向かっていく。

 夜さんは美猫(イケメン)だ。けれど周りの視線が一斉に浴びせられるタイプの美男子な篠崎さんと違って、夜さんは、あまり人目を引かない。
 細身でつるりとした和顔、身長も低くはないけど高すぎでもない。夜さんは静かな魅力だ。
 ただ静かな魅力とは言えど、パッと見で目立つ美形というだけではないだけで。彼の整った容姿に気づいた人は、ギョッとした顔で彼を見つめ、何度も何度も振り返ってはn度見したりする。
 そんな彼の頭に猫耳がぴょこっとしてて、ぴんとした二股の尻尾がスーツのセンターベンツから出ているのを見ている人は、多分いないだろうけど。

「美形に囲まれてすぎて、なんだか最近自分を見るとげんなりするようになってきたのよね……」
「楓殿」
「ん、何?」

 ずっと無言だった夜さんが口を開く。
 彼はいつもの無表情をわずかに顰め、仏頂面、といった感じの顔で私を見つめていた。
 次の瞬間。

 べろり。

 頬を舐められる。私は叫んだ。

「夜さん!! 猫じゃないんだから!!! いきなり何なの!!!」
「猫だが」

 ちらほらと周囲の視線が私たちに集まるので、慌てて裏路地へと夜さんを引っ張っていく。

「あのね夜さん、今はあなたはすっごい美形な男の人なんだから、往来で顔舐めちゃだめ」
「人間は俺が舐めたら皆喜ぶが」
「それは綺麗な猫だから!!! いくら綺麗でも成人男性は人を舐めない!!」
「だって」

 珍しい口調で、夜さんが尻尾を苛立つようにパタ、と揺らす。

「楓殿が魚くさい霊力になってたから」
「魚……」

 私は唇に手を添える。

「ああ、もしかして雫紅(しずく)さんの霊力を吸ったせいかな?」

 私の言葉に、むむむ、と夜さんの眉間に皺が寄る。

「楓殿」
「あ、はい」
「俺という飼い猫がありながら、他のあやかしの霊力を吸うのか」
「いや、業務上やむなくというか、緊急事態だったから……」
「それに楓殿は狐の匂いもする」
「ぎく」
「俺の知らないうちに、篠崎社長に印付(マーキング)されている。不満だ」

 くんくんと鼻を鳴らして匂いを嗅がれ、マーキング、と言われながら詰め寄られる。
 あのキスと噛まれた歯形の匂いがするのかと、私は背筋が寒くなるのを感じた。

「や、やっぱり分かるの? あやかし同士だと」
「分かる」
「ひえ」
「楓殿はもっと、俺の飼い主の自覚を持つべきだ」
「ええと……なんかはい、すみません……」

 問答無用で頭を出されるので、私は根負けして黒髪の頭をわしわしと撫でてあげる。ぺと、と耳を寝かせて撫でられる夜さんは気分が良さそうに喉をごろごろと鳴らしている。

「そろそろ止めていい?」
「もう少し」
「続きは家に帰ってからにしようよ。流石に人気(ひとけ)がない場所でも成人男性の頭撫でてるのはちょっと……それに猫さんの時の方が、触り心地がいいし! ねっ!」
「承知した」

 撫で撫での約束を取り付けた夜さんがようやく離れてくれたので、私はホッと安堵する。
 猫の夜さんを可愛がるのは可愛くて好きなので大歓迎だ。成人男性の姿を思い出さないように努力する必要があるけれど。

「……なでなで、か」

 ーーふと、手のひらを見つめて思う。
 篠崎さんの尻尾を撫でたいと思う気持ちも、これに近い気持ちなんだろうか。
 ううん。何か、違う気がする。
 篠崎さんに感じるフワッとしたこの気持ちは何なんだろう。

「楓殿?」
「なんでもないよ。行こうか」

 私は笑って首を振り、鍵を鞄から取り出して颯爽と歩く。

 篠崎さんに対する気持ちと、夜さんに対する気持ちはなんだか違う気がする。
 例えば篠崎さんがキツネの姿をしていたとしても、一緒に同じ屋根の下で暮らすなんてとんでもない。
 化粧をする前の顔なんて見られたくないし、部屋着でお惣菜パックのまま食べてる姿なんてもってのほかだ。
 夜さんは、なんとなく平気。
 きっと夜さんが、私のことを「飼い主」として見てくれているのが分かるからだ。
 私は夜さんのことを猫さんだと思ってる。見た目が人間の男性の時があっても。

「あれ、じゃあ……」

 ーーそれなら私は、篠崎さんのことを何だと思っているのだろう。
 社長? それもそうだ。けれど、ただの雇用の関係じゃない。
 印付(マーキング)してきた獣? いやいや。あれはびっくりしたけど、篠崎さんは優しいいい人だ。
 私は歩きながら、篠崎さんに感じていることを、一つ一つ思い出してみる。

 助けてもらった時、篠崎さんの声を聞いてホッと気持ちが安らいだり。
 気を失っている間、涎垂れてるのを見られてしまったと恥ずかしく思ってしまったり。
 鏡を見るたびにキスされたことを思い出したり。
 会社で顔を合わせるたびに、よーし! 今日も頑張ろう! って力が漲ってきたり。

「あ」

 アパートの縞合板の階段を上がり、家の鍵を開けようとして、私は今日見た光景が頭をフラッシュバックする。

「推しを見て興奮してた雫紅(しずく)さんと同じだ……」
「楓殿?」
「あ、なんでもない! なんでもないよ! 帰って早くご飯にしようか」
「にゃあ」

 ーー推し、かぁ。
 ()()()と腑に落ちる言葉を見つけて、しっくり馴染んで満足する。
 今、私は篠崎さんが()()なんだ。
 だって篠崎さんが微笑むと、すっごく嬉しいし、頑張ろうって思える。カレーが苦手とか、尻尾撫でられるとふにゃふにゃになっちゃうとか、彼のことを一つ一つ知っていくたびにワクワクする。

 新生活の大変さを乗り越えていくためには、心を鼓舞してくれる強い何かが必要だ。
 上司が仕事のやる気エネルギーになるって、とっても幸福なことのように思う。
 推し活、兼、お仕事!!! 頑張ろう!!!


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 夜(せいじんだんせい)に頬を舐められたり、頭を撫でたり不審な挙動をしながら帰路についた菊井楓。
 そんな彼女が二人仲良くアパートに入っていく姿を見つめている女の姿に、彼女は気づいていない。