食後、早速仕事に戻っていく彼女たちを見送り、私と清音さんは二人でテーブルを片付けた。

「菊井さん、大丈夫だった? 騒がしくてびっくりしちゃったでしょう」
「とんでもないです。みんなでわいわいご飯を食べるのって美味しいなあって思いました。清音さんも、もうすっかりこの海に馴染んでらっしゃるんですね」
「ええ」

 彼女は笑って頷く。

「篠崎さんには、ここの磯女さんのコミュニティに顔繋ぎしてもらったの。地元のあやかしにも人にも、とても良くしてもらっているわ」
「困りごとなどはありませんか?」
「ないわ。毎日とても楽しいの。……あなたも少しは、浜姫について調べてきたでしょう?」
「はい」

 ーー浜姫。石川県加賀市橋立町近海に住む、影を呑む絶世の美女のあやかし。
 清音さんは休憩室の窓から海をみて、そして懐かしむように目を細めた。

「私が住んでいた場所、北前船が盛んだった場所なの」

 彼女が窓を開けると海風が流れ込む。水平線まで続く海を、高い位置の午後の太陽が眩く白く照らしていた。

「最盛期はそれはもう、賑やかな港だったのよ。私が住んでいた浜辺近くの集落は豪邸が立ち並んでいて。彼らの船を見ていると、いつも、どこにいくのだろうって羨ましくなってた」

 彼女の黒髪が風をはらんで大きく広がる。まるで翼のようだ。

「5年前かしら……夜の海をみていたら不意に、その時の憧れを思い出してね。思い切って地元を離れてくらしてみようと決めたの。そして友達の縁故でちょうど、良い狐さんがいるって噂を聞いて篠崎さんのお世話になったのよ」
「そうだったのですね……」
「新しい場所で暮らしてみたい、けれど地元の海から見る夕日も好きだから、ホームシックになった時の慰めになるように、夕陽が沈む海に暮らしたかった。だから、引っ越すとすれば日本海側が良かったのよね。里帰りもしやすいし」
「里帰りって、もしかして海を渡るんですか?」
「浜姫だもの。泳ぎは得意よ?」

 私も清音さんに倣って、海岸線と空へと目を向けた。私は福岡から離れたことがない。北陸の海はどんなものなのか知らない。
 清音さんにとっての『新天地』である糸島芥屋の海を眺めながら、私は遠い北陸の海に想いを馳せた。

「で、菊井さん。私があなたを呼んだ理由というのがね…」

 その時。作業中の設営から、一人の磯女さんが離れてこちらに歩いてきた。
 真っ赤なTシャツに、ビーチサンダルに、黒髪ロングの美少女。見た目は私より少し年下のようで、すっぴんでもゾッとするほど美しい。
 先程のランチで、長テーブルの端っこの方に座っていた磯女さんだ。彼女は私が先程みなさんに配った名刺を持っていた。
 私が頭を下げると、隣で清音さんが口を開いた。

「改めて紹介するわね。彼女は雫紅(しずく)さん。芥屋の海に住む磯女よ。まだ若くて今は70歳くらいかしら」
「な、70歳ですか……」
「人間で言うなら、そうね……18歳くらいかな?」

 年齢の感覚がよくわからない私にもわかりやすい表現をしてくれる清音さん。人間との会話に慣れている方で助かった。

「雫紅さんはお金を貯めて一人暮らししたいんですって。けれど人里に住むのは初めてで。だから彼女にあったお仕事と住む場所を紹介してほしいの」

 糸島の海に移住した清音さんとは反対に、彼女は別の場所に暮らしたいのだ。緊張した様子の雫紅さんに、清音さんは微笑む。

「彼女、なんだか昔の自分を見てるように感じちゃって。ちょっとお姉さん、背中押してあげたくなったの」
「そうなのですね」

 私は雫紅さんへと向き直り、改めて挨拶をした。

「改めまして、私は菊井と申します。清音さんのご紹介と言うことで、これからお仕事探しのお手伝いをさせていただきます。よろしくお願いいたします」
「よろしく……お願いします……」

 鈴のような声で、雫紅さんは深々と頭を下げた。
 椅子に座った彼女の隣に、清音さんも座る。まず私は気を楽にしてもらおうと思い、彼女の話を引き出すことにした。

「まずはカウンセリング……雫紅さんのお名前やこれまでのご経験、ご希望などをお伺いいたします。とは言ってもざっくりとしたお話で大丈夫なので、お分かりになる範囲で教えてください」
「は、はい」
「今、具体的に、ここに住みたいとか、こんなお仕事がしたい、と言ったご要望はお決まりですか?」

 私は噛み砕いて説明することを意識した。

「いえ、私は……私ができるお仕事があるならば……なんでもいいです……」
「なるほどですね。場所は糸島で?それとも、福岡市内とか」
「糸島は……出たいです……。少し離れて、暮らしたくて。福岡市内がいいかなと思ってます」

 全くなるほどではないけれど、まずは話を聞き出すことが目的だ。

「普段から糸島で人間と接していらっしゃる雫紅さんでしたら、お仕事も幅広くご案内できます。何せ『人間は食べるもの』ってのから始まる方もいらっしゃるので」
「えー、そんなあやかしでも大丈夫なの」

 隣で清音さんが口を挟む。私は微笑んで頷いた。

「それが意外とうまく行くんです。ご自身と人間が別の生き物であり、同じ感覚を共有していないとご理解いただいていますので。その方は割り切って、人間界で働くあやかし向けの施設でご就職いただいております」

 これは事前に研修の中で、篠崎さんから、あやかし就職のいろんな事例を教えてもらっていたおかげだ。
 積極的な清音さんと違い、雫紅さんは人間に慣れていない内向的な方だ。そんな彼女でも「そんなあやかしでも働けるのね」、とハードルを低く感じていただくところから切り込んでみている。

 緊張していた彼女の瞳が、ほんのわずか安堵に緩んだ気配がする。私は微笑みながら、聞き取りを続けた。

「お仕事の話は抜きにしたとして……雫紅さんは街に行って、何がしたいなって言うのはありますか? 天神でショッピングしたいとか、映画を見たいとか、陸地で散歩したいとか。海とは真逆の、山に行きたいとか」
「……それは……その……」

 言葉につまる彼女。清音さんは隣で笑顔で励ます。

「大丈夫よ。なんでも相談してみなくちゃ」
「私は……ただ……働いてみたい、だけで……その……」
「かしこまりました! じゃあ、明日の職場見学は、天神見物もかねて……色々回ってみましょうか」
「見物、ですか……?」

 きょとんとする雫紅さんに、私はにっこりと笑う。

「はい。実際に色々たくさん目にすることで、街で暮らす想像も固まっていくと思うんです。興味があるものいっぱいみて、美味しいもの食べましょう!」
「で、でも……」
「いいじゃない! 行っていらっしゃいよ」

 清音さんが背中を押してくれる。彼女はおろおろとした。

「でも……いいんですか……すぐお仕事決めないとご迷惑なんじゃ……」
「とんでもないです! ご納得の行くご縁を結ぶのが私たちの仕事ですので。福岡市内に出てみて『やっぱり今回は……』というのでも構いません」
「そう……ですか……? じゃあ、よろしくお願いします……」

 雫紅さんがためらいがちに頷いてくれたので、私はひとまずほっとする。
 まずは地元から離れて、気を楽にして話せる時間を作りたいと思う。

 もしかして彼女は。清音さんーー身内の前で言いにくい、『外で働きたい』事情があるのではないのかと思ったからだ。