「え、」

 温かくて湿った、唇の感触。次の瞬間、全身からごっそりと何かが吸い出される感覚がする。唇は触れているだけだ。それなのに、魂全てが、掃除機に吸われるような、ブラックホールに飲み込まれていくような、そんなーー

 一瞬意識を失った私は、気がつけば篠崎さんの腕に支えられていた。

「あ………」

 篠崎さんの髪も尻尾もいつもの長さに戻り、色も落ち着いた狐色に戻っている。
 あれ、夢見てたの?
 そう思った瞬間、篠崎さんが己の唇を舐めとって目を眇める。なんとなく、尻尾や耳がキラキラに輝いている。

「ご馳走さん」
「え、あーー」

 頭が真っ白になる。そして頬が熱くなるのを感じる。足の力が抜けてこけそうになる私を篠崎さんはさらに捉え、再び顔を近づけてくる。
 がぶ、と首筋を甘く噛まれる。

「ヒィッ!?」

 首を噛まれただけなのに、全身が痺れる。
 なんだか、魂が支配された感じがする。私はうわずった声を戻せないまま、息絶え絶えに尋ねる。

「あ、ああ、あの……これは……」
「応急処置するって言っただろ」
「はあ……」
「霊力をある程度吸い上げた」

 噛み跡に唇を寄せ、そして篠崎さんは体を離す。私はへなへなと、ビジネスチェアに座り込んだ。
 篠崎さんは平然とした様子で、私の前で唇を拭う。

「そして俺の匂いをつけてやったから、しばらくの間は他の奴らには手を出せねえ」
「匂い、って」
「夜みたいに主従契約を結んで、楓の霊力を吸い上げる方法もある。だが俺はあいにく既に飼われてる身なんでな」

 しゅる。篠崎さんがおもむろにネクタイを緩め、襟のボタンを緩める。

「ま、待ってください。刺激が続く、刺激が強い、」
「何考えてんだ」

 顔を覆った指の合間から狼狽えた声を出す私に呆れながら、篠崎さんは左胸を私に晒す。そこには淡く紋様が浮かび上がっていた。

「これはかつて、俺が俺の主人と結んだ契約だ。夜と楓みたいな関係だと思ってくれりゃあ、大体合ってる」
「夜さんにも、こういうの刻まれてるんですか?」
「多分な。尻でも見たらついてんじゃねえの?」
「見ませんよ!」

 とにかく、と前置きして篠崎さんは続ける。

「簡単に言やぁ……今、楓の霊力を吸い上げることで、1000のだだもれ霊力を10まで落とした。それに加えて俺が印付(マーキング)した。次に霊力が溢れ出すまではしばらく、俺以外の奴は手を出さないだろうさ。手を出しても、俺がわかる」
「なるほど……ですね……?」

 ぼぉっと惚けた頭では、理解できたような理解できなかったようなよくわからない。
 ええとつまり、夜さんと私は、主従関係。
 そして篠崎さんと私は、いわば百舌鳥の早贄状態にされている。
 これは俺の餌だとマーキングされている、と。

「じゃあそろそろ帰るか。飯くらいご馳走してやるよ」

 妖しい気配を消した篠崎さんはさっさとネクタイを締め直し、オフィスのサッシを閉めてテキパキと帰り支度をする。伸びていた髪も元の長さに戻り、ふわふわの尻尾も元通りだ。
 いや。何も元通りなんかじゃない。

「……」

 私は立ち上がった。
 今私は、大きな問題に直面している。

「篠崎社長」
「社長なんて言わなくていいぜ」
「篠崎さん」
「ああ」
「説明してください」
「いいぜ、どうした」
「私は今冷静さを欠いています」
「なんだ」

 私は叫んだ。

「私、ファーストキスだったんですよ!?」
「はー?」

 篠崎さんは一瞬目をぱちくりと瞠るとーーなんだそんなことかと言わんばかりに、尻尾をぱた、と揺らして呆れた声を出した。

「大学で一人や二人、男作ってなかったのかよ」
「出来なかったんですよ!!!! ものの見事に!!!!」
「若いくせにもったいねえ。盛ってる盛りのくせに」
「あの! 私が通ったのは! かなり真面目な大学です!!!!!!」
「……じゃあ、楓の初めてを奪っちまった代わり」

 篠崎さんが近づいてきて、再び私の顎を捉える。
 顔を上を向けられ、先程のキスを思い出し、私はびくりと固まった。

「俺もよこしてやるよ。何がいい」

 私は3秒考えた。

「…………現金」
「それ以外で。それだと、俺が金でキスを買ったことになっちまうだろ」
「それはなんか嫌ですね」
「だろ?」

 それもそうだ。

「じゃあ、もふもふ」
「は?」
「唇を奪ったんですから、私も篠崎さんに体で払ってもらいます。私が好きなだけ、好きなときに、お耳と尻尾触らせてください。どうでしょうか!?」
「なんだそりゃ……構わないぜ」
「やったー!」
「優しく撫でろよ。繊細なんだから」

 篠崎さんは自分の尻尾を手に取り、撫でながら言う。その流し目と微笑む唇に、先程のキスを思い出してぞくりとする。ここで綺麗だとか、かっこいいとか思ったら負けだ。流される。私は対抗して胸を張った。

「私の唇だって繊細でデリケートです! 落ちないリップ系の口紅をつけると肌荒れするくらいには!」
「あっそ」

 そこは、軽く聞き流さないでほしい。文句を言おうとした私に篠崎さんはさらにとんでもないことを突きつけた。

「ところで霊力は、定期的に吸わないといけないからな?」
「は?」
「そりゃそうだろ。楓は温泉が湧き出るように無尽蔵に霊力が噴き出してんだから」
「な……な………」

 尻尾をゆらゆら、さっさとオフィスを後にした篠崎さんは、ドアの前で鍵をチャラチャラと鳴らす。

「出るぞ」
「あの、キス以外の方法ってないんですか?」
「ねえんだよな、それが。他にあったら、こんなこと誰がするか」
「誰がするか、って酷くないですか!?」

 彼は肩をすくめた。

「その代わり責任持って守ってやるよ。そのダダ漏れの霊力がなんとかなるまでは」

 守ってやると言われるのは心強い。とてもありがたいし、実際篠崎さんはとても優しくて親切だ。社員として頑張って働いて、早く彼に恩返ししたいと思う。
 けれどキスは。キスはどうしよう。ファーストキスとして良いシチュエーションだったのは確かだけど、まだ、その、混乱しかない。だって私篠崎さんと付き合ってる訳でも、篠崎さんに好かれてる訳でもないのに。

「おーい。楓」
「篠崎さん」
「ん?」
「……夕飯、ご馳走してくださるっておっしゃいましたよね?」

 低い声で問いかける私に、篠崎さんは目を細めて苦笑う。

「ブランド牛とかやめてくれよ」
「川副(かわぞえ)さんの屋台の、おうどんが……また食べたいです……」
「安上がりで可愛いな、お前」



 こうして。私は篠崎さんの元で働くことになったのだった。
 普通って。普通ってなんだ。
 私はまだ当分、自分の中の「普通」の落とし所を探す日々が続きそうだ。