「杏、急げ!」
井関が振り向き、叫ぶ。
「……」
なんだか井関の言葉が頭にきて……。
私は小走り気味に井関の隣に走り寄ると、キツめに言った。
「いつも、いつも! 杏、杏って呼び捨てにするけど、なんでよ。下の名前で呼ばれるの好きじゃない」
ましてや井関になんて余計。井関ファンの奴らに、いつもどんな目で見られていると思って……。いや、冷たい目で見られるならまだいい方だ。口が達者なヤツは嫌味ったらしく文句の一つも付け加えてくる。ホントとばっちりもいいとこ。
「はぁぁぁ……」
井関の口から、大きなため息が漏れた。
「?」
「……アイツのこと思い出すんだよ……篠田。おまえと同じ、篠田って苗字だった、アイツのこと……」
井関は顔を伏せがちに話し出した。
まずい……聞いちゃいけないことだったのかな……。アイツって井関の元カノとか?
興味と面倒と思う気持ちが入り交じりながら、井関の悲しそうな顔を見つめ、私は話を聞いていた。
「大学の時、篠田って名前の友達が居て……」
「うん……」
「そいつは車の運転が、すごく上手くてさ……」
「うん……」
私は、悲しげな井関の一言一言に相槌を打ちながら聞き入っていた。
「篠田がある日、俺に車を貸してくれって言ってきて……なんのためらいもなく貸したんだ」
「うん……」
「そうしたら、アイツ……」
「うん……」
「車を電柱に思い切りぶつけて、車は見るも無惨な姿で返ってきたよ……篠田本人は、ピンピンしながら……」
「……」
「買ったばかりの新車……まだローンもたんまり残ってたのに……アイツの腕を過信した俺がバカだったんだ……」
井関はまた、辛そうに顔を伏せた。
「篠田の名前を見る度、あの時のことを思い出して、悔しくて、悲しくて……だからつい、篠田おまえのことを下の名前で呼んでしまうんだ。もう思い出したくもない出来事を……」
「……」