「――限界ですね。実験を終了しましょう」
 検査を終え、診察室で結果を待っていた私とお母さんに、井田先生は何の感情も含まないような声でそう告げた。井田先生は、お母さんが一緒にいる時は丁寧な言葉遣いで話す。声に抑揚がほとんどないのは、変わらないけど。

 琴美に説得されて病院に電話し事情を説明すると、先生は緊急を要するかもしれないと判断したのか、すぐに病院に来るように言われた。病院には琴美に付き添ってもらい、お母さんも後から合流したけど、検査自体は病院が閉まる夜まで待つことになった。

 検査はいつもより長く、一時間近くかかった。それから先生に呼ばれるまでさらに一時間以上。ようやく呼ばれたと思った矢先、開口一番に聞いた言葉がそれだった。

「ちょっと、待ってください。限界って、実験終了ってどういうことですか?」
 井田先生の言葉に、食い下がったのはお母さんだ。私は何だか頭も身体も疲れ果てていて、先生の言葉の意味をまず理解することに時間がかかっている。

「検査した結果、人工脳に障害が生じています。おそらく、日常で生じる大きなストレスの負荷に耐え切れなくなったんでしょう。そのため、メモリの中の記憶に異常が起こっている。詳しいところは今後さらに研究が必要となりますが、現時点ではこのまま稼働させるのは危険と判断します」
「稼働させるのは危険って……雪穂は、どうなるんですか」
 お母さんの声は、滅多に聞くことがないぐらいに深刻だった。

「正直、どうなるかはわかりませんが、いい結果にはならないでしょう。今の生活を続けても、障害が直ることはない。むしろ今より状態が悪くなって、現状では取り出しにくくなっているだけの記憶が、永遠に失われてしまうことも十分に考えられる」

 記憶が、永遠に――

 その言葉に、私はびくりと震えた。昨日、今日の記憶障害は、幸いすぐに思い出すことができた。それが、ひょっとしたらもう二度と思い出すことができないかもしれない……

「だから、どうしろって言うんですか」
 問い詰めるような様子で、お母さんが井田先生に言った。先生は、軽くため息をついてから、口を開く。

「人工脳を元の脳に入れ替えて、元の状態に戻す。記憶が失われないように保持するには、それしかないでしょう」

 元の状態。それって、つまりは――

「雪穂に……元の、植物状態に戻れって言うんですか」
 植物状態。私が事故からずっと意識を失っていたままの状態。いつ目が覚めるのかもわからない、暗闇の世界に囚われた状態。そこへ……戻る?

「今さら! そんなひどいこと……だって、雪穂はこれまでずっと順調で……前と何も変わらずに生活できていたのに……幸せそうにしていたのに……また、あんな状態に戻すなんてできるわけないじゃないですか!」
 お母さんが、震えた声で悲痛な叫びを上げた。三人しかいない診察室に、その声は大きく響く。

 でも井田先生は、あくまでも事務的な口調で反論する。

「最初に説明したはずですよね? この人工脳はあくまで実験段階のものです。データを取らせていただく代わりに、この人工脳の使用を認める。ただし、たとえ目を覚ましたからといって元の生活に戻れる保証はないし、いつどんな不具合が出るかもわからない。その時は、また元の状態に戻さざるをえない場合もあると」
 その会話の内容を私は知らない。きっと、私がまだ眠っていた時の会話だからだ。お母さんはたぶん、それでもわらにもすがる思いで、その話を受け入れた。それでも私が目を覚ます希望をかけて、この人工脳を使うことにしたんだ。

 お母さんにも覚えがあったんだろう。井田先生に言い返すことができなくて、言葉に詰まっている様子だった。でも、お母さんは必死で食い下がった。

「だからって……そんな残酷なことできるはずがないでしょう!」
「では、どうします? 今のままの生活を続けますか? 先ほども言いましたが、おそらく原因は日常のストレス負荷でしょう。人間、ストレスをまったく感じずに生きることはできません。外的な情報がある限り、それがいいことだろうと、悪いことだろうと、それはストレスとなって負荷をかけます。雪穂さんはどんどん記憶を失っていくかもしれない。それは日常のささいなことから、ひょっとしたら、親であるあなたのことも忘れてしまうかもしれない。最悪の場合……人工脳の完全な機能停止が原因で、命を失うこともあり得るんですよ?」
「そんな……」
 お母さんが、ショックを受けて言葉を失い、そのまま泣き崩れるように床に座り込んだ。よろよろと、頼りない動きでそっと隣の私の手を握る。その手は、冷たく震えていた。

「あの……」
 お母さんに代わって、私が口を開く。

「何かな?」
「何とか、直すことはできないんですか? たとえば、ちょっとだけ眠って、その間に直して、また私を目覚めさせてもらえたら……ちょうど今、夏休みですし、少しくらいなら眠ってても大丈夫だと思いますし」
 不思議な気分だった。なかなか実感がわかないというか、他人事のように聞こえてしまう。もしかしたら本当は強いショックを受けていて、感情が止まってしまっているのかもしれない。自分でも驚くほど淡々と、妥協点を探していた。

 だけど井田先生は私のその提案を、呆れたように首を横に振って一蹴する。

「残念だが、そんな簡単な話じゃない。直すといっても、生活を続けていくためにはストレスに対応できるよう改良をしなくてはいけない。それはどうやったら? どれくらい耐久性を上げたら? 申し訳ないが今の段階では見通しも立たない。人工脳と本来の脳を入れ替えるのも、臓器自身や君の身体にも大きな負担がかかるから、何度もできるわけじゃない」
「じゃあ、もし、また私が元の状態に戻ったら、次に目が覚めるのは……」
 私の問いに対し、井田先生は一瞬言い淀んだ。さすがに、言いづらいことだと感じたのかもしれない。

「……脳の自然な回復を待つことになる。一日後か、一ヶ月後か、一年後か……十年後かもしれないし、目覚めることは一生ないかもしれない。正直、目が覚めるだけでも奇跡のような確率だ」

 その答えに、お母さんが声を上げて泣き出してしまった。私も、本当は泣きたかったんだと思う。けど、涙は出なかった。言葉も出なかった。お母さんの泣き声が、先生の言葉がどんどん遠ざかっていくように感じる。この世界が私だけを切り抜いて、どこか遠く離れていくように感じる。私だけが、暗闇に肩を叩かれているようで。

 絶望ってこんな気分なんだと、私は受け入れるしかなかった。

「時間が必要なら、家に戻ってしっかり考えてください。ただし、いつ記憶の一部が失われても不思議ではない状態です。なるべく早く決断された方がいい」