「で、どうだったの?」
次の日琴美に会うと、案の定、私の顔を見るなりそう聞いてきた。
「それより私はまず琴美に文句を言っていいと思うんだけど」
「何で?」
悪びれる様子もなく、きょとんとした顔で琴美は首を傾げる。
「ドタキャンのこと! 絶対最初っからそうするつもりだったんでしょ?」
私が声を張り上げて抗議すると、琴美は思い出したようにうなずきながら、あははと軽い調子で笑った。
「あ、バレた? でも、楽しめたんじゃない? 雪穂の大好きな水族館だし」
「それは……楽しかったけど」
男の子と二人きりだということを忘れてしまうぐらい、最初の部屋から夢中になっていて、楽しくなかったとはとても言えない。
「楽しめたならよかったよ。それより愁とは、何か進展はあったの?」
「進展……ううん、もう、それはいいんだよ」
聞かれるのはわかっていたのに、いざ期待に満ちた目で尋ねられると、心が沈んでしまう。私もできればいい報告がしたかったけど、残念ながらその期待に応えられない。
「何、どうしたの。何かよくないことあった?」
私の声のトーンも、自覚できるぐらい暗い。それを察してか、琴美も途端に心配そうな様子でそう言った。
私は水族館での話を、隠さずに話した。最初は楽しく回れたこと、朝日を見に行く約束をしたこと、自分が特別な存在なんじゃないかと思えたこと。それから、私がどうして事故に遭ったのかや、愁くんがどうして私に親切にしてくれたのかということ。だから……私の期待も、ただの勘違いだったということも。
その話を聞いた後、琴美もしばらく言葉を失っていた。
「そっか……そんなことがあったんだね。何か、ごめんね。雪穂の気持ち知らずに、どうだったなんて聞いちゃって。無神経だったね」
琴美はしゅんとしたように肩を落とす。
「気にしないで。私だって、途中までは舞い上がってたんだよ。そのまま終わってたら、たぶんさっきの琴美と同じテンションで報告してたと思う」
そこから急転直下で百八十度状況が変わってしまったのは、私がカフェで愁くんによけいなことを聞いてしまったのがきっかけだ。ただ、いつその話になるのかの違いで、いずれはわかることだったんだろうけど。
「まさか、事故にあのおばあさんと愁が関わってたなんてね……雪穂、大丈夫? 事故のこと、思い出しちゃったでしょ」
琴美がそっと私の背中をさすってくれた。
「大丈夫。びっくりしたけど、それで事故の時のこと新しく思い出したりはしなかったんだ。結局、事故の前後のことは覚えてないままで」
「それならよかったけど……ねぇ、愁とのこと、本当にそれでいいの?」
「え?」
「確かに、愁は雪穂への罪悪感で親切にしようとしてたのかもしれないけど……今も、これからもそうだとは限らないでしょ?」
琴美が諭すようにそう言ったけれど、私は少し考えて首を横に振った。
「きっと……今だってそうだよ。事故のこと、今まで言えなかったからずっと親切にしてくれただけで、ひょっとしたら……言えたことですっきりして、これからは今までどおりじゃなくなるかもしれないし」
昨日、愁くんとは普段通り、学校でじゃあねと言うのと同じように別れた。それだけ見れば、今までと何も変わらない付き合いができると思えるかもしれない。だけどひとりになってからどんどん不安になった。長い夏休みの間に、これからしばらく会わない間に、急速に縮まった距離が、今度は急速に離れてしまうんじゃないかって。
「愁は、そんな人じゃないよ。それに、事故の負い目があるからって、朝日を見に行こうなんて誘う? きっと愁の気持ちは、それだけじゃないと思うけど」
「わかんないけど、もういいんだよ。特別な存在かもしれないなんて勘違いして、はしゃいじゃって……これ以上、惨めになりたくないし」
好きな気持ちを持ち続けて、期待を持ち続けて、もし次に会った時に距離ができていたらと思うと、怖い。だったら、もうそんな気持ちは忘れてしまった方がいいような気がした。傷つくかもしれない気持ちなら、いっそのこと。
「雪穂……それって、ただ逃げてるだけだよ。目を背けちゃダメだよ。愁のこと好きなら、ちゃんと自分の気持ち伝えて、確かめたらいいじゃん。それにもし今がただの罪悪感だけだったとしても、これからまだ、特別になれるかもしれないでしょ?」
私の肩を強くつかんで、琴美が言った。まっすぐに、私の目を見つめて。
琴美の言うことだって、可能性がないわけじゃないことは理解できる。だけどそれを信じて、ずっと追いかけ続けることは私には難しい。もう少し、琴美みたいに誰かと付き合った経験でもあれば、違うのかもしれないけど。
私は肩をつかむ琴美の手を、弾くように振り払う。
「もういいって言ってるんだから、いいかげんにしてよ。琴美は私の気持ち、大事にしてほしいって言ってたけど……結局、楽しんでるだけじゃないの?」
責め立てるような口調で突き放すと、琴美の顔がショックで引きつるように固まるのがわかった。
「雪穂……何言ってんの? そんなわけないじゃん。私は雪穂のことを考えて――」
「だったら、私がいいって言ってるんだからもういいでしょ。もういろいろ考えるの疲れたもん。これ以上辛い気持ちに……なりたくないよ」
「雪穂……」
「もう、辛いのは嫌なんだよ……」
誰かを責めるなんて、こんな大きな声を出すなんて、慣れないことをするからすぐに力がなくなってしまう。自分で振り払ったくせに、力を失った私の身体は琴美に寄りかかるように、支えを求めていた。
「……ごめん、琴美。そんなつもりじゃなかった、こんなこと言うつもりじゃなかった。私、もう帰るね」
心底自分に嫌気がさした。これ以上、琴美に甘えちゃダメだ。自分の気持ちには、自分でちゃんとけじめをつけなきゃいけない。自分の辛さや苛立ちを、こんな形で琴美にぶつけるなんて、最低だ。
「待って、雪穂――」
琴美が私を引きとめようと名前を呼ぶ。その声を振り切って、足早に立ち去ろうとした時――ふと、身体が軽くなった気がした。
突然地面がなくなったような浮遊感。上下左右を見失って頼りない感覚が私の身体を襲い、次の瞬間には私はなすすべもなくその場に倒れてしまった。
「雪穂!」
何だろう、この感覚。痛みとか、苦しいとかじゃない。けど、突然身体の自由を奪われてしまったような気分。あまりにも自分自身で身体の制御ができなくて、首から下が急に切り離されてしまったんじゃないかと不安になる。
誰かが必死に私の名前を呼んでいる。でも、今の私にはその声に応えることができない。そしてそのまま視界が真っ白に染められ、私の意識が霧に覆われるように失われていくのがわかった。
「雪穂! 雪穂!」
ずっとその声は聞こえていた。私を呼ぶ声。必死に呼ぶ声。
どれくらいの時間かわからないけど、私は意識を失っていたみたい。その間ずっと霧に覆われていたような感覚だったけれど、途端にそれが晴れていくように、私の意識も回復した。何も見えなかった視界に、色彩で溢れた景色が浮かぶ。
そしてそんな私の顔を心配そうに覗き込む――見覚えのない、女の子がいた。
「雪穂、どうしたの? 大丈夫?」
今にも泣きそうな表情。私を抱きかかえるような格好で何度も私の名前を呼ぶ――私にはその状況が、まったく理解できなかった。
「……雪穂? ねぇ、どうしたの?」
私が戸惑ったままずっと彼女のことを見つめていると、彼女もまた何か異変を感じたのか、そう尋ねてくる。
私は素直に、自分の疑問をぶつけた。
「あの……誰、ですか」
「え……何、言ってるの? 雪穂――」
彼女の表情に、隠しきれないほどの動揺が浮かぶ。彼女が強い力で私の肩をつかみ、ゆさゆさと揺らした。
「琴美、琴美だよ! 雪穂、私のことわからないの? ねぇ、雪穂!」
「こと……み……」
彼女が名乗った名前を私自身の口で繰り返して――そして、私は絶望的な気分を覚えた。はっとして、目の前の彼女の顔をもう一度、目を見開いて確認する。琴美だ。どうして私、見覚えないなんて、思ったの?
「琴美? 私、今、何て……何で……私、まさか琴美のこと、忘れて……」
嘘だ、そんなの嘘。私が、忘れるわけない。琴美のこと、忘れるわけない。琴美は私の親友だ。ずっと一緒で、どんな時も私のことを考えてくれて、思ってくれる大事な親友。他の何を忘れたって、琴美のことだけは絶対忘れない――はずだったのに。
「雪穂……」
「嫌だ……嫌だよ……私、琴美のこと……ごめん、そんなわけない、そんなわけないよ。私が琴美のこと……」
「雪穂、落ち着いて。ねぇ、大丈夫。大丈夫だから」
パニックに陥った私を、震えが止まらない私を、琴美が強く抱きしめる。けれど身体の震えは収まるどころか一層強くなっていく。今はこの触れる身体の温もりが琴美のものだと、私の唯一の親友のものだと疑いようもないけれど、次の一瞬にはまた誰かわからなくなるかもしれない。見知らぬ誰かに羽交い絞めにされていると思い込んで、怯えてしまうかもしれない。そう考えると、一寸先も見えない闇の中にいるようで恐怖を感じずにはいられなかった。
――誰、ですか。
ついさっき、私が琴美に向けて投げかけた言葉を思い出し、背筋がぞくりと冷える。
「……いやっ!」
私は琴美の腕を振りほどいて、その場から逃げるように走り出した。怖かった、全部が、怖かった。私の信じていたものが、支えてくれていたものが、すべて幻のように消えてしまいそうな気がして。
「雪穂、待って!」
琴美の制止を振り切って走った。どこに、何て考えられなかったけど、ただ無我夢中で、この恐怖から逃れたかった。
どこをどう走ったのか、どれぐらい走ったのかまるでわからないけれど、突然肉体的な限界が訪れて、私はその場に四つん這いになる体勢で座り込んだ。肺が張り裂けそうなほどに痛む。身体全体で呼吸をしないと、心臓が止まってしまいそうだった。真夏の炎天下、身体のことなんて一切構わず走り続けたせいか、動きを止めた途端、内に閉じ込めていた熱が皮膚を突き破って溢れ出そうになっている。頬を伝った汗がぽたりと、地面に落ちた。
いじめ抜かれた身体は、震えを感じる余裕がなくなっている。ぐるぐると、視界が回っているように見えた。水分が足りないんだ。きっと脱水症状の、一歩手前。
でも、そんな状態なのに不思議と頭が冴えた。混乱が収まって、少しだけ私に起こっていることを考える余裕ができている。
いや、余裕があるというのは間違いだ。今の私に余裕なんてない。ただ、他のことを気にする余地がなくなって、逃れられない問題がその隙間に無理やり入り込んできた。それだけだ。
どうして――
「何で……私……」
考えたくない。認めたくない。だけど、目を背けられない。本当は昨日から、おかしいとわかっていた。
私の記憶に、何かが起きている。私の頭の中の人工脳に、何かが起きている。
ひょっとしたら、私は、もう――
「……雪穂!」
後ろから私を呼ぶ声が聞こえる。そのまますぐに、覆いかぶさるように琴美がやってきた。
「琴美……」
「大丈夫? ねぇ、何があったの、雪穂」
琴美がずっと私を追ってきていたことに驚いた。心配そうに、私の顔を覗きこんでくる。
「琴美、ごめんね……私、もう……」
ダメかもしれない。そう言おうとして、また怖くなった。
その時、また頭上で声がする。
「雪穂? 琴美?」
聞き覚えのある男の人の声。反射的にはっとして顔を上げると、愁くんがいた。そしてその側には、愁くんのおばあさんも。
そこでようやく、私は自分が今いる場所に気づいた。いつもおばあさんと出会う、駅前のロータリー。どうやら愁くんがおばあさんを連れて散歩に来ていたか、迎えに来ていたところに私はやってきたみたい。
「……雪穂?」
愁くんは心配そうに私の方へ駆け寄ってきた。それだけ私がただ事じゃない様子に見えたのだと思う。
「ダメ……ダメだよ……来ないで……」
私は顔を覆うようにして、また地面に突っ伏した。周りからどう思われるかなんてどうでもよかった。ただ、今は二人のことを見たくない。昨日のICカードのことだけじゃない。さっきみたいに、琴美のことや、愁くんのことを、また忘れてしまうのが怖かった。
すると、ふと、小さな手が私の頭の上に置かれた感覚があった。
「え……」
ちら、とおそるおそる視線を上げてみると、愁くんのでも、琴美のでもない細い足が、地面に正座をするような格好でそこにあった。小さな身体から伸びる手の、軽い感触。ゆっくりと髪の毛をなぞるように、前後に動く。
おばあさんが少し微笑んだような表情で、私の頭を何度もなでる。まるで、泣きじゃくる私をあやすように。ひょっとして私のことを、本当の孫だと思っているの? 私が転んで、痛くて泣いていると思っているの? 私がこんなに苦しんでいる理由なんて知るわけもないのに。
あまりの理不尽さに、怒りがこみ上げてきそうだった。そうだ、元はと言えば、このおばあさんを助けたのが原因だったんだ。私が事故に遭ったのも、ずっと意識が戻らなかったのも、私の頭の中が機械なんかに置き換えられているのも、私の記憶が消えてしまうことに、こんなに苦しんでいるのも。
私の目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。どうして私がこんな目に遭わなければならなかったんだろう。不公平にもほどがある。覚えてはいないけれど、私はただ、人助けをしようとしただけだったはずなのに。
唇を噛み締めて、言葉を飲み込んだ。吐き出したい言葉が今にも喉を突き破って飛び出しそうで、ひどく傷む。何も構わず吐き出せたら、少しは気が紛れるかもしれない。でも、それはおばあさんを傷つけてしまう言葉だ。おばあさんに理解はされないかもしれないけれど、きっと、ここにいる愁くんや琴美のことも悲しませてしまう。
すると、私の頭をなでる手と逆の手が私の目の前に差し出された。泣き止まず、唇をぎゅっと強く締めている私を見て心配になったのか、おばあさんの表情が不安そうに曇っている。そしてその差し出された手にはー―いつもみたいに、飴玉が乗せられていた。
「うあ……あぅ……」
ほんとに馬鹿みたいだ。どうして私は、こんなことしてしまったんだろう。それさえなければ、私はきっと今でもほんの小さな日常の悩みだけを抱える程度で、毎日何となく過ごせていたかもしれないのに。
でも、やっぱり私には言えなかった。
何度理不尽に怒りを感じても、苦しみに心が張り裂けそうになっても、私は後悔できない。この人が助かってよかった。私の前で死なないでいてくれてよかった。
私は、自分が間違っていなかったと、胸を張りたい。
次の日琴美に会うと、案の定、私の顔を見るなりそう聞いてきた。
「それより私はまず琴美に文句を言っていいと思うんだけど」
「何で?」
悪びれる様子もなく、きょとんとした顔で琴美は首を傾げる。
「ドタキャンのこと! 絶対最初っからそうするつもりだったんでしょ?」
私が声を張り上げて抗議すると、琴美は思い出したようにうなずきながら、あははと軽い調子で笑った。
「あ、バレた? でも、楽しめたんじゃない? 雪穂の大好きな水族館だし」
「それは……楽しかったけど」
男の子と二人きりだということを忘れてしまうぐらい、最初の部屋から夢中になっていて、楽しくなかったとはとても言えない。
「楽しめたならよかったよ。それより愁とは、何か進展はあったの?」
「進展……ううん、もう、それはいいんだよ」
聞かれるのはわかっていたのに、いざ期待に満ちた目で尋ねられると、心が沈んでしまう。私もできればいい報告がしたかったけど、残念ながらその期待に応えられない。
「何、どうしたの。何かよくないことあった?」
私の声のトーンも、自覚できるぐらい暗い。それを察してか、琴美も途端に心配そうな様子でそう言った。
私は水族館での話を、隠さずに話した。最初は楽しく回れたこと、朝日を見に行く約束をしたこと、自分が特別な存在なんじゃないかと思えたこと。それから、私がどうして事故に遭ったのかや、愁くんがどうして私に親切にしてくれたのかということ。だから……私の期待も、ただの勘違いだったということも。
その話を聞いた後、琴美もしばらく言葉を失っていた。
「そっか……そんなことがあったんだね。何か、ごめんね。雪穂の気持ち知らずに、どうだったなんて聞いちゃって。無神経だったね」
琴美はしゅんとしたように肩を落とす。
「気にしないで。私だって、途中までは舞い上がってたんだよ。そのまま終わってたら、たぶんさっきの琴美と同じテンションで報告してたと思う」
そこから急転直下で百八十度状況が変わってしまったのは、私がカフェで愁くんによけいなことを聞いてしまったのがきっかけだ。ただ、いつその話になるのかの違いで、いずれはわかることだったんだろうけど。
「まさか、事故にあのおばあさんと愁が関わってたなんてね……雪穂、大丈夫? 事故のこと、思い出しちゃったでしょ」
琴美がそっと私の背中をさすってくれた。
「大丈夫。びっくりしたけど、それで事故の時のこと新しく思い出したりはしなかったんだ。結局、事故の前後のことは覚えてないままで」
「それならよかったけど……ねぇ、愁とのこと、本当にそれでいいの?」
「え?」
「確かに、愁は雪穂への罪悪感で親切にしようとしてたのかもしれないけど……今も、これからもそうだとは限らないでしょ?」
琴美が諭すようにそう言ったけれど、私は少し考えて首を横に振った。
「きっと……今だってそうだよ。事故のこと、今まで言えなかったからずっと親切にしてくれただけで、ひょっとしたら……言えたことですっきりして、これからは今までどおりじゃなくなるかもしれないし」
昨日、愁くんとは普段通り、学校でじゃあねと言うのと同じように別れた。それだけ見れば、今までと何も変わらない付き合いができると思えるかもしれない。だけどひとりになってからどんどん不安になった。長い夏休みの間に、これからしばらく会わない間に、急速に縮まった距離が、今度は急速に離れてしまうんじゃないかって。
「愁は、そんな人じゃないよ。それに、事故の負い目があるからって、朝日を見に行こうなんて誘う? きっと愁の気持ちは、それだけじゃないと思うけど」
「わかんないけど、もういいんだよ。特別な存在かもしれないなんて勘違いして、はしゃいじゃって……これ以上、惨めになりたくないし」
好きな気持ちを持ち続けて、期待を持ち続けて、もし次に会った時に距離ができていたらと思うと、怖い。だったら、もうそんな気持ちは忘れてしまった方がいいような気がした。傷つくかもしれない気持ちなら、いっそのこと。
「雪穂……それって、ただ逃げてるだけだよ。目を背けちゃダメだよ。愁のこと好きなら、ちゃんと自分の気持ち伝えて、確かめたらいいじゃん。それにもし今がただの罪悪感だけだったとしても、これからまだ、特別になれるかもしれないでしょ?」
私の肩を強くつかんで、琴美が言った。まっすぐに、私の目を見つめて。
琴美の言うことだって、可能性がないわけじゃないことは理解できる。だけどそれを信じて、ずっと追いかけ続けることは私には難しい。もう少し、琴美みたいに誰かと付き合った経験でもあれば、違うのかもしれないけど。
私は肩をつかむ琴美の手を、弾くように振り払う。
「もういいって言ってるんだから、いいかげんにしてよ。琴美は私の気持ち、大事にしてほしいって言ってたけど……結局、楽しんでるだけじゃないの?」
責め立てるような口調で突き放すと、琴美の顔がショックで引きつるように固まるのがわかった。
「雪穂……何言ってんの? そんなわけないじゃん。私は雪穂のことを考えて――」
「だったら、私がいいって言ってるんだからもういいでしょ。もういろいろ考えるの疲れたもん。これ以上辛い気持ちに……なりたくないよ」
「雪穂……」
「もう、辛いのは嫌なんだよ……」
誰かを責めるなんて、こんな大きな声を出すなんて、慣れないことをするからすぐに力がなくなってしまう。自分で振り払ったくせに、力を失った私の身体は琴美に寄りかかるように、支えを求めていた。
「……ごめん、琴美。そんなつもりじゃなかった、こんなこと言うつもりじゃなかった。私、もう帰るね」
心底自分に嫌気がさした。これ以上、琴美に甘えちゃダメだ。自分の気持ちには、自分でちゃんとけじめをつけなきゃいけない。自分の辛さや苛立ちを、こんな形で琴美にぶつけるなんて、最低だ。
「待って、雪穂――」
琴美が私を引きとめようと名前を呼ぶ。その声を振り切って、足早に立ち去ろうとした時――ふと、身体が軽くなった気がした。
突然地面がなくなったような浮遊感。上下左右を見失って頼りない感覚が私の身体を襲い、次の瞬間には私はなすすべもなくその場に倒れてしまった。
「雪穂!」
何だろう、この感覚。痛みとか、苦しいとかじゃない。けど、突然身体の自由を奪われてしまったような気分。あまりにも自分自身で身体の制御ができなくて、首から下が急に切り離されてしまったんじゃないかと不安になる。
誰かが必死に私の名前を呼んでいる。でも、今の私にはその声に応えることができない。そしてそのまま視界が真っ白に染められ、私の意識が霧に覆われるように失われていくのがわかった。
「雪穂! 雪穂!」
ずっとその声は聞こえていた。私を呼ぶ声。必死に呼ぶ声。
どれくらいの時間かわからないけど、私は意識を失っていたみたい。その間ずっと霧に覆われていたような感覚だったけれど、途端にそれが晴れていくように、私の意識も回復した。何も見えなかった視界に、色彩で溢れた景色が浮かぶ。
そしてそんな私の顔を心配そうに覗き込む――見覚えのない、女の子がいた。
「雪穂、どうしたの? 大丈夫?」
今にも泣きそうな表情。私を抱きかかえるような格好で何度も私の名前を呼ぶ――私にはその状況が、まったく理解できなかった。
「……雪穂? ねぇ、どうしたの?」
私が戸惑ったままずっと彼女のことを見つめていると、彼女もまた何か異変を感じたのか、そう尋ねてくる。
私は素直に、自分の疑問をぶつけた。
「あの……誰、ですか」
「え……何、言ってるの? 雪穂――」
彼女の表情に、隠しきれないほどの動揺が浮かぶ。彼女が強い力で私の肩をつかみ、ゆさゆさと揺らした。
「琴美、琴美だよ! 雪穂、私のことわからないの? ねぇ、雪穂!」
「こと……み……」
彼女が名乗った名前を私自身の口で繰り返して――そして、私は絶望的な気分を覚えた。はっとして、目の前の彼女の顔をもう一度、目を見開いて確認する。琴美だ。どうして私、見覚えないなんて、思ったの?
「琴美? 私、今、何て……何で……私、まさか琴美のこと、忘れて……」
嘘だ、そんなの嘘。私が、忘れるわけない。琴美のこと、忘れるわけない。琴美は私の親友だ。ずっと一緒で、どんな時も私のことを考えてくれて、思ってくれる大事な親友。他の何を忘れたって、琴美のことだけは絶対忘れない――はずだったのに。
「雪穂……」
「嫌だ……嫌だよ……私、琴美のこと……ごめん、そんなわけない、そんなわけないよ。私が琴美のこと……」
「雪穂、落ち着いて。ねぇ、大丈夫。大丈夫だから」
パニックに陥った私を、震えが止まらない私を、琴美が強く抱きしめる。けれど身体の震えは収まるどころか一層強くなっていく。今はこの触れる身体の温もりが琴美のものだと、私の唯一の親友のものだと疑いようもないけれど、次の一瞬にはまた誰かわからなくなるかもしれない。見知らぬ誰かに羽交い絞めにされていると思い込んで、怯えてしまうかもしれない。そう考えると、一寸先も見えない闇の中にいるようで恐怖を感じずにはいられなかった。
――誰、ですか。
ついさっき、私が琴美に向けて投げかけた言葉を思い出し、背筋がぞくりと冷える。
「……いやっ!」
私は琴美の腕を振りほどいて、その場から逃げるように走り出した。怖かった、全部が、怖かった。私の信じていたものが、支えてくれていたものが、すべて幻のように消えてしまいそうな気がして。
「雪穂、待って!」
琴美の制止を振り切って走った。どこに、何て考えられなかったけど、ただ無我夢中で、この恐怖から逃れたかった。
どこをどう走ったのか、どれぐらい走ったのかまるでわからないけれど、突然肉体的な限界が訪れて、私はその場に四つん這いになる体勢で座り込んだ。肺が張り裂けそうなほどに痛む。身体全体で呼吸をしないと、心臓が止まってしまいそうだった。真夏の炎天下、身体のことなんて一切構わず走り続けたせいか、動きを止めた途端、内に閉じ込めていた熱が皮膚を突き破って溢れ出そうになっている。頬を伝った汗がぽたりと、地面に落ちた。
いじめ抜かれた身体は、震えを感じる余裕がなくなっている。ぐるぐると、視界が回っているように見えた。水分が足りないんだ。きっと脱水症状の、一歩手前。
でも、そんな状態なのに不思議と頭が冴えた。混乱が収まって、少しだけ私に起こっていることを考える余裕ができている。
いや、余裕があるというのは間違いだ。今の私に余裕なんてない。ただ、他のことを気にする余地がなくなって、逃れられない問題がその隙間に無理やり入り込んできた。それだけだ。
どうして――
「何で……私……」
考えたくない。認めたくない。だけど、目を背けられない。本当は昨日から、おかしいとわかっていた。
私の記憶に、何かが起きている。私の頭の中の人工脳に、何かが起きている。
ひょっとしたら、私は、もう――
「……雪穂!」
後ろから私を呼ぶ声が聞こえる。そのまますぐに、覆いかぶさるように琴美がやってきた。
「琴美……」
「大丈夫? ねぇ、何があったの、雪穂」
琴美がずっと私を追ってきていたことに驚いた。心配そうに、私の顔を覗きこんでくる。
「琴美、ごめんね……私、もう……」
ダメかもしれない。そう言おうとして、また怖くなった。
その時、また頭上で声がする。
「雪穂? 琴美?」
聞き覚えのある男の人の声。反射的にはっとして顔を上げると、愁くんがいた。そしてその側には、愁くんのおばあさんも。
そこでようやく、私は自分が今いる場所に気づいた。いつもおばあさんと出会う、駅前のロータリー。どうやら愁くんがおばあさんを連れて散歩に来ていたか、迎えに来ていたところに私はやってきたみたい。
「……雪穂?」
愁くんは心配そうに私の方へ駆け寄ってきた。それだけ私がただ事じゃない様子に見えたのだと思う。
「ダメ……ダメだよ……来ないで……」
私は顔を覆うようにして、また地面に突っ伏した。周りからどう思われるかなんてどうでもよかった。ただ、今は二人のことを見たくない。昨日のICカードのことだけじゃない。さっきみたいに、琴美のことや、愁くんのことを、また忘れてしまうのが怖かった。
すると、ふと、小さな手が私の頭の上に置かれた感覚があった。
「え……」
ちら、とおそるおそる視線を上げてみると、愁くんのでも、琴美のでもない細い足が、地面に正座をするような格好でそこにあった。小さな身体から伸びる手の、軽い感触。ゆっくりと髪の毛をなぞるように、前後に動く。
おばあさんが少し微笑んだような表情で、私の頭を何度もなでる。まるで、泣きじゃくる私をあやすように。ひょっとして私のことを、本当の孫だと思っているの? 私が転んで、痛くて泣いていると思っているの? 私がこんなに苦しんでいる理由なんて知るわけもないのに。
あまりの理不尽さに、怒りがこみ上げてきそうだった。そうだ、元はと言えば、このおばあさんを助けたのが原因だったんだ。私が事故に遭ったのも、ずっと意識が戻らなかったのも、私の頭の中が機械なんかに置き換えられているのも、私の記憶が消えてしまうことに、こんなに苦しんでいるのも。
私の目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。どうして私がこんな目に遭わなければならなかったんだろう。不公平にもほどがある。覚えてはいないけれど、私はただ、人助けをしようとしただけだったはずなのに。
唇を噛み締めて、言葉を飲み込んだ。吐き出したい言葉が今にも喉を突き破って飛び出しそうで、ひどく傷む。何も構わず吐き出せたら、少しは気が紛れるかもしれない。でも、それはおばあさんを傷つけてしまう言葉だ。おばあさんに理解はされないかもしれないけれど、きっと、ここにいる愁くんや琴美のことも悲しませてしまう。
すると、私の頭をなでる手と逆の手が私の目の前に差し出された。泣き止まず、唇をぎゅっと強く締めている私を見て心配になったのか、おばあさんの表情が不安そうに曇っている。そしてその差し出された手にはー―いつもみたいに、飴玉が乗せられていた。
「うあ……あぅ……」
ほんとに馬鹿みたいだ。どうして私は、こんなことしてしまったんだろう。それさえなければ、私はきっと今でもほんの小さな日常の悩みだけを抱える程度で、毎日何となく過ごせていたかもしれないのに。
でも、やっぱり私には言えなかった。
何度理不尽に怒りを感じても、苦しみに心が張り裂けそうになっても、私は後悔できない。この人が助かってよかった。私の前で死なないでいてくれてよかった。
私は、自分が間違っていなかったと、胸を張りたい。