美術館も一通り見回った私たちは、帰る前に休憩を挟もうと施設内のカフェに立ち寄った。広い館内をずっと歩き続けたり立ちっぱなしだったから、足がくたくただ。店内はお客さんですでにいっぱいだったから、パラソルの立てられたテラス席に座った。そこで海をイメージしたような、鮮やかで透明なブルーの色をしたクリームソーダを飲みながら、私はようやく息をついた。
「はぁ、生き返る」
しゅわしゅわとした刺激がのどを通り抜けると同時に、からん、と音を立ててグラスの中の氷が崩れていく。ぴりっとした痛みが逆に気持ちよくて、爽やかな香りが口の中いっぱいに広がった。
「けっこう広かったから、疲れたね」
私の飲み物とは対照的に、愁くんは大人っぽくブラックのアイスコーヒーを飲んでいる。
確かに水族館だけでもかなり大きい施設なのに、そこへさらに美術館なんて付け加えたから、ちょっとしたテーマパーク並みの広さになっていた。
「でも、楽しかった」
「また来たいね」
うん、と私はうなずく。どこをとっても、私にとっては何度見ても見飽きないぐらいの素敵な場所だった。特に、最初の巨大水槽は何度だって見たい。何なら帰る前にもう一度見たいし、さっきもう少し見ておけばよかったとすら思う。
とにかく、私もまた来たいと願っていた。
テラス席は、思ったよりも涼しい風が吹いてきて気持ちいい。すぐそばの日なたは夏の日差しで焼けるような暑さのはずなのに、何だかここは静かで、避暑地にいるみたいな気分だ。
溶けたアイスの混じり合った水面を眺めながら、私はあの朝日の写真の前での会話を思い出す。
私、大変な約束をしちゃったよね。
改めて、ドキドキと高鳴る心臓の鼓動を自覚した。
詳しい場所は決めていなくても、海まで行くとなるとけっこうな距離がある。少なくとも、電車移動は必須だ。そこで朝日を見ようとしたら、まだ空が明るくなる前の夜中の内に辿り着かないといけない。だとしたら……始発じゃ無理だ。前日の内に移動しなくちゃ。
どうやって親を説得しようかとか、琴美に言ったら何て言うかなとか、そんなことを考えていた。勇気を出してみたものの、首を縦に振った自分をほめてあげたい一方で、何でそんな思いきったことをしたのかとちょっとだけ後悔したりもする。ついこの間まで連絡先すら交換することを躊躇していた自分を思い出して、少し恥ずかしくなった。
変な風に思われていないかと、愁くんの方へ視線を向ける。愁くんは私の方を向いてはいなくて、どこか遠くの方を眺めていた。その横顔に浮かぶ表情は、何だか複雑な思いを抱えているように見える。
私は恥ずかしさも忘れて、その表情に見入ってしまった。どうして、そんな表情を浮かべているんだろう。その表情は、何を意味しているんだろう。
その時、ふいに愁くんが私の視線に気づき、はっとしたように笑みを浮かべた。さっきまでの表情を塗り隠すように、対照的な明るい笑顔を浮かべる。
何かが引っかかっていた。私はこんな愁くんを、どこかで見たことがある。
それはいったい、どこだったっけ。
少し考えて、ふと思い出した。この表情は、そうだ、あの時だ。私が教室を飛び出して、公園で愁くんが私を見つけてくれた時。私の人工脳の話を聞いて、愁くんが涙を流していた時。涙を流す愁くんは、今と似たような表情をしていた。
「あの……気になっていたこと、聞いてもいい?」
いつか、聞こうと思っていた。意を決して、聞くことにした。
「何?」
愁くんはその笑顔を崩すことなく、聞き返す。
「この間、私が教室を飛び出して……愁くんが私を探しに来てくれたことがあったでしょ?」
「うん」
「その時、私の人工脳の話を聞いて……愁くん、泣いてたよね。あれはどうして?」
私がそう言うと、ほんのわずかに、愁くんの表情が固まったような気がした。
「ひょっとして、私の境遇に同情したりとか? まぁ、無理もないけど」
そうじゃないといいな、と思いながら私はできるだけ軽い口調で言った。拒絶されないだけ、同情ならまだいい方かもしれないけど。でも、愁くんには同情という感情で処理されたくはなかった。たぶんそれは、私の個人的なわがままだと思う。
「そんなことないよ」
私の軽い口調に反して、愁くんは真剣な顔で否定する。
じゃあ、どうして? そう尋ねたくなる気持ちはぐっとこらえて、愁くんの言葉の続きを待つ。愁くんはしばらく何かを悩んでいるように、私と私以外のどこかへ交互に視線を動かしていた。
「僕も……ひとつ、聞いてもいい?」
やがて、愁くんが遠慮がちにそう尋ねる。
「うん、いいよ」
「この間、駅前でおばあさんといたでしょ? 琴美も一緒に」
「え?」
予想外の質問に、私は思わず呆気に取られる。おばあさん、というといつも飴をくれるあのおばあさんのこと以外に思いつかない。
「いたけど……あ、ひょっとして、見てたの?」
琴美と一緒におばあさんとあったのは終業式の日。そういえばあの時、誰かに見られていた気がしたのは、ひょっとしたら愁くんだったのかな。
「あの人とは、よく会うの?」
「よく……ってほどでもないけど。まだ数えるぐらいしか会ったことないし」
どうしてそんなことを聞くんだろうと怪訝に思いながらも、私は答えた。
「どんな話をするの?」
「話はしたことないよ。私から何か話しかけても、答えてくれないの。でも、隣に座ってるとね、なぜか最後にいつも飴をくれるの。不思議な人でしょ」
そう答えると、愁くんは何か引っかかっているのか、少しだけ首を傾げるような仕草をした。そして独り言をつぶやくように、愁くんが口を開く。
「じゃあ、思い出したわけじゃないんだ……」
その言葉を、さすがに私も聞き逃すことはできなかった。事故以来、私の脳が人工脳に変わって以来、常に気にしていた言葉だから。私が、思い出せていないことがある。私が、知らないままのことがある。それを示してくれる言葉。それは私にとっては良くない記憶なのかもしれないけれど、やっぱり、知らないままでいることは不安なんだ。
「……どういうこと?」
私も、思わず問いただすように深刻な口調になっていた。
「愁くん、私が忘れていること、何か知ってるの? あのおばあさんのこと、知ってるの? 私とおばあさん、どういう関係なの? ねぇ、知っているのなら、教えて」
私は身を乗り出し、まくしたてるように早口で尋ねる。
愁くんは少し考えてから、小さくため息をついた。
「いつか……ちゃんと話さなきゃとは思ってた」
姿勢を正して、愁くんがゆっくりと話し始める。
「雪穂が一緒にいたあの人は、僕の祖母だよ。雪穂と祖母がどんな関係だったかはわからない。ただ……」
そこまで言って、愁くんは言い淀んだ。そして、意を決したように私の方を見つめ返し、重い口を開いた。
「雪穂は、祖母をかばって事故に遭ったんだ」
「えっ……」
「祖母は、認知症でね、たまにふらっとひとりで出歩くことがある。僕はその度に、あの人を探しに行ってた。あの日も僕はあの人を探していて……駅の方に向かう途中、交差点で大きな音を聞いた。行ってみたらそこで……道路に座り込む祖母と、そばで血だらけになって倒れてる女の子を見つけた」
「……それが、私?」
言葉を失っていた私は、ようやくその言葉だけを絞り出すことができた。
愁くんが、重々しく一度だけうなずく。
「事故を起こした車もそこにいたけど、たぶん運転手は気を失ってたんだと思う。ちょうどその時は周りに誰もいなくて、僕はすぐに救急車を呼んだ。でも、祖母は気が動転した様子で……できれば救急車が来るまでその場にいたかったけど、祖母を落ち着かせなきゃと思って、そこを離れたんだ」
そうだったんだ、と妙に腑に落ちたような気持ちだった。私もとても平静を保っているとは言えない心境だったけれど、ただ、あの事故の状況を知ることができたのはよかった、とは思う。聞かされてもなお、どこか他人事のように感じてしまうけれど、愁くんの見たことが確かなら、私はあのおばあさんを助けることができたということだし。
「その時の女の子が、どうなったのかずっと気になってた。祖母はあんな状態だから、僕が代わりにお礼に行きたかったけど、運ばれた病院も、その……正直、助かったのかもわからなくて」
愁くんは私に気を使ってか、少し言いづらそうにしていた。私のその後がわからなかったのも無理ない。私はその事故の後、ずっと意識が戻らなかったし、学校にもその詳細は伝えていなかったみたいだから。
「ところが春になって、君を見つけた。ずっと気になってた……あの時の女の子を」
話が、私の知らないところの話から、覚えのある話へと移り変わる。私はどきりとした。不安にも似た感情が、私の心の中をよぎる。その話の先に、認めたくない気持ちがあることに直感で気づいてしまったからだ。
「隣のクラスにいたなんて、知らなかった。知り合いに聞いてみたら、ずっと入院してたっていうから間違いないと思った。お礼を言いたかったけど……でも、事故のことを下手に思い出させて、傷つけてしまったらって、不安にも思ってた。だから、何か力になれることはないかと探して……」
「あの時図書室で声をかけてくれたのは……そういうこと?」
私は愁くんの言葉の先を紡ぐように言った。そこで私たちは、出会ったんだ。勉強の遅れを取り戻そうと悩んでいた私と、勉強を教えようかと提案してきた、愁くんが。
「うん。僕にできることは、それぐらいしかないと思って」
「じゃあ、公園で泣いてたのは……」
「雪穂の脳が人工脳に変わってしまったって聞いて、ショックだったんだ。きっと、大変だったり、不安だったり、僕の遥か想像以上のものが雪穂の身に起こったんだと知って。それに、そもそもの原因は……やっぱり、祖母にあったから」
別に偶然や気まぐれじゃなかったんだ。愁くんはずっと私を見てくれていた。あの事故の―お礼と、謝罪のために。それからずっと、私に親切にしてくれていたのも。
「ずっと謝りたかった。あの日、あんな目に遭わせてしまってごめん。それと、祖母を助けてくれて……ありがとう」
愁くんが深々と、頭頂部が見えるくらい頭を下げて謝罪とお礼を言葉にする。
わかってる、わかってるよ。わかるんだよ。別に愁くんが悪いわけじゃない。おばあさんのことを恨んでるわけでもない。むしろ、ちゃんと助けることができて誇らしい。私はその時のことを、今さら後悔したりもしていない。
だけど、わかってしまって少し残念だよ。私はやっぱり特別だ。愁くんにとって、特別な存在だったんだ。ただしそれは私が初めて抱いたようなあの気持ちと同じじゃなくて、責任感や罪悪感の気持ちから生まれたものだったっていうこと。
それは愁くんの中ではもう変わらないのかもしれない。私の頭の中に、あの事故の痕跡とも言える人工脳がある限りは、愁くんもその罪悪感を思い出してしまうだろうから。
「……そんなこと、気にしないで。覚えてるわけじゃないけど、おばあさんも私も助かったんだし、今もこうして元気になれたし。それに愁くんのおかげで勉強だってだいぶ追いついて来れたよ。私こそ、ありがとう」
私は内心、落胆していたと思う。でも、精一杯自分の気持ちを抑えて、努めて明るい表情を取り繕った。感謝しているのは、本当だ。
そう言うと、愁くんは幾分ほっとしたように顔を上げた。今までずっと自分の中だけに抱えてきたものを、ようやく吐き出せて気持ちが軽くなったのかもしれない。だとしたら、それは私としても望ましいことだ。
「そろそろ帰ろっか。あ、おみやげも買っていかなきゃね」
溶けた氷で薄まったクリームソーダを飲み干し、私は言いながら立ち上がる。
沈み始めた夕日の色に、やけに虚しさを感じる。さっきまであんなに浮かれていた自分が馬鹿みたいで、少し泣きそうだった。
最後に琴美へのおみやげを買って水族館を出た私たちは、駅までの道のりをゆっくりと歩いていた。
なぜか会話がろくに浮かんでこなくて、外へ出てからずっと無言のままだ。たまに愁くんが何かを話しかけてくれるけど、曖昧に返事をするぐらいで、ちっとも内容が頭に入ってこなかった。
こんな態度、失礼だよね。楽しくなかったのかなって、心配させちゃうかな。そんなことないよ、すごく楽しかったんだ。それとも、嫌われてしまうかな。それは嫌だな、せっかくこうして一緒に遊べるくらい仲良くなれたのに。
私は、どんな風に会話をしてたっけ。そういえば私は男の子が苦手なんだった。それなのに――
いつのまにか、自然に話せるようになってた。
いつのまにか、お茶をしたり遊びに行くようになってた。
いつのまにか……恋もしていた。
最後のはどうやら叶いそうにないけど、態度に出しちゃダメだ。ちゃんとこれまでどおり、普通に接しなきゃ。
でも、その普通を思い出すのが難しい。今まで感じたことのないような痛みが心に刺さって、苦しい。みんな恋をしたら、こんな気持ちを味わうのかな。喜びも楽しさも、苦しさも悲しさも全部詰まっている。これも貴重な人生経験かもしれない。だけど、私がこの気持ちをよかったって思えるのはもう少し先だと思う。
結局私の方からは何も会話を切り出すことができないまま、駅についた。
券売機の前に立ってお金を取り出そうとした私は、ふと違和感を覚える。
えっと、どこまでの切符を買えばいいんだっけ。
しばらく悩んでいたけど、どういうわけか思い出せない。一駅先なのか、終点までなのか、路線図の駅名ひとつひとつをたどってみても、全然ピンとくる駅名がない。
それどころか、なぜかどの駅の名前にも覚えがなくて、まるで遠く離れた見知らぬ土地に来てしまったような感覚だった。
「雪穂、どうしたの?」
自動改札機の前で不思議そうに、愁くんが聞いてくる。私はどうにもこの感覚を払拭できなくて、白旗を上げる気持ちで愁くんに答えを求めた。
「ねぇ、どこまでの切符買えばいいんだっけ」
それを聞いて、愁くんは驚いたように目を丸くした。
「え、切符買うの? 雪穂、ICカード持ってなかった?」
「ICカード?」
聞き慣れない単語を聞いて、私は首を傾げ―はっとした。慌ててバッグの中に手を突っ込んでICカードを取り出す。
「何だ、持ってるじゃない。どうかした? 早くしないと電車来ちゃうよ」
愁くんがホームを指さして急かすように言った。
何だったんだろう、今の感覚。
うっかりとか、勘違いとか、そういうのとは全然違う。切符なんてもう何年も買っていないのに、今日だって来る時はちゃんとカードを使ったのに、どうして今の瞬間、このカードの存在すらなかったかのように振る舞ってしまったんだろう。
何か突然すっぽりと抜け落ちてしまったような、今までに感じたことのない現象に戸惑っている。
混乱した頭のまま、私は足を走らせてホームに停車した電車に滑り込んだ。
「はぁ、生き返る」
しゅわしゅわとした刺激がのどを通り抜けると同時に、からん、と音を立ててグラスの中の氷が崩れていく。ぴりっとした痛みが逆に気持ちよくて、爽やかな香りが口の中いっぱいに広がった。
「けっこう広かったから、疲れたね」
私の飲み物とは対照的に、愁くんは大人っぽくブラックのアイスコーヒーを飲んでいる。
確かに水族館だけでもかなり大きい施設なのに、そこへさらに美術館なんて付け加えたから、ちょっとしたテーマパーク並みの広さになっていた。
「でも、楽しかった」
「また来たいね」
うん、と私はうなずく。どこをとっても、私にとっては何度見ても見飽きないぐらいの素敵な場所だった。特に、最初の巨大水槽は何度だって見たい。何なら帰る前にもう一度見たいし、さっきもう少し見ておけばよかったとすら思う。
とにかく、私もまた来たいと願っていた。
テラス席は、思ったよりも涼しい風が吹いてきて気持ちいい。すぐそばの日なたは夏の日差しで焼けるような暑さのはずなのに、何だかここは静かで、避暑地にいるみたいな気分だ。
溶けたアイスの混じり合った水面を眺めながら、私はあの朝日の写真の前での会話を思い出す。
私、大変な約束をしちゃったよね。
改めて、ドキドキと高鳴る心臓の鼓動を自覚した。
詳しい場所は決めていなくても、海まで行くとなるとけっこうな距離がある。少なくとも、電車移動は必須だ。そこで朝日を見ようとしたら、まだ空が明るくなる前の夜中の内に辿り着かないといけない。だとしたら……始発じゃ無理だ。前日の内に移動しなくちゃ。
どうやって親を説得しようかとか、琴美に言ったら何て言うかなとか、そんなことを考えていた。勇気を出してみたものの、首を縦に振った自分をほめてあげたい一方で、何でそんな思いきったことをしたのかとちょっとだけ後悔したりもする。ついこの間まで連絡先すら交換することを躊躇していた自分を思い出して、少し恥ずかしくなった。
変な風に思われていないかと、愁くんの方へ視線を向ける。愁くんは私の方を向いてはいなくて、どこか遠くの方を眺めていた。その横顔に浮かぶ表情は、何だか複雑な思いを抱えているように見える。
私は恥ずかしさも忘れて、その表情に見入ってしまった。どうして、そんな表情を浮かべているんだろう。その表情は、何を意味しているんだろう。
その時、ふいに愁くんが私の視線に気づき、はっとしたように笑みを浮かべた。さっきまでの表情を塗り隠すように、対照的な明るい笑顔を浮かべる。
何かが引っかかっていた。私はこんな愁くんを、どこかで見たことがある。
それはいったい、どこだったっけ。
少し考えて、ふと思い出した。この表情は、そうだ、あの時だ。私が教室を飛び出して、公園で愁くんが私を見つけてくれた時。私の人工脳の話を聞いて、愁くんが涙を流していた時。涙を流す愁くんは、今と似たような表情をしていた。
「あの……気になっていたこと、聞いてもいい?」
いつか、聞こうと思っていた。意を決して、聞くことにした。
「何?」
愁くんはその笑顔を崩すことなく、聞き返す。
「この間、私が教室を飛び出して……愁くんが私を探しに来てくれたことがあったでしょ?」
「うん」
「その時、私の人工脳の話を聞いて……愁くん、泣いてたよね。あれはどうして?」
私がそう言うと、ほんのわずかに、愁くんの表情が固まったような気がした。
「ひょっとして、私の境遇に同情したりとか? まぁ、無理もないけど」
そうじゃないといいな、と思いながら私はできるだけ軽い口調で言った。拒絶されないだけ、同情ならまだいい方かもしれないけど。でも、愁くんには同情という感情で処理されたくはなかった。たぶんそれは、私の個人的なわがままだと思う。
「そんなことないよ」
私の軽い口調に反して、愁くんは真剣な顔で否定する。
じゃあ、どうして? そう尋ねたくなる気持ちはぐっとこらえて、愁くんの言葉の続きを待つ。愁くんはしばらく何かを悩んでいるように、私と私以外のどこかへ交互に視線を動かしていた。
「僕も……ひとつ、聞いてもいい?」
やがて、愁くんが遠慮がちにそう尋ねる。
「うん、いいよ」
「この間、駅前でおばあさんといたでしょ? 琴美も一緒に」
「え?」
予想外の質問に、私は思わず呆気に取られる。おばあさん、というといつも飴をくれるあのおばあさんのこと以外に思いつかない。
「いたけど……あ、ひょっとして、見てたの?」
琴美と一緒におばあさんとあったのは終業式の日。そういえばあの時、誰かに見られていた気がしたのは、ひょっとしたら愁くんだったのかな。
「あの人とは、よく会うの?」
「よく……ってほどでもないけど。まだ数えるぐらいしか会ったことないし」
どうしてそんなことを聞くんだろうと怪訝に思いながらも、私は答えた。
「どんな話をするの?」
「話はしたことないよ。私から何か話しかけても、答えてくれないの。でも、隣に座ってるとね、なぜか最後にいつも飴をくれるの。不思議な人でしょ」
そう答えると、愁くんは何か引っかかっているのか、少しだけ首を傾げるような仕草をした。そして独り言をつぶやくように、愁くんが口を開く。
「じゃあ、思い出したわけじゃないんだ……」
その言葉を、さすがに私も聞き逃すことはできなかった。事故以来、私の脳が人工脳に変わって以来、常に気にしていた言葉だから。私が、思い出せていないことがある。私が、知らないままのことがある。それを示してくれる言葉。それは私にとっては良くない記憶なのかもしれないけれど、やっぱり、知らないままでいることは不安なんだ。
「……どういうこと?」
私も、思わず問いただすように深刻な口調になっていた。
「愁くん、私が忘れていること、何か知ってるの? あのおばあさんのこと、知ってるの? 私とおばあさん、どういう関係なの? ねぇ、知っているのなら、教えて」
私は身を乗り出し、まくしたてるように早口で尋ねる。
愁くんは少し考えてから、小さくため息をついた。
「いつか……ちゃんと話さなきゃとは思ってた」
姿勢を正して、愁くんがゆっくりと話し始める。
「雪穂が一緒にいたあの人は、僕の祖母だよ。雪穂と祖母がどんな関係だったかはわからない。ただ……」
そこまで言って、愁くんは言い淀んだ。そして、意を決したように私の方を見つめ返し、重い口を開いた。
「雪穂は、祖母をかばって事故に遭ったんだ」
「えっ……」
「祖母は、認知症でね、たまにふらっとひとりで出歩くことがある。僕はその度に、あの人を探しに行ってた。あの日も僕はあの人を探していて……駅の方に向かう途中、交差点で大きな音を聞いた。行ってみたらそこで……道路に座り込む祖母と、そばで血だらけになって倒れてる女の子を見つけた」
「……それが、私?」
言葉を失っていた私は、ようやくその言葉だけを絞り出すことができた。
愁くんが、重々しく一度だけうなずく。
「事故を起こした車もそこにいたけど、たぶん運転手は気を失ってたんだと思う。ちょうどその時は周りに誰もいなくて、僕はすぐに救急車を呼んだ。でも、祖母は気が動転した様子で……できれば救急車が来るまでその場にいたかったけど、祖母を落ち着かせなきゃと思って、そこを離れたんだ」
そうだったんだ、と妙に腑に落ちたような気持ちだった。私もとても平静を保っているとは言えない心境だったけれど、ただ、あの事故の状況を知ることができたのはよかった、とは思う。聞かされてもなお、どこか他人事のように感じてしまうけれど、愁くんの見たことが確かなら、私はあのおばあさんを助けることができたということだし。
「その時の女の子が、どうなったのかずっと気になってた。祖母はあんな状態だから、僕が代わりにお礼に行きたかったけど、運ばれた病院も、その……正直、助かったのかもわからなくて」
愁くんは私に気を使ってか、少し言いづらそうにしていた。私のその後がわからなかったのも無理ない。私はその事故の後、ずっと意識が戻らなかったし、学校にもその詳細は伝えていなかったみたいだから。
「ところが春になって、君を見つけた。ずっと気になってた……あの時の女の子を」
話が、私の知らないところの話から、覚えのある話へと移り変わる。私はどきりとした。不安にも似た感情が、私の心の中をよぎる。その話の先に、認めたくない気持ちがあることに直感で気づいてしまったからだ。
「隣のクラスにいたなんて、知らなかった。知り合いに聞いてみたら、ずっと入院してたっていうから間違いないと思った。お礼を言いたかったけど……でも、事故のことを下手に思い出させて、傷つけてしまったらって、不安にも思ってた。だから、何か力になれることはないかと探して……」
「あの時図書室で声をかけてくれたのは……そういうこと?」
私は愁くんの言葉の先を紡ぐように言った。そこで私たちは、出会ったんだ。勉強の遅れを取り戻そうと悩んでいた私と、勉強を教えようかと提案してきた、愁くんが。
「うん。僕にできることは、それぐらいしかないと思って」
「じゃあ、公園で泣いてたのは……」
「雪穂の脳が人工脳に変わってしまったって聞いて、ショックだったんだ。きっと、大変だったり、不安だったり、僕の遥か想像以上のものが雪穂の身に起こったんだと知って。それに、そもそもの原因は……やっぱり、祖母にあったから」
別に偶然や気まぐれじゃなかったんだ。愁くんはずっと私を見てくれていた。あの事故の―お礼と、謝罪のために。それからずっと、私に親切にしてくれていたのも。
「ずっと謝りたかった。あの日、あんな目に遭わせてしまってごめん。それと、祖母を助けてくれて……ありがとう」
愁くんが深々と、頭頂部が見えるくらい頭を下げて謝罪とお礼を言葉にする。
わかってる、わかってるよ。わかるんだよ。別に愁くんが悪いわけじゃない。おばあさんのことを恨んでるわけでもない。むしろ、ちゃんと助けることができて誇らしい。私はその時のことを、今さら後悔したりもしていない。
だけど、わかってしまって少し残念だよ。私はやっぱり特別だ。愁くんにとって、特別な存在だったんだ。ただしそれは私が初めて抱いたようなあの気持ちと同じじゃなくて、責任感や罪悪感の気持ちから生まれたものだったっていうこと。
それは愁くんの中ではもう変わらないのかもしれない。私の頭の中に、あの事故の痕跡とも言える人工脳がある限りは、愁くんもその罪悪感を思い出してしまうだろうから。
「……そんなこと、気にしないで。覚えてるわけじゃないけど、おばあさんも私も助かったんだし、今もこうして元気になれたし。それに愁くんのおかげで勉強だってだいぶ追いついて来れたよ。私こそ、ありがとう」
私は内心、落胆していたと思う。でも、精一杯自分の気持ちを抑えて、努めて明るい表情を取り繕った。感謝しているのは、本当だ。
そう言うと、愁くんは幾分ほっとしたように顔を上げた。今までずっと自分の中だけに抱えてきたものを、ようやく吐き出せて気持ちが軽くなったのかもしれない。だとしたら、それは私としても望ましいことだ。
「そろそろ帰ろっか。あ、おみやげも買っていかなきゃね」
溶けた氷で薄まったクリームソーダを飲み干し、私は言いながら立ち上がる。
沈み始めた夕日の色に、やけに虚しさを感じる。さっきまであんなに浮かれていた自分が馬鹿みたいで、少し泣きそうだった。
最後に琴美へのおみやげを買って水族館を出た私たちは、駅までの道のりをゆっくりと歩いていた。
なぜか会話がろくに浮かんでこなくて、外へ出てからずっと無言のままだ。たまに愁くんが何かを話しかけてくれるけど、曖昧に返事をするぐらいで、ちっとも内容が頭に入ってこなかった。
こんな態度、失礼だよね。楽しくなかったのかなって、心配させちゃうかな。そんなことないよ、すごく楽しかったんだ。それとも、嫌われてしまうかな。それは嫌だな、せっかくこうして一緒に遊べるくらい仲良くなれたのに。
私は、どんな風に会話をしてたっけ。そういえば私は男の子が苦手なんだった。それなのに――
いつのまにか、自然に話せるようになってた。
いつのまにか、お茶をしたり遊びに行くようになってた。
いつのまにか……恋もしていた。
最後のはどうやら叶いそうにないけど、態度に出しちゃダメだ。ちゃんとこれまでどおり、普通に接しなきゃ。
でも、その普通を思い出すのが難しい。今まで感じたことのないような痛みが心に刺さって、苦しい。みんな恋をしたら、こんな気持ちを味わうのかな。喜びも楽しさも、苦しさも悲しさも全部詰まっている。これも貴重な人生経験かもしれない。だけど、私がこの気持ちをよかったって思えるのはもう少し先だと思う。
結局私の方からは何も会話を切り出すことができないまま、駅についた。
券売機の前に立ってお金を取り出そうとした私は、ふと違和感を覚える。
えっと、どこまでの切符を買えばいいんだっけ。
しばらく悩んでいたけど、どういうわけか思い出せない。一駅先なのか、終点までなのか、路線図の駅名ひとつひとつをたどってみても、全然ピンとくる駅名がない。
それどころか、なぜかどの駅の名前にも覚えがなくて、まるで遠く離れた見知らぬ土地に来てしまったような感覚だった。
「雪穂、どうしたの?」
自動改札機の前で不思議そうに、愁くんが聞いてくる。私はどうにもこの感覚を払拭できなくて、白旗を上げる気持ちで愁くんに答えを求めた。
「ねぇ、どこまでの切符買えばいいんだっけ」
それを聞いて、愁くんは驚いたように目を丸くした。
「え、切符買うの? 雪穂、ICカード持ってなかった?」
「ICカード?」
聞き慣れない単語を聞いて、私は首を傾げ―はっとした。慌ててバッグの中に手を突っ込んでICカードを取り出す。
「何だ、持ってるじゃない。どうかした? 早くしないと電車来ちゃうよ」
愁くんがホームを指さして急かすように言った。
何だったんだろう、今の感覚。
うっかりとか、勘違いとか、そういうのとは全然違う。切符なんてもう何年も買っていないのに、今日だって来る時はちゃんとカードを使ったのに、どうして今の瞬間、このカードの存在すらなかったかのように振る舞ってしまったんだろう。
何か突然すっぽりと抜け落ちてしまったような、今までに感じたことのない現象に戸惑っている。
混乱した頭のまま、私は足を走らせてホームに停車した電車に滑り込んだ。