暫く結衣子と二人で慧の目覚めるのを待っていたが、彼はなかなか目を開けない。さすがに少し疲れてきた裕二は、一息入れようと病室を出て待合室へ向かった。
すっかり暗くなり、病院はもう閉まっている。今、院内にいるのは医者と看護婦、それに入院患者と自分らだけだ。灯りの落された薄暗い待合室で、自動販売機だけが異様に明るく見える。
裕二はポケットから小銭を取り出して幾枚かを放り込み、カフェオレのボタンを押した。カタンと小さな音がして、紙コップが落ちて来る。その中にコポコポと音を立てながらカフェオレが落ちていくのを、見るともなしに見つめ、飛び立ったときの慧の顔を思い浮かべた。
なんとも言えない顔をしていた。レミングの鼠、ふとそんな話を思い出す。
種として増え過ぎ、生きることに限界が来た鼠たちが、一斉に海を目指し走る。まるでそこが行くべき場所だと信じるかのように、それが正しい行動だとの信念を持っているかのように、我先に海へと飛び込んで行くというやつだ。
それはたとえ話、寓話であり、実際はそんな話はない。たまたま鼠が水に落ちるのを見た誰かが、そんな話にでっち上げただけだ。だがあのとき、散歩に行ってくると言って足を踏み出した慧の横顔は、まさしくその鼠に見えた。それは本能とでも言ったらいいのだろうか、あの空が、慧にとって、全てを取り戻せる約束の地に見えたのかもしれない。
慧がなにを取り戻したかったのか、なにを求めたのか、それはわからない。だいたいこれは自分の想像でしかない。物書きとしての性で、有りもしない話を思い描き、勝手に彼に押し付けているだけかもしれない。しかしその想像は、消すことが出来ない妄想になり、裕二の中に棲み付いた。
考えことをしている間にカフェオレは紙コップに満たされていた。身を屈めてカップを取り出すと、少し時間が経ちすぎたらしい、すっかり冷めている。冷めたカフェオレはそれでもまだなんとか温もりを残していて、口をつけると喉の奥に流し込まれる温かみで、どこかホッとする。だがそのとき、病室のある棟のほうから、高い靴音が響き、その音の後を結衣子が追って来ているのが見えた。
「待って慧、だめよ、まだお医者さまは退院していいって言ってないわ、ねえ慧!」
靴音も高く歩いて来たのは、驚いたことに慧だった。さっき、ほんの数時間前に四階から落ちたというのに、何事もなさそうな顔で歩いている。
何かを睨みつけるような目で、早足に歩く慧を結衣子は必死で追っていた。当然だ、まだ検査だって全部すんではいないだろう。退院だなんてそれこそ自殺行為だ。だが慧は、縋る結衣子に振り向きもしなかった。
カツカツと高い音を立てる靴は、エナメル製で赤い。屋上で見たときは気付かなかったが、穿いているズボンは焦げ茶色した革製のようだ。白いシャツには点々と赤い染みがあり、それが模様なのか、本当になにかの染みなのかわからない。赤茶けた革のジャケットを羽織り、首には細い金鎖のネックレス。そして印象的な赤いピアスを嵌めている。似合うと言えば似合うのだが、なんとなく、アンバランスに見えた。それは綺麗に整った顔立ちに合わない、殺気だった雰囲気のせいかもしれない。
振り返ることなく、真っ直ぐ前を見て歩いて来る慧は、まだ十八だというのに、戦国時代の武将のように、鋭く、そしてどこか儚さを感じさせる目をしていた。
「ちょっとキミ、どこへ行く気なんだ、まだ休んでなきゃ……」
慧を止めようと裕二が声をかける。だが彼はジロリと刺すような視線を向けただけで、そのまま立ち去って行こうとした。それは血も涙もないヒトデナシといった風情で、とてもあのとき、学校の屋上で声をかけてきた少年と同じ人間には見えない。
あのときの慧は、少し風変わりではあるが、人好きのする普通の少年に見えた。
少しだけ変わってるなんてこと、誰にだってある。誰だってどこか人と違うモノだ。
普通に学校へ行き、友人とはしゃいで、彼女とデートもして、少しくらい気に入らないことがあったとしても、笑い飛ばすことが出来る。そんなごく当たり前の人間に見えた。
だが今、結衣子を振り切り、通り過ぎていく彼は、友人も仲間も恋人もない、必要としない、凍った血を持つ男に見える。住む世界が違うとはこのことだ。自分はこの少年を理解出来ないし、彼もこちらを理解出来ないだろう。瞬時にそう思った。
しかしこのまま帰るなど、どう考えても無茶だ。裕二は出て行こうとする慧の前に立ち塞がる。
「待って! 休んでなきゃだめだって」
「退け、邪魔だ」
慧は、立ち塞がる裕二を突き飛ばし、出口を目指す。それでも行かせられないと再び立ち塞がると、慧はようやく立ち止まった。
「お前……」
慧は少し違和感のある表情で裕二を見つめ、やがて思い出したようにニヤリと笑った。
「そうか、お前、さっきの……」
「その人は慧を心配してずっとついててくれたのよ」
「ふん、自分の命は勝手に捨てるくせに、人のことは心配するのか」
追いかけて来た結衣子が息を切らせながら説明すると、慧は皮肉めかした笑みを浮かべて、首を傾げた。後ろの結衣子と、前にいる裕二を交互に見て笑うその表情は、その日、屋上で見た少年の顔だ。
阿修羅の如く見えた慧だが、笑うととても可愛い。まだまだ子供といった風情で、裕二はそのギャップに目を丸くした。戸惑う裕二に、慧は少し子供っぽくなった表情で問いかける。
「お前、名前は?」
「あ、佐々木です、佐々木裕二《ささきゆうじ》」
相手は自分より確実に年下だとわかっていたが、口から出たのは敬語だった。
なぜだろう? 慧には気安く口を利いてはいけないような雰囲気がある。王者の風格とでも言えばいいのか、実年齢はともかくとして、たかが原稿を燃やされたくらいで死にたくなるような軟弱な自分なんかよりずっと強く、気高く見えた。
「いくつだ?」
「二十二です」
「二十二か、俺よか四つ上だな」
慧はそう呟くと、さっきよりずっと柔らかくなった表情で、またスタスタと出口を目指す。
「心配なら付いて来い」
振り向きもせずそう付け足した慧を、結衣子と二人で急いで追いかける。病院の玄関を出ると、目の前にはアイボリーのベンツが停まっていた。ベンツの横には、いかにもといった風情の、三十代と思われる男が控えている。男は、慧が出てくると腰を低くして礼をとった。
「お疲れさまです、どうぞ」
低い声でそう促す男に、慧は目線だけで会釈し、どうぞと開けられたベンツへ乗り込んだ。そして、男がドアを閉める前に顔を覗かせ、裕二らを見つめる。
「結衣子、お前も乗れ」
指図を受けた結衣子は黙ってベンツに近づいて行く、だが慧は、さらにもう一言付け足した。
「裕二、お前もだ」
「え? 僕……?」
「そうだ、どうせ死ぬつもりだったんだろ? 俺のお陰で命拾いしたようなもんじゃないか、ならその命は俺のもんだ、いいから乗れ」
「……はい」
慧の押しに負ける形で、裕二はあきらかに胡散臭いとわかるベンツに乗った。
後部座席に慧、結衣子、裕二の順で座ると、ベンツは音もなく走り出す。ネオンも消えた真夜中の町は暗く、一寸先も覗けぬ風情だ。ヘッドライトの灯りだけを頼りに進むベンツの中で、裕二は埒もなく、慧の横顔を見つめていた。
三人を乗せたベンツは、その街の外れにある、さほど大きくない、四階建ての古びたビルに横付けされた。廃ビルを勝手に使っているのか、それとも慧の持ち物なのか、どうやらそこが彼の棲家らしい。
中に入るとロビーは閑散としていて、飾り気が何もない。エレベータは故障したままのようで、開口部には剥がれかけたクラフトテープがバツ印型に貼り付けてある。慧はエレベータの前を通り過ぎ、階段を上っていく。さきほど迎えに来ていた男がすぐ後に続いた。
慧が歳相応に華奢なので、後ろの男がひどく大柄に見える。性質の悪いヤクザと、攫われて来た被害少年といった風情だ。
しかし、四階まで上り詰めた慧は、裕二のそんな妄想をぶち壊すように、正面入り口のドアを足で蹴って開けた。
そのドアはたぶん、いつもそうして開けられるのだろう、元々白かったのだろう合板は泥で汚れ、所々へこんで塗装が剥げていた。
「おかえりなさいまし」
慧が部屋に入ると同時に、室内のあちこちから声がかかる。迎えに来た男はいかにも、といった大柄なヤクザ風の男だったが、部屋の中で慧を待っていたのは、どう見ても十代、いっても三十代半ばあたりと思われる若い男ばかりだった。部屋へ入るなり、あからさまにムッとした顔をした慧は、酷く不機嫌そうに、部屋の一番奥にある大きな椅子へ腰掛ける。
「澤田《さわだ》! 曽我部《そがべ》は見つけたのか?」
「いえ、すいません、それがまだ」
澤田がまだだと答えると、慧は眉尻を動かし、不愉快そうな表情で立ち上がった。慧が立ち上がった途端、澤田はビクリと震える。回りにいる男たちがそれ以上動くなという視線で澤田を睨み、無言の圧力の中、動けなくなった澤田に、慧の蹴りが入った。
蹴りは腹の真ん中へ入り、澤田は大きく体制を崩したが、倒れなかった。それが気に食わなかったのか、慧はムッとした表情になり、続けざまに蹴りつける。
何度目かの蹴りで床に倒れこんだ澤田を、慧はさらに蹴りつけた。何度蹴られても殴られても、澤田は呻き声をあげるだけで、言い訳一つもせず、やめてくれとも言わない。
蹲ったまま、逃げることをしない澤田の顔面から血が流れ出し、そのまま彼が蹴り殺されるのではないかと思えて怖くなった。だが血塗れの澤田が気を失う寸前、後ろに控えていた体格のいい男がそれをとめる。
「藤宮《ふじみや》、もうそこらにしとけよ」
「……石田《いしだ》」
石田と呼ばれた男は慧の肩を掴み、わざわざ身を屈めて話した。その仕草は癇癪を起こす子供を宥めようとする父親のようだ。
「澤田も反省してんさ、な?」
だがおそらく、その言い方が気に障ったのだろう、慧は振り向きざま、石田に膝蹴りを入れ、よろめいたところをさらに殴りつける。鈍い音がして石田も膝を折った。
「俺に指図するな!」
蹲る石田に、慧は小さく吐き捨てた。だが石田もそこで引っ込まない。殴られた頬を手の甲で拭いながら立ち上がり、再び慧に迫る。
「藤宮!」
「なんだ? 死にたいのか、猪野郎」
石田の態度はなんとなく、目上の者が目下の者を諭そうとしているようで、少し高圧的だ。だが慧のほうも引っ込まない。石田の胸座を掴み、血走った目で怒鳴り返す。
ひたいをこすり付けるように睨み合った二人は、それから暫く動かなくなった。お互いの出方を見るように、腹を探り合うように、ただ握った拳に力を込める。
見ている裕二のほうが緊張する。たぶん他の者も同じ思いなのだろう、部屋にいる誰一人、口を挟もうとはしなかった。
殴り合うのか、殺し合うのか……そう見えた緊張は、だが緩やかに解けた。慧が拳を離し、視線を下げたのだ。
「離せ」
「はいよ」
憑き物が落ちたように小さな声で離せと呟く慧を見て、石田もほっとしたようにその手を離した。慧は決まり悪そうに視線を逸らし、大きな椅子の上にドッカリと腰を下ろす。
肘掛に腕を預け、落ちかかる前髪越しに澤田を睨んだ慧は、冷静になれと自分に言い聞かせるように声を抑えて話した。
「澤田」
「はい……」
「もう一度チャンスをやる、曽我部を探し出せ」
「はい」
先ほどからすれば、ずいぶん穏やかになった慧の表情を見て、澤田もホッとした表情で答える。その場にいた一同も同じように感じたのかもしれない、あたりを覆う空気は、少しだけ軽くなった。
「待って慧、探し出してどうする気?」
だが、裕二の横にいた結衣子の言葉が、再び場を凍らせる。慧は不愉快そうに眉を寄せ、指先を齧りながら、ジロリと結衣子を見た。
触ってはいけない部分に触った。そんな感じで、その場にいた男たちがざわめく。慧はその空気を敏感に感じ取り、さらに不愉快そうな顔で立ち上がった。
両手を革のズボンのポケットに突っ込んで歩く姿は、最初に屋上で見た少年のイメージとはかけ離れ、ひどく殺伐としている。
「さあ……どうするかな? どうするのが一番堪えると思う?」
結衣子の目前で身を屈め、顔を覗き込みながら訊ねる慧の目は、赤く光っていた。
「あいつがなにをしたか、わかってんだろ? そのせいで俺たちがどれだけ困ってると思う? 八つ裂きくらいじゃ済ませられない、そうだろ?」
慧の瞳は鈍く光り、白くあるべき部分は赤く染まって見える。まるで血の涙を流しているようだ。一見強い立場にいるように見える慧が、なぜだかその部屋の中で一番弱い人間に思えた。
「辰寛《たつひろ》がそんなことするわけないわ、何かの間違いよ」
慧の立場が弱いと、わかっているかのように、結衣子は強い口調で言い返した。それはもしかしたら図星なのかもしれない。慧は哀しげに眉を顰める。
だが口から出た言葉は、哀しげな表情とは裏腹に冷たい。
「あそこには俺と曽我部としかいなかった、曽我部がやったんじゃないなら、やったのは俺ってことになるな?」
嘯く慧に、結衣子は答えない。それを見てイラついたのか、慧はさらに凶暴になった瞳で結衣子を睨んだ。
「まさか俺がやったとでも? お前は俺が嘘をついてると言いたいのか?」
「そうは言ってないわ」
「言ったと同じだろ!」
慧は笑っていた。それは皮肉に塗れ、卑屈になった哀しい顔だ。結衣子よりも背が高い慧が、とても小さく哀れに見えた。
だが次の瞬間、瞳を赤く光らせた慧は、思い切り振り上げた右手で結衣子の頬を打った。バシンと物凄い音がして、結衣子は床の上に薙ぎ倒される。
打ったのは平手だし、多少は加減もしているのだろうが、打たれた結衣子の頬は赤く腫れ、唇の端が切れていた。
裕二の認識では、女性は護られて当然であり、女性を殴って平気でいる男なんて男じゃない。
もちろん人間なら、つい手が出ることもあるだろう。しかしそれでも、何かしらの罪悪感は持つはずだ。謝罪は当然だと思っていた。
だが慧に、彼女に謝ろうという意思は見えない。それどころか、震える結衣子を無理矢理立ち上がらせ、今度は反対の頬を打った。腕を掴まれているので、今度は結衣子も倒れられない。殴られ、腫れぼったくなった目で慧を見ていた。
哀れな結衣子を、慧は厳しい表情で見つめ返す。傷付けられたのは自分のほうで、悪いのは結衣子だと言っているようだ。
「まあ気持ちはわかるさ、元彼が犯罪者じゃやりきれないよな? けど今の男にも優しくして欲しいね、お前は俺の女だ、そうだろ? 結衣子」
「そうよ」
慧の問いに、結衣子は間髪いれずにそう答えた。それはいっそ悲壮とでもいう感じで、そう答えなければ命がなくなるスフィンクスとの禅問答のようだ。
お前は俺の女だ。
そうよ。
それは出来上がった方程式であり、そう答えなければならない。
しかし方程式に感情はない。慧はその言葉の片隅にある、別の意思を読み取り、クッと笑った。そしてスイと身を屈め、結衣子の顎をとって口づけをする。それは恋人同士の接吻というよりは、なにかの懲罰のように見えた。
口づけの瞬間、ほんの一瞬だけ逃げる素振りを見せた結衣子は、しかし逆らわなかった。さほど長くもない、どちらかというと儀礼的にさえ見えた口づけは、あっさりと終わり、慧は結衣子を投げ捨てるように離す。突き放された結衣子は、血の滲んだ唇を震わせながら俯いた。慧は苛々した目でそれを睨んでいる。
まさかまだ殴る気か? ドキリとして慧の手の先を見つめる……と、慧の手には焦げ茶色のハンカチが握られていた。慧はどこか責めるような表情で、それを差し出す。
「拭け、血だらけの女なんか誰も抱きたがらないぜ」
「はい……」
彼女に怪我をさせたのは他でもない慧なのに、まるで悪いのは結衣子のほうだと言わんばかりの態度には、裕二も呆れた。だが彼女はそれを当然と受け止め、ハンカチを受け取る。
渡されたハンカチで丁寧に血を拭い、服の埃を叩いて立ち上がる姿は凛々しく、彼女がただ護られたり虐げられたりするだけの、か弱い女性ではないというのがわかる。
静かな瞳で慧を見つめ、彼女は焦げ茶色のハンカチを返した。まるで命のバトンのように、真剣な表情で結衣子を睨んだ慧がそれを受け取る。
見詰め合う二人に、恋し合う男女といった風情はまるでない。
ではこの関係はなんだろう?
慧の右手が彼女の肩に触れる。彼女は微動だにしない。
慧の左手が彼女を抱きしめる。やはり彼女は動かない。
慧の思いは伝わらないのか? そもそも慧は、彼女が好きなのか?
その答えが見えて来ない。
だが答えが出なくとも、結果は見える。
ヒステリックな子供のように、少し甘えた声で、慧が結衣子の名を呼ぶ。彼女が返事をするまで、何度でも、泣きそうな声で呼ぶ。そして何度目かの呼びかけに、結衣子は答え、白く綺麗な手を、慧の背中へ回した。
「……慧」
「結衣子」
「けい……」
「ゆいこ」
まるで呪文のように、何度も名前を呼び合う二人は、一見、当たり前の恋人同士のようだ。だが熱く濡れた慧の声に比べると、結衣子の声は、静かで冷たく聞こえる。
慧はそれに気づいているのかいないのか、結衣子の肩を抱いたまま、隣室へと続く扉のほうへと歩き出した。
そのまま立ち去ろうとする二人を、裕二は慌てて呼び止めた。慧が来いというから自分はここへ来たのだ。置き去りは困る。
「待ってくれ、僕は……?」
声を上げたことで慧はようやく裕二の存在を思い出したようだ。ああ、いたのかというような表情で振り返り、顎をしゃくった。
「石田、そいつに部屋をやってくれ、裕二、俺が呼ぶまで適当にやってていいぞ、休んでろ」
「おい! まさかこいつをここに住ませる気なのか?」
「ああ、部屋はたくさんある、別にかまわないだろ」
「なにが! かまうだろ!」
二人のやり取りを聞いてみると、どうやら慧は、自分が拾ってきた何人もの人間を、このビルに無償で住ませているらしい。殆どボランティアだ。その連中は全員、後日、慧からの杯を受け、忠誠を誓っているとのことなので、慧がスカウトして来たとも言えるのだろうが、それでも無償で住ませるなど、酔狂が過ぎる。石田が怒るのも無理はなかった。
石田自身も同じくこのビルに住んでいるらしいので、あまり強くは言えないのだろうが、今回は別だ。
裕二は今まで慧が拾って来た連中と違い、どう見ても文科系、兵隊にはならないだろう。つまりはただの居候だ。それではまったくの部外者を近くにおくことになる。
盃を受けて配下に下るというなら、ある程度締め付けも出来るし、命令も出来る。だが部外者となるとそうもいかない。管理出来ない員数外の人間がいるということは何をするにもリスクをあげ、やりにくくなる。石田は裕二の入居には反対だと言った。それでも慧は考えを変えない。
裕二も戸惑っていた。まだ慧から直に、ここへ住むようにとも言われていないし、自分も慧に、住処を探していると話した覚えはない。
小説を書くことを反対された時点で、書き続ける気なら家から出るしかないと考えていたので、いずれは出る気でいた。書き続けられるかはまだわからないが、それでも最初から書かない前提ではいられない。住む場所は必要だ。
ここに住まわせてもらえるならそれは渡りに船ではあるが、反対されては住みにくい。ましてこの雰囲気では、慧が仕切るこの集団は、暴力団、もしくはそれに順ずるなにかだろう。これまで生きてきた世界とかけ離れ過ぎていて少し怖い。
戸惑う裕二を余所に、あくまでも考えを変えない慧の襟首を掴み、石田が怒鳴る。
「かまうだろ! そんな得体の知れない人間、もし刺客だったら……っ」
「裕二はそんなんじゃない」
「わかんねえだろそんなの!」
「わかるんだよ」
慧と石田は再び掴み合うように睨み合った。とにかく石田は、慧のやること全てが心配でならないらしい。
というより、慧が心配なのだろう。慧を見つめる彼の目は、モノ言いたげに少し潤んで見えた。たぶん慧も、石田の思いをわかっているに違いない。怒鳴りながらも、その瞳は優しい。
「もう黙ってろ、とにかく裕二はここにおく」
小さく息を吐いた慧は、石田の肩にポンと手をかけ、裕二に向き直る。自分の横を通り過ぎる慧を、石田は黙って見送った。その表情は、母親に見捨てられた子供のように幼く痛々しい。
「裕二」
「え? ぁ、はい」
「お前はなにも考えなくていい、適当な部屋で適当に暮らせ、食いもんと、あと必要なモノは遠藤《えんどう》に聞け、大抵のもんは用意してくれる、遠藤、頼んだぞ」
声をかけられた遠藤という男は、背が高く、厳つい顔をしていたが歳は若そうだ。たぶん慧とそう変わらないのだろう。剃り込みの入ったその顔は、いかにも硬派のヤンキーといった風情だが、彼の態度には、娘の我侭に手を焼きながらも、溺愛する父親のような、どこかゾッとする雰囲気があった。
慧と、周りにいる男たちとの関係は、とても奇妙だ。
一見すると慧は組織の中心、リーダーで、その存在は絶対的カリスマでさえある。逆らうことを許さない圧倒的な優位が、慧にはあるように見える。だが、それはあくまでも上っ面だけの話だ。先ほど見た光景や、石田、遠藤らの態度を見ていると、慧は組織の上に立ち、率いているリーダーではなく、男たちによって祭り上げられている虚像のような気がしてくる。
慧の冷たい言葉や、作り笑いの下に、常に怯えている子供がいるような気がした。
「じゃあそういうことで、またな」
「え? いや、待ってよ」
ボンヤリ考えていると、慧はじゃあなとこともなげに立ち去ろうとした。だが裕二としても、そこで放り出されては困る。慌てて追い縋った。
「そんなこと言っても僕はここに知り合いもいないし、なんだか……」
「なんだか?」
慧は裕二に背を向けたまま、目線だけで振り向いて、語尾を繰り返す。まるで優柔不断を責められているような気がして、裕二は勢いを落とした。
「いや……だってなにをしていいのか、キミはどこへ行くの?」
「聞くなよ、野暮な奴だな」
結衣子の腰を抱き寄せた慧は、いかにも可笑しそうにクッと笑う。そこで裕二は初めてその意味に気づき、赤面した。周りの男たちもニヤニヤと笑っている。笑ってないのは裕二と石田だけだ。
いたたまれない思いで俯く裕二を横目に、慧は懐から薄い手帳を取り出してよこした。咄嗟のことで、慌てて取り落としそうになりながら、裕二はそれを受け取る。
中には、ズラリと女性の名前と住所、電話番号が書き込まれてあった。
「暇ならその中から適当に見繕って女でも抱いてろ、俺が言ったと言えばすぐに来る、たっぷりサービスしてもらいな」
「え? え、そんな……っ」
裕二は戸惑ったが、慧も今度は立ち止まらなかった。そのままじゃあなと片手を上げ、結衣子と二人で隣室へと消えていく。
「ちょっと待っ……」
取り付く島もなかった。残された裕二は、手帳片手に立ちつくす。
ここはどう考えても、ヤクザかそれ紛いの組織だろう。自分とは無縁の世界だ。そんなところに、一人放り出されては敵わない。女どころじゃない。
慧には悪いが、このまま帰らせてもらおうかと思った。だがそこで先ほど慧に名指しされた遠藤が、こっちへ来いと招く。恐る恐るついて行くと、二階の一室を宛がわれ、ここで大人しくしてろと突き放されてしまった。
そこは八畳ほどの、ベッドの他にはなにもない部屋で、テレビ線なのか電話線なのかわからない線が、壁から数センチの位置で千切れて転がっていた。
ひどく閑散としていて、床もベッドも埃が積もっている。それでも、外が見渡せるベランダ付きの大きな窓があったので、裕二は埃の積もった掛け布団を外してベランダで叩いた。ついでに部屋の隅に転がっている、乾ききった雑巾らしき物を、部屋備え付けの洗面台で湿し、床面を拭いた。ついてしまった汚れはそう簡単に落ちないが、とりあえず埃臭さだけは取り払い、ようやくふうと息をついてベッドの上に腰を下ろす。
やることがなくなると、やはり落ち着けない。仕方ないので、ズボンの尻ポケットから、さっき慧に手渡された手帳を取り出した。そして、別に慧が言ったように女性と遊ぼうと思ったわけではないが、暇だったので書き込まれている女性の名を眺める。
「あれ……?」
そこでおかしなことに気づいた。書き込まれている女性の名のいくつかについて、どこかで見たような気がしたのだ。
手帳にはざっと数えて十名近くの女性の名が書かれてあるのだが、その三割近くが、どこかで見た名前だった。どこで見たのかと考えても、すぐには答えが出てこなかったが、どうも気のせいとは思えない。
よく見ると、手帳には女性の住所氏名電話番号の他に、なにか日付が書き込まれてある。最初は誕生日だろうと思ったのだが、どうも違うようだ、幾人かの女性の書き込みには謎の日付の他に誕生日がBirthdayの欄に書き込まれてある。
ではこの日付けはなんだろう? 不思議に感じながらもページを捲り、最後のページに書かれている女性の名を見てハッとした。数日前に行方不明になり、事件の可能性もあるとして、テレビでも報道されていた女性の名だ。そして、書き込まれてある日付は、その女性が行方をくらませたとされる日付と同じだった。
改めてさっき見覚えがあるような気がした女性たちの名を読み返してみる。するとそのほとんどは、行方不明者と報道されている女性だった。
ある日突然姿を消し、事件事故の両面から捜査中と報道されていた女たちの名だ。日頃から、小説のネタにでもなればと、ニュース番組で報道されるちょっと不思議な事件を見ていたので、よく覚えている。古いものはもう一年以上前になるし、さすがに絶対そうだと確信はないが、たしかそんな名前だと思った。
たかが行方不明、家出や失踪などざらにある話しだし、それだけなら別に変わった点はない。だが消えた女性たちは一様にして、行方不明になるような事情もなく、日頃からトラブルなどもなかったと報道されていた。つまり、消えた理由がわからないのだ。
それが慧の手帳に書き込まれている。それも、あの口ぶりだと、彼女らは慧の言うことならなんでも聞くという感じにとれる。それはどういうことだろう? まさか、女性たちの失踪に、慧が関係しているのか?
急に背中が寒くなり、全身に鳥肌が立った。
震える手で手帳を捲り、その中の一番最初に行方不明になっている女性のページを開く。
女性の名は小林紗枝《こばやしさえ》。失踪は一年半前、当時女子大生だった彼女は、友人とショッピングを楽しんだ後、買った品々を持ったまま、突然消えた。家を出るときも、いつもと変わらず、持ち物も小さなバック一つ、ちょっと近所に出かけるだけといった風情で外出し、そのまま家に戻ることはなかった。
買い物に付き合った友人も、別に変わった所はなかったと証言しているし、買い物を終え別れたのもそう遅くない、十六時頃だったという。
消えた理由はまったく思いつかず、事件か事故の可能性が大きいと、たしか報道されていた。
古い記録なのにも関わらず、裕二がそれを覚えていたのは、彼女の名前が当時好きだった女の子と同じ名前だったというだけの偶然だ。だがおかげでおぼろげながら失踪当時の彼女の顔も、報道写真を見て、なんとなく覚えている。
彼女に会ってみよう。覚悟を決めた裕二は、それからすぐに彼女、小林紗枝へ電話を入れた。
程なくして裕二の部屋に訪れた紗枝は、濃い化粧と赤茶けた髪の水商売の女といった感じだった。あまりにそれらし過ぎて、逆に嘘臭いくらいだ。
「あなたが佐々木さん? なんて呼びましょうか、佐々木さんでいい? それともなにかご希望ありかしら?」
「佐々木でいいです、あの……」
紗枝は部屋へ入ってくるなり、小さなショルダーバックを部屋の隅へ放り投げ、コートも脱いだ。裕二がのろのろと返事をする間に、ストッキングも脱ぎ、チュニックのボタンまで外しはじめる。
「待ってください! 僕、そんなつもりじゃ……」
「なに? アンタ慧から紹介されたって言ったでしょ? そういうつもりじゃないなら、どんなつもりなのよ、ふざけてんの?」
「いえ、そうじゃなくて……」
慌ててとめようとすると、紗枝は怪訝な表情で動きを止め、胡散臭そうに裕二を見返した。
裕二は最初、彼女に失踪の理由を聞こうと思っていた。もしかしたらそれは慧が関係しているのではないか、彼に拉致されたのではないかと思ったからだ。
だが彼女からはそんな被害者的様子が見うけられない。目に見えない事情があるのかもしれないが、それを推し量るのは難しそうだ。もし何らかの弱みでも握られているとしたら、正面から聞いても答えないだろうし、かえって警戒されてしまうかもしれない。
「ただちょっと退屈だったから話し相手にでもなってもらえればって」
「話し相手? やだ、馬鹿にしてるの? アタシじゃ抱けないとでも?」
「いや、そうじゃなくて、僕、あんまりそういうのしたことないから……」
「あのね、話しだけなんて、そんなことしたらアタシが慧に怒られちゃうわ、男ならちゃんとしてよ!」
紗枝は叫ぶようにそう言ったが、それは苛々してとか、怒ってというよりは、戸惑ってのように見えた。
裕二は立ったままでいる彼女の手を引いて、ベッドの上へ座らせた。もしかしたら怯えているのかもしれないと思ったからだ。なるべく普通に話をさせたい。
しかし彼女は、再び立ち上がり、床に投げ出された小さなショルダーから、煙草を取り出した。そして百円ライターで火を点けながら、また腰を下ろす。
「なに見てんのよ、灰皿は?」
「え? ぁあ、待って……」
裕二は慌てて続きになっている洗面所へ向かい、そこの洗面下収納庫から、ステンレス製の石鹸受けを持って戻った。
「ごめん、これ、使って? 今ここ、なんにもないんだ」
「いいわよ別に、アンタのせいじゃないわ、上等」
彼女は差し出された石鹸受けを直にシーツの上へ置き、とんとんと灰を落としては、また口に咥える。そして様子を窺うように、自分を落ち着かせようとするように、何度かそれを繰り返してから、ようやく煙草を揉み消した。
「で? なにを話す?」
落ちかけてくる髪を煩そうに揺らし、彼女は首を振った。裕二を見返す目は生気がなく、煙草の吸い過ぎだろうか、肌もだいぶ荒れている。チュニックのボタンは外されたまま、留められないので、白い胸が半分近く見えていた。その緩やかな丘の上には、少し黒くなり始めているシミが点々と見える。それはキスマークというよりは痣のようで、不幸な境遇を想像させた。
裕二は目のやり場に困りながらも、思い切って一番聞きたかったことを聞いた。
「あの、キミは、慧とはどういう関係……なのかな?」
「恋人よ、決まってるでしょ」
「え、でも……」
紗枝はきっぱりと答える。だがその答えには頷けなかった。恋人という名に一番近いのは、どう考えても結衣子だろう。今も慧は、彼女と部屋に引き篭もっている。
そこまで考えてドキリとした。
彼女は今、慧に抱かれてるのだろうか? 慧の態度と周りの様子から言って、それは極当然のことなのだろうが、頭の中に浮かんだ生々しい図に、裕二は奇妙な不安を感じた。
あの清楚で凛とした結衣子が、まだ少年の域を出ていないと見える慧に抱かれている。空から降り立った異人種のように高潔に見えた慧が、女と寝ている。そう考えただけで体の内側がざわざわと粟立ってくる。なにかとても禍々しい交わりに、それは思えた。
「なによ、なんか言いたいの?」
「あ、いやだって、慧の恋人って結衣子さんじゃ、ないのかなと」
結衣子の名を出すと、紗枝はあからさまにムッとした顔をした。それはライバル心というよりは、憎しみに見える。
一人の男に女が二人、争い憎み合うのは容易に想像出来るが、それだけではないような気がした。
「ふざけないで! あの女は慧を苦しめるだけの存在よ、清潔そうな顔をして、男二人手玉にとって、笑ってるんだわ」
二人というのは、慧ともう一人、さっき話題に出ていた曽我部という人物のことだろう。結衣子は元々その曽我部と恋仲だったと話されていた。曽我部というのがどんな人間で、慧とはどういう関係なのかよくわからないが、少なくとも結衣子を挟んでライバルだったのだろうことはわかる。仔細はともかく、結衣子は元、曽我部という男の恋人で、曽我部はなにか拙いことがあり慧を裏切って逃げた。そして結衣子は恋人が逃げた途端に慧に乗り換えたということだ。
そう言ってしまえば、たしかに結衣子の行動には疑問を持つ。だいたい二人でいるときも、彼女には慧に対する愛情が見えない。いや、愛情はあるのだろうが、恋人に対するモノとは見えない。
では何だろう?
「慧のこと、なんにもわかってないくせに、わかったみたいな顔してさ、最低っ」
紗枝の話は多分に感情的で、嫉妬混じりだ。正確な情報ではないかもしれないと思いつつ、裕二はその言葉尻を捉えた。
「じゃあ、キミは慧を知っているの?」
「知ってるわよ」
くしゃくしゃになった箱から新しい煙草を取り出し彼女は、優越感に浸ったような薄笑いで、当たり前じゃないと答える。彼女の口から零れる煙は、部屋の空気に溶け、あたりは少しだけ薄暗くなった。紗枝はその薄闇に隠れるように話した。
「初めて会ったとき、慧は大きな坂道の下に突っ立ってた……何してたと思う?」
「なに? わかんないよ、なにしてたの?」
聞かれた意味もわからず、裕二は首をかしげた。すると紗枝は遠い目をして、少し怒ったように答える。
「……自分に向かって走ってくるダンプを見てたのよ」
その日、友人と別れ、家に帰ろうとしていた紗枝は、自宅へと向かう途中、道端に佇む少年を見つけて立ち止まった。それはその少年がとても綺麗な顔をしていたからつい見蕩れたという、単純な理由だ。
美しさに見入り、そして、気づいた。
少年は、泣いていた。
涙は出ていない。声も上げていない。それでも泣いているとはっきりわかる。少年を包む哀しみの深さに、胸が締め付けられた。
本当に悲しいときは涙も出ないと聞いたことがあるが、泣くことさえ忘れるくらいの絶望と哀しみに、少年の心が叫んでいるのが見える気がした。
虚空を見つめる瞳は黒く濡れ、白い肌にキリリと赤い唇が、とても痛々しく映る。世の中に、こんなに美しい人間がいるのかと、ただ純粋にその美に見蕩れながら、自分とはなんの関係もない、行きずり少年を、紗枝は切なく見つめた。
あんな目をして、彼はいったいなにを見ているのだろう?
ふと少年の視線の先を追うと、坂の上から少年に向かって走ってくる一台の大型ダンプカーが見えた。
そこはT字路の突き当りになっていて、交差するようにその道に繋がっている道路は、急な上り坂だった。勾配角度「二十%」の標識がある。かなりの急勾配だ。
その坂の頂上から、泥だらけの大型ダンプカーが、猛スピードで走って来る。坂道の長さとダンプのスピードを考えると、T字にぶつかる部分で止まれるようには思えなかった。
正面は、高台にある住宅地を支えるコンクリートの塀だ。今すぐ減速しても、間に合わず、ダンプカーはコンクリートに激突、大破するだろう。だがそうなればあの少年は、コンクリートの壁とダンプの間に挟まれて即死だ。
逃げて!
心の中でそう叫んだ。しかし少年は、自分に向かって走ってくるダンプカーを漠然と見つめたまま、動こうとしない。
動けないのかとも思ったが、そうではなさそうだ。彼は、お前のゴールはここだとでも言うように、そのダンプを見つめ、悠然と佇んでいる。逃げようとか、助かりたいとかいう意思は、まるで感じられない。助かる気はないのだ。
彼は死のうとしている。
そう感じた紗枝は、咄嗟に叫んだ。
「ダメ! 死なないでっ!」
その叫び声を聞き、少年が振り向く。だが避けるには間に合わず、ダンプは少年に突っ込んだ。
鋭いブレーキ音と、激突の轟音が響き渡り、紗枝も思わず目を閉じる。
数秒後、目を開けると、コンクリートに激突して大破したダンプが見えた。あたりには、激突の衝撃で投げ出されたのだろう車内装備品が散らばっている。
ダンプはぐしゃぐしゃで、運転手はフロント硝子に突っ込んで血塗れだ。これで助かる者はいないだろう。
あの少年はどうなっただろう?
ダンプが激突する寸前、振り向いた少年は、紗枝のほうを見ていた。遠く離れてはいたが、たしかに目が合ったと確信できる。死んでほしくない。
少年の生を願いつつ、紗枝の足はそこから動かなかった。そこにあるだろう、少年の遺体を、見たくなかったのかもしれない。
だがそのとき、ただ呆然と事故現場を見つめる紗枝の目に、信じられない光景が映った。ダンプを挟んで紗枝と反対の方向から、少年が出て来たのだ。
頭から赤ペンキをぶちまけたかのように真っ赤に染まった少年は、可笑しくて仕方がないというようにクスクスと笑いながら、ふらふらと歩き、数メートル行った所でアスファルトに座り込んだ。
信じられない。
生きてる。
あんなに血だらけなのに……彼は不死身かと慄きながら、紗枝は炎に魅かれる蛾のように、運命に魅入られ、少年へと近づいて行った。
少年は着ていた白い綿シャツを脱ぎ、それで顔面の血を拭っていた。そして、紗枝が近づくと、ふっと顔を上げる。無心な、仔犬のような目をしていた。
「怪我は……?」
「……お前」
紗枝が声をかけるのとほぼ同時に口を開いた少年に、さっきまでの儚さはまるでない。無表情で不遜な態度だった。
「死ぬ気だったのか?」
「え?」
「ダンプが突っ込んで来るのが見えてたんだろ? なんで来たんだ」
「あ……」
少年に指摘され、紗枝はそのときはじめて、自分が少年に向かって走っていたことに気づいた。彼を死なせたくないという思いが強過ぎたのかもしれない。
「死ぬのは勝手だがな、俺の前ではやめろ」
「アタシは別に……死のうとしてたのはアナタでしょ」
「俺が?」
「そうよ、違うの?」
自分に向かってくるダンプを眺めたまま微動だにしないなんて、それは死を望んでいるからとしか思えないと少し強い口調で問い質すと、少年はムッとした顔で口を尖らせた。
「だからなんだ? もう飽きたんだよ、十六年も生きてりゃ充分だ、さっさと次に行かせてくれってヤツさ」
「なに言ってんの、十六年って……たった十六年よ、まだまだこれからでしょ、なにに絶望してんだか知らないけど、これからいくらでも……」
「いくらでも? 絶望できるってのか? まさかいいことがあるなんて言うなよ?」
「あるわよ、いいことくらい……」
「ないな」
思わぬ反論に紗枝もつい語気を弱めた。すると少年はそこにつけ込むように、絶対いいことなど起きないと言う。そうなると紗枝も意地になる。
この美しい少年には、もっといいことがあっていいはずだ。望めば芸能人にだってなれるだろうし、それでなくとも魅かれない者はいない。こんな綺麗な子が人生に絶望なんて、甘えてるとしか思えない。もしそうなら許せないと思った。だから一度弱めた語気を強め、言い返す。
「あるのよ! ないと思うのはアナタが甘えてるだけよ、絶対あるの! 生きてて良かったって、思う日が絶対来るから!」
真剣に、怒鳴るように諭す紗枝の顔を、少年はジッと見ていた。ただ無表情に、少し責めるような目をして見つめていた。その視線には、憎しみが入り混じって見える。
黙って紗枝を見ていた少年は、やがて遠くから迫って来るサイレンの音を聞き、すいと立ち上がった。
「それが証明できるならついて来い」
「え……?」
「生きてて良かったと、俺が思う日が来るのか、その目で確かめろ」
命令口調ではあったが、それは少年の願いのように聞こえた。助けてくれ、見捨てないでくれと言われているような気がした。
少し躊躇っていた紗枝に、少年が囁く。
「最後までいいことが起きなかったら、お前の言うことが嘘だとわかったら、俺がお前を殺す、地獄で詫びを入れさせてやる、自分が正しいと思うなら来い」
少年の言い分は酷く理不尽で身勝手だ。だがそれは彼の切なる願いのような気がした。
これを断ったら、自分が見捨てたら、彼は死んでしまう。そう感じた紗枝は、その場で少年について行くことを決めた。
「わかったわ、アナタと行く」
ついて行くと答えた紗枝を、少年は一瞬不思議そうに見返した。そしてさりげなく視線を逸らせて、紗枝の手を取る。
「来い、後悔させてやる」
「しないわよ」
「どうだかな」
「しません!」
ムキになって言い返す紗枝を見て、少年は初めてクッと笑った。その微かな笑顔がとても可愛らしく見えた。擦れて見えても、やはり歳相応の顔も見せる少年なんだとホッとした。そして自分にその顔を見せてくれたことが嬉しかった。
「アナタ、名前はなんて?」
「慧、藤宮慧だ、お前は?」
「小林紗枝よ」
紗枝が答えると、慧は演歌歌手みたいな名前だなと面白そうにまた笑った。自分の言葉が慧を笑わせてやれる。それがとても嬉しかった。
サイレンの音が近づいて来る。慧は音のする方をチラリと見て、紗枝の手を握ったまま、反対方向へと走り出す。
「紗枝、お前は今日から俺のモノだ、いいな」
「いいわ」
買いこんで来たブランド物の洋服やバッグを放り捨て、血塗れの少年、慧と走る。
その日、紗枝は、流行の服を纏った我侭女子大生だった自分を脱ぎ捨て、ただ慧と生きるモノになった。
紗枝は誇らしげに微笑んでいた。誰にだって隠すことはない、それが私にとって一番正しく気高い道と胸を張っていた。
だが客観的に見れば理解できない。ただそれだけの会話で、縁もゆかりもない、初めて会った少年について行くなどあり得ない。
両親や家族は? 恋人は? 友人は? それら全てを放り出す理由にしては、根拠に欠けるとしか言い様がない。
「それで慧についていったのかい? なんで?」
思わず聞き返した裕二に、紗枝は意外そうな顔を向け、すぐにクッと笑った。
「じゃあ、アンタはなんでここにいるのよ」
「え、僕?」
「そうあんた」
「僕は……」
屋上から飛び降りたときの慧と、結衣子を振り切り病院を出て行こうとした慧の違いに驚いた。あの儚さと強さがどうしても相容れない。相容れないが、どこかでそれが同じだとわかる。全てを切り捨てるように歩み続ける、一見強く恐ろしく見える彼の中に、何かを探すように飛び立った、あのときの彼の脆さが、見えた気がした。
だから一緒に来いと言った彼について来た。それは彼の切なる願いで、自分がついて行かなければ、彼はまたどこからか飛んでしまう、死んでしまうと感じたからかもしれない。
それに気付いた裕二は顔を上げ、曖昧に笑った。裕二の顔を見て、紗枝もクスリと笑う。
「ね、同じでしょ?」
「そうかもしれないね」
彼女と同じく、あのとき自分は慧に魅入られ、掴まったのだ。彼を知り、そして護りたいと願った。そしてそれは自分や彼女だけのことではなく、もしかしたらここに集う男たちと、あの手帳に書かれた女たち、全員の思いなのかもしれない。
「他の女の人たちも、キミと同じなのかな?」
「他のって?」
「ここに書かれてる人たち」
他というのがピンと来ないらしい紗枝に、裕二は手帳を見せた。紗枝はその中身をパラパラと捲り、興味なさげにベッドへ放り投げる。
「違うわね、こいつ等は飼われてるのよ」
「飼われてる?」
「働かせて金を貢がせるだけの女ってこと」
「どういう意味?」
冷たく吐き出された紗枝の言葉に、ドキリとした。言われた意味がわからない。いや、わからないというよりは、わかりたくないのかもしれない。
裕二は自分の中に浮かんでくる慧への疑念を否定したくて再び聞き返した。だがその答えは裕二の期待を裏切る。
「この女たちは彼が攫って来たの、お客の好みに合いそうな女を捜して、見つけたらとっ捉まえる、それで儲けてるってワケよ」
「それ……犯罪だよね」
「……かもね」
紗枝は細身の煙草に火を点けながら、こともなくそう言った。吸い込まれる煙と吐き出される紫煙が、まるで深呼吸のように見える。自分を落ち着かせようとしているかのようだ。彼女も慧の悪行を認めたくないのかもしれない。
先ほどの男たちとのやり取りを見ていると、ここがなにか非合法なことをしている、暴力団か、それに類する組織だということは察することができた。だがまさか、本当に犯罪を犯しているとは、考えていなかった。
だがもし彼女のいうことが本当なら、それは誘拐監禁であり、立派な犯罪だ。慧は女性を食い物にする極悪人ということになる。
裕二は指先が震えるのを意識しながら、言い返した。
「かもじゃないよ、慧のやってることは誘拐と監禁だ、そんなことしてもし警察に知れたら……」
知れたらではない、知られなくても犯罪だ。だが出来るなら、警察沙汰になる前にやめさせたい。女性たちを解放し、なんとか穏便に済ませる道があるならそうさせたい。だが誘拐され、無理矢理働かされている女性たちは、解放されれば慧を訴えるかもしれない。
心配する裕二の言葉に、紗枝はむっとした表情で顔を上げる。
「なに? あんた慧を売る気?」
「違うよ、でもこんなこと許されないよ、いつか知れる、そしたら彼はどうなる? 掴まっちゃうじゃないか」
「大丈夫よ、連れて来たときは強引だったかもしれないけど、監禁じゃないわ、女たちは自由意志で働いてるの、部屋は慧があてがってるけど、閉じ込めてるわけじゃなし、いつでも帰れるの、帰れるけど帰らないのよ」
「なんで……?」
「知らないわよ、帰りたくないからでしょ」
女たちの話をする紗枝は、とても不愉快そうだ。その顔には嫉妬のような感情が垣間見える。
出会い方は違っても、そこに書かれた女たちはみな、慧に何かしらの思慕を抱き、ここにいるのかもしれない。
紗枝はもうとっくに吸い終ってしまった煙草を揉み消し、また忙しなく火を点ける。点けたと同時に、酸素吸入のように慌しくニコチンを取り入れ、点けたばかりの煙草は忽ち短くなっていった。
彼女は自分が慧の恋人だと言った。だが実態がそうでないことは明らかだ。常に慧のそばにいるのは結衣子であり、真実はともかく、実質彼女が恋人だろう。引き換え自分は、その他大勢の女性たちと同列に、彼の手帳に名を連ねている。それが気持ちを波立たせるのかもしれない。
それからもいろいろと訊ねてみたが、慧との出会いの話以外は、これといった収穫はなかった。手帳に書かれている女性たちも、未成年ならともかく、みな成人済みだ。犯罪臭さは残るものの、慧に貢ぐのが本人の意思だと言われれば、反論もできない。
裕二はモヤモヤと蟠る慧への曖昧な感情を持て余し、言葉を失くす。どうすれば彼を救い、護ることが出来るのかわからなくなった。
紗枝を帰して一人で眠った翌朝、部屋から出ると、同じく丁度部屋から出て来た結衣子とかち合った。
結衣子は、いい所のお嬢さんのように、キッチリとした清楚なブラウス姿で、髪も綺麗に結い上げてある。埃の舞う薄汚れた廃ビルの一角には似つかわしくない、涼しく清らかな佇まいだ。
「あ……」
裕二と目が合った途端、彼女は気まずそうに視線を下げた。朝方に男の部屋から出てくるところを見られたくなかったのだろうと察し、裕二は何気ないふりで声をかける。
「おはよう結衣子さん、どちらかにお出かけですか?」
「あ、はい……仕事に」
「仕事? なにをなさってるんです?」
「近所のデパートで、ベーカリーショップの店員です」
「パン屋さん? じゃあ朝も早いんですね、たいへんだ」
「いえ、私は売り子ですから、そんなに早くないです」
いちいち律儀に答えるところが娘らしくて可愛い。昨日話した紗枝とはずいぶんな違いだ。見かけや態度でその人間の全てが決まるわけではないが、やはり女性は結衣子のように清楚で可愛らしくあったほうが好ましい。慧も、結衣子のそういう部分が好きなんだろうなと、裕二は一人で納得した。
「あの……慧、は?」
「まだ寝てます、あの人、朝方までよく眠れてなかったから、起こさないでやってくださいね」
「慧、寝てないんですか?」
「はい、うつらうつらはするんですけど、すぐ魘されて、たぶんほとんど……」
結衣子は眉を顰め、心配そうに小声で話した。だがそれを知っているということは、結衣子も寝ていなかったということになる。そこを指摘すると、結衣子は小さく微笑んだ。
「私はこれでも結構丈夫にできてるんです、それに家に帰れば眠れます、一晩や二晩、起きててもなんてことないわ」
細くて華奢な印象の結衣子は、頑丈というイメージではないが、まあたしかに病弱には見えない。裕二は、家に帰れば眠れるという結衣子に、じゃあ帰ったらちゃんと休んでくださいねと笑いかけてから、慧の眠る部屋のドアを見つめた。
結衣子は家に帰ればと言った。つまり彼女には、ここではないちゃんとした家があり、いつもはそこに帰っているということだ。それが当たり前だが少しホッとした。
彼女にこんな汚い廃ビル住まいは似合わない。そう思いながら、結衣子の出てきた部屋を見た。なにが彼の眠りを妨げるのか、彼の、死をも呼び寄せる絶望とはなんなのか、それを知りたい。そして助けたい。底知れぬ絶望の淵から救いたい。
心もとない決心を胸に、慧の部屋を見つめる。
と、そのとき、慧の部屋で微かに携帯の鳴る音がした。その音で起きたのだろう慧が出たらしい。
──さかき!
人の名前か、物やプロジェクトの名か、「さかき」という単語が聞こえた。それはたぶん、必要以上に大きな声だったからだろう。後の声はぼそぼそしていてよく聞き取れない。
裕二は、もっとよく聞こえるようにと扉に近づき、耳を押し付けるようにして聞いた。どうも慧は誰かに無茶を言われて困惑しているようだ。
──そんなのこっちには関係ない、勝手なことを言うな。
──だからって! 早すぎるだろ、無茶だ!
──冗談じゃない!
途切れ途切れに聞える声は切羽詰り、焦りに満ちていた。かなりの難題らしい。
なんの話をしているのだろう?
もっとよく聞きたいと、さらに聞き耳を立てようとしたときだった。背後で苛々と殺気だった声がした。
「おい、貴様、なにやってやがる!」
「え?」
ドキリとして振り向くと、いきなり胸座を掴まれ殴られた。殴りかかって来た相手が誰なのか、確かめることも出来ないほどしたたか殴られ、床に投げ捨てられた裕二は、ぼんやりした意識で視線だけを相手に向ける。
殴りかかって来たのは石田だ。石田は裕二が自分を見ていることに気づいて、さらにその腹を蹴った。
「こそこそ嗅ぎ回ってんじゃねえよ、この犬が!」
石田は、何度も蹴りを入れ、それでも気が済まないのか、さらに蹴りつけようとした。だがそこで背後のドアが開き、動きを止める。出て来たのは慧だ。
慧は床に倒れている裕二と、その傍に立つ石田を交互に見てから、裕二の足元へしゃがみこむ。
「どうした? 床で寝るのが趣味か?」
「違……」
慌てて答えかけたとき、その背後にいる石田の顔が見えた。なにかに怯えたように、喋るなと睨んでいた。裕二も思わず口を噤む。
その視線に気づいた慧は、ゆっくりと背後の石田へ振り返った。目が合った瞬間、石田は悪事を見抜かれた子供のように固く口を結び、決まり悪く横を向く。慧はその視線の先へ回り込んだ。
「石田、お前はそこでなにしてたんだ?」
「別に、通りかかっただけだろ」
「通りかかった……へえ? どこへ行く気だと、ここに通りかかれるんだ?」
慧の部屋は、フロアの一番奥にあり、そこから先へはどこにも通じていない。つまりそこにいるということは、その部屋に用か、その部屋から出てきたかの二つしかない。裕二の場合は、慧が気になって、自分からこのフロアに足を運んだ。そこでたまたま部屋から出て来た結衣子と顔を合わせてしまい、話し込んだわけだ。
だがでは、石田はどうだったのだろう?
このフロアには、慧の部屋と、事務所らしき部屋があるだけだ。そこに用だったとか、そこにいたとかいうわけでもなければ、そう都合よく同じフロアに現れない。もしくは見張っていた……ということになる。それを察してか、慧は睨みを利かせて問い詰める。
途端に、石田は視線を逸らした。
「事務所にいたんだよ」
「ふぅん……ずいぶん仕事熱心だな、石田?」
「別に……寝てただけだって」
「事務所で?」
「どうでもいいだろ!」
「どうでもいい?」
石田の苦し紛れの揚げ足を取るように、慧は胸座をつかみあげ、睨んだ。気迫負けした石田は視線を下げる。そこへすかさず慧の右拳が飛んだ。それほど力の入った一撃ではないが、拳は重そうだ。殴られた石田も半歩下がる。
「舐めてんのか?」
赤く光る目をして、慧が凄む。
「別に……」
石田は視線を逸らせたまま、誤魔化そうとしていた。だが慧はそれを許さない。勝手なことをするなと怒鳴った。
「お前は俺の命令に従ってればいんだ、裕二に手を出すな」
怒鳴られた石田はさすがに頭にきたらしい、負けずに睨み返し、怒鳴り返す。
「舐められてんのはどっちだよ! こいつはさっき結衣子となんか話してやがったんだ、その上、こそこそ聞き耳立ててドアに張り付いて、なにか探りに来てんに決まってんだろ!」
怒鳴り返す石田の目は真剣そのもので、本気で慧の身を案じているようだ。その声に負けたのか、慧も勢いを落として黙り込む。
二人の関係はとても奇妙だ。一見、慧が全権を握る支配者のようだが、石田はそれを恐れていない。どちらかと言えば、石田が恐れているのは慧が堪えられるのかどうかのように思えた。
なにに堪えられるかと心配しているのかは、わからないが、慧にもその思いは通じるのだろう、暫く黙り込んだあと、石田を離した。そして裕二に振り返る。
「結衣子が気になるか?」
「そうじゃなくて、僕はキミのことが……」
慧が訊ねるので、裕二は慌ててそうではないと答えた。結衣子のことも気にはなるが、それより気になっているのは慧のことだ。慧をもっと知りたいと話す。すると慧は真顔で裕二を見返し、顎をしゃくった。
「知りたいならついて来いよ、見せてやる……そのかわり、口出しは無用だぜ」
「え……?」
「おい! こいつを連れて行く気か、藤宮!」
そのままフロアを出て行く慧を、裕二は小走り追いかけた。石田も慌ててその後を追う。
ちょっと待ってろと言って着替えを済ませた慧は、安っぽく派手なシングルのスーツを着て、ビルの外へ出た。その後にはいつの間に従ってきたのか、人相の悪い男たちが数名いる。その先頭にいた遠藤がベンツのドアを開け、慧はそれに乗り込んだ。運転は遠藤のようだ。
石田がそれに続こうとすると、慧はそれを制し、お前は後ろに乗れともう一台のセダンを指さす。一瞬不満そうな顔をした石田は、唇を噛みしめながら後方へ向かった。裕二も石田と共に後続の車へ乗り込み、出発する。
後部座席に座った石田は、口を固く結び、忌々し気な表情で正面を睨んでいた。たぶん、慧と同じ車に乗せてもらえなかったのが面白くないのだろう。
「遠藤の野郎、忠義面しやがって」
「遠藤さんって、いくつなの? 石田くんより上?」
「まあな、あいつは二年留年してっから、そのぶん歳もくってるさ」
「そうなんだ、ぁ。じゃあ、慧とも長いのかな?」
裕二がおずおずと訊ねると、石田は長かねえよと短く答えた。
「前から知り合いだったっつうけど、ここに来たのは俺のが先だ」
友人としては遠藤のほうが先に慧と知り合っていたが、あの廃ビルに住むようになったのは自分のほうが早い、だから歳は上でも、自分のほうが先輩になるんだと面白くなさそうに話す。
「そうか、じゃ、もしかして、石田くんが一番付き合い長いのかな?」
「おう、そうさ、まあ曽我部には負けるが、あいつは藤宮を裏切った、もううちの人間じゃねえ、だから俺が一番みたいなもんさ」
少し煽ててみると、石田は上機嫌になった。慧と近い関係にあると思われることが嬉しいらしい。自慢げに話す様子は紗枝にも似ている。
紗枝は自分が慧の恋人だと言った。事実はそうでないと誰にだってわかるのに、おそらく自分でもわかっているだろうに、それでもそうと言い張るほど、慧を愛してる。もしかしたら、石田も紗枝と同じなのかもしれない。
「んだよ、どうした?」
急に黙り込んだ裕二に、石田は怪訝な顔を上げる。そこで裕二も思い切って聞いてみた。なぜ、それほど慧に拘るのか、彼との出会いはどんなだったのか聞いてみたい。すると石田は、再び不機嫌そうな表情になり、どうでもいいだろと横を向いた。だが本当は誰かに話して自慢したかったのだろう、裕二がぜひ聞きたいだと話すと、ふんと鼻を鳴らし、話し出した。
「三年前だ、その頃俺はどうしようもねえカスで、毎日誰かを傷つけて遊んでばかりいたんだ」
その日も、学校をサボって、川原でバカ騒ぎをしてた。些細なことでムカムカして、おとなしそうな同級生を引き摺ってきて、仲間と袋叩きにして、そいつを川原に放り込んで、なんとなく憂さを晴らして帰るところだった。
滑りやすい赤土の土手を何度か転びかけながら上り、堤防道路に出ると、女がいた。それも二人。片方は花柄のフレアースカートを履いた清楚で暖かそうな優しい感じの女、もう一人は仕立ての良さそうなパンツスーツに身を包んだ、つんとすました冷たい感じの女だ。体つきは物凄く華奢で、いいとこのお嬢さんに見えた。二人共、種類は違えど、物凄い美女だ。
ついさっき、人ひとり袋叩きにしたばかり、誰もがまだ興奮覚めやらず、そこに現れた美女だ、石田を含む全員がすぐに野獣と化した。辺りには他に目立つ人影はなく、相手は女二人。力づくで引き摺っていって、どこか物陰で強姦しようと考えた。
だが、美女だと思ったその片方は、男だったのだ。
「それが慧?」
「ああそうだ」
石田は、悪びれる様子もなく、あいつは凄かったぞと話した。
最初、片方が男だとわかっても、それほど苦ではないと思った。なにしろ女と見紛うほどの器量よしで体つきも華奢というか、貧弱だ。多少歯向かったとしても、高が知れてる。男じゃセックスの相手にはならないが、これだけ器量がよければ、甚振ってみるのも面白いかもしれない。それに、心のどこかで、興奮がエスカレートすれば、男でも性的対象に出来ると考えていたかもしれない。
男たちは血走った目で、一斉に殴りかかって行く。自分らは五人、相手は一人。自分たちのほうが負けるとは微塵も考えていなかった。
だが……。
「あいつは鬼みてえに強くてな、あっという間に全員やられちまったのさ」
それまで何度も修羅場を潜った。喧嘩や抗争は日常だった。皆、腕には自信があった。石田も、当然自分の力を疑っていなかった。しかしその固定概念は、数分で奇麗に塗り替えられた。
慧は、相手の拳や蹴りが自分に届く前に、そいつの首根っ子を掴んで顔面に膝蹴りを入れ、背骨を圧し折る勢いで殴りつけた。上下から受けた強烈な衝撃で、身体が痺れ、痛みで声も出なくなる。自分はこのまま死ぬかもしれない、そんな恐怖に駆られ、相手になった男は殆ど一撃で戦意を喪失させられた。
「普通さ、戦うときは熱量が上がるんだ、喧嘩でもリンチでも、暴力は血を滾らせる、相手の熱が自分にも伝わってきて、熱くて堪んなくなんだ……けど、あいつは違ってた」
「違う?」
「ああ、あいつは、どこまでも冷たかった、まるで硬化硝子で出来たロボットみてえに、体温も感じなかった」
怒りは伝わってきた。顔色も表情も変えない慧の中から、強烈に根深い怒りだけが伝わってくる。だがその怒りに見合う熱さがまるでない。凍りつくように冷たい目をして、何の感情もない無機物のように、ただ素早く的確に、残酷に、相手を倒して行く。いくら腕に自信があっても、こんな怪物とは戦えない。石田は戦う前から、負けを感じた。
ここから逃げなければ、今すぐ逃げ出さなければ命はない。そんな恐怖に駆られながらも、なぜか足は動かなかった。ただ呆然とやられる仲間たちを見つめ……いや、仲間たちを倒していく華のような鬼の姿に見惚れていた。
「綺麗だったよ、あいつ……天女みてえに、寒気がするほど綺麗で、可憐な鬼だった」
うっとりとそう呟いた石田は、暫くそのまま黙り込み、なにも言わなくなった。おそらく、彼の中に今だ棲みつく、その華鬼の姿を、見つめているのだろう。
それを見ることの出来た石田を、裕二は羨ましいと思った。自分も見たかった。たとえその場で殺されるとしても、その姿を見てから死ぬなら、それこそ本望とさえ思えた。
たぶん、石田も同じ気持ちだったのだろう。かなり長い沈黙のあと、少し濡れた小さな声で慧の名を呼んだ。
その思いは、すでに恋なのかもしれない。生々しく伝わってくる石田の感情に、裕二も自然と赤面した。知っている人間同士の性の話を又聞きしてしまったような気まずさで落ち着けない。
「……で?」
背中が疼くような淫靡な切なさに迫られ、裕二はわざとらしく咳払いをし、話はそれだけかと促した。すると石田は、ハッとしたように口ごもり、その後日談を話した。
それから二週間後、慧に叩きのめされ、全治一ヶ月の怪我で入院していた石田の元に、当の慧が見舞いに来た。そのとき一緒にいた女、結衣子と、もう一人、やたら体格のいい男、曽我部を連れ、病室まで来たらしい。
「悪かった、ついカッとして、やり過ぎた、すまない」
真摯に頭を下げる慧を見て、石田はさらに仰天した。あの日の鬼はどこに行ったのか、そこには可憐で可愛らしい、少女のような少年がいた。
付き添いの男は同級生という話だったが、体格が違いすぎて、ウサギと熊のようだ。隣にいる結衣子さえ、霞んで見えるほど、慧が美しく見えた。
「……それで?」
「それだけだよ、他にはなにもねえ」
無事退院後、その美貌と不遜な態度で、なにかとトラブルを起こしやすかった慧について回るようになり、慧が独立してあのビルに住まうようになってからは、自分も一緒に住むようになった。
なんとか曽我部を出し抜きたくて、誰よりも慧の近くにいたくて、慧の片腕として、今日まで生きてきた。慧が父親に束縛されていることも、それを嫌い、家を出ていることも聞きだした。
慧を護り、彼の思うように生きさせてやることが、自分の使命、望みなのだと石田は話す。
「あいつ、ちょっとおかしなとこ、あんだろ?」
「おかしなとこ?」
「ああ、妙に大人しくて優しい感じのときと、風が吹いただけでも殴りかかって来そうに殺気立ってるときと、ふり幅がデカ過ぎんだよ、つうか、顔つきまで違って見えるし」
「ああ、そうだね……」
「だからさ、誰かがついててやんなきゃなんねえんだよ」
「うん」
その誰かに、自分はなるのだと石田は話す。それが彼の行動原理なのだろうと、裕二も納得した。
慧の不安定さは、裕二もずっと感じていた。屋上で初めて会ったときの慧と、ここでの慧は別人のようだ。紗枝の話を聞いてますます混乱した。自分の中にある慧のイメージと、現実の彼が一致しない。それがなぜなのか知るためにも、これから起こることをしっかり見なければならないと思った。
石田の話を聞いている間に、車は繁華街を抜け、少し外れにある歓楽街へと入った。その突き当りで停まる。
あたりは低俗な性風俗店や、如何わしい飲食店が立ち並び、昼間でも学生や真っ当な人間が通る所ではないような雰囲気がする。こんなところでなにをするんだと考えながら、恐る恐ると後について行った。
慧は安っぽい風俗看板が掲げてある小さなビルに向かい、そのドアを開けた。そこは小さな応接室のような感じで、どうやら最初に客を通す部屋のようだ。
「もう一度、言ってもらおうか、坂崎さん、うちに支払う金はないと?」
「いや……そうじゃありませんよ、今日は無理だと言ってるだけです」
慧が睨むと、坂崎と呼ばれた五十にさしかかろうという男は、ここのところ店の売り上げが悪くて女の子に出す給料も怪しいのだと説明した。だがそんなことでいちいち大目に見ていたらキリがない、だからどうしたと石田が凄む。坂崎はますます恐縮し、縮こまった。
おそらくこの坂崎という男は店の経営者で、慧が要求しているのはヤクザが縄張り内の店から出店料、管理料などの名目で徴収する金だろう。だがそれで慧や石田が暴力団、ヤクザ者と考えるには少し無理がある。暴力団の内情に詳しいわけではないがどこか甘いような気がするのだ。
なにせメンバーが若過ぎる。これまでの様子では慧がリーダーなのだろうが、慧はまだ十八の子供だ。子供と言うには語弊があるかもしれないが、まだまだ少年の域だろう。それに付き従っている石田や澤田、遠藤など、全て十代から二十代、いってても三十そこそこで、暴力団の構成員としては若すぎる。だがではなんだと聞かれれば上手く言い表せないが、せいぜい不良学生の集団か、その延長といった雰囲気に思えた。所謂半グレというヤツかもしれない。
だいたい坂崎から見れば、慧や石田など息子ほどの年齢だろう。その若造に凄まれて恐縮する様子はひどく奇妙だ。多少怖いといっても若造数名、なにを恐れているのかわからない。
だがその数秒後、自分の考えが甘過ぎたと気づいた。
金はないんだと怯える坂崎を、静かな目で見ていた慧は、表情も変えず一歩を踏み出し、畏まる坂崎の腹を蹴りつける。ガタガタと音をたてて、あたりの椅子や机が倒れ、坂崎が転がる。慧はそこで止めることはなく、倒れた坂崎を蹴り続けた。
腹を蹴り、背中を蹴り、顔面へも爪先が食い込んでいく。坂崎は忽ち血塗れになり、悲鳴を上げて転げまわる。それでも慧は容赦しない。坂崎の顔が原型を留めなくなっても止まない凶行を、裕二は呆然と見つめた。
最初はとめようと考えた。しかし、突然の凶行に、足も思考も止まった。石田も息をつめ、その様子を見守っている。恐れているのか、心配しているのか、顔色は悪い。誰も慧をとめられない。畏怖と心痛の入り混じった表情で、荒れ狂う慧をただ見ていた。
坂崎の意識がなくなる寸前、慧はようやく蹴りつけていた足を止め、血塗れの顔面を覗き込むようにその場にしゃがみこんだ。
「遊びに来てんじゃねえんだよ、さっさと出しな」
冷たく低い声が響く。だが坂崎はもう動けないようだ。慧は坂崎の襟首を掴んで強引に立ち上がらせ、部屋の奥にある机の後ろまで引き摺って行った。そこには小さいが頑丈そうな金庫があり、慧はそれを開けろと命令する。意識朦朧の坂崎は、覚束無い手つきで金庫を開けた。
錠が開いた途端、慧は坂崎を張り倒し、中にあった現金を無造作に掴み取る。ざっと見て十数万円と思われる札を手にした慧は、ゆっくりと立ち上がり、床に倒れている坂崎を、革靴の先で再度蹴りつけた。
「あるじゃないか、隠すなよ、馬鹿が」
蹴られた坂崎は、腫れ上がり、塞がりかけた瞼の隙間から、禍々しい慧の足先を見返していた。口を利く力は残されていないらしい。黙ったまま、恨みがましい目で慧を見ている。
おそらくそれが気に食わなかったのだろう、慧は動けない坂崎の顔面を尖った靴の先で蹴りつけ、唾を吐いた。血が飛び散り、床と靴先に赤い斑点が出来る。それを忌々しそうに見つめ、慧はようやく踵を返した。
だが、そのまま店から出て行こうと、扉に手をかけたとき、慧が開けるより先に、扉が開く。
「きゃっ……ごめんなさいっ」
小さな悲鳴と慌てた謝罪が聞こえた。声の主は、たった今出勤してきたらしい、若い娘だ。水商売に入ってまだ日が浅いのだろう、わざとらしく金色に染められた髪とは正反対に薄化粧で、どこか初々しさを残している。肌のハリもよく、歳も若そうだ。慧はその娘の顔をジッと見つめ、一歩下がった。そこからさらに今度は全身を上から下まで観察するように見て片眉を上げる。
「お前、名前は?」
「え、あの……茜《あかね》です」
「本名か?」
「いえ、本名は菜月《なつき》と言います」
「歳は?」
「にじゅう……いち」
二十一だと答える菜月に、慧は、嘘はダメだなと諭すように話す。すると彼女はすみませんと恐縮し、本当は十九だと答えた。
十九なら、夜の店で働いても法律には触れない。誤魔化さなくていいんだぞと慧は笑った。それにつられて菜月も笑う。その笑顔を楽しそうに見つめる慧は、不思議と歳相応に見えた。さっきまでの凶行が嘘のようだ。
血塗れの店長、坂崎を次の部屋に置いたまま、慧はしばらくその娘、菜月と他愛無い談笑を重ね、数分も経ってから、じゃあまたなと愛想良く片手を上げて別れた。
このアンバランスはなんだろう?
菜月と笑い合う慧は、まるで普通の少年だ。もしかしたら、さっき坂崎という男に暴行していたのは、慧と同じ顔をした別人なんじゃないのかとさえ思える。まさかとは思うが、二重人格じゃないだろうなと、怖くなった。
彼はなにを考え、なぜ自分にこれを見せたのだろう? そんなことをぼんやりと考えながら、裕二も後に続く。
「ねえ慧?」
「なんだ?」
「さっきの、ああいうの、キミはいつもやってるのかい?」
「ああいうの?」
彼の真意が知りたい。
裕二はベンツに乗り込んで二人きりになってから訊ねてみた。慧は何の話だと首を捻る。裕二がなにを聞きたいのか、本当にわからないらしい、不思議そうな顔をしていた。
「さっきのお店でやってたことだよ、人を殴ったりお金を取ったり、ああいうこと」
他人のモノを盗るのはいけないことだ。暴力を振るうのも悪いことだ。そんなことをすれば相手は苦しむし、見ている周りの者も悲しい。自分だって辛いはずだ。だから、そういうことはしてはいけない。
裕二は、まだ善悪の区別もつかない、幼い子供に教え諭すように話し訊ねた。すると慧は相手を哀れむような、少し寂しそうな目をして淡々と答える。
「ああ、いつもやってる、他人を殴ったり蹴ったり、突き落としたり、金を取ったり、店を壊したり、娘を攫ったり……それが俺たちの商売だ」
「攫う? 女の子を?」
「ああそうだ、辺鄙な場所においといても商品はその価値を発揮しない、あるべきところにあってこそ、価値もあがるってもんだ、俺は娘たちに、より儲かる場所と快適なシステムを提供してる、感謝して欲しいね」
娘を攫うと慧は言った。まるでチェーン店の社長が支店を回り、より良い商品をより売れる店へと配置しようとするかのように当然だと話した。
あまり当たり前に話すので彼のほうが正しいような気になる。ついうっかりそうだねと頷きそうだ。だがそれは誘拐ではないのか? だとしたら犯罪だ。
「まさか、さっきの菜月という女の子も、攫う気かい?」
「あの娘はまだだ、あと数ヶ月して、二十歳を超えたら……そのときまだ、商品価値がありそうだったら連れ出してやる」
「そんな……」
慧はそれを悪いことだとはまるで思っていないようだった。自分は彼女らを助けているのだ、劣悪な環境から救い出してやっているのだと聞こえる。
彼女らがなぜあんな風俗店で働くようになったのか、それはわからない。自分の楽しみのためかもしれないし、もしかしたら誰かに騙されて働かされているのかもしれない。彼氏や親の借金のカタに娘が働くと言うのもヤクザ映画やバイオレンス小説などではよく聞く。もし彼女らが不本意な事情でそこにいるのだとしたら、そこから連れ出してやるのは、ある意味人助けだ。
しかし金を取るのはやはり良くないだろう。あれは恐喝、もしくは強盗だ。そこを話すと、慧はそれこそ子供の戯言を聞いたように鼻で笑った。
「本気で言ってるのか? 誰もがやってることだぞ」
「誰もがってそんなわけないだろ、僕はやってない、僕の知ってる人たちだってそんなこと……」
誰もしてないよと話そうとして、言葉は留まった。慧が小さく溜息を漏らす。彼は、聞き分けのない子供の屁理屈を聞き、うんざりしている年寄りのような顔をしていた。
「いいか裕二、この世界、誰もが他人より儲けよう、肥え太ろうとしてる、そのためなら他人の財産だって掠め取る、いちいち相手に同情してたら金はこっちに回って来ない、欲しいもんは奪い取るしかない、それが世の中ってもんだ」
商人は、たとえそれが粗悪品とわかっていても、良い品ですよと消費者を騙し、高額で売りつける。不動産屋も、なんの使い道もない荒地を、お買い得ですよと嘘をついて客に勧める。社長はいかにして、社員に残業代を払わずに多く働かせるか、いかにして有給を使わせないまま会社を辞めさせるかを画策する。保険屋は肝心なときに保険金が支払われないような穴だらけの保険商品を買わせようとするし、いざ何かあったときには、それこそ重箱の隅を突くようにして金を支払わないでいい理由を探そうとする。
どこも同じ、誰も同じだ。どうやって他人を騙し、いかにして自分だけが得をするか、それだけを考えている。それを卑怯だとか良くないことだなどと言っていては騙され搾取されるだけになる。相手はこちらを騙し、少しでも多くぶん盗ろうとしているのだ、こちらもそれなりに武装して防備しなければ潰されてしまう。
攻撃は最大の防御、盗られる側になりたくないなら、盗る側に回るしかないだろうと、慧は話した。
「でもそれじゃあ世の中、泥棒だらけになっちゃうじゃないか」
「そうさ、世の中泥棒と殺人鬼だらけなんだよ、大人しくしてたら奪われるだけの人生になる、だから俺は、娘たちに奪われるだけの人生じゃなく、奪う快感も味合わせてやってる」
それのなにが悪いんだと聞き返す慧に、裕二は言葉を失った。
泥棒や強盗、殺人が悪いなど誰もが知っている。恐喝や誘拐は犯罪だ。しかし世の仕組みはそれと殆ど同じ、法の網を潜るように、ある一定のルールに従ってさえいればなにをしても許される世界だ。それはたしかにその通りだし、裕二もそれに対する反論は思いつかなかった。だがどこか釈然としない。それではこの世は成り立たない。それに、そんな人間ばかりじゃないはずだ。いい人だっているよと小声で話すと、慧はそういう奴らはたいてい弱者、負け組だと答えた。
「人助けばかりしてる奴に、裕福な奴や著名人がいるか? いないだろ? それは人助けなんかしてたらそこまで行けないからさ、所詮弱者の寄せ集め、傷を舐め合ってるだけに過ぎないんだ、そういう奴らだって、本当にドン底に来たら豹変する、百人の人間が処刑されるとき、その中の一人だけ助けてやると言われたら、誰でも自分だけが助かろうとするんだ、そのために隣の人間を刺し殺せとナイフを渡されたら、そいつは昨日までの隣人、友人を刺す、最後まで相手を信じて武器を取らなかった者が、真っ先に死ぬんだ、そう思わないか?」
そんなことないよと、裕二は答えられなかった。それはたしかにその通りだと思うからだ。
個人的には最後まで相手を信じて武器を取らない人間のほうが好きだ。だがそうするのが本当に正しいと他人に説くことは出来ない。そうすることでその人が死んだりしたら、それは自分のせいだ。世界中が武器を取らない人間だけになればいいとは思うが、それは絵空事でしかない。もしそうなっていたら、そもそも戦争も飢餓もないだろう。
自分だって他人のことは言えない。誰かが不利益をこうむるとわかっていても、それを止めることで自分にその不利益が降りかかってくると思ったら止められない。現に、さっき坂崎が暴行されているときも慧が金庫から金を奪ってくるときも自分は止めなかった。正義を説く資格はない。
裕二が消沈するのを見て、慧はなにを思ったのか、優しい目をして、ぽんと裕二の肩を叩いた。お前はそれでいいんだと肯定してもらえたような気がして、少しだけ心が軽くなる。
それにしても、なぜ慧は、こんな考え方をするようになったのだろう?
十八歳ならば少しくらい世の中や大人に反感を持つのは普通だし、斜めに構えている若者も多い。しかしたいていは口先だけの反抗であり、誰も自分が犯罪を犯してまで世の仕組みに一矢報いようとは考えない。慧にそれをさせる、そもそもの理由はなんだ?
慧と彼の仲間たちはいったいどんなつながりで、彼らはなんなのか、それは聞いたら答えてくれるんだろうか?
疑問を抱えたままベンツは廃ビルに帰りついた。
車から降りた慧は酷く疲れた表情で階段を上がっていった。まるで死刑台に繋がる十三階段を上るように、その足取りは重い。
本当はやりたくないんじゃないのか? ふとそんな気がして、裕二は階段を駆け上がる。そして丁度階段の真ん中、踊り場あたりで捕まえて訊ねた。
「慧、もしかしてキミ、嫌なんじゃないの? 他人を傷つけたり脅したり、そんなことやりたくないんだろ?」
訊ねると慧は一瞬救いを求める少女のような儚い表情を見せた。今にも泣き出して、縋ってきそうに見えた。しかしそれはほんの一瞬で、すぐにムッとしたような真顔になり、裕二の手を振り払う。
「やりたいね、他人を脅すのも、金を奪うのも、殴るのも、楽しくてしかたない、やりたくてうずうずしてるよ」
「嘘だ」
「本当だ」
「嘘だよ! やりたくないって顔に書いてある、嘘はやめてくれ!」
「知ったふうな口、利くな! お前になにがわかる?」
怒鳴り返して来た慧は、激昂し、今にも殴りかかって来そうだった。しかしその顔は、どこか泣きそうだ。
間違いない、彼は嫌がっている。そう確信した裕二がさらに攻める。
「わからないよ! わからないから知りたいんだろ!」
慧が何者で、この組織がどんな存在で、何をしているのか、そして話の端々に出てきた曽我部という男が何者なのか、結衣子と慧と曽我部の関係はなんなのか、全てがわからない。だからそれを聞かせてくれと、胸座を捕まえるようにして叫んだ。だがそこで後ろから襟首をつかまれ凄い力で引き離される。あまりに勢いが強すぎて眩暈がしたほどだ。
離されてすぐに強烈な膝蹴りが入った。内臓が捻じ切れ、破裂したんじゃないかと思うような激痛で、胃液が逆流してくる。噎せて吐き出そうとしたが、その前にもう一発、今度は脇腹を蹴られ、裕二は血反吐を吐きながら、踊り場に倒れた。霞む意識で薄目を開けると、殴りかかって来たのは石田だった。
「調子に乗ってんじゃねえぞ、藤宮に意見しようなんざ三千年早えんだよ!」
「でも……僕は」
「なにが僕だ! 特別扱いされてんと思って生意気なんだよ、殺されてえのか!」
石田の怒りは、子供じみていた。たぶん半分は嫉妬だ。
一番後から来たくせに、慧の関心を攫い、大事にされていると、裕二を妬んでいるのだ。そして後の半分は純粋に、心配なのかもしれない。なぜと問うことで、慧が堪えられなくなることを恐れている。だがそれこそが知りたいのだ。
この様子だと石田は全てを知っているのだろう。しかし彼がそれを打ち明けてくれるとは思えない。石田には慧を護りたいという思いの他に、慧を独占しておきたいという邪な欲望がある。自分から慧を取り上げる可能性のある人間に真実は話さないだろう。となれば、慧本人に聞くしかない。
裕二が蹲りながらも果敢に睨み返したとき、慧の低い声が響いた。
「石田!」
まるで地の底から響いてくるような声に、石田も顔色を変えて黙る。怯える石田に、慧はゆっくりと近づいていった。その歩みは陽炎のようで、周りの空気さえ歪ませる。石田と慧の間だけ、空間は捻じ曲がり、僅かに霞んで見えた。
「何度も言わせるな、裕二は部外者、俺の客人だ」
「けどな! こう何度もじゃ目潰れねえぞ、このままあいつをのさばらせておいたらどうなるか……」
反論する石田の語尾は徐々に小さくなり、仕舞いには震え声になった。言い方もやり方も乱暴だが彼は本当に慧を心配しているのだ。
だがそれでは解決にならない。石田では慧を救えない。ではどうすればいいのか、慧を救うための鍵はどこにある? そう考えたとき、石田もその糸口に気づいたのか、顔を上げた。
「お前、こいつを曽我部の代わりにでもする気か?」
曽我部の名を出すと慧は再び激昂した。かっと燃えるような目で石田の襟首を掴んで殴りつける。その一撃は強烈で石田は踊り場から階段下まで転げ落ちた。全身を強く打ったらしい石田は、呻きながらよろよろと立ち上がり、階段上に立つ慧を見上げる。
「そいつは無理だぞ、こんな青白い野郎に負いきれるわけねえだろ」
切々と訴える石田を、慧は冷たい目で睨んでいた。もう諦めろと石田は言い、慧は押し黙る。
だがやがて根負けした石田が視線を下げると、慧は裕二に手を出すなとだけ告げて話を打ち切った。そして踊り場に倒れこんだままの裕二に話しかける。
「知りたいことがあったらいつでも聞いていい、それに俺が答えるかどうかはわからないが、聞く権利だけは与えてやる」
「慧……」
その表情を見て気づいた。もしかしたら慧自身にもなにか呪縛があり、答えられないのかもしれない。その呪縛が組織的、現実的なにかなのか、それとも精神的なモノなのかは別にして、彼には理由も経緯も説明できないのだ。
「斎藤」
「はい」
裕二があらぬ想像を巡らせていると、慧は一番後ろに控えていた他の連中より少し年上に見える男を呼んだ。斎藤と呼ばれたそいつは、慧に呼ばれてから初めてその傍により、畏まる。
「裕二を部屋まで送ってってやれ、この調子じゃ歩けないだろ」
「わかりました」
今時珍しい角刈りの斎藤は慧の言うことにいちいち畏まって頷く。だがやはりその態度は敬っているというよりは、溺愛する孫を見守る祖父のようだ。いや、斎藤はどう見ても四十前、慧は十八だから、孫と祖父というほど歳は離れていない、せいぜい親子か、歳の離れた兄弟だ。
兄貴分でありそうな斎藤が、弟分であろう慧に傅いている。その光景が奇妙だった。
「裕二、聞きたいことは斉藤に聞いていいぞ、俺は無理でも斉藤ならなにか答えられるかもしれないからな」
「え……?」
急な話に裕二も戸惑ったが、斉藤も戸惑っているように見えた。強面、という言葉がぴったりの迫力ある男の背に僅かな動揺が窺える。
「キミは教えてくれないの?」
「俺にもいろいろ立場ってもんがあるのさ、だが斎藤が喋るぶんには咎めない」
慧の立場、というモノはなんとなく理解出来る。慧はこのよくわからない組織のたぶんトップで、そして囚人だ。自由なんてないも同然なのだろう。そう納得した。
「わかったよ」
斉藤に支えられながら階段を上り出した裕二は、慧のおかれた立場を想像していた。
しかしいくら考えてもすべては想像の域を出ない。疑問は膨らむばかりで好奇心があふれ出す。話しかけるには少し勇気がいるが、ここはやはり斎藤に聞くしかない。
「あの……」
「裕二さん」
「え?」
「あ」
同時に口を開いてしまい、二人とも先が出なくなった。大柄で強面に似合わず、遠慮深いらしい斎藤は、なにか言いたそうな表情で、しばらく裕二を見ていたが、やはりなにも言わずに口を閉ざす。そのまま二人とも口を利けなくなり、あっという間に裕二の部屋についてしまった。