程なくして裕二の部屋に訪れた紗枝は、濃い化粧と赤茶けた髪の水商売の女といった感じだった。あまりにそれらし過ぎて、逆に嘘臭いくらいだ。
「あなたが佐々木さん? なんて呼びましょうか、佐々木さんでいい? それともなにかご希望ありかしら?」
「佐々木でいいです、あの……」
 紗枝は部屋へ入ってくるなり、小さなショルダーバックを部屋の隅へ放り投げ、コートも脱いだ。裕二がのろのろと返事をする間に、ストッキングも脱ぎ、チュニックのボタンまで外しはじめる。
「待ってください! 僕、そんなつもりじゃ……」
「なに? アンタ慧から紹介されたって言ったでしょ? そういうつもりじゃないなら、どんなつもりなのよ、ふざけてんの?」
「いえ、そうじゃなくて……」
 慌ててとめようとすると、紗枝は怪訝な表情で動きを止め、胡散臭そうに裕二を見返した。
 裕二は最初、彼女に失踪の理由を聞こうと思っていた。もしかしたらそれは慧が関係しているのではないか、彼に拉致されたのではないかと思ったからだ。
 だが彼女からはそんな被害者的様子が見うけられない。目に見えない事情があるのかもしれないが、それを推し量るのは難しそうだ。もし何らかの弱みでも握られているとしたら、正面から聞いても答えないだろうし、かえって警戒されてしまうかもしれない。
「ただちょっと退屈だったから話し相手にでもなってもらえればって」
「話し相手? やだ、馬鹿にしてるの? アタシじゃ抱けないとでも?」
「いや、そうじゃなくて、僕、あんまりそういうのしたことないから……」
「あのね、話しだけなんて、そんなことしたらアタシが慧に怒られちゃうわ、男ならちゃんとしてよ!」
 紗枝は叫ぶようにそう言ったが、それは苛々してとか、怒ってというよりは、戸惑ってのように見えた。
 裕二は立ったままでいる彼女の手を引いて、ベッドの上へ座らせた。もしかしたら怯えているのかもしれないと思ったからだ。なるべく普通に話をさせたい。
 しかし彼女は、再び立ち上がり、床に投げ出された小さなショルダーから、煙草を取り出した。そして百円ライターで火を点けながら、また腰を下ろす。
「なに見てんのよ、灰皿は?」
「え? ぁあ、待って……」
 裕二は慌てて続きになっている洗面所へ向かい、そこの洗面下収納庫から、ステンレス製の石鹸受けを持って戻った。
「ごめん、これ、使って? 今ここ、なんにもないんだ」
「いいわよ別に、アンタのせいじゃないわ、上等」
 彼女は差し出された石鹸受けを直にシーツの上へ置き、とんとんと灰を落としては、また口に咥える。そして様子を窺うように、自分を落ち着かせようとするように、何度かそれを繰り返してから、ようやく煙草を揉み消した。
「で? なにを話す?」
 落ちかけてくる髪を煩そうに揺らし、彼女は首を振った。裕二を見返す目は生気がなく、煙草の吸い過ぎだろうか、肌もだいぶ荒れている。チュニックのボタンは外されたまま、留められないので、白い胸が半分近く見えていた。その緩やかな丘の上には、少し黒くなり始めているシミが点々と見える。それはキスマークというよりは痣のようで、不幸な境遇を想像させた。
 裕二は目のやり場に困りながらも、思い切って一番聞きたかったことを聞いた。
「あの、キミは、慧とはどういう関係……なのかな?」
「恋人よ、決まってるでしょ」
「え、でも……」
 紗枝はきっぱりと答える。だがその答えには頷けなかった。恋人という名に一番近いのは、どう考えても結衣子だろう。今も慧は、彼女と部屋に引き篭もっている。
 そこまで考えてドキリとした。
 彼女は今、慧に抱かれてるのだろうか? 慧の態度と周りの様子から言って、それは極当然のことなのだろうが、頭の中に浮かんだ生々しい図に、裕二は奇妙な不安を感じた。
 あの清楚で凛とした結衣子が、まだ少年の域を出ていないと見える慧に抱かれている。空から降り立った異人種のように高潔に見えた慧が、女と寝ている。そう考えただけで体の内側がざわざわと粟立ってくる。なにかとても禍々しい交わりに、それは思えた。
「なによ、なんか言いたいの?」
「あ、いやだって、慧の恋人って結衣子さんじゃ、ないのかなと」
 結衣子の名を出すと、紗枝はあからさまにムッとした顔をした。それはライバル心というよりは、憎しみに見える。
 一人の男に女が二人、争い憎み合うのは容易に想像出来るが、それだけではないような気がした。
「ふざけないで! あの女は慧を苦しめるだけの存在よ、清潔そうな顔をして、男二人手玉にとって、笑ってるんだわ」
 二人というのは、慧ともう一人、さっき話題に出ていた曽我部という人物のことだろう。結衣子は元々その曽我部と恋仲だったと話されていた。曽我部というのがどんな人間で、慧とはどういう関係なのかよくわからないが、少なくとも結衣子を挟んでライバルだったのだろうことはわかる。仔細はともかく、結衣子は元、曽我部という男の恋人で、曽我部はなにか拙いことがあり慧を裏切って逃げた。そして結衣子は恋人が逃げた途端に慧に乗り換えたということだ。

 そう言ってしまえば、たしかに結衣子の行動には疑問を持つ。だいたい二人でいるときも、彼女には慧に対する愛情が見えない。いや、愛情はあるのだろうが、恋人に対するモノとは見えない。
 では何だろう?
「慧のこと、なんにもわかってないくせに、わかったみたいな顔してさ、最低っ」
 紗枝の話は多分に感情的で、嫉妬混じりだ。正確な情報ではないかもしれないと思いつつ、裕二はその言葉尻を捉えた。
「じゃあ、キミは慧を知っているの?」
「知ってるわよ」
 くしゃくしゃになった箱から新しい煙草を取り出し彼女は、優越感に浸ったような薄笑いで、当たり前じゃないと答える。彼女の口から零れる煙は、部屋の空気に溶け、あたりは少しだけ薄暗くなった。紗枝はその薄闇に隠れるように話した。

「初めて会ったとき、慧は大きな坂道の下に突っ立ってた……何してたと思う?」
「なに? わかんないよ、なにしてたの?」
 聞かれた意味もわからず、裕二は首をかしげた。すると紗枝は遠い目をして、少し怒ったように答える。
「……自分に向かって走ってくるダンプを見てたのよ」

 その日、友人と別れ、家に帰ろうとしていた紗枝は、自宅へと向かう途中、道端に佇む少年を見つけて立ち止まった。それはその少年がとても綺麗な顔をしていたからつい見蕩れたという、単純な理由だ。
 美しさに見入り、そして、気づいた。
 少年は、泣いていた。
 涙は出ていない。声も上げていない。それでも泣いているとはっきりわかる。少年を包む哀しみの深さに、胸が締め付けられた。
 本当に悲しいときは涙も出ないと聞いたことがあるが、泣くことさえ忘れるくらいの絶望と哀しみに、少年の心が叫んでいるのが見える気がした。
 虚空を見つめる瞳は黒く濡れ、白い肌にキリリと赤い唇が、とても痛々しく映る。世の中に、こんなに美しい人間がいるのかと、ただ純粋にその美に見蕩れながら、自分とはなんの関係もない、行きずり少年を、紗枝は切なく見つめた。
 あんな目をして、彼はいったいなにを見ているのだろう?
 ふと少年の視線の先を追うと、坂の上から少年に向かって走ってくる一台の大型ダンプカーが見えた。
 そこはT字路の突き当りになっていて、交差するようにその道に繋がっている道路は、急な上り坂だった。勾配角度「二十%」の標識がある。かなりの急勾配だ。
 その坂の頂上から、泥だらけの大型ダンプカーが、猛スピードで走って来る。坂道の長さとダンプのスピードを考えると、T字にぶつかる部分で止まれるようには思えなかった。
 正面は、高台にある住宅地を支えるコンクリートの塀だ。今すぐ減速しても、間に合わず、ダンプカーはコンクリートに激突、大破するだろう。だがそうなればあの少年は、コンクリートの壁とダンプの間に挟まれて即死だ。
 逃げて!
 心の中でそう叫んだ。しかし少年は、自分に向かって走ってくるダンプカーを漠然と見つめたまま、動こうとしない。
 動けないのかとも思ったが、そうではなさそうだ。彼は、お前のゴールはここだとでも言うように、そのダンプを見つめ、悠然と佇んでいる。逃げようとか、助かりたいとかいう意思は、まるで感じられない。助かる気はないのだ。
 彼は死のうとしている。
 そう感じた紗枝は、咄嗟に叫んだ。
「ダメ! 死なないでっ!」
 その叫び声を聞き、少年が振り向く。だが避けるには間に合わず、ダンプは少年に突っ込んだ。
 鋭いブレーキ音と、激突の轟音が響き渡り、紗枝も思わず目を閉じる。
 数秒後、目を開けると、コンクリートに激突して大破したダンプが見えた。あたりには、激突の衝撃で投げ出されたのだろう車内装備品が散らばっている。
 ダンプはぐしゃぐしゃで、運転手はフロント硝子に突っ込んで血塗れだ。これで助かる者はいないだろう。

 あの少年はどうなっただろう? 
 ダンプが激突する寸前、振り向いた少年は、紗枝のほうを見ていた。遠く離れてはいたが、たしかに目が合ったと確信できる。死んでほしくない。
 少年の生を願いつつ、紗枝の足はそこから動かなかった。そこにあるだろう、少年の遺体を、見たくなかったのかもしれない。
 だがそのとき、ただ呆然と事故現場を見つめる紗枝の目に、信じられない光景が映った。ダンプを挟んで紗枝と反対の方向から、少年が出て来たのだ。
 頭から赤ペンキをぶちまけたかのように真っ赤に染まった少年は、可笑しくて仕方がないというようにクスクスと笑いながら、ふらふらと歩き、数メートル行った所でアスファルトに座り込んだ。

 信じられない。
 生きてる。

 あんなに血だらけなのに……彼は不死身かと慄きながら、紗枝は炎に魅かれる蛾のように、運命に魅入られ、少年へと近づいて行った。
 少年は着ていた白い綿シャツを脱ぎ、それで顔面の血を拭っていた。そして、紗枝が近づくと、ふっと顔を上げる。無心な、仔犬のような目をしていた。
「怪我は……?」
「……お前」
 紗枝が声をかけるのとほぼ同時に口を開いた少年に、さっきまでの儚さはまるでない。無表情で不遜な態度だった。
「死ぬ気だったのか?」
「え?」
「ダンプが突っ込んで来るのが見えてたんだろ? なんで来たんだ」
「あ……」
 少年に指摘され、紗枝はそのときはじめて、自分が少年に向かって走っていたことに気づいた。彼を死なせたくないという思いが強過ぎたのかもしれない。
「死ぬのは勝手だがな、俺の前ではやめろ」
「アタシは別に……死のうとしてたのはアナタでしょ」
「俺が?」
「そうよ、違うの?」
 自分に向かってくるダンプを眺めたまま微動だにしないなんて、それは死を望んでいるからとしか思えないと少し強い口調で問い質すと、少年はムッとした顔で口を尖らせた。
「だからなんだ? もう飽きたんだよ、十六年も生きてりゃ充分だ、さっさと次に行かせてくれってヤツさ」
「なに言ってんの、十六年って……たった十六年よ、まだまだこれからでしょ、なにに絶望してんだか知らないけど、これからいくらでも……」
「いくらでも? 絶望できるってのか? まさかいいことがあるなんて言うなよ?」
「あるわよ、いいことくらい……」
「ないな」
 思わぬ反論に紗枝もつい語気を弱めた。すると少年はそこにつけ込むように、絶対いいことなど起きないと言う。そうなると紗枝も意地になる。
 この美しい少年には、もっといいことがあっていいはずだ。望めば芸能人にだってなれるだろうし、それでなくとも魅かれない者はいない。こんな綺麗な子が人生に絶望なんて、甘えてるとしか思えない。もしそうなら許せないと思った。だから一度弱めた語気を強め、言い返す。
「あるのよ! ないと思うのはアナタが甘えてるだけよ、絶対あるの! 生きてて良かったって、思う日が絶対来るから!」
 真剣に、怒鳴るように諭す紗枝の顔を、少年はジッと見ていた。ただ無表情に、少し責めるような目をして見つめていた。その視線には、憎しみが入り混じって見える。
 黙って紗枝を見ていた少年は、やがて遠くから迫って来るサイレンの音を聞き、すいと立ち上がった。
「それが証明できるならついて来い」
「え……?」
「生きてて良かったと、俺が思う日が来るのか、その目で確かめろ」
 命令口調ではあったが、それは少年の願いのように聞こえた。助けてくれ、見捨てないでくれと言われているような気がした。
 少し躊躇っていた紗枝に、少年が囁く。
「最後までいいことが起きなかったら、お前の言うことが嘘だとわかったら、俺がお前を殺す、地獄で詫びを入れさせてやる、自分が正しいと思うなら来い」
 少年の言い分は酷く理不尽で身勝手だ。だがそれは彼の切なる願いのような気がした。
 これを断ったら、自分が見捨てたら、彼は死んでしまう。そう感じた紗枝は、その場で少年について行くことを決めた。
「わかったわ、アナタと行く」
 ついて行くと答えた紗枝を、少年は一瞬不思議そうに見返した。そしてさりげなく視線を逸らせて、紗枝の手を取る。
「来い、後悔させてやる」
「しないわよ」
「どうだかな」
「しません!」
 ムキになって言い返す紗枝を見て、少年は初めてクッと笑った。その微かな笑顔がとても可愛らしく見えた。擦れて見えても、やはり歳相応の顔も見せる少年なんだとホッとした。そして自分にその顔を見せてくれたことが嬉しかった。
「アナタ、名前はなんて?」
「慧、藤宮慧だ、お前は?」
「小林紗枝よ」
 紗枝が答えると、慧は演歌歌手みたいな名前だなと面白そうにまた笑った。自分の言葉が慧を笑わせてやれる。それがとても嬉しかった。
 サイレンの音が近づいて来る。慧は音のする方をチラリと見て、紗枝の手を握ったまま、反対方向へと走り出す。
「紗枝、お前は今日から俺のモノだ、いいな」
「いいわ」
 買いこんで来たブランド物の洋服やバッグを放り捨て、血塗れの少年、慧と走る。
 その日、紗枝は、流行の服を纏った我侭女子大生だった自分を脱ぎ捨て、ただ慧と生きるモノになった。