石田自身も同じくこのビルに住んでいるらしいので、あまり強くは言えないのだろうが、今回は別だ。
 裕二は今まで慧が拾って来た連中と違い、どう見ても文科系、兵隊にはならないだろう。つまりはただの居候だ。それではまったくの部外者を近くにおくことになる。
 盃を受けて配下に下るというなら、ある程度締め付けも出来るし、命令も出来る。だが部外者となるとそうもいかない。管理出来ない員数外の人間がいるということは何をするにもリスクをあげ、やりにくくなる。石田は裕二の入居には反対だと言った。それでも慧は考えを変えない。

 裕二も戸惑っていた。まだ慧から直に、ここへ住むようにとも言われていないし、自分も慧に、住処を探していると話した覚えはない。
 小説を書くことを反対された時点で、書き続ける気なら家から出るしかないと考えていたので、いずれは出る気でいた。書き続けられるかはまだわからないが、それでも最初から書かない前提ではいられない。住む場所は必要だ。
 ここに住まわせてもらえるならそれは渡りに船ではあるが、反対されては住みにくい。ましてこの雰囲気では、慧が仕切るこの集団は、暴力団、もしくはそれに順ずるなにかだろう。これまで生きてきた世界とかけ離れ過ぎていて少し怖い。
 戸惑う裕二を余所に、あくまでも考えを変えない慧の襟首を掴み、石田が怒鳴る。
「かまうだろ! そんな得体の知れない人間、もし刺客だったら……っ」
「裕二はそんなんじゃない」
「わかんねえだろそんなの!」
「わかるんだよ」
 慧と石田は再び掴み合うように睨み合った。とにかく石田は、慧のやること全てが心配でならないらしい。
 というより、慧が心配なのだろう。慧を見つめる彼の目は、モノ言いたげに少し潤んで見えた。たぶん慧も、石田の思いをわかっているに違いない。怒鳴りながらも、その瞳は優しい。
「もう黙ってろ、とにかく裕二はここにおく」
 小さく息を吐いた慧は、石田の肩にポンと手をかけ、裕二に向き直る。自分の横を通り過ぎる慧を、石田は黙って見送った。その表情は、母親に見捨てられた子供のように幼く痛々しい。
「裕二」
「え? ぁ、はい」
「お前はなにも考えなくていい、適当な部屋で適当に暮らせ、食いもんと、あと必要なモノは遠藤《えんどう》に聞け、大抵のもんは用意してくれる、遠藤、頼んだぞ」
 声をかけられた遠藤という男は、背が高く、厳つい顔をしていたが歳は若そうだ。たぶん慧とそう変わらないのだろう。剃り込みの入ったその顔は、いかにも硬派のヤンキーといった風情だが、彼の態度には、娘の我侭に手を焼きながらも、溺愛する父親のような、どこかゾッとする雰囲気があった。

 慧と、周りにいる男たちとの関係は、とても奇妙だ。
 一見すると慧は組織の中心、リーダーで、その存在は絶対的カリスマでさえある。逆らうことを許さない圧倒的な優位が、慧にはあるように見える。だが、それはあくまでも上っ面だけの話だ。先ほど見た光景や、石田、遠藤らの態度を見ていると、慧は組織の上に立ち、率いているリーダーではなく、男たちによって祭り上げられている虚像のような気がしてくる。
 慧の冷たい言葉や、作り笑いの下に、常に怯えている子供がいるような気がした。

「じゃあそういうことで、またな」
「え? いや、待ってよ」
 ボンヤリ考えていると、慧はじゃあなとこともなげに立ち去ろうとした。だが裕二としても、そこで放り出されては困る。慌てて追い縋った。
「そんなこと言っても僕はここに知り合いもいないし、なんだか……」
「なんだか?」
 慧は裕二に背を向けたまま、目線だけで振り向いて、語尾を繰り返す。まるで優柔不断を責められているような気がして、裕二は勢いを落とした。
「いや……だってなにをしていいのか、キミはどこへ行くの?」
「聞くなよ、野暮な奴だな」
 結衣子の腰を抱き寄せた慧は、いかにも可笑しそうにクッと笑う。そこで裕二は初めてその意味に気づき、赤面した。周りの男たちもニヤニヤと笑っている。笑ってないのは裕二と石田だけだ。
 いたたまれない思いで俯く裕二を横目に、慧は懐から薄い手帳を取り出してよこした。咄嗟のことで、慌てて取り落としそうになりながら、裕二はそれを受け取る。
 中には、ズラリと女性の名前と住所、電話番号が書き込まれてあった。

「暇ならその中から適当に見繕って女でも抱いてろ、俺が言ったと言えばすぐに来る、たっぷりサービスしてもらいな」
「え? え、そんな……っ」
 裕二は戸惑ったが、慧も今度は立ち止まらなかった。そのままじゃあなと片手を上げ、結衣子と二人で隣室へと消えていく。
「ちょっと待っ……」
 取り付く島もなかった。残された裕二は、手帳片手に立ちつくす。
 ここはどう考えても、ヤクザかそれ紛いの組織だろう。自分とは無縁の世界だ。そんなところに、一人放り出されては敵わない。女どころじゃない。
 慧には悪いが、このまま帰らせてもらおうかと思った。だがそこで先ほど慧に名指しされた遠藤が、こっちへ来いと招く。恐る恐るついて行くと、二階の一室を宛がわれ、ここで大人しくしてろと突き放されてしまった。

 そこは八畳ほどの、ベッドの他にはなにもない部屋で、テレビ線なのか電話線なのかわからない線が、壁から数センチの位置で千切れて転がっていた。
 ひどく閑散としていて、床もベッドも埃が積もっている。それでも、外が見渡せるベランダ付きの大きな窓があったので、裕二は埃の積もった掛け布団を外してベランダで叩いた。ついでに部屋の隅に転がっている、乾ききった雑巾らしき物を、部屋備え付けの洗面台で湿し、床面を拭いた。ついてしまった汚れはそう簡単に落ちないが、とりあえず埃臭さだけは取り払い、ようやくふうと息をついてベッドの上に腰を下ろす。
 やることがなくなると、やはり落ち着けない。仕方ないので、ズボンの尻ポケットから、さっき慧に手渡された手帳を取り出した。そして、別に慧が言ったように女性と遊ぼうと思ったわけではないが、暇だったので書き込まれている女性の名を眺める。
「あれ……?」
 そこでおかしなことに気づいた。書き込まれている女性の名のいくつかについて、どこかで見たような気がしたのだ。
 手帳にはざっと数えて十名近くの女性の名が書かれてあるのだが、その三割近くが、どこかで見た名前だった。どこで見たのかと考えても、すぐには答えが出てこなかったが、どうも気のせいとは思えない。
 よく見ると、手帳には女性の住所氏名電話番号の他に、なにか日付が書き込まれてある。最初は誕生日だろうと思ったのだが、どうも違うようだ、幾人かの女性の書き込みには謎の日付の他に誕生日がBirthdayの欄に書き込まれてある。
 ではこの日付けはなんだろう? 不思議に感じながらもページを捲り、最後のページに書かれている女性の名を見てハッとした。数日前に行方不明になり、事件の可能性もあるとして、テレビでも報道されていた女性の名だ。そして、書き込まれてある日付は、その女性が行方をくらませたとされる日付と同じだった。

 改めてさっき見覚えがあるような気がした女性たちの名を読み返してみる。するとそのほとんどは、行方不明者と報道されている女性だった。
 ある日突然姿を消し、事件事故の両面から捜査中と報道されていた女たちの名だ。日頃から、小説のネタにでもなればと、ニュース番組で報道されるちょっと不思議な事件を見ていたので、よく覚えている。古いものはもう一年以上前になるし、さすがに絶対そうだと確信はないが、たしかそんな名前だと思った。
 たかが行方不明、家出や失踪などざらにある話しだし、それだけなら別に変わった点はない。だが消えた女性たちは一様にして、行方不明になるような事情もなく、日頃からトラブルなどもなかったと報道されていた。つまり、消えた理由がわからないのだ。
 それが慧の手帳に書き込まれている。それも、あの口ぶりだと、彼女らは慧の言うことならなんでも聞くという感じにとれる。それはどういうことだろう? まさか、女性たちの失踪に、慧が関係しているのか?
 急に背中が寒くなり、全身に鳥肌が立った。
 震える手で手帳を捲り、その中の一番最初に行方不明になっている女性のページを開く。
 女性の名は小林紗枝《こばやしさえ》。失踪は一年半前、当時女子大生だった彼女は、友人とショッピングを楽しんだ後、買った品々を持ったまま、突然消えた。家を出るときも、いつもと変わらず、持ち物も小さなバック一つ、ちょっと近所に出かけるだけといった風情で外出し、そのまま家に戻ることはなかった。
 買い物に付き合った友人も、別に変わった所はなかったと証言しているし、買い物を終え別れたのもそう遅くない、十六時頃だったという。
 消えた理由はまったく思いつかず、事件か事故の可能性が大きいと、たしか報道されていた。
 古い記録なのにも関わらず、裕二がそれを覚えていたのは、彼女の名前が当時好きだった女の子と同じ名前だったというだけの偶然だ。だがおかげでおぼろげながら失踪当時の彼女の顔も、報道写真を見て、なんとなく覚えている。
 彼女に会ってみよう。覚悟を決めた裕二は、それからすぐに彼女、小林紗枝へ電話を入れた。