「おはようございます!」

開け放したままの縁側で柱にもたれ、その人はウトウトと座っていた。

「風邪を引きますよ?」

仕上がったばかりの厚手の半纏をかけてあげる。

「あの部屋で私と寝るのがお嫌なら、こちらで寝てもらってもよいのですよ。その方が、晋太郎さんの体も休まるでしょうから」

私は大丈夫。

にっこりと微笑んで、その顔を見上げる。

「無理をするのもさせるのも、私の本意ではありませんので」

まだ幻のような感触の残る手を、ぎゅっと握りしめた。

昨夜一晩、この手を握ってくれたのは、その手だったはずなのに……。

「手をつないだことを、もう後悔しているのですか?」

肩にかけた半纏を、その人はずるりと床に落とした。

「無理とはなんのことでしょう。それは昨晩のことを言っているのですか」

「……。余計な手間をかけさせました。あのようなことは、もういたしません」

すぐに謝る。

濃い朝霧が枯れた桔梗の庭を隠していた。

この庭の手入れだけはいつもかかさない人なのに、どうしてこんな枯れ草をいつまでも放っているのだろう。

「あなたは悔やんでおいでか」

「時が過ぎても、解決しないことはあるのです」

何一つ表情を変えないこの人は、今なにを思っているのだろう。

「そうですね。分かりました。食事の前には、手を洗っておいてください」

朝餉の席について、その人は黙々と食事を済ませる。

お勤めに出る後ろ姿を見送って、ようやく緊張の糸が解けた。

あの人のいないこの家に、ほっとする。

その日は午後になって、屋敷の塀の向こうから調子外れの祭り囃子が聞こえてきた。

「明後日は酉の市ですからね。大方どこかの歌舞妓一座でも、舞台の呼び込みを始めているのでしょう」

妙善寺の酉の市だ。

参道を埋め尽くす、たくさんの屋台と人の波……。

「そんな日に出かけるもんじゃありませんよ。買い物に行くなら、日を改めないと……」

「あの、お義母さま」

私は勇気を振り絞った。

「早めに、済ましておきたい用事があるのです。本日中に出かけていっても、よろしいでしょうか」

「まぁ、いいわよ。いってらっしゃい」

今一度、あの方にお会いしたい。

義母の許しを得て、急いで部屋に駆け戻る。

文台の上で簡単に化粧を直すと、外へ飛び出した。

「志乃さま、どちらへ!」

お供を連れて行くわけにはいかないのは、行き先を知られたくないから。

町娘のようでいい。

その方に相談に行くことを、誰にも知られたくない。

勤めに出ている晋太郎さんの帰ってくるまでには、素知らぬ顔で戻っていたい。