「さ、もう一局」

「これでは、勝負にも手習いにもなりませぬ」

「私が勝てばよいのです」

小さな子供のように、この人はぷいと横を向いた。

「ですが、勝負に負けたら私は、一日言うことを聞かねばならないのでしょう?」

「そうですよ」

「それは出来ません」

同じくムッとしたその人は、私を無視したまま神妙な面持ちで盤に黒石を並べ始めた。

「十三も石を先に置くのですか!」

「今日は私が勝ちたいのです」

涼しげな顔でそう言ってのけたこの人に、さすがの私もカチンと来た。

「これで勝負をしようとは、恥ずかしくはないのですか?」

「いいえ全然。さ、始めますよ」

「出来ません!」

「では不戦敗ということで。私の勝ち」

キッとにらみつけても、一向に気にする気配はなし。

「なにかお気に召さないことでも?」

「言いたいことがあるのなら、直接言えばいいではないですか!」

「口答えは無用です。今日は一日、言うことを聞いてもらうのですから」

「いつも大概、言うことを聞いて過ごしております!」

晋太郎さんは、ふっと笑った。

「あなたは、ご自身ではそう思おいかもしれませんが、私も譲るべきところは、大いに譲っているのです」

いつになくツンとすましたその人の目が、何だか癪に障る。

譲る? 晋太郎さんが? この私に? 

この人は突然、何を言い出すのだろう。

開いた口が塞がらない。

こみ上げてきた怒りに、全てがバカバカしくなってきた。

「昨夜したかったお話なら、いまお伺いします」

「それは……もういいのです」

「お話があったのではないのですか」

返事はない。

この人は横を向いたままだ。

「……。気分が悪いので休みます」

「今日一日、私の言うことを聞くというお約束は?」

「そんなのはなしです」

「それは残念」

縫いかけの小袖を手に立ち上がった。

やってらんない。

「……。私に、なにをさせたいのですか?」

「それは秘密です」

にらみつけても、ビクともしない。

「あなたと一日過ごせる日が来ることを、楽しみにしております」

ドカドカと廊下を歩き、襖をぴしゃりと閉める。

視界がにじんだ。

どうして泣いているのかも、なんで勝手に涙が出てくるのかも分からない。

意味の分からないことで、こんなくらいのことで、いちいち泣いてしまう自分に腹が立つ。

手の甲でそれを拭った。

バカみたいだ。自分が。

久しぶりに兄の顔を見たせいだ。

きっと、嫁入り前の気楽な暮らしを思い出してしまったせいだ。

ここへ来てずっと我慢してきたことが、一気にあふれ出す。

こんな理不尽なやり方で私を好きに扱えるなどと、思わないでほしい。

家の都合が優先される結婚において、理想なんてものは、あるわけないと分かってた。

そんなものに夢見たことはない。

多分自分は恵まれているのだろうし、そうだとも思う。

それでも後から後からあふれ出す涙を、どう理解したらいいのかが分からない。

自分になんの選択権もないことが、悔しいんだ。

晋太郎さんに悪気のないことは分かっている。

だけどそれならばなおさら、変に誤魔化したりしないで、ちゃんと言ってほしかった。

こうやってたまり続けるオリのようなものが行きつく先で、私はどうなってしまうのだろう。

「志乃さん、入るわよ」

義母が顔を出した。

鼻水をすする私を見下ろし、ため息をつく。

「気分が悪いのね、お昼はどうする?」

「自分で……、適当に済ませますので……」

「そ。じゃあいいわね」

あの人は心配してのぞきにも来ないのに、お義母さまはちゃんと来てくれる。

なんだか本当に腹が立ってきた。

決めた。

今日はもう絶対に何もしない。

布団を取り出して、すぐその場に敷く。

空気はまた一段と涼しさを増していた。

もう夏は終わったんだ。

横になると、私は目を閉じた。