「それがあの時の家出か」
 父親の言葉に、幸彦は頷いた。
「騒がせて悪かったけど、どうしても行きたかったから」
「彼の店に辿りつけたんだな」
「珠城さんの店の前まではね。
 でも、ドアを開けるのは怖くて出来なかった。それで、あらかじめ用意しておいた、沢村信吾さんの名前で書いた手紙をドアの下に置いて、逃げるように帰ってきたんだ。
 家出騒ぎまで起こしてしたことだけど、本当に珠城さんが来てくれるかは半信半疑だった。来てくれないかもしれない、助けてくれないかもしれない……。そうして思い悩んでいるうちに、珠城さんが現れることなく、僕は十六歳の誕生日を迎えてしまって……諦めて湖に入って、温海のところに行っていまおうか、そう思った。その方が楽だったから。でもその時、珠城さんが来てくれた。……あの時はそんな顔をしなかったけど、本当はすごく、嬉しかったんだ」
 幸彦が珠城に顔を向けると、彼はにこりとして頷いた。
「はい、判っています」
「……『謎工房』という雑誌が幸彦の部屋にあったのは知っていたよ」
 野村が独りごとのように呟いた言葉を、珠城が受けて言った。
「はい。僕も、彼の部屋の机の上に『謎工房』が置いてあるのを見ました。それで、あの手紙を書いたのは君だと確信しました」
「やっぱりよく見ているよね、珠城さんって」
 軽く笑うと、幸彦は湖に向き直った。足元でひたひたと揺れる暗い水面を、彼は愛おしそうにみつめる。
「あの時は怖くて仕方が無かった。でも、今はもう怖くないよ」
 そして、幸彦は何の躊躇もなく、突然、湖に飛び込んだ。それは一瞬の出来事で、周囲にいた大人たちは全く動くことが出来なかった。
「……幸彦!」
 悲鳴を上げて、香織が湖に飛び込もうとするのを、寸前で野村が止めた。
「離してよ! 幸彦が死んでしまう!」
「待て! 私が行く!」
「だめです」
 もみ合う夫婦を珠城は一言で止めた。呆然と自分をみつめるふたりに珠城は穏やかに言う。
「あなたたちはここで幸彦くんをお待ちください」
「いや、しかし……」
 おろおろする野村を無視して、珠城は水際にしゃがみ込むと、その水面に静かに手を浸した。


 ☆
 水。
 いや、これはゼリーだ。
 柔らかくて優しい、甘いゼリーの中に僕はいるんだ……。

 幸彦は透明な世界にいた。
 沈んでいるのか、浮かんでいるのかも判らない。不思議な感覚だった。
 あまりの心地の良さに、思わず目を閉じた時、突然、誰かが力強く腕を引っ張った。驚いて目を開けると、そこには知らない少年の顔がある。
 思わず、幸彦は腕を振り払おうとしたが、少年は決して掴んだ腕を放さなかった。

 誰?
 そう問いかけた瞬間に幸彦は悟った。
 ああ、この少年は沢村信吾だ、と。

 沢村、信吾さん?
 心で呼びかけてみたが、少年は微笑むだけで何も答えなかった。代わりに幸彦の体を自分に引き寄せると両手で支え、ゆっくりと上へと押し上げた。
 え? 何?
 驚いている幸彦のその体を、少年の手と入れ替わって別の手が支えた。それは微かにラベンダーの香りがした。
 ……温海?
 確かめようと目を凝らしたが、幸彦の目にはたゆたう水の色しか映らなかった。その手は更に彼の体を上へと押し上げ、違う手に渡した。今度のその手は今までとは違って、しっかりとした存在感があり、力強く幸彦の体を抱きとめた。
 この手は……誰だろう?


「幸彦! しっかり!」
「もう少しだ、頑張れ!」
「幸彦くん!」
 たくさんの声が上から降り注いでくる。うっすらと目を開けると、水の透明な膜の向こうから必死で手を伸ばし、自分を支えようとするたくさんの手が見えた。
 そうか、僕はまだ、そっちにいていいんだね……?
 幸彦はそこで意識を失った。


 病院のベッドで目を覚まし、幸彦が最初に見たものは心配そうに自分を覗き込む大人たちの顔だった。
「……父さん、母さん?」
 かすれた声で二人を呼ぶと、母親は安堵で泣きだし、父親は心からほっとした顔で頷いた。その後ろで申し訳なさそうに立っている佐々木と、看護師に付き添われ、椅子に座って微笑んでいる老婦人の姿も見えた。
「沢村のおばあちゃん……」
 声を掛けると、老婦人は一層、優しく微笑んで言った。
「湖に落ちたんだってね。大した怪我も無くて良かったこと」
「おばあちゃんは大丈夫なの?」
「どうしてそんなことを聞くの? 私はいつも大丈夫だよ」
「え、でも」
「幸彦くん」
 静かに佐々木が言った。
「沢村さんは湖でのことを何も覚えていないんだよ。ただ、お前のことを心配してここに来てくれたんだ」
「ああ、そうなんだ」
 幸彦は少し迷った後、声を落として佐々木に聞いた。
「じゃあ、あの白骨のことも?」
「ああ、判っていないな。ただ、沢村さんは息子の信吾には会ったとは言うんだよ。まだ死んだとは思っていないようだ」
「会った?」
「信吾は閉じ込められていた場所から解放されて、やっと自分の元に戻ってくることが出来たって。沢村さんには信吾の姿が見えているのかもな。白骨や遺体としてではなく」
「そう」
 幸彦は沢村婦人の今までにない幸せそうな顔をしばらくみつめてから言った。
「沢村信吾さんは湖で失くした自分の体を取り戻して、お母さんの元に帰れたんだね。それで沢村のおばあちゃんが幸せならそれでいいと思う」
「ありがとうね、優しい子だね」
 沢村夫人は満足そうに微笑んだ。そして彼女に付き添っていた看護師に促され、静かに病室を出て行った。
 その後ろ姿を見送った後で、佐々木は遠慮気味に幸彦に尋ねた。
「なあ、お前と温海は沢村さんとどんな話をしていたんだ? 暗示にかけられた、なんてことを香織……君のお母さんは心配していたが」
「暗示? まさか」
 笑って、幸彦は母親に目を向けた。
「僕も温海も、最初は調べることが目的で沢村さんに近づいて話を聞いていたんだけど、接していくうちに沢村さんのことが好きになっていて、気がついたら家族みたいに思うようになってたんだ。
 だから、沢村さんと一緒にいる時は、彼女の息子、娘に僕らはなりきっていたんだよ。そう思ったのは自然の成り行きで、暗示に掛けられたわけじゃない。あなたたちは復讐とかそんなことを気にしているようだけど、沢村さんの世界にそんな怖いものはないよ。ただ、愛情があるだけの人だった」
「……そうか」
 その愛情に温海は呑まれてしまったのかもしれないな。
 佐々木は重い気持ちでそう思ったが、口にしたのは別の言葉だった。
「お前はもう大丈夫だな?」
「え。あ、うん」
「それじゃあ、俺たちは行くから」
「……どこに?」
「警察だよ」
 野村が横から口を挟んだ。明るい口調だった。
「今更だが、きちんと話をしてくるよ。これから、またお前に迷惑を掛けることになると思うが……済まないな」
「いいよ」
 あっさりと幸彦は言った。
「本当に今更だけどね」
 そして目を伏せる。すると自分の意思に反して涙がこぼれ落ちた。
「幸彦……」
 悲しげに香織が息子の名を呼んだ。が、それに続く言葉が出てこない。結局何も言えず、逃げるようにして病室を出て行った。
「……じゃあ、行くよ。お前のことは看護師さんに頼んであるから」
 野村はそう言うと幸彦の頭を撫でて病室を出て行った。
 幸彦はたまらず、目を閉じる。大人たちが出て行く気配に耳をそばだてて聞いていたが、不意に体を起こすと、今まさに出て行こうとする佐々木の背中に声を掛けた。
「待って、佐々木さん。あの人はどこ? 珠城さんはどうしたの?」
「……いないよ」
 佐々木は少し、気の毒そうに幸彦を見て言った。
「いつの間にかいなくなってた」
「それってどういうこと?」
「お前は覚えていないだろうが、湖に落ちたお前を助けてくれたのは珠城さんだよ」
「え?」
 湖の中で次々と現れては消えた自分を助けてくれた手を思い出す。
 最後のしっかりとした存在感のある手は……珠城さんだった?
「なんというか、マジックでも見せられたようだったよ。彼はあの時、ただしゃがみ込んで湖の水の中に手を差し入れただけだった。しばらくしてから、野村や香織、俺に同じことをしろと言うんだ。緊迫した状況だったから、みんな何も言わず、言う通りにした。
 そうしたら、今まで何も見えなかった真っ黒な湖面が急に透明になって、俺たちが差し入れた手のすぐ下にお前がいるのが見えた。みんなで必死に引っ張り上げた。それでお前は助かったんだ。
 気を失っているお前にみんな気を取られているうちに、いつのまにか珠城さんは居なくなっていた。……あの人は闇の中から不意に現れ、そして現れた時と同じように闇の中に消えていった。……不思議な人だったな」
 闇の中に消えて……。
「ああ、そうだ。忘れるところだったよ」
 佐々木はポケットから一通の手紙を取り出すと、幸彦に差し出した。
「この手紙、珠城さんが置いて行ったものだ。お前が持っているのがいいだろう」
「これは……」
「お前が珠城さん宛てに信吾の名前で書いた手紙だろう?」
「う、うん」
 少し躊躇しながらも、幸彦はその手紙を受け取った。まじまじと手紙を見ている幸彦に佐々木はじゃあなと手を上げて病室を出て行った。
 一人になった幸彦は、どこか違和感を覚えながら、のろのろと封筒から便箋を取り出し広げた。そして、はっとする。
 この字は……。
 文面はあの時のままだ。だけど、この筆跡は……僕じゃない?
 思わず、封筒をひっくり返し、差出人の名前を見る。
 沢村信吾という名前。
 当たり前だ。自分が書いたのだから。しかし、幸彦は震える自分の手を止めることが出来なかった。
「この手紙を書いたのは……僕なんかじゃなくて、本当に沢村信吾さんだったのかもしれない……」
 以前より柔らかくなった自分の心を抱きしめながら、幸彦は何もかもを見透かしたような珠城の澄んだ瞳を思い出していた。


(水を抱く おわり)