恋など存在せず。思慕など成らず。
 諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから。

 (せつ)嘉音(かおん)がその言葉を思い出すたび、母の最期が脳裏に浮かぶ。病に冒されていた母は何度もそれを言っていた。その言は、諭すにしては妙に重たく、後悔が混じっている気がした。やるせない顔をして語るほどつらい目にあったのだろうかと気になり、心に深く刻み込まれていた。

「嘉音様」

 庭の黄櫨(こうろ)を見上げていた嘉音は、名を呼ばれて振り返った。下男の天雷(てんらい)がいる。彼は嘉音と目を合わせるなり穏やかに微笑んだ。

「こちらにいらっしゃったのですね。奥様がお呼びです」
「……少し外の風を浴びてから、行くわ」

 天雷は「わかりました」と頷き、嘉音の隣に並ぶ。彼も黄櫨を見上げた。
 風が吹けば、真っ赤に色づいた黄櫨の葉が揺れる。寒さが増す頃にはこの葉もすべて落ちるのだろう。尽きる前の勢いよく燃えさかる火を彷彿とする赤色だ。

「お母様のことを考えていたの」
「おふたりは、よくこの木を見上げていましたね」
「私たちが安らげるのは空を見上げている時だったから」

 亡くなった母は庭に出るたび空を見上げていた。しかし薛家の庭には立派な黄櫨の木があるため、ここから空を見上げても葉や枝が視界をちらつく。それでも食い入るように母は空を見上げていた。母の仕草が忘れられず、嘉音も空を見上げる癖がついた。

 母は(せつ)大建(だいけん)の第二夫人だった。元は使用人であったが大建に気に入られて妾となり、嘉音を宿した。本当は屋敷を抜け出て一人で産み育てるつもりだったらしい。それが出来なかったのは母の体が弱かったためだ。母は生まれつき病弱だったため、子を宿していると大建に知られれば第二夫人の道しか選べなくなった。

「私も、お母様と同じようであれば良かったと思うの。どうして私は生きているのかしら」

 何度も考えたことだ。母と共に死んでいたら、どれほど楽だったのだろうと。陰鬱とした気に落ちてしまうのは、この後に『奥様』のところに行かなければならないからだ。

 奥様とは薛夫人を指す。薛大建の第一夫人である彼女は嘉音を快く思っていない。知らぬうちに大建が使用人に手をだし、さらには庶子までもうけたのだから、嘉音や嘉音の母を厭うのは仕方の無いことでもあった。
 薛夫人は我が子を寵愛し、庶子である嘉音を冷遇することが多い。それは使用人にも知れ渡っていて、薛夫人の機嫌を損ねないよう彼らも嘉音に冷たくあたった。この屋敷に住みながら、嘉音も居場所はなかったのである。

「また奥様に何か言われましたか? 俺でよければ話を聞きますよ」

 天雷が問う。そこで嘉音は黄櫨から視線を外し、隣を向いた。

「私が何を言っても、嫌いにならない?」
「もちろんです。俺は嘉音様の味方ですから」

 沈んだ様子の嘉音を励ますように、その肩に手を置く。きっと奥様やその子らであれば、下男が触れることを快く思わないのだろう。嘉音は違った。天雷が近くにいて、このように彼が触れることを嬉しく感じる。肩に伝わるぬくもりが心地よい。

「この屋敷で、下男である俺を人間のように扱ってくれるのは嘉音様だけです。許されるのならば一生、あなたに忠誠を誓います。だからあなたがどんな話をしたとて、嫌いにはなりませんよ」

 天雷がここに連れてこられたのは、嘉音が七歳の頃だった。どういう生まれかはわからないが、彼の姉を名乗る女が連れてきた。姉弟で働くことが決まったが、姉はすぐに病で亡くなった。姉を欠いても天雷はここに残り、下男として勤めている。
 嘉音にとって年近い天雷はよき遊び相手であり、彼が仕事を終える頃を見計らってよく遊んだ。嘉音には腹違いの姉と兄がいたが、どちらも嘉音を疎んじていたので共に遊ぶことはない。接する時間は天雷の方が多かったほど。

 母を失った嘉音にとって、唯一信じられるのは天雷だけ。天雷もそうであったと思う。居心地の悪く陰鬱とした薛家で、互いの存在だけが希望だった。
 だからこそ天雷には話しておきたかった。しかし彼の顔を見て話せる自信がなく、嘉音はうつむく。

「私が話したいのは、奥様が私を呼ぶ理由よ」
「それはどのような?」
「……お父様が、薛家の娘を後宮に送ることを考えているそうなの」

 天雷が息を呑んだ。彼は賢い男である。すべての話を聞かずとも察したのかもしれなかった。

「ここは成り上がりの武家と呼ばれているもの。お父様の腕一本でのし上げてきたような家で戦が起きなければ武功をあげられない。だけど、娘が妃嬪になれば薛家の地位は盤石なものとなる。帝は若く、即位したばかりだから、いまのうちにと考えているみたい」

 父である薛大建は華鏡(かきょう)(こく)の兵団を率いる将軍だ。若い頃に風禮(ふうらい)(こく)との戦があり、そこで武功をあげ、将軍の地位に上り詰めた。現在は風禮国とは友好関係にあり、戦はない。だからこそ薛家の地位を安泰なものにすべく躍起になっている。娘を後宮に送るのはそのためだ。

 薛家にいる娘は、腹違いの姉と嘉音の二人だ。子が帝の妃嬪になるのは名誉なことで、薛夫人の性格ならば喜んで実子を送りそうなものだが、今回ばかりは違った。

「お姉様は行きたくないと言ってたわ」
「……そう、でしょうね」

 天雷も俯く。

「帝に寵妃がいるというのは有名な話で、俺でも知っているほどです。たしか、皇太子の頃からその方ばかりを愛でているんでしたね」
「そう。帝は寵妃を一途に愛で、他の妃嬪には目もくれない――華鏡国にいる者は誰でも知っている話よ。そんな場所に妃嬪として送られたって、飼い殺しにされるようなもの」

 愛だの恋だのに夢を抱いてはいない。庶子といえ裕福な家で育った嘉音はそれを心得ている。しかし、愛されることがないとわかっていて嫁ぐのは寂しいものだ。家のためといえ、毎夜寵妃の元に通う帝に嫁ぐなど気が重たくなる。
 そういった理由があり、嘉音の姉は後宮入りを嫌がっている。薛夫人もそれを不憫に思い、姉ではなく嘉音を向かわせようと画策していた。

 薛夫人がそれを薛大建に提案していたのは昨晩のことだ。夜半眠れず庭に出ようとした嘉音はそれを聞いてしまった。薛夫人が嘉音を呼んでいるのもこの話のためだろう。

「きっと私が選ばれる。そうなれば奥様だって、厄介払いができて喜ぶでしょうし」

 天雷の顔は青ざめ、この話に動揺しているようだった。
 嘉音は食い入るように彼を見つめる。反応を伺ってしまうのには理由があった。

(私は、行きたくない。ずっと天雷のそばにいたい)

 嘉音は天雷のことを好いている。後宮に送る話を聞いた後、嘉音が沈んでいたのは彼のことを想うためだ。

 このつらく厳しい薛家の屋敷で耐えていられたのは天雷がいたからだ。最初は友のようであった天雷は、嘉音が成長すると共に大きな存在になっていった。薛夫人や姉に厳しい物言いをされても彼が励まし、時にはかばってくれた。どれほど冷遇され嘉音がひとりになったとしても、彼が寄り添ってくれた。
 そんな天雷と離れることが最もつらい。ずっと共にいられたらよいと願ってしまう。

(許されるのならば天雷と一緒に逃げたい。帝の妃嬪になりたくない)

 妃嬪として後宮に入る。それは帝に嫁ぐということだ。できることならば好いた者に嫁ぎたいと願ってしまう。だが嘉音が薛家の娘であるように、天雷は薛家の下男。身分の違いは簡単に崩れず、それでも共になるのならばすべてを捨てなければならない。

(二人で逃げようと提案したら……天雷はどう答えるのかしら)

 口にできずにいたのは自信がないためだ。嘉音は天雷を好いているが、天雷が嘉音をどのように想っているのかわからない。それを確かめることも恐ろしく感じた。もしも拒絶されてしまえば、きっと生きることさえつらくなる。

「嘉音様は……それで、いいのですか?」

 天雷が問う。彼の体は震えていた。彼も言葉を交わすことを恐れているのかもしれない。いままでの関係が崩れていく音は、二人の耳に、確かに届いていた。

「私は――」

 そこで、思い出した。下女であった母が薛大建に未来を奪われ、薛家を出たくとも出来ず、ついに生を終えた悲しき母の遺言を。

「『恋など存在せず。思慕など成らず。諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから』」

 口にしてみれば、あの日の母と同じ顔をしている気がした。まるで籠の中の鳥だ。自由はなく、いやでも抗う術はない。諦めて生きるしかないのだ。きっと母もそう感じて、この言葉を紡いだのだろう。

 これを聞いた天雷は、はっとして嘉音を眺めた。その表情に絶望の色が浮かんでいる。

「嘉音様はお優しい方ですからきっと受け入れていくのでしょう……俺は、諦めたくありません」

 そう呟いて、天雷が歩いていく。それを引き止めることはできなかった。
 黄櫨の葉が風に揺れている。雪の季が来る前の、赤に燃えた黄櫨の葉が。



 翌日のことだった。あまり屋敷に寄りつかない薛大建にしては珍しく朝から屋敷にいた。その日は屋敷が騒がしく、その足音は嘉音の元にもやってきた。

「嘉音、聞きたいことがある」

 その声音から物々しい雰囲気を感じ取り、嘉音も表情を強ばらせた。

「お前によく懐いていた下男がいるだろう。あいつを見なかったか」
「天雷のことですね。彼が何か?」

 大建の老いた眼が細められ、じいと嘉音を見つめる。

「今日あいつを見ていないのか?」
「そういえば今日は一度も……」

 問われて思い出す。いつもならば、庭掃除や(くりや)の手伝いを終えると顔を出している。たとえ忙しくても隙があれば嘉音の元に来る人で、天雷と顔を合わせずに一日を終えたことはいままで一度もない。それが今日は彼を見ていない。
 何かおかしい。異変に気づき嘉音の顔色がみるみる青くなっていく。

「屋敷を探したがどこにもいない。お前ならば知っているかと思ったが……」
「わ、私、天雷を探してきます!」

 どこにいるのだろう。庭かそれとも厨か。他の使用人に手伝いを頼まれたのかもしれない。嫌な予感に急かされて立ち上がる。その足はふらついていた。

 嘉音だけではなく、どういうわけか大建も焦っているようだった。

「……見つからなければ……困ったことになる……」

 大建は頭を抱え、他の部屋を探しにいく。使用人の失踪などよくあることだろうに、天雷に対してはそれを超えているような気がした。

 嘉音は駆け出した。次々と屋敷内を探す。大建が声をかけたらしく他の使用人らも捜索に加わったが、天雷の姿はどこにも見当たらなかった。

(天雷、どこに行ってしまったの)

 ついには屋敷中を探し終え、庭に出ていた。

 赤々と色づいた黄櫨の葉が揺れている。天雷と共に見上げたのと変わらない色をしているが、今日は嘉音一人だ。
 ここまで探しても見つからないとなれば、屋敷の外に出たと考えられる。自ら出て行ったのかそれとも何者かに連れていかれたのか。不審者の報告はなかったので連れて行かれた可能性は低い。自らの足で出て行ったと考えた方がよいだろう。

(どうして……どうして私を置いていったの……)

 思い当たるのは、嘉音が後宮に送られるかもしれないという話を彼に聞かせてしまったことだ。あの話を聞いて天雷は表情を変えていた。諦めたくないと言い残している。

(あんな話をしなければよかった。私のせいで天雷が出て行ったのかもしれない。もしかしたら絶望して今頃――)

 悔やんだところで時間は戻らない。天雷が戻ってくることもない。
 すると屋敷の前に誰かが来ていた。庭にいた嘉音はいち早くそれに気づき、天雷かもしれないと期待して駆けつける。

「……ん? 君は、ここの娘かな?」

 そこにいたのは天雷ではなく、初めて会う男だった。独特の衣を纏っている。街で流行っているらしい風禮国の服だ。異国の服だけでなく、するりと通った鼻筋に大きく開いた目。瞳の色は薄く、顔立ちもここらで見かけるものと異なっていた。

 駆けつけてしまったが別人だからといって逃げ出すわけにはいかず、だが知らぬものに名乗る勇気もない。嘉音は困惑していた。

「わ、私は……」
「ああ。そんなに怖がらなくてよいとも。僕は(かつ)公喩(こうゆ)と言ってね、一介の占師だ。薛家に用があって来ただけさ」

 占師と聞けば、なるほど、そのような出で立ちをしている。
 しかし薛家に占師が来るなど初めてのことだ。武芸のみを信じてきた大建はこういったものを嫌う。薛夫人が呼んだのか、それとも姉か。
 そう考えているうちに屋敷の奥から大建が現われた。表情は強ばり、何かを畏れているようだった。

「公喩殿、いったい何用で」
「そんなこと聞かずともわかっているだろうに。探しものをようやく見つけたからね、迎えにきたんだよ。ここに隠していたことはわかっているよ」

 二人の会話を聞き、嘉音は眉をひそめた。

(探しもの? 何のことだろう)

 しかし、大建が嘉音に向き直り「屋敷に戻っていなさい」と告げたので、それ以上を聞くことはできなかった。

 屋敷に戻りながら振り返って、二人を見る。話はまだ続いているようだった。

「もう、あの方は……」
「……それは、困ったね……いったいどこに」

 大建の様子から察するによくない話だろう。
 それよりも嘉音の頭は天雷のことでいっぱいだった。大建が占師の相手をしている間に、天雷が見つかるかもしれない。再び屋敷内の捜索に戻った。



 朝と夜を何度繰り返したところで天雷が戻ることはなかった。黄櫨の葉が落ち、雪の季を迎える頃になれば、天雷がいないことが当たり前のようになっていく。
 嘉音にとって生きる希望であった天雷が欠けたことは、人生から色を失うようなものであった。楽しみはすべて奪われ、呆然と庭を眺めるだけの日々である。

「恋など存在せず。思慕など成らず」

 ひとり、呟く。その言を聞くのは庭を覆う白い雪だけだ。
 失って初めて、天雷に抱いていた感情の大きさを知った。恋をしていた。天雷のことが何よりも好きだった。

「諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから」

 あの日に逃げだそうと提案していればよかったのだろうか。その後悔すら、諦念によって霞んでいった。
 母の遺言通りである。嘉音の思慕は成らず、恋は終焉を迎えた。