恋など存在せず。思慕など成らず。
諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから。
薛嘉音がその言葉を思い出すたび、母の最期が脳裏に浮かぶ。病に冒されていた母は何度もそれを言っていた。その言は、諭すにしては妙に重たく、後悔が混じっている気がした。やるせない顔をして語るほどつらい目にあったのだろうかと気になり、心に深く刻み込まれていた。
「嘉音様」
庭の黄櫨を見上げていた嘉音は、名を呼ばれて振り返った。下男の天雷がいる。彼は嘉音と目を合わせるなり穏やかに微笑んだ。
「こちらにいらっしゃったのですね。奥様がお呼びです」
「……少し外の風を浴びてから、行くわ」
天雷は「わかりました」と頷き、嘉音の隣に並ぶ。彼も黄櫨を見上げた。
風が吹けば、真っ赤に色づいた黄櫨の葉が揺れる。寒さが増す頃にはこの葉もすべて落ちるのだろう。尽きる前の勢いよく燃えさかる火を彷彿とする赤色だ。
「お母様のことを考えていたの」
「おふたりは、よくこの木を見上げていましたね」
「私たちが安らげるのは空を見上げている時だったから」
亡くなった母は庭に出るたび空を見上げていた。しかし薛家の庭には立派な黄櫨の木があるため、ここから空を見上げても葉や枝が視界をちらつく。それでも食い入るように母は空を見上げていた。母の仕草が忘れられず、嘉音も空を見上げる癖がついた。
母は薛大建の第二夫人だった。元は使用人であったが大建に気に入られて妾となり、嘉音を宿した。本当は屋敷を抜け出て一人で産み育てるつもりだったらしい。それが出来なかったのは母の体が弱かったためだ。母は生まれつき病弱だったため、子を宿していると大建に知られれば第二夫人の道しか選べなくなった。
「私も、お母様と同じようであれば良かったと思うの。どうして私は生きているのかしら」
何度も考えたことだ。母と共に死んでいたら、どれほど楽だったのだろうと。陰鬱とした気に落ちてしまうのは、この後に『奥様』のところに行かなければならないからだ。
奥様とは薛夫人を指す。薛大建の第一夫人である彼女は嘉音を快く思っていない。知らぬうちに大建が使用人に手をだし、さらには庶子までもうけたのだから、嘉音や嘉音の母を厭うのは仕方の無いことでもあった。
薛夫人は我が子を寵愛し、庶子である嘉音を冷遇することが多い。それは使用人にも知れ渡っていて、薛夫人の機嫌を損ねないよう彼らも嘉音に冷たくあたった。この屋敷に住みながら、嘉音も居場所はなかったのである。
「また奥様に何か言われましたか? 俺でよければ話を聞きますよ」
天雷が問う。そこで嘉音は黄櫨から視線を外し、隣を向いた。
「私が何を言っても、嫌いにならない?」
「もちろんです。俺は嘉音様の味方ですから」
沈んだ様子の嘉音を励ますように、その肩に手を置く。きっと奥様やその子らであれば、下男が触れることを快く思わないのだろう。嘉音は違った。天雷が近くにいて、このように彼が触れることを嬉しく感じる。肩に伝わるぬくもりが心地よい。
「この屋敷で、下男である俺を人間のように扱ってくれるのは嘉音様だけです。許されるのならば一生、あなたに忠誠を誓います。だからあなたがどんな話をしたとて、嫌いにはなりませんよ」
天雷がここに連れてこられたのは、嘉音が七歳の頃だった。どういう生まれかはわからないが、彼の姉を名乗る女が連れてきた。姉弟で働くことが決まったが、姉はすぐに病で亡くなった。姉を欠いても天雷はここに残り、下男として勤めている。
嘉音にとって年近い天雷はよき遊び相手であり、彼が仕事を終える頃を見計らってよく遊んだ。嘉音には腹違いの姉と兄がいたが、どちらも嘉音を疎んじていたので共に遊ぶことはない。接する時間は天雷の方が多かったほど。
母を失った嘉音にとって、唯一信じられるのは天雷だけ。天雷もそうであったと思う。居心地の悪く陰鬱とした薛家で、互いの存在だけが希望だった。
だからこそ天雷には話しておきたかった。しかし彼の顔を見て話せる自信がなく、嘉音はうつむく。
「私が話したいのは、奥様が私を呼ぶ理由よ」
「それはどのような?」
「……お父様が、薛家の娘を後宮に送ることを考えているそうなの」
天雷が息を呑んだ。彼は賢い男である。すべての話を聞かずとも察したのかもしれなかった。
「ここは成り上がりの武家と呼ばれているもの。お父様の腕一本でのし上げてきたような家で戦が起きなければ武功をあげられない。だけど、娘が妃嬪になれば薛家の地位は盤石なものとなる。帝は若く、即位したばかりだから、いまのうちにと考えているみたい」
父である薛大建は華鏡国の兵団を率いる将軍だ。若い頃に風禮国との戦があり、そこで武功をあげ、将軍の地位に上り詰めた。現在は風禮国とは友好関係にあり、戦はない。だからこそ薛家の地位を安泰なものにすべく躍起になっている。娘を後宮に送るのはそのためだ。
薛家にいる娘は、腹違いの姉と嘉音の二人だ。子が帝の妃嬪になるのは名誉なことで、薛夫人の性格ならば喜んで実子を送りそうなものだが、今回ばかりは違った。
「お姉様は行きたくないと言ってたわ」
「……そう、でしょうね」
天雷も俯く。
「帝に寵妃がいるというのは有名な話で、俺でも知っているほどです。たしか、皇太子の頃からその方ばかりを愛でているんでしたね」
「そう。帝は寵妃を一途に愛で、他の妃嬪には目もくれない――華鏡国にいる者は誰でも知っている話よ。そんな場所に妃嬪として送られたって、飼い殺しにされるようなもの」
愛だの恋だのに夢を抱いてはいない。庶子といえ裕福な家で育った嘉音はそれを心得ている。しかし、愛されることがないとわかっていて嫁ぐのは寂しいものだ。家のためといえ、毎夜寵妃の元に通う帝に嫁ぐなど気が重たくなる。
そういった理由があり、嘉音の姉は後宮入りを嫌がっている。薛夫人もそれを不憫に思い、姉ではなく嘉音を向かわせようと画策していた。
薛夫人がそれを薛大建に提案していたのは昨晩のことだ。夜半眠れず庭に出ようとした嘉音はそれを聞いてしまった。薛夫人が嘉音を呼んでいるのもこの話のためだろう。
「きっと私が選ばれる。そうなれば奥様だって、厄介払いができて喜ぶでしょうし」
天雷の顔は青ざめ、この話に動揺しているようだった。
嘉音は食い入るように彼を見つめる。反応を伺ってしまうのには理由があった。
(私は、行きたくない。ずっと天雷のそばにいたい)
嘉音は天雷のことを好いている。後宮に送る話を聞いた後、嘉音が沈んでいたのは彼のことを想うためだ。
このつらく厳しい薛家の屋敷で耐えていられたのは天雷がいたからだ。最初は友のようであった天雷は、嘉音が成長すると共に大きな存在になっていった。薛夫人や姉に厳しい物言いをされても彼が励まし、時にはかばってくれた。どれほど冷遇され嘉音がひとりになったとしても、彼が寄り添ってくれた。
そんな天雷と離れることが最もつらい。ずっと共にいられたらよいと願ってしまう。
(許されるのならば天雷と一緒に逃げたい。帝の妃嬪になりたくない)
妃嬪として後宮に入る。それは帝に嫁ぐということだ。できることならば好いた者に嫁ぎたいと願ってしまう。だが嘉音が薛家の娘であるように、天雷は薛家の下男。身分の違いは簡単に崩れず、それでも共になるのならばすべてを捨てなければならない。
(二人で逃げようと提案したら……天雷はどう答えるのかしら)
口にできずにいたのは自信がないためだ。嘉音は天雷を好いているが、天雷が嘉音をどのように想っているのかわからない。それを確かめることも恐ろしく感じた。もしも拒絶されてしまえば、きっと生きることさえつらくなる。
「嘉音様は……それで、いいのですか?」
天雷が問う。彼の体は震えていた。彼も言葉を交わすことを恐れているのかもしれない。いままでの関係が崩れていく音は、二人の耳に、確かに届いていた。
「私は――」
そこで、思い出した。下女であった母が薛大建に未来を奪われ、薛家を出たくとも出来ず、ついに生を終えた悲しき母の遺言を。
「『恋など存在せず。思慕など成らず。諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから』」
口にしてみれば、あの日の母と同じ顔をしている気がした。まるで籠の中の鳥だ。自由はなく、いやでも抗う術はない。諦めて生きるしかないのだ。きっと母もそう感じて、この言葉を紡いだのだろう。
これを聞いた天雷は、はっとして嘉音を眺めた。その表情に絶望の色が浮かんでいる。
「嘉音様はお優しい方ですからきっと受け入れていくのでしょう……俺は、諦めたくありません」
そう呟いて、天雷が歩いていく。それを引き止めることはできなかった。
黄櫨の葉が風に揺れている。雪の季が来る前の、赤に燃えた黄櫨の葉が。
翌日のことだった。あまり屋敷に寄りつかない薛大建にしては珍しく朝から屋敷にいた。その日は屋敷が騒がしく、その足音は嘉音の元にもやってきた。
「嘉音、聞きたいことがある」
その声音から物々しい雰囲気を感じ取り、嘉音も表情を強ばらせた。
「お前によく懐いていた下男がいるだろう。あいつを見なかったか」
「天雷のことですね。彼が何か?」
大建の老いた眼が細められ、じいと嘉音を見つめる。
「今日あいつを見ていないのか?」
「そういえば今日は一度も……」
問われて思い出す。いつもならば、庭掃除や厨の手伝いを終えると顔を出している。たとえ忙しくても隙があれば嘉音の元に来る人で、天雷と顔を合わせずに一日を終えたことはいままで一度もない。それが今日は彼を見ていない。
何かおかしい。異変に気づき嘉音の顔色がみるみる青くなっていく。
「屋敷を探したがどこにもいない。お前ならば知っているかと思ったが……」
「わ、私、天雷を探してきます!」
どこにいるのだろう。庭かそれとも厨か。他の使用人に手伝いを頼まれたのかもしれない。嫌な予感に急かされて立ち上がる。その足はふらついていた。
嘉音だけではなく、どういうわけか大建も焦っているようだった。
「……見つからなければ……困ったことになる……」
大建は頭を抱え、他の部屋を探しにいく。使用人の失踪などよくあることだろうに、天雷に対してはそれを超えているような気がした。
嘉音は駆け出した。次々と屋敷内を探す。大建が声をかけたらしく他の使用人らも捜索に加わったが、天雷の姿はどこにも見当たらなかった。
(天雷、どこに行ってしまったの)
ついには屋敷中を探し終え、庭に出ていた。
赤々と色づいた黄櫨の葉が揺れている。天雷と共に見上げたのと変わらない色をしているが、今日は嘉音一人だ。
ここまで探しても見つからないとなれば、屋敷の外に出たと考えられる。自ら出て行ったのかそれとも何者かに連れていかれたのか。不審者の報告はなかったので連れて行かれた可能性は低い。自らの足で出て行ったと考えた方がよいだろう。
(どうして……どうして私を置いていったの……)
思い当たるのは、嘉音が後宮に送られるかもしれないという話を彼に聞かせてしまったことだ。あの話を聞いて天雷は表情を変えていた。諦めたくないと言い残している。
(あんな話をしなければよかった。私のせいで天雷が出て行ったのかもしれない。もしかしたら絶望して今頃――)
悔やんだところで時間は戻らない。天雷が戻ってくることもない。
すると屋敷の前に誰かが来ていた。庭にいた嘉音はいち早くそれに気づき、天雷かもしれないと期待して駆けつける。
「……ん? 君は、ここの娘かな?」
そこにいたのは天雷ではなく、初めて会う男だった。独特の衣を纏っている。街で流行っているらしい風禮国の服だ。異国の服だけでなく、するりと通った鼻筋に大きく開いた目。瞳の色は薄く、顔立ちもここらで見かけるものと異なっていた。
駆けつけてしまったが別人だからといって逃げ出すわけにはいかず、だが知らぬものに名乗る勇気もない。嘉音は困惑していた。
「わ、私は……」
「ああ。そんなに怖がらなくてよいとも。僕は葛公喩と言ってね、一介の占師だ。薛家に用があって来ただけさ」
占師と聞けば、なるほど、そのような出で立ちをしている。
しかし薛家に占師が来るなど初めてのことだ。武芸のみを信じてきた大建はこういったものを嫌う。薛夫人が呼んだのか、それとも姉か。
そう考えているうちに屋敷の奥から大建が現われた。表情は強ばり、何かを畏れているようだった。
「公喩殿、いったい何用で」
「そんなこと聞かずともわかっているだろうに。探しものをようやく見つけたからね、迎えにきたんだよ。ここに隠していたことはわかっているよ」
二人の会話を聞き、嘉音は眉をひそめた。
(探しもの? 何のことだろう)
しかし、大建が嘉音に向き直り「屋敷に戻っていなさい」と告げたので、それ以上を聞くことはできなかった。
屋敷に戻りながら振り返って、二人を見る。話はまだ続いているようだった。
「もう、あの方は……」
「……それは、困ったね……いったいどこに」
大建の様子から察するによくない話だろう。
それよりも嘉音の頭は天雷のことでいっぱいだった。大建が占師の相手をしている間に、天雷が見つかるかもしれない。再び屋敷内の捜索に戻った。
朝と夜を何度繰り返したところで天雷が戻ることはなかった。黄櫨の葉が落ち、雪の季を迎える頃になれば、天雷がいないことが当たり前のようになっていく。
嘉音にとって生きる希望であった天雷が欠けたことは、人生から色を失うようなものであった。楽しみはすべて奪われ、呆然と庭を眺めるだけの日々である。
「恋など存在せず。思慕など成らず」
ひとり、呟く。その言を聞くのは庭を覆う白い雪だけだ。
失って初めて、天雷に抱いていた感情の大きさを知った。恋をしていた。天雷のことが何よりも好きだった。
「諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから」
あの日に逃げだそうと提案していればよかったのだろうか。その後悔すら、諦念によって霞んでいった。
母の遺言通りである。嘉音の思慕は成らず、恋は終焉を迎えた。
華鏡国の都――そこは牆壁に囲まれた都城となっていて、北部には帝の居所である宮城が構えられている。宮城の奥には帝の妃嬪らが生活する場があり、帝と選ばれた者以外は立ち入れぬ女の園となっていた。
二年の歳月が流れた頃、薛嘉音の姿は後宮にあった。
天雷が行方知れずとなった後、薛大建は後宮に送る娘を嘉音に決めた。そこから二年の期間を経て宮廷所作を学び、美を磨き、ついに後宮に送られたのである。
妃嬪には位があるが、大建はよほど上手く手を回したようで、嘉音は昭容の位が与えられた。
(手を回したところで帝の寵愛を得ることもないのに)
帝より賜った白李宮にて嘉音は物憂げに息を吐いた。
花が咲き誇る季となり、庭は牡丹が咲いている。しかしわざわざ庭に出て花を愛でる気力もなく、嘉音はぼんやりと外を眺めているだけだった。
「嘉音様、今日もご気分が優れないようですね」
嘉音に声をかけたのは白李宮付きの女官である慈佳だ。はじめは『薛昭容』と呼んでいたのだが、堅苦しいのはあわず、他者がいない時は嘉音と呼ぶようにお願いしている。
「牡丹が気になるのでしたら、あとで見にいきましょうか?」
「……外に出ても疲れるだけだから」
華鏡国の後宮は至る所に花が植えてある。牡丹以外にも、見頃を迎えた花が咲いているだろう。しかし外に出る気にはなれなかった。
これは今日に限った話ではなく、二年前からあらゆるものへの関心を欠いていた。以前は季の移り変わりを楽しみ、特に黄櫨の紅葉が楽しみだった。いまではそれが些細なことに思え、高揚感は生じない。天雷が去り、心が死んでしまったかのようだ。
慈佳はこういった様子にも慣れているようだった。慈佳曰く、他の妃嬪も嘉音と同じように無気力だという。入宮したとて、帝はひとりしか寵愛しない。本来の後宮とは帝の寵を求め、妃嬪らが美や芸にて競い合う。だが寵妃に傾いているため今さら美や芸を磨いたところで敵わないと、みな諦めているのだ。そう知っていても娘を入宮させるのは、貴顕なる家にとっては地位を守るため必要なこと。
この後宮は先帝の頃に比べれば妃嬪の数がかなり少ない。それほど後宮入りを希望する娘もなく、帝も他の娘を求めていないということだ。薛大建のようなものでも容易に手を回せるほどである。
「気になることがあればいつでもお申し付けくださいね。それと――」
茶を置きながら、慈佳が言う。
「のちほど内侍省から宦官がひとり、こちらに来るようです」
嘉音は顔をあげた。内侍省に所属する宦官は後宮入りが許されている。この宮にも彼らがきたことはあるので特段珍しい話ではない。しかし今日は引っかかった。嘉音が反応を示したことに気づき、慈佳が続ける。
「定期的に妃嬪の宮を回るのですよ。白李宮に来るのは銀二鐘の頃ですね」
「大家が凌貴妃の宮ばかり行くから、宦官が尻拭いをするのね」
「まあ、そのようなものです」
慈佳が苦笑した。
「ご機嫌伺いですよ。でもそれが彼らの仕事でもありますから」
「凌貴妃以外の報告をしたところで、大家は気にもとめないと思うけど」
棘のある物言いをするも慈佳は曖昧に笑ってそれをやりすごしている。女官や宮女たちはこういったことに慣れていた。
大家――つまり帝は、凌貴妃ばかりを愛でている。皇太子の頃から凌芳香に惚れこみ、他の娘には目もくれなかったという。即位後は他が諫めようとも聞かず、寵妃に貴妃の位を与え、現在も凌貴妃の宮ばかり通っていた。
後宮は広い。娘らが入宮したところで必ず大家にお目見えできるとは限らない。入宮時の式典があるが、凌貴妃に夢中である大家は顔を出すことさえしなかった。
飛び抜けた容姿や芸があるなど、誇れるものがあれば大家の目にとまる可能性もあるが、凌貴妃は花が恥じらうほどの美しさを持ち、ひとたび舞えば観ている者すべてを魅了するのだという。これに勝る人間は華鏡国にいないとまで伝えられていた。
後宮に入れども大家の寵を得るどころか、目通りすら難しい。このような状況に疲弊する妃嬪は少なくない。
(私はもう、諦めているから)
嘉音は諦念の理由が他の妃嬪と違っていた。大家と会えなくたって構わない。天雷が屋敷を去った時からこの人生を諦めている。薛家のため後宮に送られることになるのも、いまさらどうでもよいことだった。
(天雷……私はいまでもあなたに会いたい。もっと探すことができていたらよかったのに)
天雷の捜索ができなかったことを悔やんでいる。叶うならば、屋敷の外へ出て、都や山の奥深くまで探したかった。失踪した後は薛大建も血眼になって探していたが、ある日突然捜索をやめてしまった。最後まで天雷を探すべきと主張していた嘉音に、大建は諦めるよう諭し、以降は天雷の話題をすることさえ禁じられた。さらに入宮を控えているからと理由をつけ、嘉音に外出禁止を命じたのである。
(せめてどこかで生きていればいい。生きてさえいてくれれば私は――)
天雷は下男に置くのが勿体ないほど賢い男だった。書を貸せば嘉音よりも深く読み入り、一度読んだだけで覚えてしまう。科挙に挑む者は必ず覚えねばならない経典もあっさりと覚えてしまったほどだ。下男の生まれでなければ、その知能を用いてよい暮らしができていただろう。
それに、彼は薛家の屋敷で生き抜く器用さがあった。薛夫人は気難しい人で、その子らも同様の性格だった。さらに一部の使用人はずる賢く、他の人に仕事を押しつけることもあった。そういった事柄を天雷は器用にかわしていた。
そういった要素から彼が生きていることを願ってしまう。彼をよく知るからこそ、死んでしまったなどと思いたくなかった。
嘉音は再び外の花を見つめた。庭にでたところで、後宮の外に出られるわけではない。空を見上げるぐらいしか出来ることはないのだろう。見上げたところで視界の端には宮や殿の屋根が入りこむ。逃げる場所はなく、いつだって現実は迫ってくる。母がどれだけ空を見上げても、黄櫨の葉が映り込んでいたように。
鐘が鳴っている。その音と数から銀二鐘だ。慈佳が話していたとおり、その刻になると宦官がやってきた。
嘉音も応接用の間に移動した。まもなく慈佳が宦官を連れてここにくるだろう。面倒ではあるが対応しなければならない。
扉が開く。袍を着た男がやってきた。宦官を示す鼠水色をしている。彼は嘉音の前に来るなり拱手し、頭を垂れた。
「薛昭容にご挨拶申し上げます」
嘉音はちらりと彼を見る。
(え――)
足からはじまり腰、肩――その視線が上がっていくにつれ、胸がざわついた。
(見たことがある。まさか)
荒れて骨張った手。同年代の男に比べれば背丈は高く、腕も長い。それは忘れたくても忘れられない記憶と一致していた。
はっと息を呑み、その顔を見やる。
「あ、あなたは――」
気づけば立ち上がっていた。その宦官が天雷と同じ顔をしていたためである。
精悍な顔つきになっていた。天雷は元々顔立ちが綺麗だったこともあり、汚れや傷のない綺麗な袍はよく似合っている。
「あなたは天雷ね……そうでしょう?」
問うと、彼は穏やかに微笑んだ。天雷は笑うと頬が少しくぼむのだが、目の前にいる宦官も同じであった。
「嘉音様、お久しぶりです。覚えていてくださって光栄です」
「ああ、よかった……あなた、生きていたのね!」
生きていてくれればと何度願ったことか。歓喜に視界が滲む。いまにも涙が落ちてしまいそうなほどだ。
叶うならばいますぐに天雷の元へ飛びこみ、その身を抱きしめたかった。それが出来ないのはここに慈佳がいるためだ。彼女は嘉音と天雷が顔見知りであったことに驚いていた。
「あら。薛昭容の知り合いでしたか」
「え、ええ。天雷は――」
言い淀んだのは、天雷のことを案じたためだ。
ここは宮城だ。薛家の下男だった天雷がどうしてここにいる。それに彼は失踪していたのだ、下男であった過去を伏せているかもしれない。
「昔に知り合ったの。久しく会えていなかったから、懐かしくて」
そう話すと慈佳の表情が明るくなった。
「よほど会いたい知り合いだったのでしょうね。薛昭容の明るい表情を見るのは初めてです」
「薛昭容は塞ぎ込んでいたのですか?」
天雷が問う。慈佳は頷いた。
「入宮してからというもの塞ぎ込んでおりました。物憂げに庭の方を眺めてばかりで。外に出た方がよいと勧めても、出たくないと仰っていたのです」
「なるほど。それはよくないでしょう」
話を聞き終えると天雷がこちらに向き直る。彼は昔のように触れこそしなかったものの、嘉音をなだめるように柔らかな声音で告げた。
「後宮での暮らしに慣れるには時間がかかります。だからといって塞ぎ込んでいては病を身のうちに呼び寄せてしまいます。もしよければ、私が話し相手になりますよ」
この提案に、嘉音よりも早く飛びついたのが慈佳だった。
「それはよいことです。旧知の方と話せば、陰鬱した気も晴らせましょう」
「……い、いいの?」
おそるおそる嘉音が問う。帝以外の男性と接することが罪のように思えたためだ。しかし天雷はあっさりと頷く。
「私は宦官の天雷。そのためにここにいます」
胸が弾んだ。止まっていた時間が動き出したかのように、心臓が急いている。
(天雷がいる。生きている。後宮にいれば彼に会える!)
世界が一気に色を取り戻し、この二年間忘れていた高揚感が生じている。この暮らしに何の期待も抱けずにいたのが一転していた。
「久しぶりの再会となれば積もる話もあるでしょう。お二人で話す時間を作りましょうか?」
「いいの? ぜひ天雷と話したいわ」
慈佳の提案に、嘉音が食い気味に答えた。その良き反応に慈佳はより微笑んだ。それほど、嘉音が塞ぎ込んでいたことを心配していたのだろう。
「天雷殿はいかがでしょう?」
「私も構いません。夕刻――銀五鐘であれば時間がとれるので、その頃に」
慈佳の計らいのなんとありがたいことか。天雷と話ができると思えば天にも昇る心地だ。
その後、他の宮を回らなければならないとのことで、すぐに天雷は去ってしまった。しかし嘉音の表情は明るい。
「嘉音様は、再会がよほど嬉しかったのですね」
「ええ。ずっと会いたかった知り合いなの」
「それはようございました。長く時間がとれるように致しますね」
後宮に閉じ込められるような生活だと思っていた。何年もこの暮らしに耐えると思えば気が滅入るような。しかし今は心が華やいでいる。
(たとえ結ばれなかったとしても、天雷に会えるだけでいい)
天雷がいるだけで、この場所が幸福に満ちていく。
だが、銀六鐘となっても彼が来る気配はなかった。約束の時間はとうに過ぎている。高いところにあったはずの陽は、身を低めて紅色に燃えていた。
「……天雷、遅いのね」
庭を眺めていた嘉音が呟く。慈佳も沈んだ面持ちで答えた。
「きっと忙しいのでしょう。遅くなったとしても、きっといらっしゃいますよ」
「でも銀六鐘になってしまったわ」
彼が来るのが待ち遠しくて庭ばかり眺めてしまう。特に天雷については、二年前のことがある。ふらりと消えてしまうのではないかと怖くなった。
「もしかすると桃蓮宮かもしれませんね」
「桃蓮宮というと……凌貴妃の宮かしら」
「ええ。少し前でしたが、大家の輿が桃蓮宮にあるのを見ましたから。それで天雷殿も忙しいのかもしれません」
嘉音には白李宮が与えられたのと同じように、凌貴妃には桃蓮宮が与えられている。寵愛を示すように、大家のいる髙祥殿に最も近い宮だ。
(大家が桃蓮宮から戻ったら、天雷もここに来るかしら)
桃蓮宮が気になったが、ここからは見えない。
そうして天雷の来訪を待つも、陽が沈んで夜になっても、彼は来なかった。
「……天雷は来なかったわね」
「きっと忙しかったのでしょう。でも同じ場所にいるのですから、急がずともまた会えますよ」
慈佳に励まされるのも、今日何度目になるかわからない。
(明日は会えるかしら)
ここまで夜が更ければ天雷が来ることもない。嘉音はため息をつき、立ち上がろうとした――その時である。
「慈佳様、大変です!」
慌ただしい音と共に宮女が数名やってきた。女官である慈佳を呼びにきたらしい。ここに嘉音がいると知らずにいたらしく、目を合わせるなり彼女らは慌てて拱手した。
「何事ですか?」
慈佳が問う。
「そ、その……大家が宮の前に……」
「大家が? 何の報せもきていないのにどうして」
「私たちにもわかりません。それに様子がおかしいのです。一人でここへいらっしゃって、足元も覚束ないご様子で」
帝が妃嬪の宮を尋ねる時は事前に報せが入る。特に夜の来訪となれば妃嬪の支度もいるためだ。しかし白李宮にそのような報せはきていない。
それに供をつけず、一人で出歩くなどあまり聞かない話だ。宮女が語った大家の様子も気になる。
「様子を見て参ります」
「私も行くわ」
嫌な予感がしていた。行かなければ後悔する気がした。慈佳としては、嘉音に残ってもらいたかったのだろう。だが頑なな意志を感じ取ったのか、早々に諦めて告げる。
「わかりました。ですが、不審者が近くにいるとも限りません。何かあればすぐにお逃げくださいね」
「ええ。わかってる――急ぎましょう」
慈佳と共に向かう。
宮女らが話した通り、宮の入り口――数段の階に人影があった。それは階にもたれかかるようにして倒れている。
召し物が宦官と異なる。宮の入り口にある篝火の明かりを、腰に佩いた剣がぎらりと跳ね返していた。剣の意匠は位の高さを示しているようでもあった。
その姿を確かめた慈佳は彼の正体を速やかに判断したのだろう。血相を変え、宮女に叫ぶ。
「髙祥殿へ遣いを! 急いで!」
髙祥殿となれば、この者は大家だ。周囲はさらに緊張感が増す。
ばたばたと駆け回る音。震えて動けない宮女もいる。
慌ただしい中、嘉音はまじまじとその人物を眺めていた。
(彼が……華鏡国の帝)
後宮に入っても目通りは叶わなかったので、今日初めて見る。端正な顔立ちをした若い男だ。その瞳は苦しげに伏せられている。見たところ外傷はなく、血が流れている様子もなかった。だがどうして倒れているのだろう。
気になって彼に近寄る。嘉音が身を屈め、彼に手を伸ばそうとした時だった。
「……っ、か」
その瞳が、ぱちりと開いた。額に汗を浮かべ、呼気も荒い。彼は嘉音の姿を捉えると、身を震わせながらこちらに手を伸ばした。
乾いた唇が動く。しかし声は掠れて、近くにいる嘉音にしか聞き取れないほどの声量だ。
「か、嘉音……俺は……」
大家はそう言った。嘉音の名を口にした。
(『薛昭容』ではなく『嘉音』と呼んだ……どうして大家が)
凌貴妃を寵愛している帝なのだ、入宮した妃嬪の名など興味を持たず、覚えることもしなかっただろう。それがどういうわけか、嘉音のことを知っている。
こちらに伸ばしかけた大家の手はがくりと落ちた。再び意識を失い、瞳も伏せらている。
「嘉音様、お下がりください!」
慈佳に促され、後ずさる。
少し離れたところから眺めるも、彼と会った覚えはない。名を教えたこともない。
報せもなく白李宮にやってきた理由も心当たりがなかった。近くで何者かに襲われたのだろか。だが外傷が見当たらないため考えにくい。
(……嫌な予感がする)
胸の奥がざわざわと急いている。床が抜けて地の底へ落ちていくような不安が胸中に渦巻く。
まもなくして衛士が駆けつけた。やはりこの人物は大家であるらしく、早々に運ばれていく。しかし駆けつけた宦官の中に、天雷の姿はなかった。
(天雷は……忙しいのかもしれない)
ここで会えたとしてもゆっくり話すような時間はない。せめて一目でもその姿を見られればよかったのだが。
その後、大家を発見した宮女や介抱にあたった慈佳は吏部に聴取されることとなり、白李宮が静けさを取り戻すには数日がかかった。
***
嘉音の姿は後宮北部にある星辰苑にあった。あれ以来天雷がこないことで塞ぎがちな嘉音を見かねて、慈佳が提案したのである。
花が咲き誇る季とあって星辰苑の自然は賑やかだ。庭では植えられていない高木があり、暑い頃は涼みによさそうな池もある。
「風が心地よいですね」
慈佳が言う。嘉音のことを気遣っているのだ。その心遣いはありがたいが、どうにも天雷のことが気になってしまう。
そしてもう一つの気がかりは大家だ。突然白李宮に現われて以来、大家に関する情報は入ってこない。慈佳曰く、あの日のことを知るのは一部の者らしく、妃嬪も知らない者が多いそうで、白李宮の宮女には箝口令が敷かれていた。
「今日は天気もよいので、他の方々もきているようですね」
それを聞いて嘉音が見渡す。あちこちに妃嬪や供をする女官、宮女らの姿がある。
「亭に呉才人と劉充儀がいらっしゃいますね」
「では挨拶に行かないといけないわね」
「ええ。そういたしましょう」
嘉音は亭に向かう。呉才人と劉充儀は入宮の時期が近かったため言葉を交わしたことがある。彼女らも近寄ってくる嘉音に気づいたようだ。
しかし嘉音が着くよりも早く、別の妃嬪が亭に着いた。呉才人や劉充儀と異なり、華美に着飾った妃嬪だ。その姿を捉えるなり、慈佳が足を止めた。
「……嘉音様。あの方が凌貴妃ですよ」
顔を強ばらせ、小声で囁く。
(あれが……帝の寵妃、凌芳香)
噂には聞いていたが、実物は想像を超えるほど美しい。たとえ豪奢な被帛や襦裙を着ても、彼女が持つ美しさに霞んでしまう。大家が他に見向きもせず寵愛を送るのも納得だ。舞が得意だと聞いたが、あの美しい人がひとたび舞えば、すべての視線を集めるのだろう。
凌貴妃は亭に入り、二人に話しかけていた。その場に嘉音も向かう。
「貴妃様にご挨拶申し上げます」
後宮にいる妃嬪で、最も高い位が『貴妃』である。嘉音は揖礼した。
しかし凌貴妃はどうにも機嫌がよくないようであった。じろりと嘉音を一瞥した後、呉才人を睨みつける。嘉音に興味がないとばかりの仕草である。
「……あなた、呉家の娘よね」
凌貴妃が呉才人に詰め寄る。体が竦み上がるような冷えた声だった。呉才人と劉充儀も冷や汗を浮かべている。彼女ら付きの女官も顔を強ばらせていた。
「あ、あの……私の家が、何か」
「都の中通りに呉家の商店があるでしょう? 風禮国の品を取り扱っていると聞いたけれど」
風禮国とは現在友好関係にある。しかし貿易を許されているのは国から認可が下りた商家のみ。呉家もそのひとつで、宮城に貿易した品を卸している。特に風禮国で採れる珊瑚は美しく、それを加工して作る装飾品は妃嬪らに流行っていた。
呉家が風禮国との取引をしていることは周知の事実だ。呉才人は、凌貴妃が厳しい態度を取っている理由に心当たりがないようで、首を傾げている。
凌貴妃は開いていた扇を勢いよく閉じた。ぱん、と割れるような音が亭に響く。
「歩揺の珊瑚玉に傷があったのよ」
「え……」
「あれはまがい物の珊瑚でしょう? 呉家で扱うものはどれも傷がついていたわ。後宮で流行っているのをいいことに偽物を売りつけているのでしょうね」
呉才人の顔は凍り付いていた。隣にいる劉充儀も困惑した面持ちでいる。
(珊瑚の装飾品は確かに流行っているけれど)
嘉音も、いくつも装飾品を持っている。入宮の折に記念として賜ったのも珊瑚の釵や耳飾りであった。しかし凌貴妃が語るような傷は見当たらなかったと思う。嘉音はそこまで装飾品に詳しくないため自信はない。
これに乗じたのが、凌貴妃と共にやってきていた湛昭儀だ。
「さすが貴妃様です。珊瑚に詳しいのですね」
「そんなことないわよ。気になったから調べただけ。こういったことがあるから、私は珊瑚のものを身につけないようにしたの」
「ええ、ええ。さすがです」
持ち上げられて凌貴妃は気を良くしたらしい。
「最初は私が大家に賜ったのよ。いつのまにか皆も取り入れて、仲間が増えたようで嬉しかったけれど――こういったことがあるから気をつけないといけないわね」
「貴妃様の仰るとおりです。私も気をつけるようにいたします。貴妃様がお気づきになられたとあれば、この流行りもすぐに消えることでしょう」
呉才人は身を震わせながら頭を下げていた。口を真一文字に引き結び、嵐が過ぎ去るのをじっと待つようでもあった。
満足した凌貴妃は、挨拶をした嘉音や劉充儀に目もくれず、去っていった。その後ろ姿を湛昭儀が追いかけていく。
息詰まるような場面だった。凌貴妃らの姿が遠くに消えてから、ゆるゆると劉充儀が動き出す。動けずにいる呉才人の肩にそっと触れた。
「大丈夫?」
その言に呉才人が顔をあげた。その瞳は涙を浮かべて濡れている。
「ひどいわ……父様は偽物なんて扱っていないのに……」
嘉音も呉才人に駆け寄り、声をかける。
「難癖をつけているのよ。あのようなこと、ここで呉才人に言ったところでどうしようもないのに」
「二人とも、ありがとう。はじめて貴妃様にお会いしたのだけれど、あのような性質をお持ちなんて知らなかったわ……お二人は貴妃様にお会いしたことがあったの?」
「私は今日が初めてよ」
嘉音が答えた。呉才人と同じく、噂は聞けど対面したのは今日が初めてである。
しかし劉充儀は違ったようだ。
「以前に星辰苑でご一緒したけれど、穏やかな方という印象を持っていたわ。あのような一面があるのだと驚いたぐらい」
「でも私、貴妃様を怒らせるようなことをした覚えがないわ。珊瑚のことだって、私は知らないもの」
途中から駆けつけたが、一方的なやりとりであったように思える。何がそこまで凌貴妃を怒らせたのだろう。考えていると、劉充儀が言った。
「虫の居所が悪かったのだと思うわ。呉才人に怒っているのではなく、あてつけられる良い位置に呉才人がいただけよ。珊瑚のことだって、後宮で流行り、皆が付けていることが気に入らなかったのでしょう」
「劉充儀の仰るとおりかもしれませんね。最初に珊瑚を身につけたのは凌貴妃で、それも大家に賜ったのだと言っていましたもの」
「珊瑚を身につけて良いのは自分だけと言いたかったのよ。大家の寵愛を得ているのは凌貴妃だから、それを示したかったのかもしれないわ」
二人の話を聞きながら、嘉音は今日つけている耳飾りが珊瑚であることを思いだした。珊瑚を好む妃嬪が多いからと慈佳が進めてくれたのだ。今日の騒ぎが広まれば、妃嬪らは身につけなくなるだろう。宮付きの女官は情報が早いので、珊瑚の装飾品を避けるよう助言するに違いない。
「目をつけられないよう、気をつけないと。寵愛を得ている凌貴妃がこの後宮を支配しているも同然なのだから」
劉充儀の言に呉才人が頷いた。嘉音もそれを頭の中で反芻する。
(後宮にいるのならば凌貴妃に気をつけないと)
不興を買ってしまえばどのように扱われるかわからない。ここで泣いている呉才人が、明日には嘉音に変わる時だってあるのだ。
話が落ち着いた頃に嘉音は亭を出た。苑を散策する気にはなれず、慈佳に話して白李宮に戻ることにする。
「凌貴妃はこのところ苛立っていますからね」
慈佳も亭でのやりとりを目撃している。慈佳は嘉音が巻き込まれないようにと案じているのだろう。
「私にはわからないわ……寵愛を得て後宮の頂点にいるのだから、苛立つようなこともないと思うのに、どうして呉才人にあてつけをしたのかしら」
「どうでしょう。凌貴妃なりの事情があるのかもしれません。自分だけが愛されていると周囲に示したかったのかも知れませんよ」
「そのようなことをしなくても、大家は凌貴妃しか見ていないわ」
「それは私たちが遠くから見ているからですよ。当事者となれば別の視点になります。大家と凌貴妃の間には、私たちの想像できないようなものがあるのかもしれません」
短く相づちを打ち、考える。寵妃には寵妃なりの悩みがあるのだろうか。嘉音は寵愛など受けていないのでわからない。この先も大家が来ることはないのだろう。
そう考えていた時、前方から宮女が駆けてきた。白李宮の宮女だ。彼女は嘉音と慈佳を見つけるなり、息を切らしてこちらにやってくる。
「急ぎお耳に入れたいことがございます」
「そんなに慌ててどうしたの」
まさか天雷がきたのだろうか。平静を装いながらも、吉報を期待してしまう。
しかしそれは、すぐに打ち砕かれた。
「今宵、大家が白李宮にお越しになるとのことです。急ぎ宮に戻り、準備を致しましょう」
嘉音はぴたりと足を止め、そこから動けなくなった。
(どうして大家が私の元に……夜にくるということはつまり……)
大家は一度も、凌貴妃以外に触れていない。夜に凌貴妃以外の宮を尋ねたことはなかったのだ。それがどうして嘉音の元に。
(ああ。天雷……どうしよう……)
何よりも嘉音を不安にさせたのは夜伽のことだ。妃嬪とはつまり帝の妻であり、その任は切り離せない。しかし凌貴妃を寵愛していたことから、嘉音が選ばれることはないと思っていたのである。嘉音はそれを幸運に感じていた。大家がこの様子であれば純潔を守り抜くことができる。たとえ好いた者と添い遂げることができなくとも、清らかな身でありたいと願っていた。
けれど今夜、大家が来る。天雷以外の男がこの身に触れるのだ。想像しただけで寒気がする。いますぐにこの場所から逃げ出したいほど嫌でたまらなかった。
慈佳、そして宮女がこちらを向く。二人は微笑み、告げた。
「薛昭容。おめでとうございます」
祝いの言葉のはずが棘を持っているように感じる。嘉音は答えることができず、表情を凍り付かせていた。
(天雷……せめてあなたに会いたかった……)
その願いは空に溶け、消えていく。
大家の渡りが決まれば、宮は忙しくなる。何時間もかけ妃嬪は磨き上げられる。湯は香油を垂らし、袖を通すは上等な襦裙。突然の報せだったこともあり支度は随分と時間がかかった。
(逃げる隙など、なかった)
気づけば陽は落ち、白李宮の吊り灯籠に火が灯っている。
大家を迎えるために用意された部屋で、嘉音はひとり待っていた。
(こんな私を見たら天雷は何て言うのだろう)
あれからずっと天雷のことばかり考えている。会えぬ間に帝の渡りがあったと知れば、天雷は悲しむのだろうか。それとも慈佳らと同じく祝いの言葉を述べるのか。
そのどちらとも、嘉音は受け入れられなかった。彼を悲しませることも、彼に祝われることも悲しくてたまらない。寵愛など得られぬと思っていたのだ。後宮に入ったとしても、身は清らかなまま天雷に会いたかった。
こうも磨き上げられ、しかし他の男に触れられるのだ。滑稽だ。汚れていくようだと思う。しかし妃嬪として後宮にいるのだ、嫌だと泣いたところで逃げられない。
「大家がお越しになりました」
扉越しに慈佳が言った。嘉音は表情を強ばらせる。
倒れている時に会ったといえ、帝と言葉を交わすのは初めてだ。おそろしくてたまらない。身を震わせながら待っていると、ついに扉が開いた。
現われたのは、あの日階のところで倒れていた男と同じ顔をしている。背丈は高く、腕も長い。その姿を確かめた後、嘉音は長揖した。
「お越し頂きありがとございます。薛昭容でございます」
しかし彼は何も言わなかった。ふたつの瞳で嘉音の姿を捉え、こちらに寄ってくる。その急な接近に嘉音は慌てた。
「大家……その……」
夜伽は初めてだが、ある程度は慈佳から聞いている。それでも急に迫られるものと想像していなかったので困惑し、たじろぐ。それでも帝はこちらに詰め寄ってきた。
彼の手が伸びる。燭台の火によって生じた影はこちらに向かい、ついに嘉音の肩に触れた。
「――っ、」
ぴくり、と身を震わせる。咄嗟に目を閉じてしまった。ごつごつとした指先が肩に触れ、温かい。
しかし大家はそれ以上、嘉音に触れようとはしなかった。肩を掴んだまま、である。
(ど、どういうことだろう)
動揺しつつも薄ら目を開ける。視界には大家がいる――のだが、その表情は予想と異なっていた。
彼は柔らかに微笑んで、嘉音を見つめている。そのまなざしが秘める熱を知っている気がした。
(天雷に……似ている?)
優しく肩に触れる動きも、天雷が取っていたものだ。彼の雰囲気は天雷によく似ていた。
けれどその顏は違う。鼻や輪郭は似ていても、涼やかな目元は違う。微笑んでも頬がくぼまない。右目尻にある黒子は天雷にはなかったものである。
(似ているだけ。天雷じゃない。なのにどうして)
嘉音の困惑は伝わっていることだろう。それでも彼は穏やかに微笑んだまま。
「嘉音様」
その唇が動き、嘉音の名を口にした。驚いて目を丸くする嘉音に、彼はもう一度微笑む。
「俺ですよ。天雷です」
「え……」
「この姿ではわかりませんよね……大家の体ではありますが、これは俺です」
その喋り方、呼び方。どれも記憶にある天雷のものと一致する。しかしそれを語る顔や声が異なるため、にわかには信じられなかった。
嘉音が疑っていることを彼も気づいているようだった。ぱっと手を離して、顎に手を添える。「どうしよう」と呟いて何かを考えこんだ後、彼は言った。
「昔は嘉音様に書を借りていましたね。一度読めば覚えてしまうと話せば、あなたが楽しそうにするから、俺も誇らしい気持ちになりました」
「……っ、どうして、それを」
「でも奥様や大建様は下男と親しくすることを禁じていたでしょう。書を貸すなど知られてしまえばあなたが怒られてしまうのではないかと心配していました。そういえば奥様に見つかりそうになって庭の木に登って隠れたこともありましたね」
彼が語るものは、嘉音と天雷が薛家の屋敷で過ごしてきた日々だ。
庭の木に隠れたのは小さな頃だった。薛夫人は下男と親しくするなと命じていたが、嘉音は無視して天雷と過ごしていた。ある時には嘉音を探しにやってきた薛夫人から逃げようと木に登った。案外見付からないもので、木の上からあたりを見渡す薛夫人を見下ろし、天雷と笑っていたものだ。
「嘉音様とお母様は庭で空をよく見上げていましたね。俺が屋敷を出たのは庭の黄櫨が赤く色づいた頃でした」
「それは私と天雷しか知らないはずの――」
「そうですね。だけど、俺が天雷なんです」
彼は切なそうに眉根をよせ、己の手を見つめる。天雷と違い、まめや傷のない綺麗な手だ。
「上手く説明できないけれど、目が覚めたらこうなっていました。俺なのに、大家の体をしている」
理解が難しい。口調や雰囲気、語る内容は天雷だ。しかし目の前にいる人間は天雷ではない。これについては彼自身も理解ができていないようで、困惑の色が窺えた。
「信じがたいでしょう。俺だってこの状況をうまく理解できていません。ですが――」
縋るように嘉音へ手を伸ばそうとしていたが、彼は諦め、寂しそうに瞳を伏せた。
(確かに信じられない)
天雷が白李宮に来た時の姿と、いまの姿は大きく異なる。外だけを見るのならば全く別人だ。
けれど、嘉音は彼の手を掴んでいた。
姿は違えど、ここにいるのが天雷だと思った。天雷が好きだからこそ、彼のことよく見てきた。華鏡国で一番、天雷を見てきた人だと自負している。
「私は、信じる」
その言に彼が吃驚した。
「ほ、本当ですか」
「だって私、天雷のことをよく見てきたのよ。それに私たちしか知らないことをあなたが語った。姿が変わったとしても、天雷だと信じるわ」
すると天雷はがくりとその場に座りこんだ。具合が悪くなったのかと心配し、嘉音が慌てて覗きこむ。
「大丈夫?」
「す、すみません……安心したら、力が抜けちゃって……」
「そこに腰掛けて」
天雷は「ありがとうございます」と小さく呟き、寝台に腰掛けて息を吐いた。
「俺もどうしてこうなったのかよくわからないんですが、目が覚めたらこうなっていて……誰に話しても信じてもらえなかったのですが、嘉音様に信じて頂けて安堵しました」
「突然違う人の体になっていたら、誰だって驚くわ。心細かったでしょうね」
「はい……この先どうしたらいいかわからなかったのですが、まずは嘉音様にお話しようと考えました」
大家の渡御を報された時は驚いたが、中身が天雷だったと知れば納得だ。
しかし、彼が天雷であることは認めたとしても、なぜ天雷が大家の体になっているのかがわからない。目の前にいるので実際に起きていることは間違いないのだが、嘉音が持つ常識と外れたこの状態は首を傾げてしまう。
「現状を整理したいのだけど……大家の体だけど、中身は天雷なのよね?」
天雷が頷く。
「いつからその状態になったの?」
「数日前ですね」
「数日前……もしかして天雷が白李宮に来た日かしら。あの夜、突然大家がやってきて、そこの階で倒れていたことがあったの」
「そう……ですね……」
あの日は突然大家がやってきたから驚いた。報せはなく、それも大家が倒れているのだ。箝口令が敷かれているため後宮にいるほとんどの者は知らないだろう。
「嘉音様の元に行くと約束していましたよね。覗えず申し訳ありませんでした」
「それはいいの。でもあの日、何があったの? それがわかれば元の体に戻る方法だって探せるかもしれないわ」
そこで天雷は俯いた。険しい顔をし、何か悩んでいる様子だった。
「教えてくれないの?」
「俺からは……すみません」
嘉音としてはその日に何があったのか知りたいところだ。わからなければこの不可思議な状況を打破するきっかけが掴めない。しかし天雷は頑なに、語ろうとしていなかった。
「でも、その日に体が変わったのだと思います」
「ということは銀二鐘に白李宮へきた後よね。あの時は天雷の姿だったもの」
「はい。夜にはもう変わっていたのかと」
そう言って、天雷が額を押さえた。体調が悪くなったのかと案じたが、すぐに語り出したので嘉音はそのまま座り、彼の言を聞いた。
「体が引きちぎられそうなほど痛み、頭も割れてしまったのかと思うほど痛かったです。でも嘉音様と約束していましたから、あなたのところに行こうとばかり考えていました。うろ覚えですが、嘉音様がいました。俺も嘉音様に手を伸ばそうとして――その後は覚えていません。気づいたら髙祥殿にいましたから」
「そうなると、大家が白李宮にきた夜には、中身が天雷になっていたのね」
「おそらく、ですが」
つまり、その日に天雷が大家の体になってしまうような不可思議なことが起きている。
そう考えて、嘉音は気づいた。
「では大家はどこに行ってしまったの? 髙祥殿はあなたを大家だと思いこんでいるの?」
「俺も聞いてみましたが、同じ姿をした者は見当たりません。それに華鏡剣を佩いている。これに用いた碧玉はこの世にひとつ。となれば、大家がどこかに行ったのではなく、俺が大家になってしまったと考えるのが妥当かと」
華鏡剣とは華鏡国の帝位についた者に受け継がれる宝剣だ。ここに埋め込まれている碧玉は、中に蓮の模様がある。これは天然の模様で、奇跡のように美しい蓮の模様であったことから献上された。これを人の手で作り上げるのは難しい。
唯一無二である華鏡剣を持っていたことから、天雷の体は大家で間違いないのだろう。
「天雷の意識が大家の体に入っている。そう考えるのがいいのかしら」
「こうして口にすると信じがたいですが……嘉音様の推測通りでよいと思います」
何とか元に戻る方法はないだろうか。頭を巡らせているも何も浮かばない。
思案に耽る嘉音をみかねて、天雷が言った。
「このことについては、詳しそうな者がいるので尋ねてみます」
「詳しい人がいるの?」
「ええ――厄介な男なので、あまり頼りたくはないのですが」
「その時は私も呼んでね。どうなるのか気になるもの」
「わかりました。嘉音様にも声をかけます」
これ以上議論していても答えが出せない。ひとまずは、その詳しい者に話を聞いてからだ。
しかし今後はどうなるのだろう。嘉音は天雷の方へ視線をやる。
「今後はどうするの?」
「しばらく大家のふりをします。周囲に話して混乱させてはいけませんから。最近は大家と共に動くことが多かったので振る舞いなどは大丈夫だと思います」
天雷が大家の体になってから数日が経っている。その間、大家が後宮に来ることはなかったが、それ以外は通常通りに動いていた。もしもうまく大家のふりをできていなければ、いまごろ騒ぎになっていただろう。
(それでも不安だ。天雷は大丈夫かしら)
彼の姿は別人になってしまった。語れば語るほどに天雷であるから、明日のことが不安になる。天雷はうまくやっていけるのだろうか。
矯めつ眇めつ眺めていると、彼と目が合った。視線を合わせるなり、天雷は柔らかに微笑む。
「嘉音様は、美しくなりましたね」
「と、突然どうしたの」
「二年ぶりでしょう。ゆっくり話せる時にお伝えしようと思っていました。薛家にいた頃は可愛らしかったのが、たった二年でより美しく成られた」
天雷に優しく頭を撫でられる。その動作は薛家にいた時と変わらない。
「後宮での暮らしは不安が多いと思いますが、俺が支えます。嘉音様がつらい目にあわないようお守りします」
「それは嬉しいけれど……天雷は、いまは大家なのよ?」
嘉音が言うと、天雷は「あ」と小さく声をあげた。どうやら自分が大家の体になっていることを、この時は忘れていたらしい。
「この状態だと難しい時もありそうですね」
「でも二人で会いやすくなる。帝と妃なら、だれも疑わないわ」
そこで嘉音は思い出した。大家が夜に妃嬪の宮を尋ねるのには意味がある。嘉音もこれから夜伽をするのだと考えていた。
しかしここにいるのは大家ではなく天雷だ。改めて彼の顔を見上げる。
(私は天雷と……)
想像すればするほど、頭に血がのぼっていく。無意識で隣に座っていたが、その距離の近さが恥ずかしいもののように感じてしまった。
(何を今さら。頭を撫でられるのも、肩に触れられるのも、いままでによくあることだったじゃない。それに大家に触れられるより天雷がいいと思っていたじゃない)
こみ上げる羞恥心を押さえようとするもうまくいかない。そのうちに彼のことを直視できなくなり、嘉音は顔を背けた。
「嘉音様、何を考えていらっしゃいます?」
そこで天雷に聞かれた。ぎくりと身を震わせるも、嘉音はまだ天雷の方を見られそうになかった。
「べ、別に……」
「正直に仰ってください。ほら、こちらを向いて」
頬に手を添えられ、天雷の方を向いてしまう。正面から顔を覗きこまれても、最後の意地として視線を外した。
(平常心でいなきゃ……)
別のことを考えるよう仕向ける。今日食べたもの、明日のこと。しかしどれもすぐに消えて天雷のことばかり考えてしまう。心臓が早鐘を打ち、いまにも飛び出してしまいそうだ。
「……嘉音様、何を考えています?」
くすぐるように甘い囁きをし、天雷が耳元に顔を寄せた。頬に触れた彼の指や耳にかかる吐息が熱く感じる。距離の近さを感じ取り、嘉音は咄嗟に目を瞑った。
「顔が赤くなっていますよ」
「っ……て、天雷!」
ついに羞恥心が爆発し、叫んでしまった。隣に座っていたが先ほどよりもじゅうぶんに距離を取って逃げる。
これに天雷は楽しそうに、くすくすと笑っていた。
「か、からかわないで!」
「ふふ、すみません。嘉音様が顔を赤くして可愛らしかったので、つい」
しばらく笑った後、天雷は咳払いをひとつした。
「とにかく、嘉音様が考えていたようなことはしないつもりです」
「私は何も考えてません!」
「ではそういうことにしておきましょう。俺は嘉音様はもちろん、他の妃嬪にも手を出すつもりはありませんよ」
そう宣言されると嬉しいような、しかし心のどこかが残念がっているようでもある。もやもやとした霧に包まれていくようだ。その霧を晴らせば、至近距離で天雷を眺めることができなくなりそうで見ないふりをする。
先ほどの妙な空気は消えたといえ、嘉音の心臓はまだ急いていた。姿が別人になったといえ、天雷がここにいることで幸福感に包まれている。
そうして夜が更けた頃、天雷は髙祥殿に戻っていった。
目覚めもよく、気分もよい。そのような朝を迎えたのはいつ以来だろう。
(大家になってしまったことは気になるけれど、天雷と話せただけで嬉しい)
二年ぶりに二人でじっくりと話せたのだ。白李宮では慈佳がいたので話しづらく、宦官と妃という立場であれば周囲の目を気にしなければならない。それが二人きりであったので気兼ねなく話ができた。
薛嘉音の機嫌がよいことに慈佳が気づいた。嘉音の髪を結い上げていた慈佳は驚いたように言う。
「今日は嘉音様も機嫌がよさそうでなによりです。昨夜、大家がいらっしゃる前はあんなに落ちこんでいたというのに」
大家の中身が天雷だとは口が裂けても言えない。知らぬ者は鬱屈としていたのが突然機嫌良くなったと捉えるのだろう。慈佳もその一人で、嘉音の様子に安堵している。
「きっと嘉音様は大家に気に入られたのでしょうね。安心いたしました」
「気に入られたのかはわからないけれど……でもそうね、昨夜はお会いできてよかった」
白李宮の宮女らも朝から掃除や庭手入れと忙しく、いつもより気合いを入れているように見える。彼女らにとって仕える宮が大家を迎えるのは光栄なこと。ここでは大家のお越しがない宮が多いのだ。
しかし慈佳は少しばかり違った。
「ですが、今日は凌貴妃の元に行くのでしょうね」
そう断言してしまうのが気になって、嘉音は問う。
「どうして?」
「大家は凌貴妃を寵愛していますからね。昨晩は白李宮にお越しになりましたが、おそらく凌貴妃が断ったためでしょう。凌貴妃以外の妃嬪の宮を訪ねたのは、昨晩が初めてのことです。二度は続かないと私は考えています」
慈佳は女官として長く勤めているので、嘉音よりも後宮事情に詳しい。浮き足立つ宮女らと異なり、冷静な見方をしているのは大家が凌貴妃だけを愛する場面を見てきているからだ。
(大家の寵妃……か)
凌貴妃はどこまで知っているのだろうか。気になったものの、凌貴妃に出会った星辰苑での出来事がある。できることなら関わらずに過ごしたい。
そこへ宮女がやってきた。
「薛昭容。劉充儀からお誘いを頂いております。呉才人もいらっしゃるそうが、どうなさいますか」
星辰苑での出来事は記憶に新しい。劉充儀は呉才人を励まそうとしているのだろう。そう考え、嘉音は頷いた。
「行くと返事をして」
揖礼した後、宮女が去っていく。
金十一鐘になり、嘉音は劉充儀の宮に向かった。既に呉才人も着いている。
「良い香りの茶葉が手に入ったの。みんなで飲みましょう」
劉充儀が言う通り、茉莉花のよい香りがする。几には茶だけでなく、饅頭や桜桃など、菓子や果物もあった。三人の小さな茶会だ。
それぞれが軽く挨拶をしたところで、劉充儀が嘉音に聞いた。
「ねえ。薛昭容の宮に大家が渡られたというのは本当なの?」
昨晩のことだが、どうやら話は随分と広まっているらしい。劉充儀だけでなく呉才人も知っているようだった。
「私も薛昭容に声がかかったと聞きました。ですが大家は貴妃様を寵愛しているでしょう? この噂は本当なのか聞きたかったの」
「そうそう。あれだけ私たちの前にでず、凌貴妃ばかりの大家がどうしてかしら。何か特別なことをしたの?」
すっかり質問攻めだ。確かに昨晩大家は来ている。だが中身が天雷なので、嘉音が大家に選ばれたわけではない。どう答えたらよいものか悩ましい。
「昨晩はお越しになっていたけれど……」
そう話すと劉充儀が吃驚の声をあげた。
「本当なのね! すごいわ、おめでとう」
「おめでとうございます」
賛辞を送られても複雑なところだ。かといって天雷のことを話すわけにもいかない。
(隠し通すのも大変だ……)
曖昧に笑ってごまかす。これ以上質問されたらどうしようかと悩むも杞憂に終わった。話題が移る。
「でも……大丈夫なのかしら」
呉才人が物憂げに言った。
「私たちでさえ知っているのだから、貴妃様の耳にも入っているでしょう。薛昭容に苛立ちをぶつけなければよいのだけど」
「そうね。昨日でさえあの様子だから、少し心配だわ」
「これまで貴妃様が寵愛されてきたでしょう。なのに初めて貴妃様以外の妃嬪を選んだ。そういう時って悲しいことが起こるじゃない?」
「悲しいこと?」
嘉音が聞いた。呉才人が語るものに心当たりがなかったからだ。
そもそも嘉音は薛家にいた頃から、宮城の出来事をあまり知らなかった。父である薛大建が武芸一筋の身で、女人の園に疎かったこともある。さらに庶子ということもあって、他家の娘との交流もなかった。
首を傾げる嘉音に答えたのは劉充儀だ。「あら、疎いのね」と驚いた後、嘉音のために説明する。
「後宮は女の園でしょう? そりゃもう、どろどろとした陰謀が渦巻いているのよ。昔は特に、謀りによる不審な死があったとか」
「妃嬪の死はよくあることだと私の父が言っていたわ。後宮から注文が入っても、品が用意出来る頃にはその妃嬪が死んでいる、なんて」
「……恐ろしい話ね」
嘉音が疎いことに気づいたらしく、二人は面白がって話しているようだ。劉充儀の瞳が爛々としている。
「宮城はそういった死が多いから幽鬼がでると言われているのよ」
「幽鬼?」
「死んでいる人がさも生きているように徘徊するのですって。体が透けているだの宙を浮いているだの、襲いかかってきたと話した衛士もいるそうよ」
これに呉才人が「うう、怖い」と言って開いた扇で顔を隠した。嘉音もごくりと息を呑む。
恐ろしい話ではあるが、想像してみれば、死んでいるはずがそのように彷徨うなど可哀想な話である。死してなお安楽の地に至れないのだ。もしも自分がそのようになったら――そう考えると背に冷たいものをあてられるような心地になる。
「それは九泉に渡れなかった、ということよね……可哀想な話」
「未練があるから彷徨っているのではないかという噂よ。いま話題になっている第四皇子だって、あの死に方では浮かばれないでしょうし」
「第四皇子? 聞いたことないわ」
「大家のご兄弟よ。病を患って亡くなってしまったの、薛昭容はご存知ない?」
嘉音は頷いた。先帝には何人かの皇子がいたのは聞いたことがあったが、その人数であるとか死因だとか、そういったものは知らなかった。
「八歳だというのに、流行り病を患って隔離されていたの。そのまま外に出られず亡くなったけれど、病がうつってはいけないから最期に誰も立ち会えなかったんですって。きっと外に出たいと未練を抱えているから、幽鬼となって宮城を彷徨っているのよ。ああ、可哀想に」
楽しい茶会になるはずが、陰鬱とした気が満ちていく。
後宮は華やかな場所だと思っていたが、妃嬪の不審死だの幽鬼だのきな臭い話が多い。それらを知らなかったことも嘉音の気が滅入る要因の一つだった。後宮事情に疎かったのだと再認識させられる。
暗い面持ちの嘉音をよそに、劉充儀と呉才人は話を続けていた。話題は友好関係にある風禮国へと移っている。
華鏡国と風禮国は現在は友好関係にあり、交易も盛んに行われている。風禮国独自の品は多く市井に出回り、後宮でも珊瑚の装飾品のほか、茶や菓子など、風禮国の文化が流行っていた。
「呉才人は風禮国へ行ったことがあるの?」
劉充儀が聞いた。
「ええ、一度だけ」
「どんな国なの? 果てには砂だらけの地があると聞くけれど」
「そこまでは行ったことがないわ。長く滞在できなかったから少し見ただけよ。そうだわ、お父様から風禮国の織物を頂いたの。細かな刺繍が入っていて素敵なのよ。今度、私の宮まで見にいらして」
「まあ! ぜひ拝見したいわ。風禮国の織物なんて素敵よ。その時は薛昭容も一緒に伺いましょうね」
劉充儀は風禮国の話に瞳を輝かせている。彼女ほど風禮国に憧れは抱いていないが、嘉音もにっこりと微笑んで頷いた。
茶会が終わり、劉充儀の宮を出る。白李宮と呉才人の宮は近い位置にあるので、途中まで同じ道を行く。嘉音の隣や後ろには慈佳らといった白李宮付きの者が並んでいた。
(今日は天気もよいから、外に出る妃嬪も多いでしょうね)
特に星辰苑は風の通りがよく木陰もあるので心地よい。池があるので冷涼感を味わえる。茶会の誘いがなければ嘉音も星辰苑に出ていたかもしれない。
そう考えていると、こちらにやってくる妃嬪の列が見えた。嘉音と同じく、宮女を連れて散策に出ていたのだろう。
(あれは……凌貴妃かしら)
透き通るような肌と美しい体。凌貴妃だ。嘉音が凌貴妃に気づくと同時に、彼女もこちらを見た。
瞬間、鋭くその瞳が細められる。距離はあるというのに、彼女が嫌悪感をむきだしにしていることが伝わってくる。眼光は、呉才人ではなく嘉音に向けられていた。近づくのが怖くなり、自然とその足を止めてしまう。
「……薛昭容」
呉才人が小声で名を呼んだ。呉才人も凌貴妃のことに気づいているのだろう。嘉音の身を案じる声音だ。
凌貴妃は変わらず、敵意をこめて嘉音を睨みつけている。その態度を取る理由はわからない。
そのうちに凌貴妃は角を曲がって行った。その方向には凌貴妃の宮である桃蓮宮がある。歩いてきたところから察するに、星辰苑に出かけ、宮に戻るところなのかもしれなかった。
凌貴妃の姿が消えたのを確かめてから、呉才人が詰めた息を吐いた。
「薛昭容……お気をつけくださいね」
名は出さなかったが、凌貴妃に気をつけろと言いたかったのだろう。その意を汲み、嘉音は頷く。
しかし凌貴妃がこちらに敵意を向けてくる理由がわからない。苛立っていたのだろうか。嘉音が考えこんでいると、呉才人が見抜いたかのように言った。
「大家が薛昭容の元に渡ったことは、貴妃様もご存知なのでしょう――ですから、お気をつけください。後宮は何が起こるかわかりません」
「……ええ」
呉才人の忠告を受け取り、反芻する。
呉才人や劉充儀でさえ、昨晩大家が来ていたことを知っているのだ。凌貴妃の耳にも当然入るだろう。
(でも中身は天雷だから……大家とは言えない)
寵愛が移ったのではなく、大家の中身が違うだけなのだ。
胸中は複雑で、頭が痛くなる。鬱屈とした気持ちに支配されそうだ。
そうして嘉音が白李宮に戻れば、帰りを待っていたかのように宮女が駆けてきた。
「薛昭容。今晩、大家がお越しになるそうです」
宮女はにこやかだった。仕える妃嬪が選ばれたことを誇らしげに思っている。それを聞いた慈佳も喜んでいた。
(今日も天雷に会えるのね)
天雷に会えるとわかれば、夜が待ち遠しくなる。昨晩は湯に垂らした香油さえ疎ましく感じたが、今日は違う。彼に会えるとわかれば心臓が早鐘を打ち、早く陽が沈んでほしいと願ってしまうほど。
夜、月が煌々と輝く頃に天雷がやってきた。
帝のふりをして険しい顔をしていたのが、二人になればゆるりと緊張が解ける。気心しれた者と会えたことで楽になったのだろう。
「疲れているみたいね、大丈夫?」
長く息をつく姿に疲労を感じ取り、嘉音が声をかけた。天雷は寝台に腰掛けたかと思うとそのまま倒れ込み、天井を仰いでいる。
「慣れないことばかりですからね。この状態を隠すのも大変です」
「突然大家になったんだもの、慣れなくて当然よ」
天雷が身を起こし、座り直す。
昨日は隣に腰掛けていたが、今日は彼の前に立っていた。どうも緊張してしまう。昨日の囁きはまだ耳に残っている。近くにいれば顔が火照ってしまいそうだ。それを押し隠すように、嘉音は話を続ける。
「二日連続でここに来て、何か言われない?」
「平気です。今日は行かないのかと内常侍に問われたほどですから。行かないのもまた疑われてしまいます」
「そうね……急にどこも行かなくなれば確かに疑われる」
「ですから嘉音様の元にしようと。俺も嘉音様に会いたかったので」
事もなげに天雷は言う。会いたかった、と言われれば嬉しいが、複雑な気分にもなる。
(私は天雷が好きだから嬉しいけれど……天雷はきっと、違うのよね)
嘉音だって天雷に会いたいと考えていた。けれどそこには思慕が混ざっている。その言葉を口にするには勇気が必要だ。
しかし天雷はさらりと言ってのけたので、そこに混ざる感情は、嘉音の好意と異なるように思えてしまう。
「それから明日ですが、」
嘉音の胸中を知らず、天雷が言う。
「前に話した『詳しそうな者』が明日来るので、嘉音様もお呼びしますね」
「わかったわ。それで解決するといいのだけど」
「どうでしょう。まずは話を聞いてみなければ。銀鐘の頃になると思います、その時は迎えを出しますね」
現在の天雷は不可思議な状況にある。大家の体になっているという、常識では考えられないものが起きているのだ。詳しい者に聞き、解決する策が出ることを願うしかない。
(どんな人なのかしら。そういった者に詳しいとなれば、仙人とか? 寺院にいる方もありえそうね)
明日のことで頭を巡らせていたが、ふと気づけば天雷がこちらを見つめている。目が合うなり、天雷はにこりと微笑んだ。
「隣に座らないのですか?」
「え、ええ……」
胸中にある妙な気まずさを見抜かれた気がして、ぎくりと体が震えた。けれど天雷は平然とし、普段と変わらぬ笑みを浮かべている。
「そこにいられては話がしにくいので、こちらに来てください」
「……でも」
「ほら、こっちに」
なかなか動こうとしないので、ついに天雷が動く。嘉音の手を引き、隣に腰掛けさせた。
距離が近い。無理に引き寄せられたこともあり、天雷の体にぴたりとくっついている。衣を着ているのに彼の体温が伝わってくるようで、羞恥心がこみあげた。
「嘉音様は良い香りがしますね」
天雷が言った。それと同時に嘉音の首元に顔を寄せている。
良い香りとは麝香のことだろう。帝の渡りがあるからと湯浴みをさせられ、慈佳は湯に香油を垂らしていた。仕上げに練り香まで塗りこんでいる。どれも風禮国から取り寄せた貴重な麝香を使っている。
「甘い、良い香りです。嘉音様によく似合う」
「ちょ、ちょっと、天雷……!」
天雷はその香りを嗅ぐように、嘉音の首元に顔を埋めた。ときおりひくひくと鼻が動く。その呼気がくすぐったく、嘉音は身を捩らせて抵抗しようとしたが――すぐに手を押さえられてしまった。
(大きな手……力も強い)
こうなれば抵抗はできない。逃げられないとなれば恥ずかしくなる。天雷の接近を敏感に感じ取り、心臓が騒ぎ立てていた。
「嘉音様が大家を迎える時はこの香りがするのですね……少し、妬けてしまいます」
「違うの、これは――」
「あなたがこのような香りをさせていれば誰だって触れたくなりますよ」
つ、と首筋をなぞられる。その指先が柔らかく肌に食いこみ、嘉音は目を瞑った。
これ以上に羞恥心を煽られてしまえば頭がおかしくなりそうだ。
しかしそこで、彼はぴたりと動きを止めた。
「……この手は、俺じゃない」
彼の掠れた声が聞こえた気がした。驚きに目を開ければ、拘束が緩められる。
「ふふ。からかいすぎましたね」
天雷は距離を取り、楽しそうにしている。先ほどのひとり言は沈痛な響きだったが、それが嘘のように彼は笑顔だ。
「ま、またからかったのね……」
「嘉音様があまりにも可愛らしくて、いじわるしたくなるのです。まだ顔が赤くなっていますよ」
「もう! からかうなんてひどいわ!」
そう言いながらも、内心ではこの距離を寂しく感じていた。近くにいればいるほど恥じらいが生じて苦しいのに、離れれば寂しいと思う。矛盾しているのは嘉音もわかっている。
嘉音は複雑な気分だというのに、天雷は普段と変わらない。その差が悔しくて、彼の胸を数度叩く。力は込めていないので痛みはないだろう。天雷は苦笑していた。
「許してください。明日には元に戻れるかもしれませんから、こうして嘉音様を共に居られるのも最後かもしれませんよ」
それを聞いて、嘉音がぴたりと動きを止める。
「……最後なの?」
「どうなるかはわかりませんが、俺が宦官に戻ればこのように会うことも減るでしょう。嘉音様は大家の妃嬪。こうして二人きりで会えるのは、俺が大家の体に入っているからです」
「そう……よね……」
「いつ最後となるかわかりませんから。嘉音様に会うときはいつだって、これが最後の心持ちでいます」
わかっていたことではある。こうして会っても、その顔は天雷ではない。元に戻ってしまえば大家がここに来ることはなくなる。天雷と嘉音も、宦官と妃嬪という、容易には会えない関係に戻ってしまうのだ。
(元に戻ってほしいけれど、会えなくなるのはいや……どうしたらいいのだろう)
天雷を見上げる。彼は穏やかに微笑み、なだめるように嘉音の頭を撫でた。
「大丈夫です。俺はどんな立場にいようとも、嘉音様の味方ですから」
それでも不安は拭えない。嘉音はうつむくことしかできなかった。
***
翌日になると髙祥殿から遣いが来ていた。前日話していた通り、嘉音を髙祥殿に招くという内容である。
迎えが来る銀二鐘が近づいてきた頃だ。慈佳が嘉音の元にやってきた。慈佳は困惑気味に言う。
「嘉音様。桃蓮宮の宮女がきておりまして、星辰苑に嘉音様の耳飾りが見つかったとか」
「私の耳飾りがどうして……知らないうちに落としていたのかしら」
耳飾りは先日もつけていたが、厨子に戻している。落とした覚えはない。
嘉音は、こういった貴重な品を扱う時、自分が行うことを心がけている。女官や宮女に任せ、万が一に紛失してしまえば大事になる。女官や宮女が妃嬪の品を紛失した責を問われることもあるのだ。そのようなことに巻き込んでしまいたくないと、必ず自分で行い、それが出来ぬ時でもせめて立ち会うようにしていた。
だからこそ、耳飾りの紛失に心当たりがなかった。不審に思いながら厨子を開く。
「確かに、ひとつ、珊瑚の耳飾りがない」
珊瑚の耳飾りがひとつ欠けている。慈佳も厨子を覗き、それを確かめた。
「星辰苑にあったとのことですから、そこで落としたのかもしれませんね。桃蓮宮の宮女が報せてくれてよかったです」
「再び無くす前に取りにいかないと。星辰苑にあったのよね?」
「はい。見つけてくださった凌貴妃も星辰苑にいるそうです」
凌貴妃の名に嘉音は顔をしかめた。良い印象がないので、なるべくなら遠ざけて過ごしたいところだ。
しかし耳飾りを見つけてもらったお礼を伝えなければ。
「いまから星辰苑に行っても、銀二鐘までには戻れる――急ぎましょう」
嘉音は宮女らを連れ、急ぎ星辰苑に向かった。
星辰苑に着くと、池近くの亭に凌貴妃がいた。
(苦手なのよね……でも避けてはいられない)
足がすくみそうだったが、意を決して凌貴妃の元に向かう。
彼女も嘉音がやってきたことに気づいたらしい。だが目を合わせるなり、微笑んだ。
「……貴妃様にご挨拶申し上げます」
「こんにちは、薛昭容。良い天気ですわね」
頑なな態度を取るものだと想定していたので嘉音は虚を突かれた。まるで別人かのように凌貴妃は微笑み、嘉音に声をかけている。
「耳飾りを見つけて頂いたそうで……見つけて頂きありがとうございます」
「やはり薛昭容の耳飾りだったのね。以前ここで会った時につけていたから覚えていたのよ」
「覚えて頂けたなんて光栄です」
「みなが珊瑚を気に入っているからあちこちにあるけれど、あなたのは印象に強くて覚えていたの」
これには違和感があった。
(この耳飾りは目立つ特徴はなく、みなが持っているのと変わらないと思う。どうして私のだけ覚えていたのだろう)
疑問は生じるも凌貴妃にそれを問う間はない。凌貴妃はたおやかに笑みを浮かべると、嘉音を手招いた。
「せっかくですもの、近くにいらして」
隣へ来い、という意味だろう。早々に戻りたいところだが凌貴妃に呼ばれている手前言いにくい。慈佳に声をかけてもらい下がりたいところだが、その慈佳は桃蓮宮の宮女から耳飾りを受け取っているところだ。そして宮女らは、嘉音と凌貴妃に気遣ったのか少し離れた位置で控えている。
(少しなら、迎えがくるまでに間に合うはず)
嘉音は頷き、凌貴妃の隣に立った。
凌貴妃は美しいだけでなく芳しい香りがする。みずみずしい花を思わせるようだ。
(そういえば凌貴妃はよく星辰苑に来ているけれど、この場所が好きなのかしら)
嘉音は凌貴妃の方を向き、問う。
「貴妃様はよくこちらにいらっしゃいますね」
「ええ。花や緑がたくさんあるでしょう? 大家にもここは良いと勧められて、すっかりお気に入りに」
天雷になる前の大家もこの星辰苑を好んでいたのだろう。
嘉音はじっくりとあたりを見渡す。目の前には池があり、それを超えると高木が植えられた茂みがある。そこだけ土が盛られていて、小さな山のようになっている。陽が当たりにくいのか、じめついているようで、周囲と異なる植物が植えられていた。
「あの奥は何が植えられているのでしょう」
「風禮国の植物だそうよ。風禮の第二皇子が持ってきてここに植えているの」
「風禮国の第二皇子……ですか」
嘉音はこれを知らなかった。それに気づいたらしく、凌貴妃が開いた扇で口元を隠しながら告げる。
「あら。薛昭容ともあろう方がご存じなかったとは」
「申し訳ありません……こういった話に疎いもので」
「構いませんよ。後宮のことなど、入りたての者にはわからないものね」
するり、と目が細められる。扇で口元を隠したのは、表情を隠すためだろう。
「華鏡国と風禮国は友好関係を結んでいるでしょう。互いの国の皇子を交換しているの――いわば人質みたいなものね。我が国からは公主を、こちらに来ているのは風禮国の第二皇子よ。あの植物はその第二皇子が植えたもの。日陰で湿度のある場所でないと育たないらしく、星辰苑が最適な環境。だから先帝が特別に許可を与えたのよ。彼だけはここに立ち入ることができる」
その話を聞きながら不思議な植物を見る。しかし池に阻まれているので近づけない。小さな花のつぼみが見えた。
「でも近づいてはだめよ。あれは毒があるそうだから」
「毒……恐ろしいですね」
「だからわかりやすいように土を盛っているの。ここに毒草が植えられているとわかりやすいでしょう?」
そうなれば毒が植えてあってもわかりやすい。星辰苑には大家や妃嬪がよく通うが、これならば誰が来ても避けられるだろう。
そうして見渡し、気づいた。
(慈佳はどこ?)
慈佳や宮女がいない。距離を取っているといえ近くにいたはずだ。白李宮だけでなく桃蓮宮の宮女らも見当たらなかった。
「ねえ。薛昭容」
声をかけられ、凌貴妃の方を向く。その表情は扇で隠されているものの、先ほどまでの穏やかな空気が失せていることがわかった。
「大家に愛想を振りまくよりも宮城のことを勉強なさってはいかが?」
その声音が冷えている。腹の底が震え上がるような、冷徹な気を纏っていた。
(凌貴妃は大家のことを愛しているから、寵愛が移ったのだと考えているのね)
思えば彼女の言は『自分の方が大家に愛されている』と主張するようなものが多かった。星辰苑を勧められたことや、珊瑚の歩揺を頂いたこと。そこには必ず大家の単語が混ざる。
大家に愛想を振りまく、というのは最近嘉音の元に大家が渡っているため、そのように考えたのだろう。
(でも違う。中身は天雷だから……凌貴妃はそれを知らないだけ)
悲しいすれ違いだ。中身が大家であったのなら凌貴妃は変わらず寵を受けていたのかもしれない。伝えたいが天雷を思うと伝えられない。
しかし嘉音が動くよりも早く、凌貴妃が告げた。
「大人しくした方が身のためよ」
その言葉が嘉音の鼓膜を揺らした瞬間だった。
何かにどん、と体を押された。突然強く押され、体がよろめく。
(あ――まさか)
視界がぐらりと傾き、落ちていく。凌貴妃が扇の裏で笑っているのが見えた。
大きな水音が星辰苑に響く。池から跳ね上がった水はあちこちに飛んだ。
「きゃああああ。誰か、誰か!」
凌貴妃が叫ぶ。動揺したふりをし、扇を落とす。
「薛昭容が池に落ちたわ。誰かきて!」
助けを求めながらも彼女は手を差し伸べようとしない。
池に落とされた嘉音はもがくだけだ。
(どうしよう。この池、深い)
手足をばたつかせるが、足がつく気配はない。この池は見た目よりも深く作られているようだ。さらに厄介なのが襦裙だ。水を吸って重たく、うまく身動きがとれない。池のふちに手をかけても体を持ち上げることはできず、泥によって滑って再び池に落ちるだけだ。
(助けて……誰か……苦しい……)
いまになって後悔する。油断しなけれよかった。凌貴妃は最初からこのつもりでいたのだろう。池のそばに招かれて寄ってしまった自分が憎い。
もがけなければ身が沈む。しかし体力はつきかけ、手や足を動かすことさえ億劫だ。
慈佳ら宮女はどこへ行ったのだろう。彼女らが戻ってくる様子はない。凌貴妃はいるが叫ぶばかりでこちらを助けようとはしていなかった。
(天雷……助けて)
水面に顔をあげることもできず、池の水を飲んでしまう。喉が苦しい。これ以上顔をあげていられない。諦めかけた――その時だった。
「落ち着け! 暴れるな!」
男の声がした。そして池の中に布が投げ込まれる。
「それを掴め。僕が引き上げる!」
よく見ればそれは帯だった。男物の帯らしい。嘉音は両手でそれを掴んだ。
「よし、いい子だ。そのまま頑張るんだ」
ずるりと帯が引き上げられる。水を含んだ襦裙が重たかったが、これを手放せばまた池に落ちてしまう。嘉音は懸命にしがみつくしかなかった。
嘉音が完全に引き上げられると、騒ぎを聞きつけ戻ってきたらしく慈佳や宮女が戻ってきていた。
「薛昭容!」
「……あ……私は……無事、だから」
咳き込みながらも返事をする。水を飲んだ程度で他に外傷はない。とはいえ、あのまま池にいればいずれ力尽きていただろう。
(怖い……私は死ぬところだった……?)
風が当たれば冷たく、さらに恐怖心も混ざって、体ががたがたと震える。おそるおそる見れば、凌貴妃はさめざめと泣いていた。
「ああ、薛昭容が落ちてしまわれた時はどうしようかと……無事でよかったわ……」
突き落としたのは凌貴妃でないといえ、彼女は嘉音を助けようとはしなかった。
(凌貴妃は、こうなることをわかっていたのね)
池に突き落とされることを知っていたのだろう。おそらく協力者がいた。嘉音を突き落とした者と宮女らを遠く離した者。
そこへあの男が近寄った。嘉音を池から引き上げた男だ。
「無事かな? 痛いところはある?」
「すぐに引き上げて頂いたので平気です……助けて頂きありがとうございま――」
そう言いかけて、言葉が詰まる。彼をどこかで見たことがある。
異国風の装束に、目鼻立ちはくっきりとしてここらで見かける顔とは少し違う。瞳の色素は薄いが肌の色が濃く茶色がかっている。彼の姿は珍しいので覚えていた。
彼も嘉音を知っているらしく、こちらを覗きこむ。近づけば、彼の纏う香の、焼け付くような甘ったるさが鼻についた。
「うん? 君はどこかで会ったことがあるね……違ったら申し訳ないが、君は薛家のお嬢さんかな」
「確かに私は薛嘉音ですが……」
すると彼は、ぱあっと表情を明るくさせた。
「なるほど。君があの時の娘か。覚えてないかい、二年前、占師が屋敷を訪ねただろう?」
「あ! あの時の……」
嘉音もようやく思い出した。彼は天雷がいなくなった日に尋ねてきた占師だ。葛公喩と名乗っていた。嘉音とは数言交わしたのみだったが、独特な容貌だったので覚えていた。
「ふむ。見たところ外傷はなさそうだね。体が冷えているから早く温めた方がいい。念のため医官を呼んだ方がいいかな」
慈佳が呼んだらしい衛士が駆けつけてきた。どうやら白李宮まで運んでくれるらしい。助かったことで気が抜けたのか、どっと疲れが押し寄せてくる。歩いて帰る気力はなく、衛士らが運んでくれることはありがたかった。
しかし心残りは公喩にお礼を告げていないことだ。
「あの、私――」
「ああ。お礼は次会った時に聞くよ。すぐに会えるだろうから」
公喩はそう言って、ひらひらと手を振った。颯爽と歩いて行く。どうやら星辰苑を出て行くようだ。
(どうして占師がここにいたのかしら)
公喩のことは気になったが、深く考えるほどの元気は残っていなかった。
白李宮に戻るとすぐに医官がやってきた。診てもらったが、引き上げられるのが早かったことが幸いし、体を温める薬湯を処方され、しばらく休むよう告げられるだけで済んだ。
天雷がやってきたのは陽が暮れた頃だった。
「嘉音様、ご無事ですか!?」
部屋に入るなり天雷は、伏せる嘉音の元へと駆けてきた。事前に大家の見舞いが伝えられていたので、慈佳や宮女らは席を外している。
「平気よ。池に落ちちゃっただけだから」
「本当に? 痛いところはありませんか? 少しでも違和感があれば言ってください。医官を増やすようにすることも――」
「大丈夫だから落ち着いて。体を温めて休めば良いとのことだから、天雷も心配しないで」
「ですが……」
天雷は表情を曇らせていた。
これ以上心配をかけてはなるまいと嘉音は身を起こす。薬湯の効果があったのか体が熱く、疲労も感じられない。嘉音はにっこりと微笑んだ。
「今日約束していたのにごめんなさい。私が出かけなければよかった」
「いえ。大丈夫です。既に話は聞いていますから」
「聞いている? 慈佳が話したの?」
これに天雷は首を横に振った。
「迎えに向かわせた者から今回の件について伺っています――入ってください」
天雷が扉に向けて声をかける。部屋の外で合図を待っていたらしく、すぐに扉が開いた。
現われたのは葛公喩だった。先ほどと変わらぬ様子で、にこにこと笑みを浮かべている。
「あなたは先ほどの……! 助けて頂き、ありがとうございました」
「いやいや。近くにいて、ちょうどよかったよ」
二人のやりとりに天雷は首を傾げていた。
「嘉音様。この男に会うのは今日が初めてのはずでは?」
「ううん。二年前にもお会いしているの。薛家の屋敷に来ていたのよ」
「……なるほど」
天雷が公喩の方を見る。嘉音に向けるものと異なり、かすかな敵意が込められているようだった。しかし公喩はにたりと笑ってそれをかわす。
「そう睨まないでくれ。偶然だから仕方ないだろう。何も噂の『嘉音様』を取って食べようとしたわけじゃあない。それに今日だって、僕がいたから助けることができただろう?」
「それには感謝しています。ですが、余計なことは言わない方がいいと思いますよ」
「ははっ、恐ろしいな。彼女のことになるとあの天雷も鬼のようだ」
どうやら天雷と公喩も知り合いのようだ。しかし、大家の体に入っているというのに、公喩が『天雷』と呼んだことが気になる。これについてはすぐ、天雷が教えてくれた。
「既にご存知だとは思いますが、彼は葛公喩。古くからの知り合いなんです。この姿でも中身は俺であること、彼には話しています」
「僕の場合は、話を聞く前に中身が天雷だとわかったけれどね!」
得意げに公喩が語る。この状況を共有できる者が増えたことはありがたい。
「詳しい者というのは公喩のことです。この件を相談するため彼を呼んでいました。白李宮に迎えに行ってもらう予定だったのですが……」
「あのようなことが起きていたからな、仕方ない。うん。星辰苑に寄り道してよかった」
「……公喩、寄り道していたんですね」
はあ、と天雷がため息を吐く。公喩は飄々としていて反省の色は見当たらない。
「何やら妃嬪が集まっているから何事かと思ってね。しばらく隠れて様子を見ていたんだ――天雷、そのような目を向けちゃいけない。僕は不審者ではないからね。不用心なほど池に近づいていたから嫌な予感がしただけだ」
(ということは、公喩殿は私が池に落ちる直前を見ていたのね)
嘉音が息を呑む。公喩は変わらず、その時の様子を語り続けていた。
「そこで、亭に潜んでいた宮女が駆け出していってね。そして薛昭容を――」
「待って!」
声をあげ、公喩の語りを遮った。
「違うの。私が自分で落ちただけ」
「は? 君は何を言っている。あの時君は――」
「本当に違うの。信じて。天雷」
嘉音としては、星辰苑での場面を語られたくなかった。公喩は、嘉音が誰かに突き落とされて池に落ちたことを目撃しているだろう。凌貴妃があえて助けなかったことも見ているかもしれない。
(でも凌貴妃は……大家のことが好きで、嫉妬をしただけだと思う)
このことが知れ渡れば、凌貴妃に何らかの罰が与えられるかもしれない。凌貴妃は大家の中身が天雷になってしまったことを知らないだけなのだ。
好きな人が突然失われたつらさは嘉音も知っている。二年前に天雷が去り、後宮で再会するまでの間は鬱屈とした日々だった。凌貴妃も同じように苦しんでいるのかもしれない。その矛先が嘉音に向けられただけだ。
ここで凌貴妃の名を出したくなかった。公喩は呆れ顔をしているが、それでも引けない。
嘉音はじいと公喩を睨みつける。やがて根負けしたらしく、公喩はため息をついた。
「だ、そうだ。これ以上言えば、優しく情け深い薛昭容の怒りを買いそうだから、僕は何も言わないよ」
「……嘉音様、本当にいいんですか?」
天雷に問われ、嘉音はしっかりと頷く。
「やれやれ。女人の考えることはわからないよ。ともかく、僕が池に落ちた彼女を助けたというわけだ。天雷、感謝してくれていいんだぞ」
「公喩も時には役に立ちますね」
「なんだその言い草は。ここは僕を褒め称える場面だろうに」
二人は楽しそうに話しているが、嘉音はそんな天雷を見ることが初めてだった。
(本当に公喩殿と親しいのね)
天雷があのように毒を混ぜた物言いをするのは初めて聞く。それを嘉音に向けたことはなく、嘉音が見ているかぎりだが薛家の者たちにこのような態度を取っていたことはない。それを葛公喩は引き出せているのだろう。
(古くからの知り合いだと言っていたけれどどうしてだろう。それに公喩殿は男性なのに、どうして後宮にいたのかしら)
公喩がいなければ危うかったといえ、なぜ星辰苑にいたのかが気になる。後宮は女人の園であり、帝と宦官以外の男性は入ることができない。そして公喩はどこから見ても男性だ。
「あの、公喩殿」
嘉音が問う。公喩がこちらを向いた。
「公喩殿はどのようにして後宮に入れたのでしょう」
「うん? 髙祥殿を出て、祥華門を通って後宮に入ったよ。それ以外に門はないだろうさ」
「いえ。そうではなく、男性がどうして後宮に入れたのかと……」
ここでようやく嘉音の疑問に気づいたらしい。公喩は「なるほど」と頷いた。そしてわざとらしく胸を張り、答える。
「それは僕が風禮国の皇子だからだ!」
「そうは見えませんけどね」
公喩が得意げに語ったのでその鼻を折るように、天雷が呟く。
後宮への立ち入りを特別に許された第二皇子とは公喩のこと。ならば星辰苑にいたのも納得がいく。独特の風貌は風禮国のものだろう。
「気づかず申し訳ありません。ずっと占師だと思っていました」
「あの時は身分を隠さなければならなかったからね。それに占師というのも嘘じゃない。僕はそういった『人智を超えた神秘なるもの』が大好きだから」
人智を超えた神秘なるもの、と言われてもなかなか思いつかない。返答に困り視線を泳がすと天雷の姿が目に入った。大家の体に入りこむという、常識を越えたこの状況。ここでようやく天雷が彼を呼んだ理由について、嘉音も理解した。
「さて。お互いの紹介も済んだところで本題に入りましょう」
天雷が切り出す。公喩が頷いた。
「僕も天雷から聞いた時は信じられなかったよ。他人の体に意識が入るなど面白い。とはいえ話せば話すほど天雷に違いないし、外見は祥雲だ」
祥雲とは大家の名である。民はおろか、妃嬪でさえその名を声に出すことは不遜にあたるのだが、慣れた口調で語るところから公喩は許されているようだ。
「公喩、思い当たるものがあると話していましたよね。それを話してもらえますか?」
「もちろん。我が国、風禮国には『魂箱互換』という伝承があってね。簡単にいえば魂が入れ替わるという話だ」
「魂が入れ替わる? どういうことでしょうか」
嘉音が問うと、公喩は「わかりやすく話そうか」と言って立ち上がった。
部屋に飾ってあった花器を二つ、几に置く。ひとつは朱雀を描かれた花器、もうひとつは亀が描かれた花器だ。今日は朱雀の花器に花を活けていた。これを引き抜き、それぞれの花器に花を分ける。
「例えば、この器が体、花が魂だとする。このふたつが揃っていないと人間は動けない。体は魂の容れ物であり、魂は体を動かすものだからね。ここに二人の人間がいると思えばいい」
すると公喩はふたつの花器から花を引き抜いた。そして、亀柄の花器にさしていた花を朱雀の花器に移す。朱雀の花器にあった花は、亀柄の花器にさした。
「けれどこのように、魂が別の体に移動することがある。体が入れ替わる、ということだ」
「入れ替わる……なるほど、それで『魂箱互換』」
「肉体は魂を閉じ込める箱みたいなものだと、風禮の者は考えたのだろうね。まさしく『人智を超えた神秘なるもの』だ。面白い伝承だよ」
魂が別の体に入る。まさしく天雷と同じ状態だ。
「『魂箱互換』では二人の兄弟がでてくる。兄には相思相愛の女人がいたけれど、彼女は弟と結婚させられてしまう。兄と結婚出来なかったことに嘆いた彼女は自死を試みるが、それを察した兄の魂が弟の体に入りこむ――そうして彼女の死を止めた、という話だ」
「俺の現状と似ていますね。俺の魂が大家の体に入りこんだ、というのはありえます」
天雷は納得しているようだが、嘉音は気にかかるものがあった。
「入れ替わりだとしたら……天雷の体はどこにいったのかしら。それに大家の魂も」
花器の例えでいえば、大家という朱雀の花器に、天雷という亀の花がさしてある。しかし朱雀の花器にさしてあっただろう花は見当たらず、亀の花を飾っていただろう花器もない。
これに公喩も首を傾げた。
「そうだね。僕もそれが気になるところだ。入れ替わった理由はもちろんだが、天雷の体がどこに消えたのかも気になる。どこぞを徘徊していれば困ったものだ」
「徘徊していればいまごろ騒ぎになっているでしょう」
天雷が苦笑した。宦官の体がうろつくなど後宮にそのような話は出ていない。
「内侍省では俺がいなくなったことになっています。公にはしていませんが、衛士や宦官らには天雷を見つければ報告するよう伝えていますよ」
「ではこのあたりにいないということか。宮城を出てしまった可能性があるねぇ」
「入れ替わって日も経っていますからね」
「はは。もしかしたら隠れているかもしれないよ。君は隠れるのが上手だから」
そう言ってけたけたと笑う公喩を、天雷が鋭く睨みつけた。公喩は視線に気づき「しまった」と言って、手で口元を押さえる。
二人のやりとりが何を意味しているのかは嘉音にはわからなかった。天雷がすぐに話をはじめてしまったためだ。
「公喩、俺の体が見付からなくとも元に戻れば解決するのでは? 俺がどこに隠れていたとしても、その体に俺が戻れば問題はないでしょう。自分で歩いて後宮まで戻ればいいだけです」
「確かにその通りだけど、肝心の『元の体に戻る術』がわからないからね。そもそも君はどうして入れ替わったんだ。その日に何があったのか話してもらわないとわからないよ」
「それは……」
公喩に問われるも、天雷は表情を曇らせ、うつむいてしまった。嘉音が聞いた時も天雷は口を閉ざしている。知られたくないことがあるのかもしれない。
「それは僕にも、話せないことかな?」
なかなか答えようとしないのを見かねて、公喩が訊いた。
「……すみません。俺からは言えません」
「では質問を変えよう。入れ替わるようなことが起きた時、そこに祥雲はいた?」
天雷は逡巡した後、頷いた。
「大家も一緒でした」
「ふむ。それは答えられるのか。では他に誰がいた?」
「……すみません。これ以上は」
声音はどんどん弱くなる。天雷もこれ以上は語れないのだろう。
その意を汲んだ公喩は問いかけをやめ、顎に手を添えて何かを考えこんでしまった。しばらく思案して結論が出たらしく、真剣な顔をして言う。
「僕の推測だけど、大家がいた場面で入れ替わっているのだから、元に戻るためにも大家がいなければならないだろう。体と魂、それぞれが揃わなければ解決しないだろうね。それらを揃えて、入れ替わった際に起きたことを再現する――解決のために考えられるのはそれぐらいだね」
「そんな……」
今日で元に戻れるものだと思っていたのだ。公喩の話に嘉音は言葉を欠いてしまった。解決するためには天雷の体を探さなければならない。
(どうして天雷は語りたくないのだろう。誰かを庇おうとしている?)
嘉音、公喩に対しても語ろうとはしない。だが天雷の体がどうなったのかは気にしているらしい。そして大家が同席していたことも明かしていた。
(あの日、大家の輿は桃蓮宮にあった……桃蓮宮で何か起きた?)
桃蓮宮といえば凌貴妃の宮だ。輿があったことから大家は間違いなくそこにいただろう。そして大家が同席していたと証言した天雷も、そこにいたと考えられる。
天雷の表情は暗い。眺めていても彼の心の内は読み取れないためもどかしい。嘉音の視線に気づいたらしい天雷は顔をあげた。
「でも俺も、自分の体がどうなったのかは気になります。大家の魂が入っているのか、それとも……」
「そうだねえ。あらぬ騒ぎになる前に探した方が良いね。元に戻るとしても君の体は必要だ」
何が起きて入れ替わったのかはわからないままだが、現状の確認とこれからやるべきことは見えてきた。
話がまとまったところで天雷が長く息を吐く。話の切れ目を悟った嘉音が声をあげた。
「天雷は大家と入れ替わっているでしょう? 凌貴妃の元へは渡らないの?」
寵妃だった凌貴妃のもとに大家が通っていない。この事実は既に後宮に広まり、みなは動揺している。凌貴妃自身もそうだろう。だから、最近よく大家が渡っている嘉音に嫉妬し、池に落としたのだと考えていた。
(凌貴妃だって理解できず、寂しいはずよ)
池に落としたり難癖をつけたりといった振る舞いは認められないが、彼女の胸中を考えれば同情心がわく。大家の中身が天雷であると明かせないにしても、彼女の元に行くことはできるのではないかと考えたのだ。
しかし天雷は顔をしかめていた。
「……凌貴妃と接触することは、あまり考えたくないですね」
「どうして。いままで大家は凌貴妃の元に通っていたじゃない」
「だからこそ、凌貴妃は大家のことをよく知っている。中身が入れ替わっていると気づくことも考えられます。急に桃蓮宮に行かなくなったとしても、そのうちにみんな慣れるでしょう」
慣れるとはどういうことか。この疑問に公喩が答えた。
「寵愛は移り変わるものだからね。騒ぎ立てるのも最初だけ、そのうち皆が慣れてくる。宮城での暮らしとはそういうものだよ」
「そんな……」
「しかし……薛昭容の様子を見る限り、天雷は随分と奥手らしい」
公喩はにたりと笑みを浮かべながら天雷に言う。
「せっかく『宦官ではない』体が手に入ったのだから、もう少し積極的になればどうだろう」
その言が意図するところを嘉音はあまり理解できなかった。だが天雷にはじゅうぶん伝わったらしい。彼は勢いよく公喩の方を振り返る。顔がひきつっていた。
「それはどういう意味でしょうか」
「なに、その通りだよ。君は何のために宮城にきたんだ。それも宦官になってまで」
「公喩! それ以上は――」
遮るように天雷が言った。この焦燥が公喩の狙いだったらしい。
「おやおや。では僕が話してしまおうか。君が宮城に戻ってきた理由を」
彼の言に気になるところがあり、嘉音は首を傾げた。
(戻ってきた……ってどういうこと?)
嘉音が知るは、薛家の下男であった天雷だけだ。しかしそれ以前となれば嘉音にもわからない。それに、公喩とどのようにして知り合ったのかもわからない。宦官になって知り合ったという関係でもなさそうだ。
(……私、天雷のことを知っているようで、あまり知らないのね)
入れ替わるようなことが起きた日、何があったのかを語ってはくれない。口を閉ざしてしまうのも信頼されていないと示しているようで寂しいところがある。
嘉音が抱く寂寥を知らない公喩は「訊いておくれ、薛昭容」と指名して、仰々しく語っていた。
「彼はねえ、ある人を待ち構えるために、無理を通して宦官になったのさ。結ばれなくともそばにいたいからと理由をつけ、来てはならない場所に忍びこむほどだ」
「……公喩、お願いですから黙ってください」
「いいや黙ってなどいられぬ。天雷は大事なものを前にすれば後ずさる傾向があるからね、見守るだけでいいなど健気なことを言って物陰からじいと眺めるような君のために、こうして僕が伝えているんだとも」
天雷は呆れ、頭を抱えていた。小さな声で「だから公喩を連れてきたくなかった」とぼやいている。
「これは天が与えた好機かもしれないぞ」
公喩は、がっしりと天雷の肩を掴んだ。ゆさゆさとその身を揺さぶられても天雷は呆れ顔のまま、抵抗する気力も欠いているらしい。
「異なる肉体だろうが、中身は天雷だ。その立場を与えられたのも意味があるはず。宦官の姿に戻ってしまえば結ばれないのだから、いまのうちだ」
「……はあ」
「好いた者を見守るためなどしおらしいことを言わず、たまには手を伸ばしてみればいい。そうでなければ薛昭容にも気づいてもらえんぞ」
「俺としては、この空気を公喩にも気づいてほしいですね……落ち着いてください、お願いですから」
「落ち着いてなどいられるか! あれほど僕に『嘉音様』の話を聞かせていたくせ、いざ彼女と会えばこの振る舞いだ。どうせ君のことだから、ここに来ても『顔が見たくなっただけ』などと言って格好つけているのだろう。それでは体の持ち主である祥雲だって嘆くとも」
天雷が全身の疲労をたっぷりと含ませたようなため息を吐いた。天雷が公喩を苦手とし、彼を厄介な男だと語った理由がわかる気がした。
(好いた者……薛昭容と言っていたけれど……彼も私のことを想っているのならとても嬉しいわ)
二人のやりとりを微笑ましく眺めていれば、胸の奥がふつふつと歓喜にわく。公喩がぽろりと漏らした言を聞き逃すなどしない。天雷が隠しているものに触れたような気がした。
天雷はというと、かすかに頬を赤らめてはいるが、平静を装ってこちらに向いた。
「嘉音様、騒がしくてすみません」
「いいの。見ているだけでも楽しいから」
「俺たちはそろそろ戻りますね」
すると会話を聞いたらしい公喩が割りこんだ。
「明日も来ればいいだろう。この機がどれほど続くかわからないのだぞ。なあに、祥雲には後で謝ればいい。祥雲だって知っているのだろう?」
「公喩は黙っていてくださいね」
天雷は咳払いをした。公喩は不満そうにしていたが、意を汲み、口を閉ざす。
「また伺います。公喩がいては長く話ができませんから」
「わかった。天雷がくるのを待っているわね」
このやりとりに公喩は不満を抱いていたらしく「君はもっと言えないのか」「がつんと押さねば伝わるまい」等と責めていたが、天雷は公喩の体を引きずるようにして部屋を出て行った。
皆が去ると、急にしんと静かになる。部屋を広く感じ、出て行ったばかりだというのに天雷の存在が恋しくなる。
(天が与えた好機……そうかもしれない)
それは天雷に向けた公喩の言葉だったが、嘉音の心にも深く刺さっていた。
帝の妃である嘉音と、宦官である天雷。これは結ばれないものが許されるべく、天が与えた好機なのかもしれない。
(天雷の体を見つけないといけない。わかっているけれど、この日々が続いたら幸せなのに)
だがこれはいずれ終わりがくる。天雷が元の体に戻る時が来るのだろう。天雷を助けたいと思う反面、この不可思議な状態が長く続いてほしいと願ってしまう。
複雑な想いを抱いていると、見送りを終えたらしい慈佳がやってきた。薛嘉音ではなく薛昭容として微笑み、慈佳を出迎えた。
池に落ちたこともあり、慈佳はしばらく白李宮で休むことを勧めていた。体も温まれば害はなく、風の邪が入りこんだ感じもないので、薛嘉音は部屋に引きこもりぼんやりと庭を眺めるのみである。
(天雷の体はどこにあるのかしら)
天雷の体は見つからない。宮城の外などは天雷や葛公喩が探しているだろう。嘉音は妃嬪であり宮城から外に出られない。嘉音が捜索できるとすれば後宮内だけだ。
「薛昭容、薛家からお祝いが届いていますよ」
慈佳がやってきた。手には薛家から贈られた豪奢な花器と絹がある。突然そういった品が贈られたので嘉音は首を傾げた。これに慈佳が和やかに微笑み、答える。
「大家の渡りがあったと伝わったのでしょう。娘が大家に召されるのはよいことですもの」
慈佳に続き宮女らは他の品々も運んでくる。すべてが薛家からと思いがたい。
「こちらは関才人からの品。こちらは湛昭儀からですね」
「どうして他の妃嬪からも届いたの?」
「これも薛昭容に大家の渡りがあったからですよ」
事もなげに慈佳が言う。つまりは、大家の寵愛が移ったと考え、薛嘉音に取り入ろうとしているのだろう。寵妃になったと見ればころりと態度を変えるなど、嘉音はこれを快く思わなかった。こうして皆が取り入ろうと画策するほど、薛昭容の元に大家が渡っていることが知られていると示しているようだ。
「それから……これはお伝えしていいのか悩ましいのですが」
慈佳は表情を曇らせ、困惑気味に言った。
「凌貴妃からも届いております。ただその……中身をどのように判断してよいのか……」
「凌貴妃から? 気にしないで、教えて」
「ええ……では」
慈佳が合図をすると、待っていたらしい宮女が匣を持って入ってきた。宮女は匣を遠ざけるように持ち、顔もしかめている。中によくないものが入っていることは嘉音にもわかった。
「開けてちょうだい」
その言葉に宮女が匣を開ける。蓋を開けた瞬間、むわりと嫌なにおいが広がった。腐卵臭、それから血の匂いも。
「……鶏の、頭」
中には切断された鶏の頭が入っていた。ぎょろりと剥いた目が恐ろしい。
慈佳ら宮女は妃嬪に渡す前に中身を改める。嘉音に見せてよいものか慈佳が躊躇った理由がよくわかった。
「昨日の見舞いかと思ったのですが、まさかこんな惨いものを……」
「よほど私のことを嫌っているのでしょうね」
嘉音はため息を吐く。ここまでするほど、凌貴妃は嘉音を嫌っているようだ。
(大家の寵愛が移ったからと嫉妬を抱く気持ちはわかるけれど……物事には限度がある)
池に落ちたことは助けてもらえたからよかった。この贈り物だって不快感を植え付ける程度。しかし恐ろしいのはこれがひどくなった時だ。命が危ぶまれるような大事に発展しないよう願うのみである。
そして嘉音だけではない。嘉音がいるこの宮――白李宮の者に危害を及ぼすようであれば対策を講じなければならない。
「おや。薛昭容は鶏の頭がお好きなのか」
その時、嘉音でも慈佳や宮女でもない声が聞こえた。慌ててその方を見れば、葛公喩がいる。
「公喩殿、どうして白李宮に」
「うん? ちゃんと挨拶をして入ったよ。薛昭容に呼ばれたと嘘はついたけれど、きっと許してもらえるだろう」
慈佳が呆れているが、公喩は無視して匣を覗きこむ。
「……凌貴妃もすごいねえ。僕なら名を伏せて贈るのに」
「贈らない方がよいと思いますよ」
「だが嫌がらせとしてはよいだろう――ふむ、祥雲も厄介な性格の女を好いたものだ」
ここで慈佳や宮女らが下がった。慈佳は茶の用意をしにいったらしい。公喩は椅子に腰掛ける。薛昭容の許可得ずおかまいなしだ。
「公喩殿は大家とも親しくされていたのですね」
嘉音が問う。公喩は頷いた。
「まあね。僕は幼い頃から華鏡国にいる。風禮国としては、王位継承権のない皇子の僕を厄介だと思ったんだろうさ。だから祥雲は幼い頃からよく知っている」
「幼い頃から異国でひとりなんて、大変ですね」
「そんなことはない。華鏡国が好きだからね、のびのびと好きにさせてもらっている。それに比べて風禮国はだめだ、古いしきたりに縛られていて、どんどん腐っていく」
公喩がのびのびと過ごしているのは容易に想像できた。嘉音は苦笑する。
「先帝もよくしてくれてね。お気に入りの植物を育てたいと話したら、渋々ながらも後宮への出入りを許してくれたさ」
「星辰苑に植えてある植物ですか?」
「そう。あれは僕が持ってきたものでね、魂泉草や紫毒葉……風禮国にしかない植物ばかりだよ。特に魂泉草は肌に良いと聞くからね、君も使ってみるかい?」
「毒があるのでしょう? 肌に良いと言われても恐ろしく感じます」
「少量ならば毒だって薬だ。量を間違えなければいい。魂泉草は量を間違えれば九泉に渡るそうだけどね」
「量を誤れば死に至るなんて……公喩殿は恐ろしくないのでしょうか?」
「もちろん恐ろしいとも! だがそれがいい。いつ毒を盛られるかわからない身だからね、そういった方面に明るくいたいものさ。祥雲も同じ考えを持っていてね、二人で毒草談義をよくしたよ」
それはそれで恐ろしい気もする。もっと良い話題があるのではないかと思うが。
「しかしそれも飽いてしまってね。植物を育て続けるのも難儀なものだ」
「いまも育てているのでは?」
「あれは名残だ。面倒だから僕はやめてしまったよ。いまは妃嬪が僕の代わりに育てているはずだ。それこそ、君に鶏の頭を贈った妃が」
すぐにその顔が浮かぶ。
(凌貴妃が育てている……なるほど、だからあの場所に詳しかったのね)
そんな話題はさておき、気になるのは公喩がここにきた理由だ。慈佳が戻ってくる前に嘉音はそのことに触れる。
「今日はどうして白李宮へ? 天雷の体探しでしょうか」
「面白そうだから探してみようかと思ってね。それでせっかくだから君の顔を見ていこうかと」
「私もご一緒できればよかったのですが、慈佳が今日は休めというので」
「だろうね。無事だからよかったものの、池に落ちるなど大事だ。女官がそのように勧めるのもわかる」
嘉音としては無理を通しても出かけ、天雷の体探しをしたいところだったが、宮女らをむやみに心配させることは好ましくない。
ここは後宮であり、女官や宮女らは妃嬪に仕えている。嘉音が下手な振る舞いをすれば彼女たちが責を負うことも考えられる。そして彼女らが責を負うとなれば、命を奪われることだってあるのだ。宮城において、宮女の命など価値がないにも等しい。
「しかし君はよくわからないね。宮女や凌貴妃といった人たちまで庇おうとする」
「ここは閉塞的な場ですから鬱屈としています。せめて私の周りだけは、優しくありたいと思っています」
「薛家でもそうだったんだろう? 下男の彼に唯一優しく接していたのが君だったとか」
すると公喩は真剣な面持ちになった。几に肘をつき、庭の方を眺めながら語る。
「奴婢に優しく接するなど妃嬪らしくない考えだ。風禮国じゃきっと生きていけない。宮女や奴婢は、貴顕なる者の遊びの延長として首が落ちるほど命が軽い」
「風禮国はそうなのですか?」
「少なくともね。嫁いだ公主は民から搾取し贅をむさぼる。卑賤なる者の命など無価値に等しいよ」
「……それは、悲しいですね」
「風禮国に混ざれば、きっと君が抱く優しさだって塵となる。きっと生きていけない」
そこで公喩はため息を吐いた。しかし物憂げな表情はため息と共に一瞬で消え、こちらに向き直った時にはいつものようにへらりとした顔つきに戻っていた。
「ところで君、天雷のことをどう想っているのかな?」
「わ、私は……その……」
「うんうん。そうやって赤面しているのが答えというものだ」
何の準備もしていなかったので急に問われて、戸惑ってしまった。恥じらいは顔に出ていたらしく、嘉音が答えなくとも公喩は納得したらしい。
「僕は彼の苦労を知っているからね……長く結ばれないとしても、奇跡のようなひとときだけだとしても、天雷が報われればいいと思うよ」
「……そう、ですね」
こうして公喩の話を聞くたび、嘉音の知らない天雷がいるような心地になってしまう。公喩が揶揄い気味に話すから余計に、寂寥が生じてしまう。
「薛家の屋敷を出たのにも理由がある――その話を聞いてみればいい。何なら僕の名前を出したとしても」
「いいのですか?」
「もちろん。そうでもしなければ、あの男は一歩引いた位置から動こうとしないだろう。見守るだけでよいなど、消極的なことばかり言うから」
そう言って、公喩は立ち上がった。ちょうど慈佳が茶を持ってきたところだったが、公喩は片手をあげて「茶は必要ないよ」と告げる。
「大家が通う妃嬪の顔を拝もうと思っただけだ。僕はもう行くよ」
去り際、公喩はちらりとこちらを見る。
「……薛昭容。優しさだけでは傷つくこともあるからね。凌貴妃には気を付けた方がいい」
彼はそう言い残し、白李宮から去っていった。
***
数日後のことである。薛嘉音は白李宮から出ていた。
(簡単に見つかるのなら苦労はしないんだろうけど)
天雷の体を見つけることができないかと後宮内を歩き回ってみたのだが、体どころかそういった話さえ出てこない。
「緑涼会が近いので慌ただしいのでしょうね」
慈佳が言った。確かに宦官や女官たちとよくすれ違う。
緑涼会とは緑葉の季に行われる催しだ。髙祥殿の中庭で行われ、美しい植物を並べた中で舞や歌などの芸事を披露する。
渡りのない妃嬪にとっては、大家と接する数少ない行事でもある。だがいままでの大家はこういった行事を好ましく思わず欠席することが多い。欠席しないとあってもほんの少し顔を出す程度、それも凌貴妃に声をかけて去るといった徹底ぶりだ。芸事に自信がある妃嬪にとっては活躍の場を削がれたに近く、活気のない後宮になっていくのも仕方の無いことではあった。
「桃蓮宮が見えてきましたね」
慈佳の言に顔をあげれば、桃蓮宮が見えてきた頃だった。桃蓮宮とは凌貴妃に与えられた宮である。
「この宮だけ新しいのね」
「大家は皇太子の頃から凌貴妃を慕っていましたからね。帝位に着いた後、凌貴妃のために宮を建て直しています。凌家でしたら家柄も申し分なく、御子さえ生まれればいずれ皇后の位に就くのではないかと思っていましたが……」
しかし凌貴妃が懐妊することはなく、大家も嘉音の元に通っている。事情を知らない者が見れば大家の寵愛が移ったと捉えるだろう。だからか、桃蓮宮を見上げる慈佳の瞳には、一片の同情が混ざっていた。
(大家はそれほど凌貴妃を愛していたのね……)
切ない気持ちがこみあげる。桃蓮宮に大家の輿が着くのは、ここしばらく見ていなかった。
嘉音らは、桃蓮宮を過ぎ、星辰苑の方へと向かう。
何か情報が得られるかもしれないとあたりを見渡しながら歩く。その様子に気づいた慈佳が言った。
「薛昭容。何かお探しですか?」
「ええ、少し……」
天雷の体を探していると言えず、言葉を濁す。
しかし慈佳は慈佳なりに、嘉音の胸中を推し量ろうとしていたのだろう。声をひそめて、嘉音に告げた。
「天雷殿をお探しでしょうか?」
その単語が鼓膜をくすぐり、嘉音は咄嗟に慈佳を見やる。天雷と大家のことを気づかれたか、と冷や汗をかいたが、それはすぐに消えた。
「あれ以来まったく来ないので、私も気にしていました」
「……そうね。天雷はどこに行ったのかしら」
「他の宦官にも尋ねましたが、天雷殿は急に消えてしまったそうです。どのような理由があるのかまでは教えてくれませんでした。箝口令が敷かれているのかもしれません」
天雷がうまいこと立ち回ったのだろう。嘉音と公喩以外には、大家の中身が天雷であると知られていないようで安堵する。
「天雷殿を最後に目撃したのは、桃蓮宮に向かう大家の供をしていた時だそうです」
「……桃蓮宮に?」
「ええ。あの日は桃蓮宮に大家の輿がありましたから……ほら、突然大家が白李宮を尋ねてきた日ですよ」
慈佳に促され思い出す。約束をしたのに待っていても天雷がこなかった日、二人が入れ替わってしまった日だ。
(やはりあの日、天雷は桃蓮宮にいたのね。いったいなにがあったのだろう)
入れ替わるきっかけとして何が起きたのかは天雷も頑なに語ろうとしない。嘉音や公喩にも明かす気配はなかった。
(……私、天雷のことをよく知らないのかもしれない)
嘉音は天雷のことをよくわかっているつもりでいた。薛家の屋敷にいた頃を知っているからだ。あの頃は、彼がどんな働きをし、どのような物を好み、どのような書を読むかまで知っていた。
しかし最近の天雷は違う。彼は何かを隠している。その片鱗を知るたび、天雷との距離が離れていくような気がしてしまう。
(天雷のことをもっと知りたいのに)
そう考えているうちに、一行は星辰苑に着いた。日が傾き始めた頃で暑く、星辰苑には誰もいないと考えていたが――亭を見やれば人影がある。
「あれは……」
嘉音と同じく、その人影に気づいたらしい慈佳が息を呑む。
亭にいるのは凌貴妃だった。なぜか供は近くにいない。
(……様子が、違う)
凌貴妃は凜とした女性という印象があったが、いまは違う。物思いに耽り、沈んでいるのが感じ取れる。
「……声をかけてきます」
嘉音が言うと、すぐに慈佳が動いた。
「おやめになった方がよいのでは……先日の贈り物などもございますし……」
凌貴妃から届けられた鶏の頭は記憶に新しい。嫌がらせとして贈ってきたことはわかっている。だが、いまの凌貴妃を一人にしておくのは嫌だった。
嘉音は亭に寄る。近づくと、凌貴妃もこちらに気がついた。どうやら泣いていたらしく慌てて袖で目元を拭っている。それでも目は赤かった。
(一人でここで泣いていたのかしら)
けれど一人になりたくて供を遠ざけたのだろう。そうしてここで泣いていたのだと思えば胸が痛む。
どれだけのことをされても、嘉音は凌貴妃のことを憎めなかった。彼女は大家と天雷が入れ替わってしまったことを知らない。それは急に寵愛を欠いたように見えるだろう。彼女が抱く切なさを想像すれば、嘉音を恨むのも仕方の無いことだ。
亭に嘉音が入ったところで、凌貴妃がこちらを向いた。
「……薛昭容ね。そっとしておいて欲しいのだけれど」
凌貴妃は高圧的な態度を取っていたが、しかし脆くも思えた。嘉音は引かず、彼女の元に寄る。
「凌貴妃に伺いたいことがあります」
「何かしら」
「以前、桃蓮宮に大家が参られたことがあったと思います。その日に何があったのかをお聞かせ頂きたいのです」
「大家がいらしたのは一度や二度じゃないもの、たくさんあるから覚えてないわ」
「銀五鐘の前後、大家と共に天雷という宦官が向かったと思います。本当に、ご存知ありませんか?」
天雷が語ろうとしない出来事について、凌貴妃から情報を得られるのではないかと考えたのだ。
凌貴妃は天雷の名を聞いたところで、わずかに反応を示した。何かを考えこんでいる。その機を逃さず、嘉音がたたみかける。
「その宦官、天雷はその日以来行方がわかっていません。ですから凌貴妃であれば何か知っているのではないかと――」
「宦官……天雷……まさか」
凌貴妃が嘉音の方を向いた。
「あなた、大家から何を聞いたの?」
「え……」
「しらばっくれても無駄よ。あなたは聞いたのね。ねえ、大家は何と仰っていたの? どうしてあなたにその話をしたの?」
どういうわけか凌貴妃は急に態度を変え、嘉音に詰め寄った。嘉音の肩を掴み、ゆさゆさと揺すっている。
(やはり、あの日に何かがあった……天雷が語らない理由は凌貴妃のため?)
二人のやりとりを見ていたのは後ろに控えていた慈佳だ。嘉音を守るべく飛び出そうとしていたが、嘉音は控えているよう合図を出した。
「私は何も聞いていません」
「嘘よ。でなければ、どうしてこのことを――」
「何もわからないから、聞いています。私はあの宦官を探しているので」
凌貴妃はぐっと唇を噛みしめた。そして嘉音から手を離す。彼女は数歩後ろにさがると、怒りに燃えた瞳をむき出しにして告げた。
「信じない。絶対に信じない。あなた、大家に命じられて探っているのでしょう? 絶対に許さない」
ただ、天雷の行方を問いかけただけなのに。
凌貴妃の態度は一変し、強くこちらを睨みつけている。眼力だけで人を殺すことができると、信じてしまいそうなほど強く、恨みがこもっている。
「薛昭容に忠告するわ。あなたもいずれ、私のようになる」
弱々しい声で凌貴妃が言う。
「どれだけ一緒ににいたところで、相手のすべては手に入らない。いずれ移り変わる。美しく、若い者が現われればそちらに流れてしまうのよ。だから、あなたが選ばれているだけ」
鋭く睨まれる。彼女の中にくすぶる嫉妬の炎は、いまだごうごうと燃えているようだ。
「あなたがどのようにして大家に取り入ったのか、大家からどんな話を聞いているのかはわからない――私から大家を奪ったこと、いずれ後悔する日が来るでしょう」
「……凌貴妃」
「あなただって私と同じ道を辿る。あの日と同じように、あなただって得たくなる」
嘉音を罵る凌貴妃の態度に、呆気にとられて動けなかった。凌貴妃が切ない立場にあると考えていたが、彼女の胸中を推し量ったところでわかりあうことはできないのかもしれない。嘉音と凌貴妃の仲が交わることはないのだと現実を突きつけられているようだった。
凌貴妃が歩いていく。嘉音は引き止めることもできなかった。去り際、嘉音の隣を通り過ぎる時に、甘い香りにのって冷ややかな言葉が届く。
「薛昭容。あなたを追い出してやる」
その言葉が持つ残酷さに、嘉音は振り返ることさえできなかった。その場に足が縫い付けられたようで動けず、恐怖に息が急く。
(やっぱりあの日に、大家と天雷の体が入れ替わってしまうようなことがあったのね)
凌貴妃の様子からその確信を得る。しかし肝心の、天雷の体の行方についてはいまだわからないままだった。
夜になって、天雷がやってきた。慈佳らが下がり、二人になったところで天雷が口を開く。
「嘉音様、あれから変わりはありませんか? 先日は池に落ちていますし、体調を崩していなければいいのですが」
「大丈夫よ。心配しないで」
「前回は公喩がいたので落ち着かなかったでしょう。今日は俺だけですから安心してください」
「天雷は公喩殿と親しいのね」
「それなりに、ですね。面倒な気性なのでなるべくなら遠ざけておきたいですが、腐れ縁なのでそうも行かなくて」
「ふふ。でも天雷も楽しそうに公喩殿と話していたわ」
天雷が寝台に腰掛けたので嘉音も隣に座った。
「先日も公喩がこちらに来たと聞きました。何でも凌貴妃から嫌がらせを受けていたとか」
「ええ。でも気にしないで」
そう告げるも、天雷はまだ嘉音のことを案じているようだった。表情が暗い。
彼を安心させるべく、その両手を優しく握りしめる。
「何をされても私は平気よ」
「ですが心配です。嘉音様が傷つくようなことがあれば俺は……」
「自分でどうしようもなくなったら助けを求めるわ。ほら、池に落ちた時だって公喩殿が助けてくれたでしょう」
「……俺ではなく公喩ですか」
しかしその言は、天雷にとってあまり面白くないものだったらしい。彼は不機嫌に顔をしかめている。それに気づいた嘉音は慌てて訂正する。
「ほら、前に助けてくれたのが公喩殿だったでしょう。だから名前をあげただけよ」
「……」
「そ、そういえば、今度緑涼会があるのよね。天雷はどうするの?」
話題を変えようと思いついたのが緑涼会だった。これに天雷は険しい表情を緩める。
「欠席したいところですがそれは難しいので、例年通り少し顔を出そうかと。大家もいままでそうなさっていたので」
「じゃあ天雷にも会えるのね」
「妃嬪に挨拶はせず、早々に戻る予定です。長居して、大家の中身が俺だと知られてはいけませんから」
後日行われる緑涼会で、言葉は交わせなくとも天雷に会うことができるのだろう。嘉音はほっと息をつく。
「俺の体は依然として見つかりません。こうなると宮城を出て都にいるのも考えにくいですね」
「じゃあどこかに隠れている?」
「かもしれません。探してはいますが、なかなか」
嘉音も天雷も、体がどこにあるのかを探している。早く見付かってほしいと思う。しかし躊躇いもあった。
「……天雷は、早く元の体に戻りたい?」
嘉音が聞いた。天雷はすぐ答えられず、しばしの間を置いてから複雑そうに呟く。
「そう……ですね。戻りたいかもしれません。でも戻りたくない気持ちもあります」
「宦官でいるより、大家でいる方が幸せ?」
「難しいことを聞きますね。俺はどちらでも構いません。ですが――」
そこで天雷が、嘉音の方を向いた。そっと手を差し伸べ、嘉音の頬に触れる。
「堂々と、嘉音様と一緒にいられる。だから大家でいるのは嫌ではありません」
「……前回、公喩殿と天雷が来た時に話していたけれど、天雷の好きな人って私?」
あの時に聞いた言葉はなかなか忘れられず、頭に残っていた。次に会う時聞いてみようと考えていたのである。
まっすぐに彼を見つめて問えば、天雷はわずかに頬を赤らめ、それから苦笑した。
「公喩のせいですね。あいつは余計なことばかり言うので」
「私にとっては余計なことじゃないわ。とっても気になる話だもの」
「困りましたね。そればかりは内密にしておきたかったのですが」
少し悩んでいたようだが、天雷は何かを思いついたらしく自らの膝を二度軽く叩いた。
「嘉音様が俺の膝に座ってくれるのならば言うかもしれませんね」
「ど、どうして? 話ならここでも出来るでしょう。近すぎるわよ」
「すみません。俺は声が小さいので、近くに来て頂かなければお伝えすることができませんから」
天雷はいつものように微笑んでいるが、嘉音の反応を楽しんでいるようでもあった。意地悪な男である。嘉音の問いに困惑した仕返しをしているのかもしれない。
嘉音にとって、相手は天雷といえ男である。ましてや膝に座るなど。恥じらいが生じたが、そうしなければ彼は語ろうとしないのだろう。頬が熱くなるのを感じながら、その膝に跨がった。
「こちらを向いてくださいね。嘉音様のお顔を確かめながら伝えたいので」
「……天雷っていじわるね」
「嘉音様にはそのように見えるのかもしれませんが、俺はいつも通りですよ」
彼の膝に腰を下ろすも、見上げればすぐ近くに天雷がいる。顔は大家のものといえ、口調や振る舞いのおかげで天雷だと認識してしまう。目が合えば彼は穏やかに微笑んでいたが、嘉音の心臓はいまにも破裂しそうなほど急き、平常心を保つのがやっとだった。
「本当に美しくなられて」
「こ、こんなに近くにいるのだから、そういうことを言われると照れてしまうわ」
「顔が赤い嘉音様も、いつもと違う美しさがありますよ」
天雷が嘉音の手を取る。手の甲を優しく撫でた後、自らの口元へと運んだ。
「嘉音様をお慕いしています。あなたのことが、どうしようもないほどに好きです」
手の甲に、唇が落ちる。人肌より少し熱く、柔らかな感触が肌に張り付いた。それは心地よく、このまま溶けてしまいたくなる。高揚感、幸福。そういった良きものが彼の唇から贈られているようだった。
「天雷……私も、あなたのことが好きよ」
「嬉しいです。嘉音様がそのように想っていてくださったなど」
穏やかに言葉を交わしている裏で、心は弾むような心地だった。天雷がそばにいる。天雷と想いが通じている。幸せが溢れて泣きそうになる。泣いてしまえば、きっと天雷は動揺するのだろうが。
けれど喜びを表に出せない理由を、二人はよくわかっていた。
彼の膝も、唇も、天雷のものではない。下男の頃に荒れた指先と異なる、大家の綺麗な手だ。
高揚感に現実が忍び寄る。想いが通じたところで、その先に光はないのだ。交わす視線に切なさが混じっていく。
「こうして伝え、触れることが許されるのはいまだけなのでしょう」
元の体に戻ってしまえば。二人の距離が近づくたび、その言葉に苦しめられていく。
いまの天雷は大家の体にある。元に戻れば、宦官と妃の立場になり、結ばれることはない。
天雷は切なげに目を細めた後、嘉音の頬を優しく撫でた。この時の感触を記憶に刻み込むように。
「奇跡とはまったくその通りですね。この体にならなければ、嘉音様に想いを伝え、想いを聞くことができなかった」
「……戻らないと、いけないのかしら」
願わくば、戻らないでほしい。ずっとこのままでいてほしい。
けれど脳裏によぎるは凌貴妃だ。大家と天雷が入れ替わったことによって、凌貴妃は被害を受けている。彼女は今日も独り寝の寂しさに泣いているのかもしれない。
「戻っても、嘉音様を想い続けますよ。そのために宦官になったのですから」
天雷が微笑んだ。
そういえば宦官になった理由を聞いていない。薛家を出た理由を聞いてみればよいと公喩が話していた。そのことを思いだし、問う。
「天雷は、どうして薛家の屋敷を出て行ったの?」
「気になりますか?」
「公喩殿にね、天雷が薛家を出た理由を聞いた方がいいと言われたの」
すると天雷は小さな声で「公喩、また余計な話を」と呟き、ため息をついた。
きらきらと瞳を輝かせて話を待つ嘉音から逃れるのは難しいと悟ったようで、天雷は語った。
「薛家の屋敷を出て行ったのは、あなたのためです」
「私のため?」
「ええ。嘉音様が宮城に召されるかもしれないと教えてくれたでしょう。それを聞いた後、奥様の様子を伺いましたが回避するのは難しいようだったので、それならお側にいられるようにと屋敷を出て行きました」
「じゃあ……あなたが宦官になったのは私のせい……」
宦官になるということは簡単なことではない。華鏡国の宦官に求められるのは二つ。知識量のある賢い者であり、男の『性』を欠いたものであること。負担が大きいのは後者だ。
宦官は後宮に出入りする。しかし後宮にいるは帝の妃嬪らだ。万が一にも妃嬪に傷をつけてはならず、そのために宦官は『性』を欠く。体に傷をつけることであり、一度それを行えば男性に戻れないのだ。宦官になるための処置は肉体に大きな負担を与える、命を落とす者もいるという。
天雷はそれを承知の上、後宮に立ち入ることができる宦官の道を選んだのだ。しかし嘉音に余計な責を負わせたくないと思ったのか、彼は苦笑して言を足す。
「もし嘉音様が何も言わずに宮城に召されたとしても、同じ道を辿ったと思います。俺はあなたを探して、宮城にいるとわかれば忍びこむ手段を探し、そうしてあなたの傍にいようとしたでしょう。嘉音様のことが好きだから、自分で選んだことです。宦官になったことに後悔はありません」
それほどに天雷は嘉音のことを思っていたのだ。言葉ではなく行動に、彼の想いが込められている。それに気づけば、胸の奥が切なくなる。衝動にかられ、嘉音は天雷を抱きしめた。
「……天雷」
天雷と会えずにいた二年は、嘉音にとってつらいものだった。このまま死んでもいいとさえ思う日があった。
しかし天雷は、いずれ後宮に送られてくるだろう嘉音のために動いていたのだ。妃と宦官であれば結ばれないというのに、体を傷つけてでも傍にいようと考えていた。
彼の想いの深さに触れ、涙が落ちる。このまま彼を抱きしめて時間が止まったのならどれだけ幸せだろう。
「俺が、はじめて薛家の屋敷に行った時を覚えていますか?」
天雷が穏やかに聞いた。嘉音は頷く。
「俺は姉に連れられ、薛家の屋敷に行きました。あの頃は幼かったので、これからこの屋敷に仕える――仕事をするということが恐ろしく感じていました。誰かの下で仕えるなど経験がなかったので」
「懐かしいわね。私が七歳、天雷が八歳の頃だったかしら」
「はい。その後すぐに姉が亡くなり、俺だけが残りました。でも嘉音様がそばにいてくださったのです。その時の言葉を覚えていますか?」
「覚えて……いないかも」
嘉音の頭を優しく撫でながら、天雷が語る。昔を思い出しているのか、くすりと小さく笑った。
「『私があなたの姉様になる。あなたは私の弟ね』と宣言したのですよ。おかしなものですね、年齢なら俺の方が上なのに弟になるなんて」
「そ、そんなこともあったかもしれないわね……」
「でも嬉しく思いました。あの屋敷では嘉音様以外みな厳しかったので、そのように声をかけてくださることが幸せでした。それ以降も、嘉音様がことあるごとに話しかけてくるので、姉を失った俺を心配しているのだとわかりましたよ」
「大事な肉親を欠いたらひとりぼっちになるもの。私も、母様が亡くなった時にそれがわかったわ。あの時の天雷はこんな苦しみを抱いたのだとわかったの」
「苦しみ……はわかりません」
撫でていた手はぴたりと止まる。天雷は珍しく表情を失い、何かを考えているようだった。その様子が気になり彼を見やれば、ごまかすように天雷が微笑んだ。
「嘉音様がそばにいたので、そういったものは忘れてしまいました」
「天雷……」
「俺は嘉音様を愛しています。あなたが、俺のことを弟にすると宣言していたことを忘れていて安心しました。いまさら弟のようだと言われても、この気持ちを変えることはできません」
そう言い終えたところで、嘉音の体がふわりと浮いた。天雷が持ち上げたのだ。
何事かと驚くも、それは長く続かず、天雷の隣に着いた。膝に座る前と同じ位置に戻ったのである。
距離が開けば、先ほどまで近くにあった体温を失い、寒く感じる。寂しく思いながら首を傾げる。天雷は苦笑した。
「あまりにも嘉音様が可愛らしいので、これでおしまいです」
「どういうこと?」
「近くにいればいるほど触れたくなってしまいますので、衝動に駆られる前に自制しようかと」
あっさりと天雷は言ってのけたが、それは嘉音の羞恥心をじゅうぶんに煽った。意味を悟り、嘉音の顔がいままで以上に赤くなる。逃げるように視線を外した。
「……本当に、奇跡かもしれませんね」
天雷が呟いた。その言に寂寥を感じ、天雷へと視線を移す。
「この入れ替わりは、想いを伝えるための奇跡だったのかもしれません。結ばれなくとも、この思い出さえあれば、俺はこの先も幸せに生きていける」
結ばれることはないのだと、嘉音も天雷も諦めている。お互いの立場によって隔てられていた距離が、奇跡によって近づいただけ。しかしそれもいつか終わる。彼が宦官に戻れば、二度と交わることはないぐらい離れるのだから。
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