鈴木のおじいちゃんのところに、数十年前に列車の脱線事故で亡くなったはずの先生が訪ねてきた。

あの懐中時計を見せて欲しいと言われて、わたしは悠くんとよく来るカフェでその先生と待ち合わせた。

「わざわざすみません。無理を言いました」

とても優しそうなおじいちゃんだった。

「あの、列車事故で亡くなったってお聞きしていたんですが……」

すぐに時計を返してさようならと言うには、あまりにも淋しくて。それに死んだはずの人が生きていたことに、わたしはわけを聞かずにはいられなかった。

「あの日、私は田舎へ帰るつもりでした。ところが教え子の一人が私を追いかけてきましてね」

公園で鈴木のおじいちゃんが叫んだ時に見た幻を思い出した。

「……春ちゃん、ですね?」

「ええ、そのまま連れて行くわけにもいきません。次の駅で降りて家まで送り届けました。子どもたちから贈られた時計を汽車に置き忘れてしまって、その汽車が脱線事故を起こしたっていうんで時計のことはもうあきらめていたんです」

「何故今になって……?」

「妻が先日亡くなりました。私より年下なのに、先に逝ってしまったんです。その妻が最後まで気にしていたのが、この時計のことでした」

「もしかして、春ちゃんさんが……?」

なんとなく、先生の奥さんは春ちゃんなんじゃないかって気がした。

先生は寂しそうに笑って頷いた。

「駆け落ち同然でした。一回りも歳の離れた教え子とそんなことになって、とても他の教え子に合わせる顔がなかった」

それで今までこの時計を探せずにいたのだという。

「お返しした方がいいですよね……」

今となってはこの時計はわたしにとっても大切な物だった。本当は手放したくない。でも、時計の持ち主が現れたからには返す他ない。

「いや、わたしはもう先も長くない。それに、私にこの時計を持つ資格はない。どうかお嬢さんが持っていてください」

正直、先生の気が変わらないうちに時計を持って帰りたいとさえ思った。

「でも生徒さんたちが先生のために買った時計ですよね。何の関係もないわたしが持っているのも変です」

「わたしはこの時計に酷いことをしました。置き忘れた挙句に探しにも行かなかった。それなのに、この時計は私を助けてくれた。あの日、あのまま汽車に乗っていたら私は事故で死んでいたでしょう。なんだか私の身代わりになってくれたような気がしてね」

「それなら尚更、今からでも大切にしてあげた方が……」

「実は私もガンを患っていてね。もう長くない。また時計を置き去りにしたくない。だから、どうか私の代わりに大切にしてやってもらえませんか」

わたしの掌の下で時計が微かに震えたような気がした。



「あ、あと5分で映画始まっちゃう」

あの日、バスが飛び出してきた自転車に接触しそうになって、映画館に着くのが少し遅れてしまった。

「真姫ちゃん、走ればまだ間に合うよ」

そう言って悠くんはわたしの手を繋いで走った。

映画が終わっても、悠くんは席から立ち上がらなくて。

なんで苦しいの我慢しちゃうの?

自分のことより人のことばっかり心配しちゃう優しい人。

もう少し早くわたしが気付いていたら……。

今も悠くんは病院のベッドで眠り続けている。

悠くんは遷延性意識障害といういわゆる植物状態だ。あの日から悠くんの時計は正確に時を刻み始めた。まるで悠くんの代わりに過ぎていく時間を記録しようとしているみたいに。

ねぇ、時計さん。

いつか時間を巻き戻してくれる?