「もう、ただの一分だって他人の為に使っちゃダメだからね!」

ようやく退院した悠くんに、何度も念をおした。困った人がいてもこれからは見て見ぬふりして!

薄情だって言われても、そんなの関係ない。

走ったらダメなんだよ。

「もう待ち合わせもしない」

「えっ、真姫ちゃん……。そうだよね。こんなポンコツな彼氏なんて嫌だよね。一緒にテニスしたり、ライブに行ったりできる人のほうがいいよね……」

「そんなこと言ってない!」

わたしは悠くんが走り出さないように、その手をギュッと握ってタクシー乗り場までゆっくり歩いた。

「遅れたって構わないから。急がなくっていいから。少しでも長生きすること考えて」

「なんだか僕、おじいちゃんみたいだね」

困ったように笑う悠くんが、泣きたいほど愛おしくて、わたしは不安でいっぱいだった。

一瞬だって目を離さずに見張っておきたいくらい。

「あ、そうだ。おじいちゃんと言えば……これ見て」

悠くんはそう言ってポケットからシルバーの鎖を引っ張りだした。

カチンと音を立てて丸い円盤を開くと、中には時計がある。

「すっごいレトロだね。懐中時計って言うんだっけ」

「うん。うちのおじいちゃん南町で時計屋をしてたんだ。これはずっと昔に修理の為に預かったらしいんだけど、預けた人は結局取りに来なかった。おじいちゃんももう高齢で店は畳むことにしたんだけど、いつかこれを取りに来る人がいるかもしれないっていうんで僕が預かることにしたんだ」

わたしは悠くんの手元を覗きこみながら、預けた人がこの時計を取りに来ることはもうないだろうって思ってた。だってこんな高級そうな時計を預けて何年も取りに来ないなんて、その人はどこか遠くに行ってしまったか、あるいはもう亡くなってしまっているかだと思う。

「でね、おじいちゃんが言うにはこの時計には不思議な力があるんだって」

「不思議な力……?」

「そう。よく分からないけど預けた人がそう言ってたんだって」


「その時計動いてるの?」

「動かないんだ。おじいちゃんが言うにはどこも壊れていないはずなのになぜか動かないんだって。だから尚更気になってるみたい……」

悠くんの掌に包まれた時計を二人で覗きこむ。針は12時でピタリと重なっている。

「こんなに綺麗なのに動かないなんてもったいないなぁ」

わたしは悠くんの手から鎖を引き上げた。ぶらんと目の前で揺れた掌に収まる大きさの時計は、細かな細工が施されていて生きているみたいに存在感があった。

「ご主人様の為にしか動かないのかな?」

そう思わず話しかけてしまう程に。

「真姫ちゃん、今一瞬だけ針が動いたみたい」

「えっ? あ……」

さっきピタリも重なっていた針が少しずれていた。ほんの10秒くらい、進むんじゃなくて戻っている。

「やっぱり壊れてるね……」

その時はわたしが時計をぶら下げて揺らしたから針が動いたんだと思った。

でもその後にも時々針が動くことがあったんだ……。

悠くんはその時計を他の人から見えるところにぶら下げて歩いている。

持ち主を探すためだ。

それから半年くらい経ったある日、悠くんちの近くの公園を散歩していたわたし達は、あの認知症のおじいちゃんに出会った。

「斉藤さん、一緒にお家に帰りましょうか?」

悠くんは慣れた様子で斉藤さんの手を引く。

ベンチでぼんやりと砂場を見ていたおじいちゃんは、悠くんの方を見ると眉を顰める。

「アキオか?」

おじいちゃんは悠くんが分からない。

「隣の濱田です。僕も今から帰るのでご一緒しませんか?」

おじいちゃんは悠くんの顔を見上げ、全身を舐めるように見る。

ふとその目が悠くんのバッグで止まる。

「この時計……」

悠くんとわたしは顔を見合わせた。

「おじいちゃん、僕、この時計の持ち主を探してるんです。何かご存知ありませんか」

悠くんはゆっくりとおじいちゃんの耳元に話しかける。

「これは先生の持っとった時計じゃ。そうじゃ先生が……」

「先生って誰ですか?」

「春ちゃんが先生にっちゅうて、外国から取り寄せたんじゃ」

おじいちゃんは遠い昔を思い出しているのか、悠くんの声は聞こえていないみたいに時計に見入っている。

「おじいちゃん、先生のお家どこか覚えてる?」

わたしが問いかけても、おじいちゃんはじっと時計を見つめている。

認知症だし、おじいちゃんの言うことが本当のことかどうかは分からない。でも悠くんが言うには、おじいちゃんは最近のことはほとんど覚えていないし、道もよく忘れるけど、昔のことはよく覚えてるんだって。

だから、古い記憶には信憑性がある。

「先生が田舎へ帰るもんで、春ちゃんが先生に贈り物しようっちゅうてみんなで金を出しおうて買うた時計じゃ」

おじいちゃんが先生って言うからにはきっとすごく昔だよね。懐かしそうに細められた目には涙が浮かんでいる。

「先生への贈り物だったんですね?」

おじいちゃんの指が時計に触れた途端、針がぐるんと回った。

それまで煩く鳴いていた蝉の声が消え、わたし達は大勢の人が乗り降りする駅のホームに立っていた。

スーツと言うよりは背広っていう言い方がしっくりくるような古めかしい服装の男性を、数人の学生達が取り囲んでいる。紺色のセーラー服と詰襟の生徒達。

先生に手渡された黒い革張りの箱には、懐中時計が入っていた。

「先生! 春ちゃん! いかん、いかん、その汽車に乗ったらいかん」

突然、おじいちゃんが叫んで走りだした。

その瞬間駅の幻は消え、また蝉の鳴く公園に戻っていた。