それならば、死を受け入れることは根幹を否定することではないのかと思えばそれもおそらく違う。
ただ生き長らえさせることが全てではなく、理性や感情がある者の尊厳を保つべきところで折り合いは変わるだろう。
今この局面のように。

「僕にはなんの決断もできないんですけど、陽奈子の、最期の時まで一緒にいることを約束したんですよ。だから僕はどんな時も陽奈子の手を離さないでいるつもりです」
「そう」
「はい。前に、陽奈子が言ってました。ご家族のことを信頼しているって。陽奈子なら、多分……絶対。自分を想ってくれていること分かってると思います」
「そうね。自分の娘のこと、信頼しなくちゃ、ね。ありがとう」

どんなに明るい人でも、どんなに朗らかであっても、暗くなることもある。気持ちを立て直せなくなるときもある。
当たり前だ。僕たちは、感情を持って生きているのだから。


部屋に入ると、物音に気付いたのか陽奈子が目を覚ました。ぼんやりした表情で状況を確認しているようだ。
僕を見つけると少し安心したように、あどけなく笑う。
近頃は呼吸も辛そうで、酸素吸入の為にマスクをしていた。ドラマや映画でしか見慣れていなかったまさしく病人のそのいでだちは現実を深く突き刺す。
酸素マスク、繋がれた沢山のチューブ、機械音。
少しでもそこに陽奈子を見つけたくて手を伸ばしてその手に触れる。
冷えた指先に、弱々しい力が“今の陽奈子”。
愛しくて、大好きな、僕の陽奈子。

「もうすぐ、千夜の、誕生日なんだ。私ねぇ、千夜がねぇ、心配なの……」

マスク越しに小さな声で呟く。
夢の続きでも見ているのか、千夜ちゃんの小さな頃を思い出しながら、今の千夜ちゃんを想いながら。

「千夜はねぇ。要領がいいように見えて、実は、たまにとても、不器用なところがある、から……」
「うん」
「千夜の歌がね、私、とっても、すき」
「そっか」
「あとね、お父さんも、お母さんも、千夜も、すき」
「僕のことは?好きじゃないの?」
「学くんはね、学くん。とっても、だいすき、だから、絶対、幸せになって。ありがとう」

僕は答えられなくて、頷きながら言葉の代わりに強くその手を握った。それを受け止めて、陽奈子はゆっくり目を閉じて再び微睡みの中へ。
しばらくそれを眺めて、病室を後にした。
談話スペースで電話していたお母さんに会釈して、病院を出た。
夏の盛りで、じとっとした空気が纏わりつく。