夢を見た。
『友達になろう』
そう声を掛けてくれる人が現れて、私に手を差し伸べる。
ぼやけて顔の細部は見えないがその人は笑っているようで私が頷くとその人も嬉しそうだった。差し出された手に自分のそれを重ねようとした瞬間目が覚めた。
「なんだ、夢か」
自嘲するように笑って起き上がる。
現実は変わらないし、変えられない。早くこの世から逃げたい。
Side天野みずき
今日から新学期が始まる。
私は、中高一貫のエスカレーター式の私立の高校に通っている。母親の強い希望から中学受験をして見事に受かり今に至る。自宅から学校までは電車通勤で通っていた。
でも私は別に中高一貫の学校へ進学することを望んでいたわけでもないし、今だってできるなら転校してしまいたかった。逃げてしまいたかった。
誰も自分のことを知らない街で、一からスタートさせたかった。そんなことを私の母親が許すわけなどないことはわかっている。だからそれは今後絶対に起こることなどない、空想の話だ。
私の母親は教育熱心で小さな頃から将来は一流の大学へ入学し、一流の企業に勤めなさい。そう言っていた。でもその言葉のどれも抽象的で、小学生のころ『偉い人になるのよ』といった母親に『偉い人ってどういう人?なんで偉い人にならないといけないの?』と質問したことがある。
それだって、母親はすぐに顔を赤くして“いいから勉強しなさい”と怒るのだ。テストで90点をとっても、どうしてあと10点取れなかったのかという母親だ。
父親は中小企業に勤める普通のサラリーマンだ。四角い顔に丸眼鏡をかけていつも仏頂面で新聞を読んでいる。
私に無関心というわけではないのかもしれないけど、全て母親に任せているというスタンスで成績の悪い私がこっぴどく怒られている横で無表情でご飯を食べている、そんな印象しかない。
家庭にいることが窮屈で、だからせめて学校生活だけは充実させたかった。小学生までは普通だった。
友達と喧嘩をしてもすぐに仲直りできたし、好きな子の話やアニメの話、本の話…最近出た少女漫画を貸し借りし合うような友達は多かった。
でも、それが狂ったのは中学生になってからだ。
中学2年生の頃、クラスの中心人物である宮野まりちゃんに従わなかった、それだけで世界は一変した。
まりちゃんは快活で常にクラスの中心人物だった。
先生もこういう“中心”になるような子が好きらしくて
『先生って結婚してるんですかー?』
『先生~今日は自習にしましょうよ!』
なんて、きっと私が発したら怒られてしまいそうな内容でも
『仕方がないなぁ』
なんて笑いながら彼女らと楽しそうに会話をする。
そんなまりちゃんのグループに入りたがる人はたくさんいた。私は正直タイプが違うから仲良くしたくはないけど、そんな態度をとると次の日から無視をされてしまうのだ。
まりちゃんの存在は“絶対”で、彼女があの子が嫌いというとみんなで無視をする。そういう“決まり”なのだ。
でも、私にはそれが出来なかった。だって2年生になってまりちゃんが嫌いといった子が私の数少ない友人の千絵だったからだ。
教室ではすぐにこのことが広まった。
たった40人弱のクラスで普通に考えたらくだらない、そう一言で片づけてしまえそうな状況なのにこのクラスではそういう決まりなのだ。何故まりちゃんにそんな権利があるのかわからない。
社長の娘で裕福だから?快活で成績がいいから?顔も可愛いから?そんなことは、どれも理由になってはいない。それでも、仕方のないことだった。
すぐにそれは千絵の耳にも届いたようで私に離れないでと懇願するような目を向けられたのを覚えている。私は絶対に裏切ったりしない、悪いのはそんなくだらないことをするまりちゃんだ、そう言った。
安心したように目じりに涙を浮かべて言った『一生の友達だよ』そのセリフを思い出すたびに今も胸がきゅっと縮まるような痛みを感じる。
しかし翌日から無視をされたのは“私”だった。
どうやら千絵がまりちゃんに『悪いのはまりちゃんだよ』といったあのセリフを切り取って彼女に伝えたらしいのだ。
『勝手に悪者にするなんて最低だよね』
教室のドアを開け大声でそう言われた瞬間、私はすべてを悟った。
千絵に目を向けると教室の奥にいるまりちゃんの席の横に立ちながらニヤニヤ笑っていた。腹立たしいのに、声が喉の奥で詰まって出てこない。
泣き叫ぶことも、やめて、ということも何もできなかった。それからいじめの標的は私になった。
3年生の時にはまりちゃんとはクラスが離れることが出来たが、彼女と同じ部活(バスケ部)のメンバーがまたしてもクラスの中心人物で同じように陰口を言われ、ものを隠され、無視をされる。
高校1年生になったら、またまりちゃんと同じクラスになって状況は変わらないままだった。
成績はどんどん落ちていき、母親からは毎日のように嫌味を言われ、学校ではいじめられる。自分の存在価値が見いだせない。
息を吸うことも、吐くこともできずまるで溺れているようだった。
バタバタと手足を動かして必死に助けを乞いたいのに声が出ない。そのうち力尽きて沈んでいくのだ。
早く、この世から消えてしまいたい。どうやったら楽にこの世からいなくなれるだろう。
楽しみも、希望もない。一生このままだと思ったらゾッとした。
今日は学年が変わるからクラス替えの日だ。全くワクワクもしないし、嬉しくもない。まりちゃんと同じクラスだろうがなかろうが変わることなどない。
電車に揺られながら窓ガラスにうっすら映る自分の顔を見て目を背けた。あまりにもひどい顔をしていたから。
と、誰かと肩がぶつかって私はすみませんと反射的に顔を下げた。しかし、すぐに私は顔を上げて目を見開いた。
ぶつかったのはサラリーマン風の小太りの50代ほどの男性だ。そんなことはどうだっていい。
私が驚いたのは、その男性の頭上に“54”という数字が見えたのと、その背広を着たサラリーマンの体が黒いモヤで覆われていたからだ。
私がひどく驚いた表情をしていたからだろうか、どうかしました?と私の顔を覗き込んできた。
咄嗟に首を振って視線を落としなんでもありませんといった。
私には小さな頃からその人の寿命が数字で見える。54ならば54歳で亡くなってしまうということだ。
しかし、それが具体的に何月何日に亡くなるのか、どういう理由で亡くなるのかそれらは全くわからない。54歳のいつ亡くなるのか、死因は何なのかわからない。
ただ、死期が近づく人の体は徐々に真っ黒い靄のようなものに包まれていき、それが黒く、濃くなっていくのだ。今ぶつかってしまったサラリーマンの人の年齢はわからないけど、多分長くはないはずだと思った。
その能力は小さな頃からあったようでよく数字を発する不思議な子だったと親から言われた。
しかし小学生になるまではそれがどういう能力なのか全くわからなかった。周りの子に話しても不思議な顔をされるだけだ。自分でも何故数字が見えるのかわからなかった。
それがどういう意味を持つのか理解したのは祖母が亡くなってからだ。
祖母には頭上にずっと63という数字が浮かんでいた。亡くなる1か月前、祖父母の家に遊びに行ったとき祖母の顔を見るなり吃驚して固まった。
祖母の体は黒いモヤに包まれていたからだ。近づくことすら怖かった。
そして思ったのだ。
あぁ、もしかして…これは死期の知らせなのでは、と。このモヤは禍々しくて幼いながらに近づけないと感じた。
その後、祖母は階段から落ちて亡くなった。打ち所が悪かったようで、その知らせを聞いた時全身に鳥肌が立ってガタガタと奥歯があたり震えていたのを今でも鮮明に覚えている。
それから黒いモヤが見えると約一か月ほどで亡くなってしまうことがなんとなくわかるようになった。
私には人の死期がわかる。しかし、それは他人だけ、だ。母親は82と頭上に数字が見え、父親は76だ。
なのに私は私の死期がわからない。鏡を見ても写真を撮ってもわからない。
一番知りたいのに、わからない。
でも、きっとそれは近いのだと思う。
だって今日も私はいつ死のうか、いつこの世を去ろうか考えているのだから。
♢♢♢
学校へ到着するとすぐに廊下に張り出された大きな紙に自分の名前を確認する。
騒がしい声を遠ざけるように耳の奥にイヤホンを突っ込んで遮断する。そもそも私に話しかける子などいないことはわかっているのに。
私の名前はすぐにわかった。天野だからたいてい一番最初あたりに名前があるから探すのが早い。
私は2年5組だった。そしてすぐにまりちゃんの名前を探す。
「…」
5組の名前に彼女の名前を発見した瞬間、肩で大きく息を吐いた。
重たいからだを引きずるように、ゆっくりと前へ進む。
あぁ、また彼女と同じクラスだ。どうせ誰が同じクラスでも変わらない、そう思っていたのにやはり心のどこかでは“離れたい”と思っていたのだ。離れたって何も変わらないのに。
呼吸が浅くなって微かに手が震えた。
私が悪いのだろうか、私に原因があるのだろうか。友達は簡単に裏切るし、親は私を理解しようとしない。
自分の思い通りになる人形であることを望む。
もう嫌だ。泣いて叫んで、逃げたいのに
―それすらできない臆病者だ
教室のドアを開けて出席番号順に座る。
私はドアから近い席で前から二番目だった。
キャッキャッと騒がしい空間でやはり一人だけ、私一人だけ浮いている。
隣に座る見知らぬ女の子に「…おはよう」とあいさつをした。聞こえないかもしれない、返ってこないかもしれない。それでも挨拶をするのはいつか誰かがおはようと笑顔で返してくれて、友達になろうと言ってくれる
―そんな淡い夢を思い描いているからだ。
初めて同じクラスになるその子は私と同じようにおとなしい印象があった。
セミロングの髪を二つに下の位置で結んで“学生のお手本”のような髪型をしていた。
目元はくっきりとした二重で周りを窺うような視線が私にも向けられる。
「おはよう、」
その子はほんの少しぎこちない笑顔を浮かべてそういってくれた。
それだけなのに嬉しくなって私も緊張の糸を解いて顔を緩ませる。もしかしたら友達になれるかもしれない。
そう思ったのは、一瞬だった。
「おはよう!」
まりちゃんは、ポニーテールの後ろ髪を揺らしながら私たちのところへ駆け寄ってきたかと思ったらすぐに彼女の顔を覗き込んで
「ねぇ、私たちのグループに入らない?」
といった。
彼女の目が揺らいだのを見た。そして彼女は私に引きつったような顔を向けすべてを悟ったのか
「うん、入る。よろしくね」
そう言った。
ガツンと頭を背後から何かで殴られるような衝撃が私を襲って紺色のチェックのプリーツスカートをギュッと両手で握る。太ももに爪がめり込んで、でも痛みは感じない。心の痛みのほうが強いから。
そのあと、その子が私の方を見ることはなかった。
この一年も私は一人だ。
絶望して、もう早く、…早くこの世を去ってしまいたくて仕方がない。
明日、明日こそ死のう。死に方はどうだっていい。どうでもいい。
“辛かったら逃げていいんだよ”“逃げて逃げてどこまでも逃げて”
自殺防止のポスターを何度か目にしたことがある。その通りだと思う。生きることに絶望してもう死にたくてしょうがない子の命を救いたい。ちゃんと伝わってくる。
伝わってくるのに、死を選ぶことを躊躇しない、できない。何故なら私は生きることから逃げたいからだ。
この窮屈で辛い現実から死ぬことで逃げられるのだ。
この日、私のクラスに転校生がきた。
ガラッと教室のドアを開ける音と同時に新担任と一緒に男の子が入ってきた。でも、正直、そんなことはどうでもいい。一人生徒が増えようが私のこの現実は変わらない。
チラッと私は目だけを黒板の方へ移動させた。一瞬“違和感”があったが、どうでもよくてすぐに茶色い机の木目に視線を移した。
黒板には“波多野朝陽”と書かれていて、名前負けしない爽やかな男の子だった。黒髪から覗く力強い目はどうも苦手だ。そしてすぐにわかる。この人も“あっち側”の人間だということに。
まりちゃんが「かっこいいね、」と隣の子に話しているのが聞こえる。
彼女がこの子がかっこいい、と言ったら数日以内にはその人と付き合っている。いつもそうだ。男子だって可愛くてクラスの中心人物で快活な女の子がいいのだ。
私のように自分の気持ちも素直に伝えることも、言いたいことも言えない臆病者なんか誰も好きになどならない。いいところなんか一つもない。
彼は家庭の事情で転校してきたようで、自己紹介を軽くして私とはかなり離れた席へ座った。
教壇から下りる際、一瞬目が合った。でも私はすぐに逸らした。やはり“違和感”があった。
次の休み時間からは、きっとクラスの中心人物になるだろう。
「今日からここのクラスの担任をする吉田です。僕の担当は数学で…―」
新しく担任になる先生が自己紹介をして、私はボーっと黒板を見つめる。
担当する教科と、名前しか情報が入ってこないのは興味がないからだろう。
例えば、先生にいじめられているといってもどうせ何もしてくれないということを理解しているからだ。
何度か先生に相談したことがあった。でも、どれも私の気持ちを無視したことをして結果、いじめが酷くなるだけだった。最初から期待などしてはいけない。期待した分、私はどん底へ落とされるからだ。
先生が喋っている途中で、まりちゃんが『先生の好きな食べ物はなんですかー?』などどうでもいいことを質問する。
先生だって生徒から嫌われたくないのだろう。中心人物である生徒から質問をされて嬉しそうだ。
ある程度質問タイムが終わり、先生は四角い箱のようなものを教卓の上に置く。
「よし、じゃあ、まずは席替えをしよう。ここに番号が書かれているから」
そう言って事前に用意していたのであろうそれを見せる。
先生が黒板に席の番号を書いて、一人ずつ箱の中の紙を引くように言った。
出席番号順から、ということで私はすぐに教壇の近くまで行く。そして箱の中に手を突っ込み、一枚引いた。
その瞬間、背後から「絶対近くの席になりたくなーい」という声が届く。
まりちゃんの声だとすぐにわかって、私の体が硬直する。多分、私のことなのだ。でも名前は出していないし、文句を言ったって、はぐらかされるだけだ。先生がはっとして私を見る。もうわかっているくせに、このクラスで私がどういう位置にいるのかわかっているくせに先生は「早く席へ戻りなさい」といった。
私は俯いたまま戻った。
震える手を隠すように、右手を左手で強く握った。
私だってまりちゃんの隣になんかなりたくない。
あなただけじゃないんだ、そう心の中で悪態をつくけど本人には言えない。先生の「移動して」の声に合わせて荷物をまとめて席を移動する。
私はドアから一番遠い列の一番後ろの席になった。少し嬉しかった。前だと目立つし後ろの席は全体を見ることが出来るから好きだ。
一番気になったのは右隣と、前の席が誰なのかということだ。私は伏し目がちにあたりを気にするように視線を動かす。でも顔を上げて堂々と辺りを見渡していたらまりちゃんたちにまた何か言われそうだし、窓の外を見る振りをして一瞬顔を上げる。
隣の席の椅子をがたっと引く音がして横目で見た。隣の席は、転校生の波多野君だった。
まりちゃんじゃないことを確認してほっとする。
でも、まだだ。
私の前の席が気になる。窓が開いているから外から風が吹いてうぐいす色のカーテンが揺れて顔にぶつかってきそうになる。
前の席の子は、先ほど私の隣の席だった子だ。椅子を引く際も、座る際も私に視線が絡まないようにしているのが伝わってきて胸が圧迫されるように痛む。
もう挨拶なんかしない。だって私におはようと返してくれて、友達になろうなんて言ってくれる子はいないのだから。余計惨めになるだけなのは先ほどの件で十分学んだ。
平らな机に手を当て、撫でてみるとひんやりとしていた。そして考えていた。
今日は我慢しよう。さぼったりしないで学校で一日過ごそう。
そして、明日、死んでしまおう。だから、今日一日だけ頑張ろう。それが今日の心の支えだ。
明日には楽になれる、だから…―。
「おはよう」
隣の席の波多野君が誰かに向かってそういったのを耳が捉える。随分距離が近い喋り方をするものだなぁと思ったけど、
「聞こえてる?おはよ」
「…」
それは明らかに私に顔を向けて言っているように聞こえる。いや、絶対にそうだ。
それがわかった瞬間、パニックになった。
いったいどういうことだろう。何故私に挨拶をするのだろう。彼は所謂陽キャで、クラスの中心人物になるであろう人だということは一目でわかる。
なのに―…。
恐る恐る私は視線だけを隣の彼に向ける。目が合った。黒髪から覗く先ほど一瞬見た力強いこげ茶色の瞳が私を映している。
苦手な瞳だった。すぐに逸らしてそのままそれを机に向ける。
「おは、よう…」
多分、今日一日私が発する声は今ので最後だと思う。蚊の鳴くような声でそう返した。
波多野君はおそらくみんなと仲良くしようとするようなタイプだから一応私にも挨拶をしてくれたのだろう。きっとそうだ。
でも、きっと明日からはみんなと一緒に無視をするだろう。このクラスの中心人物たちと仲良くなることは安易に想像できる。その時、また私は絶望して苦しくて、辛くて、泣いてしまうかもしれない。
と、ここまで考えて苦笑した。
そうだ、私は明日はもうこの世にはいない。このクラスの人とも会うことはないのだ。
そう思ったら一気に全部がどうでもよくなった。
先生が今後の話をしている。今後と言っても、夏休み前までのスケジュールだ。
私たちの学校は中高一貫の学校で受験に力を入れている。T大合格者数を他の中高一貫の学校と競っているようで、夏休みも夏期講習で結構つぶれてしまう。
テストも多い。五月に中間テストがあるけどその前に再来週模試がある。
と、聞きながら波多野君のことが気になった。
気になったというのは好意とかそんなんじゃない。先ほど挨拶してくれたことでもない。
彼が教室へ入ってきた時から違和感があった。
何だろう、別に変わったことなどないはずなのに。そう思って、彼に気づかれないように頬杖を突きながら横目で波多野君を見た。
「っ…」
ようやく気付いた。その違和感に気づいたとき手に汗が滲み、じっとり嫌な汗が背中に流れるのを感じた。
心臓がバクバクと激しく音を立てて、先生の声なんか耳にもう入ってこない。
見なかったことに、しよう。
だってそれを知ったところで私にはどうすることもできない。
でもこんなに年の近い人で“それ”を見たことはなかった。
どうしてだろう、なんでだろう。
私は今日初めて会った転校生のことが気になって仕方がない。
二時限目からの授業なんかまったく頭の中に入ってこない。
何故ならば、
―彼の頭上に浮かぶ数字は“16”だった。
♢♢♢
転校生は早速人気者のようで休み時間ごとに彼の周りに人が集まる。
快活で、声も大きく張っていて、笑顔も爽やかだ。彼の周りに人が集まるせいで私が席に居づらい。そのため、私は昼休みごとに席を立った。
といってもどこにも居場所のない私はトイレに行くしかないのだが
「あれ、まーたトイレに逃げてんのかよ」
教室のドアの前でまりちゃんたちとすれ違いざまにそう言われて肩が震えた。
足が竦んで電源の切れたロボットのように動けなくなる。
今日一日、頑張れば明日は解放される。そう思っていたのに無理かもしれない。
もしも、私が強い人間だったならば。
嫌味を言われたら机に足をかけて思いっきり倒して―…
“お前なんか大っ嫌いだ”と大声で言うだろう。
私が、強い人間だったならば、の話だ。
それは空想で、妄想で、願望だ。
波多野君の周りには男女関係なく集まっている。
放課後のチャイムが鳴っても、彼の周りには明るい人たちが集まっている。その中にまりちゃんが口角を上げてかわいらしい声で話しかけている。今朝初めに隣の席だった子は、加藤静香さんというらしい。自己紹介を一人一人したから知った。
その子は金魚のフンのようにまりちゃんの後ろにひっついて歩いている。張り付いた笑顔を浮かべながら。
まりちゃんが波多野君に一緒に帰ろうと誘っていた。私はそれを目の端で捉えて、そのまま彼らの横を通り過ぎる。まりちゃんがかっこいいと言ったのだから数日以内で波多野君はまりちゃんと付き合うのだろう。
それは悪いことではない。なのに胸の奥がつっかえる。おはようとなんの偏見もなく躊躇もせずにそう言ってくれた彼の行為が嬉しかったからかもしれない。彼にとってはみんなと同じように接してくれただけなのに。
それと…彼の頭上に浮かぶ数字が気になってしょうがない。何か持病でもあるのだろうか、それとも。
私がしようとしてる自殺だろうか。
帰宅すると、さっそく母親がリビングから顔を出して二階へ行こうとする私に言った。
「ちょっと、みずき!帰ってきたらすぐに勉強しなさいよ」
「…わかってる」
「本当にもう…成績どんどん下がっていくじゃない。そもそもあなたをここまで…―」
家の中なのに、私はイヤホンを耳奥まで突っ込んで、階段を上がる。
うるさい、うるさい、うるさい。心の中でそう叫びながら階段を踏む。
お母さんは私を一流の大学へ入学させて、いい企業に就職することを望んでいる。
小さな頃から言われてきた。
最近はその“一流の大学”がT大になっているようで、週に二日の塾を三日に増やしてまで合格させたいようだ。
文系でも理系でも、どっちでもいいらしい。とにかくT大というブランドがいいのだ。
私にはそれが理解できない。私自身がそれを望んでいないのに、どうしてお母さんは勝手に決めて勝手に縛るのだろう。それとも、これが親の愛なのだろうか。私がダメな子供だから悪いのだろうか。
考えれば考えるほど、頭の中はごちゃごちゃになって呼吸が浅くなる。
自分の部屋に入って、カギを締める。
制服を脱ぎ捨て、部屋着に着替える。ようやくこれで緊張の糸が解ける。
ベッドにダイブして、目を閉じる。全身が強張っていたのに一気に睡魔が襲う。
家にも学校にも居場所がない私はどうしたらいいのだろう。私のような子は全国にたくさんいる気がする。
その子たちはいったいどうしているのだろう。私とは違って立ち向かっているのだろうか。そう考えると自分がいかに弱くて脆くて、臆病な人間なのだと再認識する。
しばらく目を閉じていると眠りについていた。
夢を見た。
私の手を取って、友達になろう、そう言ってくれる誰かが私の名前を呼ぶ。
それは夢だとわかっているのに、涙が出るほど嬉しい。
「ちょっと!みずき!」
どんどんとドアを叩く音で目を覚ました。すっかり夜になっていて、重たい瞼をこすって上半身を起こす。
お母さんが夕飯で来てるのに、何してるの!と怒鳴るような声でドアを挟んで叫んでいる。
たったドア一枚なのにこれがあるおかげで私は息を吸うことが出来る。
足をベッドから床へ移して、思った以上に冷たい床に一瞬背筋が伸びる。
重たい腰を上げ、ドアを開けた。
「なんで鍵かけてるの?!」
ひどく怒っている様子でいつも以上に顔色が赤い。無造作に一本に結ばれた髪は年々白髪が増えて、艶がなくなっている。くたびれたエプロンをつけて、仁王立ちで私を睨む。
お母さんは私が寝ていたことを怒っているようだ。
仕方がないじゃない、だって今日は新しいクラスになって新しい環境で一日を過ごしたのだから疲れる。
それを理解しているのか、していないのかは知らない。
だけど母親にとってそれは“どうでもいい”ことだ。
私の家はそこまで裕福じゃない。母親はパートを掛け持ちしていて、父親だって中小企業勤務で年々ボーナスも下がってきていると嘆いている。決して安くはない塾代を払ってくれていて、それなのに成績が上がらない。母親が怒るのは無理もない。怒られる度に、嫌味を言われる度に、反発心と同時に劣等感に苛まれる。
父親は普段帰りが遅いから、今日も母親と二人で食卓を囲む。
無言で夕食を食べる。咀嚼音だけが響く。
お母さんとお父さんは私が死んだらどう思うだろう。後悔するだろうか、それとも出来損ないの娘がいなくなってせいせいするだろうか。ちらっとお母さんに目を向ける。
「お母さん」
抑揚のない声で言う。何?と苛立ちを含んだ口調で返す母親に私は続けた。
「学校へ行きたくないって言ったらどうする」
お母さんの手が止まった。控え目に私は顔を上げるとしっかりと視線が絡む。
実はこのセリフは二度目だ。中学生の頃にも同じように質問したことがあった。
お母さんは、ふんと鼻を鳴らして
「何を馬鹿なことを言ってるの?」
「…どうして」
「勉強はどうなるの?いくら塾へ行っているとはいえ、ついていけなくなるじゃない。それに高い学費払って私立の学校へ行かせてるのよ?」
一度目の質問時と同じ回答をした。私は、そうだよねと呟いた。
どうして学校へ行きたくないの?とか、そういったことは聞いてこない。学校生活について訊かれたことはなかった。母親にとってそれはどうだっていいのだ。勉強さえしてくれたらどうだっていい。
沸々と熱いものがこみ上げてきて今にも喉の奥からそれが出てしまいそうになる。
“私の気持ちはどうだっていいの?”
言えない言葉はお味噌汁と一緒に食道を通って胃の中へ落ちる。
いじめられていることをお母さんは知らない。もし話したら、何て言うだろう。
行かなくてもいいよ、っていうのだろうか。
そこまで考えてやめた。
言うわけないじゃない。今と全く同じ言葉を言うはずだ。
夕食を食べ終え、お風呂にも入るとそのまま部屋にこもった。イヤホンをして、適当に音楽を流す。
いつの間にか眠りについて、朝が来る。
そうしたら…―
もう、私はこの世にいない。
重たい眼を擦りながら、ベッドの上で上半身を起こした。朝起きてすぐにカーテンを開ける。これはいつもの日課だ。今日も天気がいいようで薄ピンク色のカーテンの間から顔を出すと朝日が顔を照らして思わず目を細める。
昨日、寝る前にベッドの中でいろいろと考えていた。明日は学校に行くふりをして家を出る。そして電車に飛び込む。何度も頭の中でシミュレーションをしていた。
紺色のチェックのプリーツスカートに足を通して、ホックを止める。
随分細くなった足を見て苦笑した。最近は食べるのも億劫で、明日が来るのが怖くて眠れていなかった。
真っ白いシャツを着て、赤いリボンをつける。ブレザーに腕を通して、姿見の前に立った。
顔色が悪い。お母さんから朝食を食べるように言われたけどいらないと言って家を出た。
普段とは違って足の動きは軽やかだ。きっと、もう少しで全てから解放されることで心も軽くなっているのだろう。
狭い歩道を歩いていると、チャリンと自転車のベルを鳴らす音が後ろから聞こえて、左端へ寄る。
一瞬で自転車が風を作って去っていく。すれ違いざまにちらっと視線を動かしてみると中学生だろうか、セーラー服を着た学生が自転車を漕いでいる。
今日はゆっくりと歩いていた。もう2度と見ることはない景色を目に焼き付けたいからだ。
未練がないようで、あるのかもしれない。それでも今の自分の選択肢を否定はできないし、後悔もない。
4月は桜の季節だから好きだった。
でも今年はしっかりとそれを見ていないことに気が付いた。最後に、見ればよかった。
もう散ってしまって、おそらく葉桜へ変わっている頃だろう。
そんなことを思いながら改札を抜けた。雑踏に紛れて、私は駅ホームに立った。
辺りに視線を彷徨わせて私は息を吐いた。
ほとんどの人は携帯電話に夢中で画面とにらめっこしている。私が今、電車が来る前に飛び込んだら…驚くだろうな。それに通勤の迷惑になってしまう。
これから大事な商談のあるサラリーマン、大切な試験のある学生、そんな人たちはいないかもしれないのに頭の中で妄想を膨らませていいのだろうかと迷いが出る。
電車が来るアナウンスが流れる。死ぬ勇気があるなら何でもできる、誰かがそう言っていたことを思い出す。テレビだっけ、小説だっけ、忘れたけどその言葉が浮かんできた。
私は自然に口元に笑みを浮かべていた。
出来ないよ、何もできないんだ。息をすることも吐くことも苦しくてどうしようもないんだ。
それよりも“楽に”なりたい。
ふっと何かが抜けたように私の足がゆっくり進んだ。ふらふらと焦点の定まらない視点で歪んだ世界を脳裏にこすりつける。誰かの声が聞こえる。大きな警笛の音に私は目を閉じた。
あぁ、終わるんだ。
その瞬間、ぐっと誰かに腕を強く掴まれてその衝撃で大きく後ろに倒れこんだ。コンクリートに体をぶつけて傷みがあるはずなのに、それよりもあと少しで電車にぶつかりそうになっていた瞬間を至近距離で体感したせいで体が震えていた。
同時に強い風が私の体を通り抜け、バクバクうるさい心臓と騒がしい声に私は口を半開きにしてあたりを見渡す。時刻通りに止まった電車に人が乗り込むのを私は呆然と見ていた。じんわり、嫌な汗が背中を流れる。
失敗したのだと悟った。でも、同時に何故?という疑問が浮かんだ。でもそれもすぐに解消した。
頭上から声がした。
「おはよう」
「…あ、…おは、よう」
視線を上にあげると、そこには波多野君がいた。波多野くんの他にも30代くらいのサラリーマン風の男性もものすごく近い距離にいた。その男性は「何やってるんだ」と強い口調で私に言う。それに返事もせずに視線を落とした。
波多野君は、ドアが閉まってそのまま発進した電車をじっと見つめながら「もう間に合わないな」と独り言のように呟いて、私に言った。
「どうせだからサボろう」
この時の私は、きっと誰よりも間抜けな顔をしていたと思う。
多分、飛び込もうとした私を止めたのも彼だ。だったら今何をしようとしていたのか目的はわかっているはずだ。なのにそれは何も言われなかった。
そもそも、彼の最寄り駅と私のそれは同じだったことに驚いた。
真っ黒い髪の毛が春風のせいで揺れていた。彼が手を差し出す。私は彼の手に自分の手を重ねた。
タイプの違う波多野朝陽君は、地味でいじめられっ子で今にもこの世を去ろうとしていた私に手を差し伸べてくれた。これは、夢だろうか。
彼の手は思った以上に温かくて、私の胸の奥もじんわりと温かくなっていく。
次の電車を待ちながら波多野君が言った。
「サボるの平気?」
私はうんと曖昧に頷く。
彼はサボっても平気なのだろうか。そして、どうして死のうとしたのか聞いてこないのだろう。
私から話した方がいいのかな。横目で波多野君を見る。
やはり彼の頭上には“16”という数字が浮かんでいた。今年私たちは17歳になる。彼の誕生日はいつだろう。そして私は、”私の数字”が知りたい。
今日で私の世界が終わると思ったのに、どういうわけか転校生に止められたせいで1日ずれてしまった。
学校へ行けばいじめられて、家でも親の圧力で居場所がない。それなのに、彼に止められた時、よかったと思ってしまった。
電車が来て、私たちはそれに乗り込んだ。どこへ行くのかわからないけど、波多野君がサボろうと言ってくれたから私は、サボることにした。今日1日くらい別にいいだろう。
混みあう電車で波多野君と体が密着しないように気を付けながら乗る。
周りの人の数字を見ても79、80、62など想定できる数字が並ぶのに、波多野君だけ16だ。
本人に伝える気など毛頭ない。
だって、私にはどうすることもできないから。でも…昨日の時点で“人気者”で“中心人物”になるであろう彼が私に挨拶をしてくれて今も普通に接してくれている。
そんな彼がいつかはわからないけど17歳になる前に死んでしまう、その事実が信じられない。
私の力は本当は嘘で、特に意味もないものだったら?それだったらいいのに。そうしたら彼は…―
「顔色悪いけど大丈夫?」
顔を覗き込まれて異性にこんなに顔を近づけられたことはないからつい顔を引きつらせて背中を反らせ後ずさった。
大丈夫だよ、と伏し目がちに言った。
「ここで降りよう」と彼が言うので普段は降りない駅で降りた。私は、人を掻き分けるようにして波多野君に続いた。
改札を通って彼の横を歩く。駅改札を出るとすぐにオフィス街なのかサラリーマン風の男性やオフィスカジュアルの服装の女性、天を突くような高いビルが並ぶ。思わず顔を上げた。
普段、顔を上げることなどないから久しぶりにみた青空はとても澄んでいて心が穏やかになる。
先ほどまで死ぬことを考えていたのに、こんな当たり前のことで涙が出そうになった。
「この近くに、ケーキの美味しい喫茶店があるんだ」
「ケーキ?」
あまりにも彼のイメージとはかけ離れたその言葉に思わず聞き返してしまった。波多野君はうんと言って笑った。その笑顔と彼の後ろに広がる青空があまりにも似合いすぎていて目を背けたくなった。私には眩しすぎる。
「何度か食べてるんだけど。今月末までの限定のチーズケーキ、本当に美味しい。天野さんは?ケーキ好き?もし嫌いだったらこんなところまで連れてきて申し訳ないけど」
私はかぶりを振った。
チーズケーキはケーキの中でも一番好きだ。家でも結構作っていた。…今は、そんなことをしていたら母親からそんな暇があるなら勉強しろと言われるからできないけど。
「あ、お金は俺が出すよ。今日付き合ってもらったお礼に」
「いいよ。私の分は私で…」
「いいって。ちなみにそのカフェのケーキは人気で休日だとすぐに完売する」
「そうなんだ」
男子って甘いものが苦手なイメージがあるのに、そこまで詳しいなんてよほど好きなのだろう。
私は、波多野君の隣を歩きながら早くチーズケーキを食べたくてワクワクしていた。
時刻は10時を過ぎていて、徐々に気温が高くなっていく。日光がアスファルトを照らし、更に気温を上昇させる。
10分ほど歩いて到着したのは、外壁が茶色のレンガ調でコーヒーカップの絵が壁に描かれている。
周りには背の高い植物が置かれていて、店の入り口には小さな深緑色の黒板にチョークでコーヒーやケーキの値段が書かれている。
その横には、店主が書いたのかケーキや、コーヒーカップの絵が描かれている。
可愛いらしい絵に思わず笑みが浮かぶ。
波多野君に続いて私も店内に入った。中は思った以上に広くて丸い茶色のテーブルや椅子が並ぶ。
4人掛けの席が3つ、2人掛けの席が5つほどある。
カウンターで店主と楽しそうに喋っているのは白髪混じりの男女だ。おそらく、夫婦だろう。常連なのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
店主は背の高いスラっとした男性で眼鏡をかけている。にこやかに笑うその笑顔がこちらへ向けられて思わず笑ってしまいそうになった。
お好きな席へどうぞ、と言われたので、私たちは奥の席へ座る。和やかな音楽が流れている。
すぐにメニュー表と、お水を持ってきてくれる。
「どうぞ。初めてですか?」
はい、と答えるとゆっくりしていってくださいねとやさしい口調で言われた。制服姿で店に入ったら明らかにおかしいのに、何も言われなかった。
店の人からするとお客だしお金を落としていってもらいたいから学校は?などは言わないだろう。
でも、このお店の人の口調からはそんな感情は全く感じない。
メニュー表を私の方へ向けて捲ってくれる。
「チーズケーキ、めちゃくちゃ美味いよ」
「じゃあ、それで」
飲み物は?と聞かれて、紅茶を頼んだ。波多野君も同じものを注文する。
お店の人が「チーズケーキ今月限定なんだけどものすごくおいしいから楽しみにしてて」と言っていて波多野君と目を合わせて微笑んだ。
「あの…どうして私のこと助けたの?」
彼は先ほどから全くその話題には触れない。だから痺れを切らした私は聞いた。
すると、彼は頬杖を突きながら私の目の奥を覗き込むようにしていった。
「なんでって…助けたかったから」
その力強い瞳は昨日も苦手だと思った。すべてを見透かしているような、瞳だ。
「だって目の前で死のうとしてる子が同じクラスの子だったら助けるよ」
無言でこくり、小さく頷いた。なんで死にたいの?とか、やめなよとかそういうことは彼の口から一切でなかった。説教されるわけでもない。ただ、私の瞳をじっと見つめて言う。
「やり残したこととかないの?」
「やり残したこと?」
反芻して、首を傾げる。
「ここのチーズケーキめちゃくちゃ美味しいからどうせなら食べてからにしたら?」
「…あ、そうだね」
唖然として私は目をしばたたく。
“やり残したこと”
そんなことはない。ないのに、こうやって彼がすごく美味しいというチーズケーキを勧めてくるから“やり残したこと”が増えてしまう。
「学校は…?いいの?転校して次の日からサボるのっていいの?」
「いいよ。サボるの好きだし」
そういって無邪気に笑う彼につられて笑った。こんなふうに笑ったのはいつぶりだろう。
すると、チーズケーキと紅茶が運ばれてきた。
透明のティーポットに温かいティーカップ、それにベイクドチーズケーキを目の前にして唾液があふれる。
朝食を食べていないから、おなかが空いている。
多分、ここは紅茶よりもコーヒーのほうが有名なのだろうけど頼んだダージリンティーもとても美味しかった。
フォークでチーズケーキを一口サイズに切って、それを口に運ぶ。
酸味と甘みのちょうどいいケーキで、ずっしりと重厚感があるのにすっと口の中で溶けていく感覚がたまらない。
美味しくて目を細める。それを波多野君が見ていて視線が交わり、つい恥ずかしくて目線を落とした。
「よかった、美味しいだろ?」
「うん。とても!これ限定なんだ…」
「残念だよね。でもほかにも美味しいケーキたくさんあるから」
本当に美味しくて、死ぬ前にこれを食べることが出来て幸せだと思った。波多野君に今日止められていなかったらこれを知ることが出来なかった。
「波多野君は…転校前はどこにいたの?」
ケーキを食べながら訊くとすぐに返事が返ってきた。
「隣の県だよ。俺が小学生のころ、父親が亡くなっているんだ。だから母親が一人で育ててくれているけど、母親の仕事は関東内で転勤があるんだよ。その関係で今回みずきと同じ学校に転校してきた」
父親がいない、そう言った彼はさらりと自然に答えていて、どう反応していいのかわからない。
でも、彼は大切な人を失っている。小学生の彼はどうやってそれを受け止めたのだろう。
そして、普通にみずきと下の名前で言われたことにも驚いている。社交的な人はこうやって友人を作っていくのかもしれない。
「あ、やっぱりここは私が払うよ」
母子家庭ならお金に困っているのでは、と思って提案した。お節介かもしれないし波多野君が嫌な思いをするかもしれないから直接的には伝えなかった。
でも、彼は首を横に振って言う。
「大丈夫。そもそもお金に困ってたら私立高校に入学しないでしょ?」
あ、と声が漏れる。
「まぁ、特待生で学費免除なんだけど」
少し誇らしそうにそう言った彼に私は吃驚した声を出す。私の学校は偏差値が高いうえに、エスカレーター式で小さいころから英才教育を受けてきているような子が多い。この中で特待生になるなんてほぼ不可能だ。
「す、すごいね!」
「そんなことないよ。でも学費が無料って言っても他にもお金はかかるから母親には感謝しかない」
「…」
波多野君のお母さんはどんな人なのだろう。私のお母さんと違うのだろうか。
急に現実の世界に戻されたように、私の中のストレスが溢れていく。比べたって仕方がないけど、無意識に比べてしまう。
「ちょうど父親が死んだとき、驚くほどのお金を残してくれていたらしい。今、この学校にも通えているのも父親のお陰でもあるから感謝してる」
「そうなんだ…」
「天野さんとは最寄り駅が同じなら家も近いかもしれない。転勤と同時に父親の方のばあちゃんと一緒に住むことになってさ。広すぎるほどの一軒家だからって一緒に住むこと提案されて母親も仕事が忙しいから助かるって言ってた。あ、今度遊びにくれば?」
そうだね、と返すが、友達でもないのに家に誘う彼の感覚に私は動揺する。
きっと、明るくて社交的な人はみんなこうなのかもしれない。
それに、先ほどから苗字で呼んだり名前で呼んだり…どちらかに統一してほしい。
下の名前で呼ばれると慣れていないせいか、落ち着かない。
お皿の上のチーズケーキももうなくなって、紅茶もほとんど飲み終わった。
それでも、波多野君との会話が途切れることはなかった。私も自然に言葉が出てくるようになったし今日初めて喋ったのに壁もない。
話すことが楽しいと感じる。こんな感覚、何年ぶりだろう。
「今更だけど天野さんじゃなくてみずきって呼んでいい?」
私はうんと頷く。
「じゃあ俺のことも朝陽でいいよ」
「え!それは…さすがに」
私は口籠って視線を控え目に逸らす。すると彼は間髪入れずに言った。
「俺だけが名前呼びって違和感あるからさ。それに俺たちもう友達じゃん」
「…とも、だち?」
明らかに違和感のある言葉に私は逡巡する。
昨日転校してきて、たまたま私の席の隣になっただけの男の子が、こうやって一緒にサボって私のことを友達だと認定してくれる。まるでドラマや映画の中のストーリーを辿っているようなそんな感覚がする。
友達の定義は何だろう。親友だと思っていた子から裏切られて、いじめられて…結局私には“友達”と呼べるような子はいない。
「ありがとう。友達に…なろう」
学校へ行ったら彼の気が変わって、もしくは、私のクラスでの扱いを悟って私の前から去ってしまうかもしれない。無視されるかもしれない。それなのに、今、この瞬間、友達じゃんと言ってくれた事実が嬉しくてしょうがない。
そして、気づいた。自殺を考えていたくせに、明日のことを考えている。
しかも学校へ行くことを前提に考えている。今日は失敗に終わった行為を明日、またしようとは思わなくなっていた。
いや、まったく思わないわけではない。でも、明日じゃなくてもいいかもしれないと思った。
隣の席の波多野君がもしも、明日学校で無視をしなかったら?普通に話しかけてくれたら?
そうしたら少しだけ気持ちが楽になるような気がする。今にも呼吸が苦しくて、止まってしまいそうな心臓がゆっくりと息をして動き出す。
「明日、また死ぬの?」
「…」
波多野君がもう残り少ないティーカップに入っている紅茶を飲み干して聞いた。
無言の私に注意深く、彼は問う。
「やり残したこととかないの?」
「…ない。何もない」
「でも、このチーズケーキ食べてよかったんじゃない?」
その言葉に私は強く頷く。それは本当だ。ケーキの中では一番チーズケーキが好きだし、こんなに美味しいケーキをまた食べたいと思った。今月限定なのが惜しい、とも思う。
「ちなみに、なんで飛び込もうとしたの?」
それは、と言ってまた言葉が詰まる。唾を飲みこんでも声が掠れる。
微かに震える手を隠すように私は両手をプリーツスカートの上に置いてこぶしを作る。
「苦しくて、」
「苦しい?」
「そう。学校で…友達もいないし…合わない子もいるし…あとは、家にも帰りたくなくて」
確認するように、一つ一つ丁寧に言葉を選んだ。
そうすると意外と言葉が出てくることに気づく。いじめられている、とは言わなかった。言えなかったのではない。言いたくなかった。だって、私はいじめのせいで死を選ぼうとしている。たくさんの選択肢の中から死を選ぶ。それは、自分を殺すことだ。でも、それを選ぶしかない。そういうふうに追い詰める行為をいじめとして片づけてほしくない。
「友達なら俺がいるじゃん」
え、と声が漏れる。弾けるように顔を上げて、私は顔を歪ませる。嫌とかじゃない、そうでもしないと泣きそうだからだ。
「あー、でも合わない子?いるんだ。それが嫌ってことか。それと家にも帰りたくない…か」
視線を空へ彷徨わせて、悩んでいる様子の彼にどうしてそこまで私のことを考えてくれるのだろうと思った。
確かに、目の前で自殺をしようとしているクラスメイトがいたら止めるだろう。
そして、どうして自殺しようと思ったのか、聞くだろう。
でも、ここまで一緒に考えてくれるだろうか。普通は、ここまでしてくれるのだろうか。
「あ、やり残したことあるじゃん」
閃いたように口角を上げて前のめりになって上半身を私に近づける。
同時に私は体を反らせるようにして彼から距離を取る。
「合わない子、つまり嫌なことしてくる子いるんでしょ?どうせ死ぬならそいつに言いたいこといってからでもいいんじゃない?だって嫌なことされたままで成仏できると思う?俺なら化けて出るけど」
「…そんなの、無理だよ。だって、」
「無理じゃない」
彼から笑みが消えた。真剣な目に思わず息をのむ。
「無理なんかじゃない。俺が一緒だったら出来そうじゃない?」
私は何も答えなかった。何か言った方がいいのはわかるけど、それでも何も言えなかった。
出来そうにないよ、そんな勇気は私にはない。
でも、それと同じくらい嬉しかった。今日は嬉しいこと続きだと思った。すべて波多野君のお陰だ。
彼は私の救世主のような気がする。
「どうして…ここまでしてくれるの?」
素直な疑問だった。ただのクラスメイトでしかも昨日会ったばかりの彼がどうしてこんなにも私に親身になってくれるのだろう。親友とか、幼馴染とか、恋人とかそういう関係ならわかる。
でも、それのどれにも該当しないのに…友達と言われたのもついさっきだ。そんな“浅い”関係なのに、何故。
波多野君は微かに瞳を揺らした。発言に迷いがあるようだった。
「それは…気になるから」
そう言って、彼は再度笑みを作る。
含みを持たせた言い方に胸の奥がぞわぞわして感じたことのない感情が全身を駆け巡る。
心臓の奥が掴まれたように締め付けられる。でもそれは心地の良いものだ。
私は曖昧に笑ってそうなんだと返した。
彼の言う気になるの意味はよくわからないけど今日1日本当に楽しくてこのまま時間が止まればいいのに、そう思った。
カフェを出るときにお店の人が私たちを見送ってくれた。
「チーズケーキ美味しかったでしょう?ぜひまた来てくださいね!」
温かい人たちと関わることで自然に自分の心も温められていく。傍からみたら今朝まで死のうとしていたなんて思えないだろう。
歩道を歩きながら駅まで歩く。
車道側を歩いていた私にさりげなく彼が位置を変わってくれる。彼がとてもモテることは安易に想像できた。きっと、人気者じゃなくても、快活じゃなくても、頭がよくなくても、彼はモテるだろう。小さな気遣いが出来る人だと知る。
同時に、私は人の顔色ばかり窺っているくせに、そういう気遣いはできない。
器用でもないし、コミュニケーション能力が高いわけでもない。
あまりにも隣を歩く彼が“完璧”過ぎて逆に自分の不甲斐なさを再確認する。
改札が見えてきた。私と波多野君がそれを通り抜ける。
時間を確認するとまだ12時前だ。このまま家に帰っても母親は家にはいないけど普段17時前には家にいるはずだから帰宅時に怪しまれるだろう。
どこかで時間をつぶそうと思った。
「どっか寄っていく?」
「…あ、そうだね。時間もあるし」
「じゃあ、今度はみずきの行きたい場所教えてよ」
行きたい場所?と聞きながら駅ホームで電車を待つ。ぬるい風が制服と髪を揺らす。
行きたい場所などない。でも、彼と話すのが楽しくてこの時間をできるだけ伸ばしたい。ぎりぎりまで一緒に話していたい。そんな欲が出てきて、必死に考えてみる。
と、すぐに電車が来た。一緒に電車に乗り込んで、早くしないと最寄り駅に到着してしまうのにやはり行きたいところはすぐには出てこない。
波多野君が吊革に掴まりながら「じゃあ図書館でも行こうよ」と言った。
手足の長い彼がそうやって吊革に掴まっていると、余計それが協調される。
うん、と大きく頷いて、私たちは図書館で時間をつぶすことになった。図書館は私の家の最寄り駅ではない。
確か3駅くらい離れている。
「図書館、好きなの?」
「静かに勉強できるから好きだな。勉強は?得意?」
あまり触れてほしくない話題でつい顔を背けてしまった。母親のことが脳裏に浮かぶ。
「得意ではない…最近、成績も下がってきてて」
「そうなんだ。学歴社会だから先生も親も勉強勉強って煩くなるのもわからないでもないけど」
「私の親は…勉強できない子はいらないって感じで…」
各駅に到着する毎に波多野君とぶつかりそうになる。
彼は親のことは深くは聞いてこなかった。そっか、と言って口を噤んだ。
目的の駅に到着して、二人で降りた。駅からは徒歩で15分ほどだ。入り口に足を踏み入れるとぶわっとエアコンの風が肌を撫でる。
確かに4月とはいえ結構暑い。図書館のような人が集まるような場所はもうそういう時期なのかもしれない。
ちょっと前まで寒かったのにあっという間に季節が変わっていく。
「本読んでもいいし、勉強してもいいし。どうする?」
「勉強…しようかな」
「じゃあ、教えるよ」
初めて来た市民図書館はびっくりするほど広くて四階まであるようだ。一階は一般書、二階は児童書らしい。専門書なんかは三階以上だ。
飲食スペースもあり、自習室もある。少し駅を乗り継いだらこんなにいい場所があるのだと知った。
視線を上に巡らせながら辺りを見渡す。本を読んでいる人、勉強している人…学生もいた。同じように制服を着ているからわかりやすい。
私と同じようにサボりなのだろうか。私たちは自習室で勉強することにした。
今日は本当は死ぬ予定だったのに、ちゃんと鞄の中には教科書が入っている。
4人掛けの席で向かい合うようにして座った。
波多野君が、わからない問題あったら教えると言ってくれて私は微笑みながら頷く。
苦手な教科は英語と数学だ。得意な科目は化学。でもそれ以外は別にそこまで点数がいいわけじゃない。
そもそも勉強する意欲がない。目的もなく、親に言われるがまま勉強をしている私は中身が空っぽだから学ぶことの楽しさも、目的も持つことができない。
波多野君が参考書を取り出してさらさらと問題を解いていく。数学をやっているようだ。
私も数学の教科書を取り出して、おそらく今日授業で進んでいるであろう範囲のページを捲りながら確認する。一日休むと全くついていけなくなりそうで、それも怖い。
ノートにシャープペンを走らせる音が聞こえる。
すると、彼が手を止めてこちらへ視線を向ける。私も顔を上げる。
「勉強は…自分のためにした方がいい」
「へ?」
真剣な眼差しでそう言われた。何を言っているのかわからずに無言でいると、更につづけた。
「誰かのために…とか、親が言うから…とか、そういうのはやめた方がいい。だって、もしだよ。みずきのお母さんが急にこの世からいなくなって…その人のためにしか勉強をする理由を見いだせていなかったら…それは何の意味もなくなってしまう」
私は眉根を寄せて唾を呑んだ。
まるで、私の家庭環境をわかっているような口調で、もしかして私の心を読めるのではと思った。
そんなことはあり得ないけど…それでも、思ってしまった。
「お母さんのために、それは二番目でいい。一番は自分のためにするべきだよ」
「…」
核心をつくようなことを言われて、でもそれが説教じみて聞こえないのは波多野君が言うから、なのかもしれない。すっと心の奥に入り込む。
そして、彼の言葉には具体的に表現することはできないけど何か不思議な力があるような気がした。
根拠があるわけではない。でも、そう思うのだ。
帰宅するとすでに母親が夕飯を作っていた。
そっと鍵を開けて、重たいドアを引く。そっとローファーを脱いで靴を並べ二階へ行こうとすると母親が気づいたのかリビングから顔を出す。
「おかえりなさい。ちゃんと勉強するのよ」
「わかってる」
階段の手すりにつかまりながら私は感情を殺した声で答えた。
どうやらサボったことは知らないようだ。ほっと肩をなでおろして自分の部屋
に向かった。
すぐにブレザーを脱ぎすて部屋着に着替える。
そのまま、ベッドへ寝転ぶと携帯でYouTube開く。適当に動画を流しながら私は大きく息を吐いて天井を見る。
波多野君のせいでやり残したことが増えた。私に未練などない。なかったはずなのに、こうやって彼と関わるとまたチーズケーキを食べに行きたいな、とか小さなやり残しが増えていく。
明日は、どうしようか。まぁそれは明日また考えよう。
私は重くなる瞼を下ろして意識を手放した。
結局次の日、私は学校へ登校していた。
今日は電車に飛び込もうとは思っていなかった。でも、最寄りの駅改札で波多野君と会った時、若干強張った彼の顔を見て、心配されていたことを知る。
波多野君は昨日と変わらず明るく私に話しかける。この学校では、私に話しかけることはすでにタブーなのに、関係なく話しかけてくる。
教室に入るとすぐに波多野君におはようとあいさつをするクラスメイトたちの視線に当然私は入っていない。
それでも一応おはようと聞こえるか聞こえないかの声で私も挨拶をする。
もちろん返ってこないけど、別にいい。
波多野君が私の隣の席へ腰を下ろしてすぐにまりちゃんが駆け寄る。それを横目で確認しながら私はうぐいす色のカーテンへ目を向ける。少しだけ開いた窓から風が入ってきてカーテンが揺蕩う。
今日は風が穏やかだ。窓の外のグラウンドを見つめていると隣から会話が嫌でも聞こえる。
「朝陽君!部下は決めた?やらないの?」
「やらないかな。前の学校ではサッカーやってたけど」
サッカー部だったんだ!かっこいい!と、まりちゃんをはじめ、女子の声が聞こえる。サッカーをやっていたことは初耳だった。
鞄から教科書類を机の中に入れようとするとすぐに私は違和感に気づいた。
キャッキャと、黄色い声が聞こえているけど指先が冷たくなっていくのがわかる。怖かった、それ以上を確認することが怖くて仕方がない。
ドクドクと心拍数が上昇して、唇が震えそうになる。この感覚は幾度となく経験している。
お弁当を隠されて、トイレのゴミ箱に捨てられているのを目撃した瞬間、教科書をびりびりに破かれて放置されていた瞬間、上履きにゴミを入れられていた瞬間、目の前で私の悪口を言われた瞬間…―あの時と、同じだ。
机の中から手を出すと、私の指は赤い液体で濡れていた。これが何なのかその一瞬ではわからない。
声なく、ガタっと椅子を倒して立ち上がるとそのまま教室を出ていく。
すぐにトイレへ駆け込むと、勢いよく水道から水を出して洗った。人の血なのでは、そう思ったけどそれはすぐに水と一緒に流れていく。絵具なのかもしれない。
心臓が痛い、苦しい、やっぱり私は昨日死んでいたらよかったのだ。
はぁ、はぁ、と呼吸が浅くなってふらふらとその場にしゃがみこんだ。
もうあの赤い液体は手から消えている。消えているのにまだそれが残っているような気がして震える手をじっと見つめる。ぽたぽたと水滴がプリーツスカートに跡を残す。
「…いやだ、もう…」
そう言って私は目を閉じる。あの教室へ戻る気にはなれない。あの液体はおそらく絵具だとは思うけど、乾いていなかったから恐らく、私が登校する少し前に入れられたと考えるのが妥当だ。クラスの子たちは、誰がやったのかわかっているのかもしれない。
多分、まりちゃんたちだ。
でも、その証拠もないし、それを告げ口するような子もいないだろう。私はふらつきながら保健室へ向かった。
保健室のドアをそっと開けるといつもの40代くらいの浜野先生がにこやかな笑みを浮かべながらどうしました?と声をかけてくれた。
声が大きかったから他の生徒はいないようだ。
薬品のにおいが鼻を刺激する。私はそのまま中へ進む。パーテーションで仕切られている奥のベッドへ腰かける。
「体調が悪いので…」
消えそうな声でそう言うと、浜野先生はよくなるまで寝ていましょうね、そう言った。
具体的にどこが体調悪いとかそういうことは聞かれない。おそらくわかっているのだと思う。何度も利用しているから、浜野先生にはわかっている。
浜野先生から担任にこのことを伝えておくと言われて私は頷きながら保健室で目を閉じた。
まだ手は冷たいままだ。
パリっと糊の張り付いたシーツの上で体をもぞもぞと動かして深呼吸をする。
今日は早退したい、でもあの机の中をどうにかしないといけない。
それに早退したら母親からなんていわれるか想像するだけで胃が重くなる。
次第に眠くなってきて私が目を覚ましたのは、お昼休みだった。
「みずき、」
私の名前が聞こえて薄っすらと瞼を開ける。視界には白い天井と、波多野君の顔が入る。私は、わ、っと小さな声を出して飛び起きる。
波多野君は起こしてごめんと言いながらこめかみを指でぽりぽりかいている。
「どうしたの…」
「体調が悪くて休んでるって担任から聞いて。昼休みだけど浜野先生がここでお昼食べていいっていうから俺もここで食べようかなって」
そう言って波多野君が私の鞄と自分の鞄を私に見えるように持ち上げて見せる。
ありがとう、とお礼を言うとどういたしまして、と明るく返された。
パイプ椅子と折り畳み式のテーブルを私のベッドの近くまで持ってきてくれてそこにお弁当を広げる。
波多野君のお弁当は彩りが綺麗でブロッコリーに赤ウインナー、エビフライに卵焼き、と男子が好きそうなメニューで愛が伝わってきた。
お母さんが作ってくれるの?と訊くと、そうだよと自慢げに言った。
素敵なお母さんだなぁと思った。私もお弁当を広げた。
おにぎりと、鮭と卵焼き、小松菜の胡麻和えにプチトマト、普通のお弁当だ。
波多野君が「みずののお母さんも健康を考えて作ってくれてるんだね」と言ってくれた。
そうなのかもしれない。他人から言われると少しだけ誇らしく感じた。
「急に教室飛び出ていったけど…何かあった?」
私はゆらゆらと首を横に振った。
彼に言ったところで解決するわけじゃない。それでも、やっぱり昨日死んでいたらこんな嫌な思いはしなかったのに、という思いが沸々と湧き上がる。
自分で選択したくせに、人のせいにする性格の悪い自分が大っ嫌いだ。
「人生は、選択肢の連続である」
「…へ?」
私は顔を上げた。波多野君がにっこり笑う。
意味がわからなくて箸を止めて彼を見つめる。どこかで聞いたことのあるセリフだけど、何故今そんなことを言うのだろう。疑問が顔に出ていたのか、波多野君はごめんごめんと言って笑う。
「聞いたことあるでしょ?シェークスピアの名言だよ」
「あぁ、シェークスピアだったんだ」
聞いたことはあるけど、それがシェークスピアだとは知らなかった。
「俺、好きな言葉なんだ。今、この瞬間の選択が次の道を作っていく。昨日…俺が止めなかったら今日はみずきとは会えなかった」
私は口に含んでいた玉子焼きを一気に呑み込んだ。味がしない。
思い出すようにどこか遠くを見るような目で私を見る。
「今日、みずきは同じ選択をしようとはしなかった。だから今がある」
「…そう、だね」
何が言いたいのか皆目見当がつかない。
「選択肢の連続なんだ、人生は。俺は後悔していないよ」
「…うん」
昨日、駅に飛び込もうとしたことを話しているのだろう。でも、どうしてそんな力強い目で私を見るのだろう。
この目をみて転校初日に苦手だと感じたことを思いだした。
今、私は昨日の選択を後悔しようとした。でも、本当にそうなのだろうか。昨日死んでいたらあのチーズケーキだって食べられなかったし、波多野君とサボるあの時間を過ごすことは出来なかった。
「人はたくさんの選択をして今がある。そして、その選択は今、この瞬間も可能だ。次の時間授業をサボるか、出るか。または帰るか…それで未来が変わっていく」
「私は…―別に、」
と、急に勢いよく保健室のドアが開いた。
そこには、同じクラスの男の子が立っていた。私と波多野君を見ると気まずそうに頭を掻きながら「波多野、宮野さんが捜してたけど」と言った。
彼の名前は知らなかったけど(一応全員で自己紹介はしたけど覚えていない)波多野君が林、と呼んでいたから今名前を知った。
波多野君と同様に快活そうな林君は、「えっと、付き合ってんの?」とまさかそんなことはないよな?とでも言いたげな目を向ける。私は否定したいのに、林君の態度がショック過ぎて言葉が出てこない。やっぱり周りからみると波多野君が私と仲良くしていたら変なのだ。おかしいのだ。
なのに波多野君は「付き合ってはないけど普通に仲いいよ」と、当然のように言った。
私もびっくりしたけど、私よりも驚いた表情をしていたのは林君だった。
そ、そうなんだ…と言って勢いよくドアを閉めるとそのまま去ってしまった。
呆然とドアを見つめる私に、波多野君は飄飄とそんなことを言いにここに来たのだと大して気にしていない様子だった。
「あのね…」
嬉しかった。仲がいいよと言ってくれて、嬉しかった。
みんなは、私と仲良くなることを避けるのに彼は違う。たったそれだけの事実が胸をずっと熱くする。
私は視線を彼に移して、言った。
「あのね、今朝机の中に手を入れたら赤い絵の具?みたいなものが入っていて…それが手についてびっくりしたの」
「絵具?」
波多野君が手を止め、それで?と注意深く聞いてくれる。私はゆっくりと話した。
絵具のようなものが机の中に入っていて、それが手についた、ただそれだけの話だ。
だけど、誰がそれをやったのかわからない中、教室へ戻りたくない気持ち、洗っても洗っても赤い液体が取れないような感覚、全て話した。
誰がやったのか、犯人はわからないだろう。まりちゃんではないか…という疑念はあるものの確証がない中でそれを口走るのは違う。
波多野君は、わかった、そう言って残りのお弁当を一気に食べると、お茶の入っているペットボトルのふたを開けて口へ流し込む。
「犯人は多分、わからないだろうね」
ふぅ、と息を吐いてそう言った。私もそうだよねと返す。
「わからないだろうっていうのはわざわざやった張本人が名乗り出るなんてことはないってことね。でも、それだとまた同じことをされるかもしれない」
波多野君は、いつもなら大きい双眸を細めて、冷たい声で言った。
「でも、目星はついてるんでしょ」
「っ」
何故だろう、やっぱり何かを見透かされているようで怖かった。私の心を読まれているようで、そんなわけないのにそう思ってしまうほどに彼の発言は私の人生の選択を変えてしまう。
―人生は、選択の連続だ
先ほどのセリフを思い出す。
「…ついてるというか…うん」
「じゃあ、そいつに舐められないようになんかやってやろう」
なんかって?と聞くと、いつものように無邪気な笑顔を見せてそれはまだ考えていないと言った。
思わず、ふふっと笑ってしまった。
すると、波多野君は一度驚いたように目を丸くさせた後、口角を上げてでもどこか寂し気に「やっぱり笑っていた方がいいよ」そういった。
保健室は私にとって一つの逃げ場所だった。
トイレに駆け込むこともあったけれど、そうすると個室から出た後にいじめっ子たちに囲まれたり待ち伏せされるから逃げ込めなくなった。
それに長く籠っているとわざと大きな声で『トイレばっか行って何してるんだろうねぇ~きったなーい』と、まりちゃんに言われたことがあってそれ以降、用を足すだけでも何かに急かされるように早く済ませなくてはいけなくなった。
だから、保健室は私にとって一つの居場所だった。
浜野先生は、その事情を詳しくは聞いてこないけどわかっているようでいつ行っても何も言わなかった。
担任の先生には伝えておくね、と直接的ではないにしろいじめがあるのでは…と言ってくれたことがあったようだ。何故それを知っているのかというと、去年担任の先生に呼び出されたのだ。
その際に『浜野先生がいじめがあるんじゃないかってうるさいんだ。ないよな?うちのクラスはみんないい子で、みんな協調性のある子ばかりなんだから。な?』とあるなんて言うなよ、という瞳を向けられて私は頷くしかなかった。
それでも、保健室という逃げ場は私にとって学校という広い空間で唯一全身の鎧を下ろせる場所だった。
それなのに…―。
私が保健室に来ていることを耳にして彼女たちが保健室によく来るようになったのだ。
それも、私が逃げ込んだ時に。
『先生!熱を計ってもいいですか』
『遊びに来ました』
などと適当な理由をつけて頻繁に来る。そしてパーテーション越しの私に聞こえるように『さっきの面白かったよね~あの焦った顔』『なんかさぁ、松田君に色目使ってるらしいよ。馬鹿だよね、可愛くもないのに。自信過剰』
私の名前は出さずに、そうやって私のことを話す。でも、彼女たちは言うのだ。天野さんのことではありませんって。姑息で狡猾で…―最低な彼女たちは、私の唯一の居場所も奪っていく。
だから今日、保健室へ来たのは久しぶりなのだ。
昼食を終えると、昼休みの時間が終了まで15分ほどあった。
「帰る?それとも、教室いく?」
行く、そう小さく呟いた。私は選択をする、教室へ行くという選択を…する。
それは普通の子からみると“普通”のことなのかもしれない。けれど、私は違う。いつも学校が視界に入るたびに、呼吸がしにくい、息が吸えなくなる。昇降口に入るだけで、心臓が痛い。
クラスの廊下を歩くだけで、胃の奥がどんどん重くなって、同時に体も鉛が引っ付いているのかと思うほどに重い。
だけど、今日は波多野君がの隣にいる。それだけなのに、ほんの少し、私の体は軽くなる。
教室のドアを開けて中へ進む波多野君に続いて俯きながら足を踏み入れる。
楽しそうな声が聞こえてきて、私は更に目線を落とした。
煩い心臓を抑えるように必死に酸素を吸おうとするけど、どうしても呼吸が浅くなる。
常に俯いているから私の視野は狭い。椅子を引いて座る。
体を丸めるようにして机の中を覗いた。すると、中にはもう乾いているようだけど赤い何かが広範囲に塗られている。
波多野君が「赤い絵の具?まだある?」と訊く。私は頷いた。
とりあえず拭くとかしないと教科書類は入れられないし、いつまでもこの状態でいいなんて思っていない。
波多野君は自分の席には座らずに私の机の横に立ち、心配そうな目で私を見ている。
「手伝う。雑巾とか…」
そう言って私のすぐ後ろにある掃除道具が入っている棚のドアを開けた。
すると、クスクス周りで笑い声が聞こえてそっと顔を上げる。
視線を1メートルほど先に向けるとそこにはまりちゃんたちがこちらを見ながら笑っていた。
その隣にはクラス替え初日に隣の席だった加藤さんもいる。
その他に同じ部活の美里ちゃんや、茜ちゃんもこちらを見ている。
体が震えていることに気づいた。
「すぐ保健室へ逃げ込んでダサ…」
奥歯をぐっと食いしばり、悔しさとムカつきでどうにかなりそうだった。
それでも文句の一つ言えない、現状を変えようとしない、できない自分に一番腹がたつ。
波多野君が雑巾をもって私の隣に来ると、私も立ち上がった。
「ごめんね、手伝ってもらって…」
波多野君から雑巾を貰って私は机の中を拭いた。結構広範囲が赤い絵の具が塗られている。
すると、波多野君の背後にまりちゃんが近づいてきて言った。
気持ち釣り目に見える彼女の目は私を見ていた。腰に手を当て、まるでここのクラスのリーダーのように、いや、女王様のように、立っている。
「何かあったの?」
「絵具?みたいなものが入ってたんだって。誰がやったか知らない?」
波多野君がそう訊くと、まりちゃんがふん、と鼻を鳴らして「そんな人このクラスにいるわけない」といった。
まるで以前の担任の先生のようなことを言う。
私は聞こえるのに、聞こえなければおかしいのに、必死に机の中に手を突っ込んで聞こえないふりをして拭いた。
ガシガシと強く、拭いた。
「でも、実際にあった出来事だろ。ほかのクラスっていうのも考えにくいし」
「自作自演じゃないの」
ひんやり、冷たい何かが全身を覆った。
彼女の言葉に全員が疑いの目を私に向けているような気がして怖くて顔を上げられない。
それなのに、私は机の中を拭く手を止めてしまう。
違う、自作自演なんかじゃない。そんなわけない。
波多野君はどう思ったのだろう。自作自演だと思っただろうか。そんなことない、そう言っても彼は信じるだろうか。信じてくれるのだろうか。
「自作自演、か」
独り言のように呟く波多野君に、まりちゃんは畳みかけるように言った。
「そうだよ。だって天野さん、中学のころも同じように変なこと言って気を引こうとしてた。よく考えたら、ほら…松田君だっけ?気を引こうとしてたんじゃないの?」
違う、違う。全部違う。
それはあなたがそうしたいだけだ。いじめる理由なんかどうだってよくて、勝手に都合よく解釈してそれを周りに浸透させて孤立させる。
心の中にはたくさんの暴言が出るのに、あふれるのに、それらは一切口にはできない。
もやもやと黒いもので心だけじゃなくて私の全身を包んでいく。
きっと、このまま私は真っ黒になるのだと思う。
突然、波多野君が大きな声を出した。
「みずき、それでいいの?本当に自作自演なの?違うなら違うって、教えてよ」
「は、たのくん…」
弾かれたように顔を上げて波多野君を見た。波多野君は私をちゃんと見ていた。
“教えて”
言えよ、でもない。頑張れでもない。
―教えて
私の下瞼が支えきれなくなってぽろっと数滴の涙がこぼれた。
悔しさじゃない、怒りでもない、違う感情で涙が零れた。
「波多野君、どうしたの?変じゃない?だってその子…」
そう言ったまりちゃんの声を遮った。
私は声を張り上げて言った。
「自作自演なんかじゃない!そんなわけない!それは…あなたたちがよく知ってるはず!」
教室が静まり返って、まりちゃんの顔がみるみるうちに真っ赤になって耳までゆでだこのように赤い。
そして、あわあわと口を動かして私を睨みつける。
「はぁ?証拠もないのにそんなこと言わないでしょ。いじめられっ子のくせにっ…」
「うるさい!私は…あなたが嫌い、大っ嫌い!いつもいじめのターゲットを決めていじめて…みんなも自分がいじめられるのが怖いからまりちゃんたちの顔色窺って…それにっ…何も言えない自分が一番嫌いっ…」
最後は声が震えていた。
そして、瞼を抑えた。両手で抑える。なのに涙は止まってくれない。
心の防波堤があっけなく壊されて涙が止まらない。
まりちゃんたちから反撃の言葉はない。私の嗚咽だけが響く教室は異様だった。
と、急に他のクラスメイトがざわついている声が耳に届き、私はゆっくり手を退かして、歪む視界で教室内を恐る恐る見る。
すると、波多野君がスタスタと歩いて、少し離れたまりちゃんの席に近づくと、机に両手をかけて一気にそれを倒した。
その瞬間、辺りがざわついて皆が目を白黒させていた。私の今さっきまで出ていた涙が目の前で起きていることへの理解が追い付かないせいで急に引っ込んでしまった。
「な!何してんの!」
それはそうだ。いったい彼は何をしているのだろう。先ほどまでクラスの視線は私に向いていたはずなのに、今は波多野君だった。
「あ、ごめん。ぶつかっちゃって」
「…はぁ?」
そんなわかりきった嘘を吐いて、波多野君は笑いながら倒したと同時に床に散らばる彼女の教科書類を拾う。まわりの人は、あんぐりと口を開けて固まっている。
自分で倒しておいて、自分で片づける彼の行動が意味不明なのは私だけじゃない。まりちゃんも目を丸くして固まっている。
と、急に何かを思い出したように「触らないで!」と金切声を上げる。
波多野君はそれが聞こえないわけではないだろうに、手を止めない。そして…―。
「これは?何?」
そう言って手にしたのは、ほぼ中身のない赤い絵の具だった。
彼女の目がガラスが割れるようにぱりんと割れたように見えた。
「違う…それは、違う…」
震える唇で、そう言った。そして、波多野君に近づくとすぐにそれを手に取って自分の鞄へしまった。
そのまままりちゃんは教室を出ていってしまう。
その瞬間、合図のように午後の授業を知らせるチャイムが鳴った。
私は倒れこむように椅子に座った。
波多野君は、というと…まりちゃんの机をもとの位置へ戻して何事もなかったかのように私の隣の席の椅子を引いて座った。
唖然とする私に顔を向けると親指を立てて、笑った。
“やるじゃん”
この時の私は、多分すごくブサイクな顔をしていたと思う。ぐちゃぐちゃに泣き腫らした顔で同じように親指を立てて笑った。
―人生は、選択肢の連続だ
私は、勇気を出して教室へ来た。勇気を出して口に出した。
その選択をしたら―…。
どうしようもないほどに、幸せな気持ちに、温かい気持ちになった。そして、波多野君に感謝した。
私の選択は、間違ってはいなかった。
いや、間違っていないと思えるように行動した、のほうが正しいのかもしれない。それはもちろん、彼のお陰だ。
彼なしではできなかったことだ。
♢♢♢
その後、まりちゃんは早退してしまった。
まりちゃんがいなくなると同時に仲良くしていたであろう加藤さんや、美里ちゃん、茜ちゃんを中心に彼女の悪口を言っていた。
いじめていた主犯格の子がそんなふうに言われても同情はしなかった。
でも、気分のいいものでもない。先ほどまで仲良くしていたのに、簡単に悪口を言える関係なのだと思った。
それは、本当の友人なのだろうか。
波多野君はあの件があっても普通で、他の男の子も彼に何事もなかったように話しかける。
放課後になった。
私はいつもよりも足取りが軽くて、心も軽くて、体に張り付いていた鉛が一つ一つ剝がれ落ちていくのを感じながら長い廊下を歩いていた。
「一緒に帰ろう」
背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえて私は足を止めた。
走ってきたのか、息が切れている。胸を上下に揺らしている彼を見て意外に体力がないのかなと思った。
普通は男女が一緒に登下校をしていたら“付き合っている”とかそういう噂が出てくるから本当にそういう関係じゃない限り、しないとは思う。
でも、彼は“社交的”だからそういう感じなのかもしれない。
昇降口を抜け、二人で肩を並べて歩く。心なし、波多野君の歩くスピードが遅い。
「今日は…ありがとう」
「何が?言いたいこと言ったのはみずきじゃん。俺は何もしてない」
そんなことはない。私に話す“きっかけ”を作ってくれた。
彼がいなかったら一生教室へ行けないような気がした。
「どうしてまりちゃんの机を倒したの?」
風が強くて結んでいない髪が四方八方に揺れる。プリーツスカートも同様にして舞い上がるから手で押さえた。
波多野君は、それに目線がいかないように遠くを見つめたまま、言った。
「なんとなく、ありそうな気がしたんだ。もし絵具がなくても謝ればなんとかなるかなって」
「そうなんだ…ありがとう。私、保健室へ逃げ込んだ後、教室へ戻る選択をしてよかったって思った。波多野君の言う通りだね。後悔しない選択をしたい」
彼の方へ顔を向けると、波多野君は太陽のように明るくて、優しくて、温かい顔をしていた。
それはよかった、そう言った。
「あー、そうだ。俺だけ名前で呼ぶの変じゃない?みずきも朝陽って呼んでよ」
「…あ、うん…でも、恥ずかしいなぁ。距離が近い感じがしない?私だけかな」
恥ずかしくなって伏し目がちにそう言った。
波多野君は顔色一つ変えずに私のことを名前で呼ぶ。それが慣れない。妙にくすぐったい。
「距離が近い感じか。いいね、それ。ほら、もう俺たち友達じゃん。だから距離は近い方だと思うけどな」
まだ慣れないけれど、そう呼べるようにしようと思った。
「駅に行く前に、ちょっと寄っていかない?」
どこへ?と訊くと、学校の近くに美味しいソフトクリームがあるらしい。友達のいない私は知らなかったけど、近隣の学生の間では人気だとか。
「そうなんだ!知らなかったよ。たべてから帰ろう。すごいね。転校してきたばかりなのに、情報通だ」
「SNSとかでね、知った」
帰る前に、人気のソフトクリーム屋に行ってそれを食べながら帰った。
私はチョコとバニラのミックスで、波多野君は抹茶味を選んだ。
とても美味しくて、あとトッピングも追加料金で増やせるからSNSなどで流行るのも分かる気がする。
見た目も可愛いし、美味しい。
波多野君と出会って私の人生が変わったような気がする。私自身も少しずつ変われるような気がする。
だけど…―。
私は彼に何をしてあげられるのだろう。これだけのことをしてもらって、私は何一つ返せていない。
そして、もう一つ。
「波多野君…あ、じゃなくて、朝陽君」
「どうしたの?」
「…体調は、大丈夫?」
どうして?と言って笑う彼に私も作り笑いを浮かべた。
この時ほど、自分の能力が嘘だったらいいのにと思ったことはない。
波多野君の頭上には“16”と変わらず浮かんでいる。
このままいくと、彼は17歳になる前に死んでしまう。