隆彦がふらっと立ち上がる。ノートに教科書にペンケースを重ねて胸に抱く。紺色のペンケースはすっかり角がはげてしまっていて、白い地が見えていた。
 席が近いクラスメイトが一人二人声をかけるが、彼は応えず教室を出て行く。何かあったら助けになろうと、汐白は彼の後ろについた。
 リノリウムの床にぱさっと何か落ちた。それはプリントだった。ちらと読み取れる記号から化学の授業のものだと分かる。貼り付けずにノートに挟んだままにしていたものが、滑り落ちたのだ。
 汐白はプリントを拾い上げた。隆彦は気がついていない。ふわっと髪が揺れて、五弦がこちらを振り返った。

 鷲尾、と呼ぶはずだった。
 彼のものなのだから、彼に用事があった。
 声には出していなかったが、その背にそう呼びかけるのが習慣づいていたせいか。それとも、まあるい目と目が合ったせいか。
 飛び出したのは違う名前だった。

綾織(あやおり)。」

 隆彦が勢いよくこちらを振り返った。
 五弦が隆彦を呼んだ時ですら、ここまで素早く応えたことはないのではないか。今まで誰が呼んでも、良くて視線を寄越すくらいだったのに。
 青白い顔の中から、暗い瞳がこちらをにらんでくる。

「今、何て言ったの?」

 声は、その瞳の闇からはい出てくるような重さを持っていた。

「いや、あの、」
「今、誰を呼んだの?」

 最近の容態を感じさせず、隆彦の背筋はしゃんと伸びていた。スタスタと距離を詰めてくる。右腕に抱えていたものをバサッと放り出した。その手が勢いのまま汐白の胸ぐらをつかんだ。

「イツルは……っ、」
『たー君! ダメだよ!』

 五弦が隆彦に飛びついた。肩にすがりつく。
 途端に、彼の指先から力が抜けた。右手が、汐白のシャツを滑り落ちる。ふっと目蓋が落ちる。体が横に傾いで、ばたんっと廊下に倒れた。

『たー君!? たー君っ!!』

 悲鳴のような声が響く。汐白は慄いているクラスメイトへ向けて、先生を呼ぶよう叫んだ。しゃがんで青白い顔をのぞき込む。
 もう、だめだと思った。これは決定的だ。
 汐白はぎゅっと目をつぶった。

 ***

 ホームルームが終わると、汐白は真っ直ぐ保健室に向かった。隆彦が教室に戻って来なかったので、もう帰ったのかと危惧していたが、彼はまだ眠っていた。
 白いベッドに横たわっている、その顔色は作り物めいて青白く、生きているのが不思議なほどだった。目の下のくまが彼を亡霊のように見せる。
 五弦は、その隣で彼の左手を握っていた。実体を持たない彼女の手は、それを持ち上げることが出来ないから、シーツの上に投げ出された手に、両手を重ねていると言った方が正しい。
 突然開いたカーテンに驚いた様子だったが、汐白の姿を認めて、大きな目が涙を零した。

『渡里くん……っ。たー君が、たー君が……っ。』

 汐白はぐっと唇をかみ締めた。
 どうして、このままでいられないのだろう。
 どうして、こんなことになったのだろう。
 ぬれた瞳と視線を合わせる。意を決して、汐白は口を開いた。

「綾織。君は、鷲尾から離れないといけません。」
『え?』

 不安そうに眉を寄せたまま、五弦は聞き返した。困惑を深めて、瞳が揺れる。

『どうして?』
「分かっていますよね。貴方はもう、僕達とは、鷲尾とは違うんです。」

 見えないこと、話せないこと、彼女はそれらをもう受け入れている。自分の現状も、ある程度理解しているはずだ。でなければ、もっとパニックを起こしているだろう。

「死者と生者は、一緒にいられない。」

 汐白は幽霊が見えるが、取り憑かれたことはないし、取り憑かれた人を見たことも今までなかった。死者と生者がずっと一緒にいてどんな影響が出るか、明確なことは分からない。
 しかし、汐白は幽霊に触れられると寒気がする。頭がグルグルして気持ち悪くなる。隆彦も、五弦が触れた途端に気を失ったのだ。偶然だとは思えない。

「今すぐはきっと離れられないでしょう。せめて、鷲尾に触れてはいけません。」

 五弦の目が揺れる。グラスに水を注ぐみたいに、涙で満ちていく。五弦はきゅうっと胸元へ自身の手を引き寄せた。

『私の、せいなの? 私のせいで、たー君、苦しいの? どうしたらいいの?』

 汐白はしゃがんで五弦の顔をのぞき込んだ。

「ねえ、綾織。貴方は何か未練があるんじゃないんですか?」

 今まで見た透明な人は、よく負の感情をまとわせていた。帰りたいと泣いていた。なくしたものを探していた。恨み言をこぼしていた。
 不思議そうに辺りを見ていたり、ぼんやりと立っていたりする者は、自分がどうなったのか理解していない迷子だ。
 意識のある者はみんな、嘆きを重ねていた。留まっているというのは、それだけの未練があるということなのだろう。
 五弦の姿は生前と変わらない。教室で沙夜と話していた時の彼女のままだ。それでも、ここにいるからには、彼女を縫い止める何かが現世にあるはずだ。
 それさえ、なくなれば。

「したいことがあるなら、俺も手伝います。だから、教えて下さい。」
『……そんなの、分からないよ。気がついたら、たー君と一緒にいたんだもん。』

 五弦は隆彦を振り返った。眠っている顔に視線を落とす。

『こうやって、傍にいるってことは、たー君が心配なのかな。うん、きっと、たー君が元気になったら、私は安心出来るんだと思う。』

 涙が、白いほほを伝って零れていく。

『でも、私のせいなんだよね……?』

 それらは、床へは落ちず、きらきら光って空中で霧散する。後から後から、きらきらと。

『私、なんでここにいるの? なんで、そのまま、消えちゃわなかったの? わたし……どうしたらいいの?』

 汐白はこたえられない。
 彼女を救う答えも、かけてあげられる言葉も、何も持っていなかった。

 ***