五月の最後の週に、隆彦が登校してきた。
退院したことはもっと前から知らされていたし、学校復帰も前日のホームルームで聞かされていた。それにも関わらず、彼が姿を見せた時、汐白は驚いて席から立ち上がってしまった。
一見して、隆彦は事故の前と変わったように見えない。その青白い顔には傷一つない。しかし、瞳は暗く沈み、表情のない顔は以前よりも外界をはね除けている。席順は聞いているのだろう、窓際の空席をにらみつけて、真っ直ぐに教室を横切って来た。
彼の後ろに、少女が一人ついていた。白い両手を胸の前で組み、所在なさそうにきょろきょろと辺りを見ている。
彼女の姿は異質だ。衣替えが始まり、ブレザーを着ている者と脱いでいる者が混在しているとはいえ、皆一様に制服に身を包んでいる中、彼女だけは白いワンピースに黄色のカーディガンを羽織っている。そして何より、向こう側、教室と廊下を隔てる窓や、並んだ机に椅子、雑談を続ける少女達の様子が、彼女の体に遮られることなく透けて見えている。輪郭もおぼろげで、時折風に吹かれるように揺れる。
隆彦がガタンッと乱暴に音を立てて座った。その左側に少女が立ち、眉を八の字にして心配そうに彼の顔をうかがっている。ふわふわとした長い髪が、窓からの陽光に透き通ってきらきらしている。
五弦だ。
死んだはずの綾織五弦が、今も幼なじみについて歩いている。
汐白は素早く教室を見渡した。ちらちらとこちらに視線をやる者がいる。彼らが気にしているのは、二ヶ月近く不在だったクラスメイトだけだ。汐白のように驚いている様子はない。彼らに五弦の姿は見えていない。
五弦はあの透明な人、幽霊になってしまったのだ。
今の状況に、五弦自身も戸惑っているようだった。
彼女は困り顔で辺りを眺め、丁度やって来た女子へふりふりと手を振った。去年、汐白や五弦と同じクラスだったその女子はもちろん気がつかず、五弦に背を向けてすとんっと席に着いた。五弦は肩を落としてしょんぼりした。うろうろと隆彦の周り、汐白の前を行ったり来たり歩き回る。
チャイムが鳴り、教室中に散っていた生徒が席に着く。廊下から飛び込んできた者も慌てて座る。五弦は飛び上がって驚くと、またおろおろと視線をさまよわせた。彼女に座れる席はない。
『たぁくーんっ。』
姿を見せて初めて口を開く。ぎゅぎゅっと眉を寄せて放たれた涙混じりの声は、悲しいかな彼には届かない。
結局、彼女は机の横に立ったまま、日直の号令に合わせてお辞儀だけした。
***
見ていて分かったが、五弦は隆彦から離れられないようだった。いつも傍をうろうろしていて、彼が急に動くとぐいっと引っ張られるのだ。
一度、廊下で隆彦と沙夜がすれ違った。沙夜は心配そうに隆彦を見たが、彼の方は前を向いたままちらとも視線をやらなかった。その後ろで五弦がぱっと顔を輝かせた。足を止める。
『さっちゃんっ。』
にこにこした笑みは、返事をもらえなくとも陰らなかった。歩き去る沙夜を追いかけようと、隆彦に背を向ける。
一歩も踏み出せずに、彼女の体はぐいと後ろに引かれた。ずるずると隆彦の背に引きずられる。五弦はぽかんと不思議そうな顔をしていた。
この一件でようやく自覚出来たらしく、隆彦の傍を離れようとしなくなった。
隆彦が席に着いている間は、日によって座ったり立ったりしながら、五弦はじっと彼の左側にいる。大抵は黒板につづられる白い文字をじっと見ている。
教師の話にふむふむとうなずき、生徒の答えにパチパチと拍手を送る。彼女が席に着いていたなら、その手元にノートとペンがあったなら、真面目に授業を受ける模範生のようだ。
時々彼女は視線を落とす。机の上に投げ出された隆彦の左手へ。固く握られているのを見て、悲しそうにため息をこぼす。
隆彦の左手は、開かないらしい。困っていれば手伝ってあげて欲しいと、あの前日のホームルームに聞かされていた。
入院してからしばらくして、意識のない内に握りしめられていて、以来少しも緩まないのだそうだ。検査を重ねても、骨も筋肉も神経にも異常は認められず、原因を探して医者は困り果てている。
隆彦自身は気にしている様子が見られない。左手が不自由であることで、誰かに助けを求めることもない。ただ、感情を宿さない瞳でぼうっと前方を見ている。
元々、彼と接点の少なかった汐白には、それが正常なのか異常なのかも分からない。
『たー君、大丈夫?』
相手には聞こえないのだと、もう彼女だって分かっているのに。それでも声をかけるのをやめないのだから、やはり今の彼は変なのだろう。
***
隆彦はよく体調を崩す。授業中に机にうずくまっていたり、廊下で壁に寄りかかっていたりする。
周りは事故の後遺症だと見ていた。
教師やクラスメイトが心配して近づくと、彼は鬱陶しそうに追い払う。
「平気。」
「何でもない。」
血の気の引いた青白い顔で、苦しげに眉根を寄せて、そう言われて誰が信じるだろう。生徒はどうすることも出来ずおろおろする。教師がそれでも食い下がると、「ほっといて。」と彼は怒った。
その度に、今にも泣き出しそうな情けない声が上がる。
『たー君、ムリしちゃダメだよっ。』
その声は誰にも届かない。汐白以外には。
***
休み時間は本を読むふりをして、廊下では教室移動するクラスメイトに紛れて、彼ら二人を観察していたのが、いけなかったのだろう。
その朝も、隆彦が席に着いたのを認めて、そろりと文庫から視線を上げた。隆彦の背中に届く前に、大きな目と目が合った。五弦が体を傾げるようにして、横からこちらをのぞき込んでいたのだ。
まあるい目は、親の手元をのぞき込む幼子のように、期待で澄んでいる。汐白がぎくりと肩を強張らせたことで、コンタクトがとれたと分かったのだろう、五弦の目がぱっと輝く。白いほほを上気させてほほ笑んだ。
『おはようっ渡里くんっ!』
「……おはようございます、」
綾織、と口の中で続ける。
あいさつの言葉は他のクラスメイトにも聞こえただろうが、彼らから見れば、視線の先には隆彦しかいない。後ろのやつが前のやつにあいさつを試みて、失敗した図にしか見えないはずだ。
五弦は上体を起こすと、えへへっと満足そうに笑みを深くした。
それは、いつも沙夜や隆彦に向けられていたもの。もう、自分しか見ることは出来ない。
汐白が隆彦に呼びかけては無視される光景が、このクラスの日常と化していった。
* *** *