綾織五弦は、容姿も言動も特に目立つ生徒ではない。
ワイシャツは第二ボタンまでとめて、グレーのスカートは膝上、指定された緑のネクタイを締め、上にクリーム色のベストを、と制服の着こなしも同級生に埋没している。
昼食は友人である竹原沙夜の席で一緒にとり、休み時間も教室移動中も沙夜とにこにこ話している。彼女の普段の様子を聞かれて、即答出来る者は、その沙夜くらいだろう。
そんな彼女であるが、名前については早くからクラスメイトに周知されていた。というのも、入学からほぼ毎日、放課後になると廊下からその名が呼ばれるからだ。
「イツル。」
ホームルームが終わってしばらく、五弦は自身の席に座って、隣に座った沙夜と話し込んでいた。柔和な顔ににこにこと笑みを浮かべていた彼女は、低く平たんな声で紡がれた自分の名にはっと顔を上げた。
戸口を塞ぐように、少年が一人立っていた。隣のクラスの鷲尾隆彦だ。
「たー君。」
冷めた目で五弦を見つめていた隆彦は、彼女が一声応えるとふいっときびすを返した。スタスタと教室の前を去る。
「さっちゃん、またね。」
五弦は立ち上がると、カバンを肩に掛けた。友人に手を振りながら慌てて教室を出て行く。ふわふわ揺れる髪を見送って、残された沙夜はため息をついた。
五弦と隆彦は、毎日登下校を共にしている。
教室の前で無言で別れる朝よりも、こうして隆彦が迎えに来る放課後の方が人目を引いた。汐白のクラスでは「鷲尾」だけでは誰だか分からなくても、「たー君」と言われたら、ああとうなずく者も多い。
ちなみに、鷲尾のクラスメイトがふざけて「たー君」と呼んだら、無言で拳が繰り出されたらしい。第一号はみぞおちにヒットしてもん絶する羽目になった。しばらくの間、彼に呼びかけてさっと逃げる遊びが流行ったが、そのせいか、今はどんなに呼びかけても反応しないらしい。
毎日目につくからだろう、ふと話が途切れた時、特に目新しい話題がない時、二人はよく中身のないおしゃべりの標的にされた。寄り添い、特別な呼び方を許す間柄として、恋人同士だと目されていた。
五弦は自分に従って当然だとばかりに、振り返りもせず言葉少なに引き連れる隆彦の様子を見て、女子はこそこそとささやき合う。やれ、俺様だ、亭主関白だ、デートDVだ、と本気ではないだろうが、セーフティー教室で習いたての言葉まで飛び出す。友人である沙夜がいてもお構いなしだ。
むしろ、沙夜に疑問を振ることすらあった。大概の場合、沙夜は隆彦に厳しかった。
「ガキなのよ、あいつ。言わなくても分かって当然って思ってるんだから。甘やかす五弦も悪いんだけどさっ。」
ある日、隆彦の真意を聞かれた沙夜は、そう言ってプリプリ怒っていた。
***
汐白は人付き合いが得意ではない。
小学生の頃、幽霊の話をすれば「うそつき」と呼ばれた。遊んでくれる子がいても、突如体調を崩すせいで徐々に距離が開いた。それを繰り返す内に、すっかり消極的になった。
そのため、雑談をする相手など、春に同じ班だった気さくな男子くらいしかいない。休み時間は専ら本を読んで過ごしている。
ページの半ばでふと集中力が切れて、汐白は顔を上げた。今の席は廊下側の後方だ。首を少し左に向けるだけで教室全体がよく見える。
前方の入り口から、五弦がとことこと教室に入ってきた。細い背中を覆うふわふわの髪が風を含んで揺れている。後方にある自分の席に向かっていた彼女は、沙夜に呼ばれて立ち止まった。座ったままの沙夜へ少しだけ屈む。何を言われたのか、一瞬目を丸くした後、軽く握った手を口元に当ててクスクスと笑った。
あたたかいな、と思う。柔らかそうな髪だとか、まあるい目だとか、それがそっと細められる瞬間だとか、見ているだけで胸の内が温められる。
あの保健室の一件以降も、汐白と五弦の間に接点はなく、あいさつを交わすことすらまれだった。
***
年明けに席替えがあって、窓際の前から二番目の席になった。右後ろには五弦がいる。同じ班だ。五弦と沙夜は通路を挟んで隣同士になり、にこにことうれしそうに顔を見合わせていた。
汐白達の班が教室掃除になって一日目のこと。掃除も終わって机も元に整えたのに、五弦は窓際に立って外を見ていた。他の班員は帰ってしまい、教室には汐白と、おしゃべりしている女子グループしかいない。
汐白はカバンを手にしながら、側に立つ五弦に声をかけた。
「綾織? 帰らないんですか?」
「うん。たー君まだだから。」
「……いつもならもう来てるのに、彼も掃除ですか?」
「たぶん。」
「たぶん……。」
思わずオウム返しにつぶやくと、五弦は困ったように笑った。
「たー君、クラスの話全然してくれないから。」
果たして、他の話はしてくれるのだろうか。
五弦を先導してむっつり口を閉ざしている姿しか見たことがないので、おしゃべりしている彼の姿が想像出来ない。
「それにしても、帰る約束をしているなら、予定くらい話しておくべきだと思いますけど。」
「……約束?」
今度は五弦が言葉を繰り返した。目をぱちくりと瞬かせている。それから、また苦笑をこぼした。眉尻をしょんと下げる。
「約束、してないや。」
「え? してないんですか?」
一緒に帰るだけならそれは習慣かも知れないが、隆彦は毎日迎えに来ている。
それなのに?
「うん。一緒に帰ろうって言ったこと、そういえばないや。」
「一度もですか? 言われたことも?」
「うん。」
「……じゃあ、どうして待ってるんですか?」
口にしてから、しまったと思った。そんなこと、五弦と隆彦の問題だ。他人が踏み込んで良いことではない。
幸い、五弦は特に気分を害した様子もなく、首を傾げた。
「うーん。だって、たー君来てくれるし。それに、」
外、冬の薄青い空に視線を流した。
「やっぱり、一緒に帰りたいから。」
えへへっと、くすぐったそうに笑う。そのほほが赤く染まっている。ほんのりと。彼女の声にうれしそうな色が溶けていたのと同じ様に。
「イツル。」
聞こえた声に、春の日だまりから、薄氷の下へ突き落とされたような心地がした。
いつもより低い、冷たい声に振り返れば、教室に二歩ほど踏み入って件の隆彦が立っていた。眉間にしわを寄せている。にらむ視線を寄越されて、五弦は困惑に目を瞬かせている。
「たー君? 何かあったの?」
「……別に。」
隆彦はぷいっときびすを返し、どしどしと教室を出て行った。五弦は納得していないようで、頻りに首を傾げているが、素直に後に続いた。
「渡里くん、お疲れ様。また明日。」
「ええ、お疲れ様。」
廊下に面した窓から、彼に小走りで追いつく五弦が見える。にこにこと背中に話しかける様子も、涼しげな横顔もいつも通りの二人だ。汐白はほっとした。
次の日に五弦から声をかけてくれたことで、沙夜も交えた三人で話すことが増えた。
しかし、放課後はちょっとしたあいさつを交わすだけでも、背後が気になる。沙夜はあきれた顔をしていて何か察している様子だったが、五弦には不思議そうにされた。
***