渡里汐白は、時々半透明の人を見る。
小さい頃に、あれは何だろうと母に聞いて気味悪がられた。大きくなるにつれ、テレビや本から知識を得て、あれらは幽霊なのかも知れないと思い至った。あの時の母の顔を思い出すと誰にも相談は出来ず、正体を確かめる術もないので、確証はなかったが。
半透明な人は、汐白が見えていると気がつくと近づいてくる。大半はただ話を聞いて欲しいだけの人だった。けれど、悪意のあるなしに関わらず、彼らに触れられると汐白は体調を崩した。寒気がして、吐き気がして、立っていられなくなる。
その様子を見て、ごめんなさいと謝る者もいた。余裕を持たず、なおすがってくる者もいた。ざまぁない、とニヤニヤ笑う者もいた。
学校でも、どこでも、突如うずくまる汐白は、周囲から病弱な子だと思われた。病院で検査を受けても、どこが悪いのか分からなくて、親を随分悩ませた。
それでも、中学を卒業する頃には彼らを避けるのが上手くなり、被害を受ける頻度は減った。成長して丈夫になったのだと、父も母も喜んでいる。
一年生の秋、ヘマをした。高校生活にも慣れきって、気が緩んでいたのだろう。
その日、四限の体育は体育館でバレーボールだった。同じチームだったバレーボール部の男子に頼まれて、片付けを手伝ったまでは良かった。
ボールで満ちた籠を倉庫の奥にしまう時、跳び箱の影からぬらりと白い手が伸びてきて、汐白の手首をつかんだ。水底からはい出てきたような冷たい手だった。そこから自分の腕が凍りつくと錯覚するほど。
びゃっと飛び上がって大きく腕を振るった汐白を、バレー部員と教師の不思議そうな目が振り返った。
「大きな虫がいたんです……。」
横に目をそらす様子を、虫に驚いたことを恥じていると取ったらしい。教師は気にするな、と笑って汐白の背をたたいた。バレー部員の方は虫が嫌いらしく、早く出ようと青ざめた顔で二人を急かした。
震える体を叱咤して体育館を出る。別のクラスの友人と昼食の約束をしていると、バレー部員は慌てた様子で駆けて行った。汐白もよろよろと更衣室を目指す。
頭がグルグルする。視覚が上手く像を結べなくて、自分がどこにいるのかも曖昧になる。上がらなかった足が、僅かな段差に引っ掛かった。がくんっと前に倒れて、汐白は冷たい床に手をついた。ビリビリと肩までしびれる。
こめかみがズキズキと痛んで、目がチカチカして、そのまま動けなくなる。
「渡里くんっ!」
少女の声に焦りがにじんでいた。たかたかと軽い足音が向こうから駆けてくる。肩に温かいものが触れた。
ゆっくりと視界がクリアになる。まず青いジャージの胸元が見えた。少女が顔をのぞき込んでくる。
大きな丸い目と八の字気味の眉、肩からこぼれる柔らかい髪。見覚えがある。同じクラスの綾織五弦だ。
「渡里くん、だよね? 大丈夫?」
口で応えられず、ただうなずくと、彼女の華奢な手が背に回った。なでつけるようにさすられる。
じんわりと伝わってくる体温が、胸に指先に染みていく。汐白はほっと息をついた。きゅっと引き結ばれていた彼女の唇が、ようやく緩む。
「立てる?」
まだ寒い。まだ痛い。しかし、足の強ばりは解けていた。こくりとうなずく。壁を支えに立ち上がると、五弦が反対の手をすくい取った。後ろを振り返る。
「さっちゃん。私、保健室行ってくるね。」
「ん。アタシも行く。……ねえ、渡里具合悪いんだって。先生に伝えてくれる?」
こちらを見守っていたらしい、後ろにいたもう一人は、さらに通りがかった女子の一団に声をかけた。
一人で行けると断ったが、女子二人、五弦と沙夜は譲らず、汐白はそのまま連行されることになった。
養護教諭は、熱があると言って休むことを勧めた。二人へ目を向け、早くお昼を食べておいで、とほほ笑む。
沙夜が五弦を促して立ち去ろうとした時、バシンッと勢いよくドアがスライドした。一人の少年が駆け込んでくる。
背丈は平均的、体格はどちらかというと細身だが、その他特筆すべき点はない。ただ、カラスのような黒々とした髪と瞳のせいで自然と顔に視線が行く。その髪が乱れていて、切れ長の目は見開かれていた。
五弦がぽかんと口を開く。
「たー君、どうしたの?」
「……保健室、行ったって。」
「? うん。」
ぼそりとつぶやかれた言葉に、五弦は不思議そうにしつつもうなずく。五弦の後ろから、沙夜が眉をひそめてあきれた顔を見せた。
「アタシ達、渡里くんに付き添っただけよ。五弦はなんともない。」
一拍、少年は五弦を見つめていた。硬直が解けるとギッと沙夜をにらみつけ、どしどしと進行してきた。五弦の前に立ち、ふわふわした髪を一房むんずとつかむ。
「え? え? 何? たー君?」
頭皮まで引っ張られないためだろう、髪を片手で押さえて五弦は疑問符を飛ばしている。そんな彼女に構うことなく、少年は相手を引きずるようにして廊下へ向かった。五弦は大人しくされるがままだ。彼は入り口から室内を見渡すと、汐白と沙夜を一回ずつにらんでから去って行った。足音が2つ遠ざかって行く。
「何だったんですか……。」
「心配したなら、心配したって素直に言えばいいのに、鷲尾のやつ。」
汐白が力なくつぶやく横で、沙夜が冷たく切り捨てた。先生は苦笑をこぼしていた。
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