五弦がぱっと顔を上げた。おろおろと隆彦を見やる。隆彦は険しい顔で汐白をにらんでいる。
『あの、渡里くん、たー君が、』
「髪、痛いんですか?」
『ううん。ただ何か引きつる感じがするだけで。渡里くん、何か、』
「さっさと帰れ。」
今度は隆彦が机をたたく。汐白は振り下ろされた右手を見て、それから体横にぶら下がる左手に視線を移した。今も固く握られている。
「聞こえてないの? 君もささっと、」
「鷲尾が、綾織を捕まえているんですか?」
隆彦が目を見開く。ギリリッと奥歯をかみ締める。
「その左手、自分の意思で結んでいるんですね。」
こちらをにらむ目、その色は底が見えぬほど暗い。
「綾織に心当たりがないはずだ。」
「うるさい。」
「綾織が君に取り憑いているんじゃなかった。」
「うるさい。」
「君が、綾織を連れ帰って来たんです。」
「うるさいって言ってるだろ!」
テーブルが大きく揺れる。グラスが倒れて、琥珀色の液体が広がる。
隆彦が汐白につかみかかった。細くなった右手に強い力と憎悪が込められていた。
「縫い付けられたくなきゃ、もうその口は開くな。」
「綾織は、」
「お前があの子の名前を口にするんじゃない!」
ブルブルと腕が震えるのは、込められる思いに反して、それを維持出来る力が彼の体に残っていないからだ。
「何なんだお前は。何が見えてるんだ。何で見えてるんだっ。」
『たー君っ、たー君やめて……っ。』
青ざめた五弦が必死に彼を呼ぶ。彼は応えない。
いることは知っていても、声は聞こえていないからだ。
汐白はぐっと眉間に力を込めた。目の前の闇色に挑む。
「もう放してあげて下さい。分かっているでしょう? 自分の不調の原因も。」
「どうだって良いよ。そんなの。」
「彼女が君を心配しています。」
「させておけば良い。」
「このままじゃ、君は……っ。彼女はひどく苦しむことになるっ。」
隆彦は唇をゆがめた。
「苦しめば良いよ。あんな薄情な子なんて。」
――今までありがとう。
ぱちりと瞬いて、涙の膜がはがれる。
その先に見えたあの子は、今までで一番幸せそうな顔をしていた。
まるで、宝物でも見せてくれるみたいに。
ずっと、自分のものだと思っていた。
その表情で、声で、仕草で、全部明け渡されてきた。
幸せも、喜びも、涙も。
綾織五弦はいつも、隆彦の手の中にあった。
傍にいる理由も、傍に置く理由も、考えなかった。
手を振り払われた時。突き放された、その時。
恋しさが胸を突いた。そこにずっと隠れていた愛しさを粉々に打ち砕いて。
「好きだったって何? 一人だけすっきりした顔しちゃってさ。そんなの、認められる訳ないだろう? どうして、今更この手が放せるのさ? 好きだった? だった?」
ひっと引きつった呼吸音。
「……僕は今でも好きなのに?」
汐白をつかんでいた手が離れる。よろりとふらついて、隆彦はテーブルを支えに座り込んだ。
『たー君。』
その隣に五弦が膝をつく。被さるように、ぎゅっと彼を抱きしめた。汐白は慌てるが引きはがす術はない。
彼女の目からほろほろと涙が零れる。
『ごめん。ごめんね。』
「あの子、バカなんだよ。いつもは後ろにいるくせに、ああいう時だけ前に出て。」
『うん。ごめんね。』
「いつもボンヤリしてるくせに。普段もっとしっかりするべきなのに。」
『うん。いつもありがとう。』
「バカなんだ。跳ねてるだけのカエル何かが怖いくせに。」
『ごめんね。』
零れていく涙は、きらきらと宙に散っていく。
『私、お別れだから、お別れだったから、言わなきゃって、言いたいって、でも、私はおしまいだから、おしまいに、しなきゃいけなかったから、だから、ごめんね……。』
きゅっと腕に力がこもる。五弦はほほを寄せた。つぶった目から、またぽろりと一粒零れる。
『大好きだよ、たー君。」
「……っ。」
涙が零れた。はたはたと、床に落ちる。
体の両側に垂れ下がるだけだった隆彦の両腕が動いた。左に体を捻るようにして、正面から五弦をかき抱いた。
柔らかい髪を巻き込んで、透ける背中をつかむのを、汐白は確かに見た。
五弦も目を丸くしている。
『たー君?』
背をなでようとした手がひどく薄い。すぅーっと指先から空気に溶けるように消えていく。丸くなったままの目でそれを見つめる。ぱちり、ともう一度瞬きすると、緩めた。
五弦がほほ笑む。隆彦の左肩にそっと触れた。
『たー君、ありがとう。』
日だまりのようなその笑顔が、その声が、白く散った。
彼女が零していた涙と同じ様に、綾織五弦は光の粒になって消えた。
***
隆彦はまたしばらく学校を休んだ。高熱が長引いて再び入院していたと聞いた。
夏休みの間にすっかり良くなったらしく、二学期の今は他の生徒と何ら変わらずに登校している。
あの日以来、汐白は一度も隆彦と口を利いていない。彼が汐白を避けているからだ。
休み明けの席替えで席も離れたため、元々親しくなかったことも手伝って、クラスメイトだと思えないほど顔を合わせない。
沙夜とは、廊下ですれ違うとお互い声をかける。
ある日の昼休み、他愛ない話が途切れると、向かい合っていた沙夜が顔をうつむかせた。
「鷲尾、どう? 元気?」
「さあ。調子は悪くなさそうですよ。」
答えてから、汐白は先程見た、彼の机の上の様子を思い出した。ぼうっと頰づえをつく、彼のその肘の側にあった、紺と水色の筒。
「あのペンケース。ちゃんと使ってましたよ。」
沙夜が顔を上げる。
「そう……。」
沙夜はほほ笑んで、それからきゅっと唇を引き結んだ。そそっと汐白の隣に回る。
「ありがとう、渡里。」
小さなささやきに、汐白はきょとんとする。
一体何の礼だろうか。隆彦の近況報告のことではあるまい。
「何のことですか?」
沙夜は難しい顔をして、首を傾けた。
「……笑わない?」
「はい。」
「鷲尾にさ、アレもっかい渡しに行った日さ。夢にね、五弦が出てきたの。」
「はい?」
「ちょっと。」
「笑ってませんよ。」
沙夜はむっと眉をひそめていた。驚いただけで、本当に笑っていないのに。
「私にね、会いに来てくれたの。それで、ぎゅうってして、しばらく話し込んでたんだけど、五弦が悲しそうな顔するのよ。どうしたのって聞いたら、渡里に世話になったのに、お礼言うの忘れて帰っちゃったって。」
沙夜はぐっと背筋を伸ばすと、またほほ笑んだ。
「遅くなっちゃったけど、さっきのは五弦の伝言。」
沙夜はくるりときびすを返した。丁度、教室から顔をのぞかせた女子が沙夜を呼んだ。それに応えて駆けて行く。
汐白は窓に寄りかかるようにして、空を見上げた。
彼女はあの向こうにいるのだろうか。
どんなに目を凝らしても、縁の薄い自分にはもう見えないのだろうか。
「……さようなら、綾織。」
つぶやきを運ぶように、ごうっと風が吹いた。
END