「まあ、沙夜ちゃん、久しぶり。よく来てくれたわね。あら、その子は?」

 出迎えた女性は、やつれた顔に笑みを浮かべた。汐白の方を向いて不思議そうな顔をする。

「えっと、隆彦君と同じのクラスの渡里です。プリントを届けに来ました。」

 カバンから取り出して、クリアファイルごと見せる。

「ありがとう。”わたり”ってことは、あの子と席も近いのかしら。」
「はい。同じ班です。」
「まあ、来てくれてうれしいわ。あの子、おしゃべりがあまり得意じゃないでしょう? 仲良しの子がずっと五弦ちゃんしかいなくって。沙夜ちゃんも来てくれたけど、ねえ、男の子の友達いないのかしらって、ちょっと心配してたの。仲良くしてくれるとうれしいわ。」

 女性は汐白の方を見ていて気がついていないが、沙夜は複雑そうに唇をゆがめていた。あくまで沙夜と隆彦の関係は間に五弦を挟んだものであって、本人的には友人のつもりはないのかも知れない。
 沙夜は表情を整えて、口を開いた。

「鷲尾のおばさん、鷲尾の具合は?」
「今日は調子が良いみたい。上がっていくわよね?」
「はい。鷲尾にもう一つ渡したい物があって、会えるなら会いたいです。」
「良かった。さ、上がって。貴方も。」

 スリッパを二足出し、二人をリビングへ通しながら、女性がはっと何か思い出した。遠慮気味に沙夜に声をかける。

「あの、沙夜ちゃん。」
「はい?」
「熱冷ましをね、切らしちゃってね。今は大丈夫だけど、あった方が安心でしょ? でも、今日、あの人帰ってくるの遅いから、えぇっと……。」

 買いに行きたいけれど、今の状態の我が子を一人にしたくない。しかし、ごく親しい相手とはいえ、客人に留守を任せて良いのか決めかねているらしい。
 沙夜がうなずいた。

「大丈夫です。行って来て下さい。」
「ほんと? 助かるわ。」

 女性はほっと息をついた。テーブルに着いた二人へ、グラスでお茶を供すると「呼んでくるわね。」と廊下へ出て行った。バタバタと遠ざかる足音が、階段を上がるものに変わる。
 お茶を一口飲んでいる間に、隆彦がやって来た。半袖とはいえ、黒いシャツに黒いズボンという姿は暑苦しさを感じる。
 五弦は家の中でも彼の後ろにいた。隆彦が部屋に入って直ぐの席に腰を下ろしたためか、彼女はドアの横に立ったままだ。汐白と目が合って、小さく頭を下げる。その顔はどんよりと曇っていた。
 三人に声をかけて、女性が出掛けて行く。沙夜が口を開いた。

「久しぶりね、鷲尾。」
「何の用?」

 あいさつの言葉が、低い声でバサリと切り捨てられる。沙夜はぐっと眉を寄せた。隆彦はちらりと視線で汐白を示した。

「そいつも、何でここにいるの。」
「おばさんってホントにアンタに甘いわよね。おしゃべりが得意じゃないとか、そういうレベルじゃないわよ。」

ピリッと空気が張り詰める。五弦がおろおろと二人を見比べる。

『たー君。さっちゃん。』

 なだめるような声はもちろん二人に届かない。

「世間話がしたいだけなら、他を当たって。」
「いえいえ、ちゃんと用事があるんですよ。」

 隆彦が立ち上がろうとしたので、汐白は慌てて引き留めた。視線をやると、沙夜はうなずいて、膝に抱えていた手提げを開いた。
 中から細長い包みが出てくる。黒い地に白い星が散った包装紙にくるまれ、水色のリボン飾りがついていた。テーブルに置いて、ずいっと隆彦へ押し出す。

「はいこれ。」
「……何?」
「プレゼント。五弦から。」
『え?』

 五弦が目を瞬かせる。ドアから離れて隆彦の傍らまで来た。そぉっとテーブル上をのぞき込む。
 隆彦は動かず、じっと包みをにらみつけていた。

「ほら、中身も見なさいよ。」

 沙夜がしびれを切らして自ら包みを開けた。紺と水色のペンケースが転がり出るのを見て、五弦が声をあげる。

『あ! さっちゃん、作ってくれたの……?』

 まあるい目を潤ませて、両手をぎゅっと握り込む。
 ペンケースは、色の継ぎ目も、ファスナーの縫い目もガタガタしているのに対し、円柱の両端は奇麗に丸くなっていた。

『ありがとう、さっちゃん。』

 五弦がほほ笑んだ。幽霊がおかしいかも知れないが、ほほの赤みも戻っている。
 汐白はほっとした。ただの思いつきではあったが、最後のプレゼントを渡せなかったことを五弦は気に病んでいたのかも知れない。
 このまま成仏してくれないだろうか。
 汐白が五弦を、沙夜が隆彦を見守る中、二人はペンケースを見つめていた。にこにこと。だんまりと。
 隆彦の眉がぐっと寄った。彼は右手を横に一振りした。ぱすっと軽い音がして、テーブルの上の物が払われた。ぽすんっと床に落ちる。

「今更、要らない。」

 隆彦が席を立つ。ペンケースが乗っていたはずの場所を見下ろして、ぼう然としていた沙夜がはっと我に返った。わなわなと細い肩が震える。
 自分もショックを受けただろうに、五弦が友人を振り返る。

『さっちゃ、』
「いい加減にしてよ!」

 机をたたいて沙夜が立ち上がった。泣き叫ぶような声が鋭く響く。

「自分が一番不幸みたいな顔しやがって! 五弦を失ったのはアンタだけじゃないのよ!」

 ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を拭いもせず、ぬれた瞳で隆彦をにらみつける。それを受ける隆彦の瞳は相変わらず暗い。見つめ返しているはずの沙夜の姿が、映っているかどうかも怪しい。

「……失ってない。」

 ぽつりと声が落とされる。

「僕は、あの子を失ってなんかいない。」
「……何、言ってるの?」

 少しの間、沙夜の顔から色が抜けた。手がブルブルと震え、直ぐにカッと激情が戻る。

「アタシだって五弦を失いたくなんかない! だから前を向かないといけないのに! どうしてアンタが邪魔するのよ! どうして五弦を蔑ろにするのよ!」

 沙夜は転がっていたペンケースを拾った。両手で胸元に抱き込む。

「もう知らないから! これはアンタ何かに渡さないから! 五弦の最後の気持ちを! アンタ何かにはっ!」

 怒りと嘆きを押し固めるように声でたたきつけて、部屋を飛び出して行く。
 汐白も思わず立ち上がった。

『さっちゃん!』

 五弦は追いかけたが、廊下に一歩も出られずに、つんのめるように停止した。どうあっても進めないと分かり、悲しそうに肩を落とす。
 バタンッと玄関扉が閉まる音が虚しく響いた。

『たー君……。』

 その呼びかけに、隆彦は無論応えない。
 五弦は目を伏せて、くいくいと自身の髪を引いた。その仕草に、いつかの保健室で髪を押さえていた姿が思い出される。

「……綾織、髪どうかしたんですか。」