空を覆う灰色の雲に、陽の光が遮られている。それなのに、空気が熱を持ってまとわりつく感覚があるのは、梅雨の湿度のせいだろうか。
 少年、汐白(うしろ)の顔が険しいのは、その煩わしさのためではなかった。ショルダーバッグを肩に掛け、放課後の人気のない廊下を進んできた彼は、ある引き戸の前で足を止めた。
 白い戸には、円を4つに分けた表が貼ってある。”在室中”や”外出中”と書かれている中、”校内在中”の上に大きな赤い磁石がくっついていた。汐白は引き戸を開けた。消毒液の匂いとさらりとした空気が流れ込んできた。

 白っぽい部屋の左手側、奥にあるデスクには誰もいない。表にある通り、養護教諭は出払っているらしい。汐白は右側、並んだベッドの方へ視線を走らせた。
 一番奥のブースがカーテンで囲われている。早足で室内を横切り、シャッとカーテンを開けた。
 中のベッドでは少年が寝ていた。ほほは青白く、つぶった目の下にはくっきりとくまが見える。傍らに、少女が一人立っていた。少年の左手、固く握られたままシーツの上に投げ出されているその手に、そっと両手を重ねている。
 少女は、突然開いたカーテンに驚いて顔を上げた。汐白の姿を認めて、大きな目にたまっていた涙がはらはらと零れる。

渡里(わたり)くん……っ。たー君が、たー君が……っ。』

 汐白はぐっと唇をかみ締めた。
 彼女とまた話せて、彼女の笑顔を見られて、この力も悪くないかも知れないと、そう思い始めていた。
 しかし、何の役にも立たない。涙ひとつ拭ってあげられない。

綾織(あやおり)。君は、鷲尾(わしお)から離れないといけません。」

 不安そうに眉尻を下げる彼女の向こうに、カーテンのひだがうっすらと透けている。彼女の輪郭は時折風に揺れるようにぼやける。淡く透き通っているその姿は、今、汐白にしか見えていない。

 綾織五弦(あやおり いつる)は既に死んでいる。今年の春、二年生になる少し前に。

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