母は小説を開いた。ただ静かに、ピアノの音が流れる。私のとは違う、ピアノの音。この部屋にあるピアノとは違う音。
「四葉ちゃんは、今、どうしてるんだろうね」
あの、才能を持った人は今、どんな日常を過ごしているのだろう。
「どうだろうねえ。ピアノやってるんじゃない?」
母は目線から文庫本を下ろして、穏やかな表情をした。
「後悔してるの?」
「ううん」
そういうわけではない。後悔なんて、恐ろしいくらいしていない。同じように、やはり未練もない。それでも、私は確かに変わってしまった。
「ただ、羨ましいなって」
「羨ましい?」
「好きなことがある人って、やりたいことに突っ走ってる人って、羨ましい」
「千歳はないの?」
「うん」
私はチーズケーキを口に入れる。それを飲み込んで、紅茶を含む。
「そう」と言った母の声は、温かかった。
「それなら、ゆっくり探せばいい。本当に好きなことを、本当にやりたいことを。それが見つかったなら、あとは楽しむだけ」
胸の奥がどうしようもなく痒くなって、唇を噛む。
「……見つからなかったら?」
「そんなことないわよ。きっと見つかる。だって、世の中にどれだけのものが、ことがあると思ってるの? 知らない世界がいっぱいある。そのうちのたった一つよ? 飛び込んでみたい場所くらい、あるはずじゃない」
「……そうかな」
私は、自分がわからないのだ。なにを考えているのか、なにを求めているのか。そんな私に、飛び込んでみたい世界など見つけられるのだろうか。そうは思えない。だって――。
もしも――。
「もしも」と言う母の声が大きく聞こえて、はっとした。
「そんなことはないわよ。入っていく世界を間違えて、自分が壊れるなんて。そんなことはない。それより先に出てくればいいのよ。だって、世界はたっくさんあるんだから。本当に自分に合う世界を見つけるまで、旅をすればいい」
「……切符がなかったら?」
「切符?……そんなもの、誰でも持ってるじゃない。それも、一枚で一駅先から地球の果てまで行ける特別な切符」
「その、降り立った世界に拒絶されたら?」
「それでその人が切符を持っていないことになるなら、人間誰だって、切符なんて御大層なもの持ってないわよ。そこの人にアポも取ってない」
大丈夫、と母は言った。
「切符に行き先が書いてないのは、あなただけじゃない」
みんながそれぞれ一人旅をしているの、だから一人じゃない、と。
「四葉ちゃんは、今、どうしてるんだろうね」
あの、才能を持った人は今、どんな日常を過ごしているのだろう。
「どうだろうねえ。ピアノやってるんじゃない?」
母は目線から文庫本を下ろして、穏やかな表情をした。
「後悔してるの?」
「ううん」
そういうわけではない。後悔なんて、恐ろしいくらいしていない。同じように、やはり未練もない。それでも、私は確かに変わってしまった。
「ただ、羨ましいなって」
「羨ましい?」
「好きなことがある人って、やりたいことに突っ走ってる人って、羨ましい」
「千歳はないの?」
「うん」
私はチーズケーキを口に入れる。それを飲み込んで、紅茶を含む。
「そう」と言った母の声は、温かかった。
「それなら、ゆっくり探せばいい。本当に好きなことを、本当にやりたいことを。それが見つかったなら、あとは楽しむだけ」
胸の奥がどうしようもなく痒くなって、唇を噛む。
「……見つからなかったら?」
「そんなことないわよ。きっと見つかる。だって、世の中にどれだけのものが、ことがあると思ってるの? 知らない世界がいっぱいある。そのうちのたった一つよ? 飛び込んでみたい場所くらい、あるはずじゃない」
「……そうかな」
私は、自分がわからないのだ。なにを考えているのか、なにを求めているのか。そんな私に、飛び込んでみたい世界など見つけられるのだろうか。そうは思えない。だって――。
もしも――。
「もしも」と言う母の声が大きく聞こえて、はっとした。
「そんなことはないわよ。入っていく世界を間違えて、自分が壊れるなんて。そんなことはない。それより先に出てくればいいのよ。だって、世界はたっくさんあるんだから。本当に自分に合う世界を見つけるまで、旅をすればいい」
「……切符がなかったら?」
「切符?……そんなもの、誰でも持ってるじゃない。それも、一枚で一駅先から地球の果てまで行ける特別な切符」
「その、降り立った世界に拒絶されたら?」
「それでその人が切符を持っていないことになるなら、人間誰だって、切符なんて御大層なもの持ってないわよ。そこの人にアポも取ってない」
大丈夫、と母は言った。
「切符に行き先が書いてないのは、あなただけじゃない」
みんながそれぞれ一人旅をしているの、だから一人じゃない、と。