リビングでは、心地いい音量でピアノの音が流れていた。AVデッキの両脇にでんと構えたスピーカーと、壁に掛かったスピーカーから。クロード・ドビュッシーの月の光。ベルガマスク組曲の第三曲。

 こたつから、「おはよう」と迎える母の声。タートルネックの、淡い緑色のニットを着ている。先日完成したと言っていた。

 「とっくに四月に入ったっていうのに、今日も冷えてるねえ。お茶飲む?」

 「うん」

 わかった、と母は立ち上がり、キッチンへ入っていく。静かに歩く足元で、淡いベージュのスカートがひらりひらりと揺れる。

 湯を沸かす音、食器棚の開く音、食器同士が当たる音。どれもがすぐ近くのキッチンから聞こえているのに、どこか遠くから聞こえているように感じる。

 ギャッベ柄の布団を広げたこたつの上に、小説が載っている。母が気に入っているシリーズの一冊。

 私は大窓のそばに置いてあるロッキングチェアに腰掛けた。背もたれに体を預け、ゆらりゆらりと前後に揺られる。雪の降る音でも聞こえてきそうな曇天から、こたつの上の小説から目を逸らすように、上と下の瞼を合わせた。

 あの頃は、嫉妬、羨望、そのどちらも微塵も感じなかったのに、近頃はその両方を、いろんな人に対して、強く感じる。それは実在する人に限らず、物語の中の人にまで、だ。そんな気持ちを掻き立てる物語が、今は怖い。

 ふわりといい香りが流れてくる。きっとすぐ近くのキッチンから、遠く離れたどこかから。