右手に水を張ったバケツ、左手に雑巾とごみ袋を持って、部屋に戻る。
灰色の空箱に籠った絵具のにおい、そこかしこに散らばるガラス片と色水、折れた絵筆、切り裂かれたカンヴァス、床に落ちたナイフ。改めて見回すと酷い有り様だった。窓の外が、妙に美しく見えた。草の柔らかな緑、花の淡い暖色、空の限りない水色。この部屋だけが、この空箱だけが、醜いまま春の芽吹きに置いていかれているかのように感じる。
一歩踏み出すと、カチャ、と音がした。視線を落とせば色水とガラス片が弾けていて、視界に入れた足の裏は、床の寒々しい色とは対照的な色を流していた。床に置いたバケツに雑巾を入れ、傷を床に当てないようにしながら移動する。
窓の向かって右にある、木製の古い机に載った箱からティッシュを数枚引き抜き、それを傷に押し当てる。左手でティッシュ押し当てたまま、右手で机の引き出しを引いて、絆創膏を取り出す。わざわざ伝えた人はいないけれど、この存在を知っているのはきっと、おれだけじゃない。おれは一人ではないのだ。
左手のティッシュをそっと離し、鮮血が滲むのを確認して、また押し当てる。幾度かそれを繰り返して、ティッシュが必要なくなった頃に、傷に絆創膏を貼った。そっと床に足をつけると、違和感はあるものの、問題なく歩けそうだった。この程度の傷には慣れている。
喉をくすぐる咳を、慎重に、極力小さく弱く、吐き出す。ガラス片を踏むのは慣れているけれど、喉の痛みばかりはどうも慣れない。
いつか、どうしようもなく痛むことがあった。その違和感に湧き上がる咳をいなすうちに、鉄の味がした。何事かと思っている間にも咳は湧いてきて、極力弱く吐き出すうちに、手のひらに鮮血が落ちた。唾も水も、飲み込めば経験したことのない痛みが走った。それに再び咳き込んで、手のひらに血を散らす。死さえ覚悟したけれど、直前の出来事を思い出して、体の力が抜けた。もしもこのまま意識を手放しても、それはやがて戻ってくるのだと理解した。
灰色の空箱に籠った絵具のにおい、そこかしこに散らばるガラス片と色水、折れた絵筆、切り裂かれたカンヴァス、床に落ちたナイフ。改めて見回すと酷い有り様だった。窓の外が、妙に美しく見えた。草の柔らかな緑、花の淡い暖色、空の限りない水色。この部屋だけが、この空箱だけが、醜いまま春の芽吹きに置いていかれているかのように感じる。
一歩踏み出すと、カチャ、と音がした。視線を落とせば色水とガラス片が弾けていて、視界に入れた足の裏は、床の寒々しい色とは対照的な色を流していた。床に置いたバケツに雑巾を入れ、傷を床に当てないようにしながら移動する。
窓の向かって右にある、木製の古い机に載った箱からティッシュを数枚引き抜き、それを傷に押し当てる。左手でティッシュ押し当てたまま、右手で机の引き出しを引いて、絆創膏を取り出す。わざわざ伝えた人はいないけれど、この存在を知っているのはきっと、おれだけじゃない。おれは一人ではないのだ。
左手のティッシュをそっと離し、鮮血が滲むのを確認して、また押し当てる。幾度かそれを繰り返して、ティッシュが必要なくなった頃に、傷に絆創膏を貼った。そっと床に足をつけると、違和感はあるものの、問題なく歩けそうだった。この程度の傷には慣れている。
喉をくすぐる咳を、慎重に、極力小さく弱く、吐き出す。ガラス片を踏むのは慣れているけれど、喉の痛みばかりはどうも慣れない。
いつか、どうしようもなく痛むことがあった。その違和感に湧き上がる咳をいなすうちに、鉄の味がした。何事かと思っている間にも咳は湧いてきて、極力弱く吐き出すうちに、手のひらに鮮血が落ちた。唾も水も、飲み込めば経験したことのない痛みが走った。それに再び咳き込んで、手のひらに血を散らす。死さえ覚悟したけれど、直前の出来事を思い出して、体の力が抜けた。もしもこのまま意識を手放しても、それはやがて戻ってくるのだと理解した。