画材を買って戻ると、綸は応募するコンテストを決め、慣れた動作で準備を進めた。おれはただ、そこにいてと言われた場所に座って、その様子を眺めている。買った画材が今回のコンテストには余るようであるところを見ると、今後もぼちぼち描いていくつもりなのかもしれない、なんて温かな想像をしながら。

 瓶の入った袋を手に部屋を出ると、すぐ横の流しの水栓が捻られた。

 綸は流しと部屋を何度か往復して、ようやく窓の横にある、机の前の椅子に着いた。描くものなら決まっている、というような目をしている。

 細い指に挟まれた絵筆は、優しく、どこか力強く、紙に輪郭を描いた。

 少しずつ、窓から見える外の様子が変わっていく。少しずつ、綸の世界が出来上がっていく。終わりに向かう一日の中で、一つの世界が完成に向かっている。時計回りするものと反時計回りするものの二本の針が見えるようで、不思議な高揚感がある。温かな沈黙が、絵筆が紙を擦る音で小さく揺れる。綸は喋らない。おれも喋らない。砂時計の砂が落ちる音を聴くような心地よさ。

 綸がふうと長く息をついた時、窓の外はまだ明るかった。

 「乾けば完成」と彼女は言った。

 「見てもいい?」

 「うん」

 立ち上がって、机に近づく。載っている縦長の紙には、美しい世界が収められていた。まるで写真のように、けれど紛れもなく絵のように。

 綸はこちらに身を寄せた。肩を抱くと、「温かい」と彼女は言った。いつもよりは温かい指先が、おれの手を握った。

 その窓の外は、よく晴れている。けれどその手前、部屋の中は薄暗い。壁も床も灰色一色で、中心より少し左上に描かれたカンヴァスが破れている。その周りで絵筆が折れ、カンヴァスを破いたのであろうナイフが落ちている。散ったガラス片が色水に濡れている。灰色の壁と床は、それに彩られている。窓から射す光に、きらきらと埃が舞っている。窓の外に広がる、草花が風に揺れ、日が昇っては沈む様とは不釣り合いなそれらは、あまりに美しく時を止め、荒廃した世界を創り出していた。そしてそれには、荒れ果てながらも柔らかな温もりがある。胸を締め付けるような、切なさがある。

夜空に散りゆく花よりも、野原に芽生える花よりも、涙と寂寥に潤んだその温もりが、心地いい。こんなに綺麗な世界を持っていながら、どうして他のものを求めたのだろう。

 「クラスの人に知られた時、ああ壊れた、と思った。自分だけのもののはずだった世界に穴が空いて、いろんなものが流れて行っちゃうと思った。もう、自分の中にはなにも残らないと思った」

 「そんなことない。綸の持つ美しさは変わらない。むしろ、見た人をそこに引き込むんだ。おれは、この世界が大好きだよ」

 「……でも、ここにはもう誰もいないんだ。この荒んだ世界には、誰もいない」

 ふと、真ん中のずっと下に、地面を蹴る足があるのに気が付いた。その横には、繋いだ手の影が落ちている。

 「この世界の住人は、一人の少年に手を引かれて、ずっと昔にこの世界を離れた」

 高野山君、と、大切な声が言った。「君は、本当に優しい」と。

 おれは一度、ふんわりした茶色の髪を撫でた。

 もう、なんだってよかった。ただ一つ、この声が優しいと感じてくれるなら、この声が傷つかないのなら。

 おれは、肩を抱く腕に少しだけ、力を込めた。