綸はおれの腕から抜け出して、「片付けないと」と言った。部屋全体を見渡すように、おれに背を向ける。

 「もう、だめだと思ったんだ」と、彼女は言った。低く落ち着いた、どこか少年のような声だった。ああ、これが綸の声なのだと思うと、堪らなく愛おしい。

 「もう、絵は描けないって。いつか中庭で話したように、ずっとここで絵を描いてたんだ。何回も何回もコンテストに出して、でも一つも賞が貰えなかった」

 「うん」

 「それで、気晴らしになるかと思って、ある日、庭で描いた。そしたら、同級生の男の子に見つかった。家が近くなんだろうね。そしたらその人、あたしが絵を描いてること、学校で喋っちゃった」

 「それであの日……」

 「そう」

 綸は静かに項垂れた。

 「それが、すごく怖かった。どうにかして取り消したいくらい怖くて恥ずかしくて……爆発した」

 「そうだったんだ。……なんでそんなに恥ずかしがるの?」

 「だって、売れてないんだよ? 無名どころじゃない。そんなんで絵を描いてるなんて知られたら、笑われるじゃない。それに耐えられる自信がなかった。それを……学校の人に知られてしまったことを思い出して、ああ、終わりにするしかないなと思って……」

 全部、壊したのか。

 「なのに、諦めきれなかった。ふと近くの瓶の破片を握ったらちょっと落ち着いて、それでごまかそうと思った……」

 手の包帯はそのため、と。

 「あたしってさ、普通じゃないんだよ。親戚の人にも苦手に思われてる。怖いんだって、この世のものじゃないみたいな目をしてるみたいで、悍ましいと。……そんな中、明美だけが一緒にいてくれた。明美と一緒にいるうちに、あんな風に愛されたいと思った。そうしたら、明美がいつも笑ってることに気づいて、笑ってみた。そんな頃に、空君に会った。

でも、それとほぼ同時に明美がいなくなった。親戚の中でも、あたしは結局明美にはなれない。それで、ああもういいやって諦めが出てきた。それが独立しちゃったのが、静。それからしばらくして、気晴らしになればって絵を描き始めた。そうしたら思いの外本気になっちゃって、コンテストにまで出すようになった。

でも結局なにも受賞できなくて、それに対してずっとイライラしてた。それが無様に怒鳴り散らすの」綸はふっと笑った。「あの一件は本当に、消したいくらい恥ずかしい」

 「……忘れさせてみる?」

 「本当やめて」と綸は顔を覆う。

 「で、自分でもそんな感情的になりやすいのは嫌だったんだよ。かっこ悪いし。それで、静に憧れた。だからその時の気分を真似して“俺”とか言ってみたけど、結局自分でしかないっていう。なにも諦めてないからね。静にはなれないんだ。……憧れて真似してってやってたら、それが、感情が、まるで一人の人みたいになった。それらには一つ一つ部屋があって、そこに入ってなりきるような感じだった。無意識に逃げ込んでることも多かったけど」

 「……そっか」

 「空君、全然気持ち悪がったりしないよね」と、綸はこちらを向いた。

 「……どうして気持ち悪いの?」

 「一人の人間がころころ言動を変えるんだ。俳優でもあるまいし、気持ち悪いでしょう」

 「……でもおれは、勝手にだけど、みんな綸の一部なんだろうなって思ってたから」

 「本当にすごいよ、空君は」

 最高だ、と綸は笑った。それはどうしようもなく、静の顔だった。落ち着いた低い声も、彼を彷彿とさせた。