向き直れば、押村さんは少し体勢を崩したように、拒絶された左手を地面についていた。綸はその前に立っている。

 「ごめんね」と彼女は言った。「私は綸のことをなにも知らなかった」、「知ろうとしなかった」と。

 「今更それがなんだよ」と綸の怒声が上がる。そこで、理解した。一番ここから逃げ出したかったのは、おれ自身だった。このまま、静が戻ってこないかもしれない。もう二度と、静に会えないかもしれない。そんな、胸を突き刺しては抉るような恐怖から、逃げ出したかったのだ。

 「お前はこれ以上なにがしたい。なぜ俺を憐れむ」

 綸の声に、体が震えた。声は今、俺と言った。静のそれとは少し違うのに、声の主が静なのではないかと想像しては、発狂しそうになる。静が静のまま、消えてしまうような感覚。静が静のまま、姿を変えてしまうような感覚。

 「これ以上俺を侮辱し貶め、なにがしたい」

 「ごめん」と押村さんは弱く応える。

 「押村さん」とおれは彼女の名を叫んだ。ほとんど無意識に、立ち上がってもいた。おれは弱弱しく内に寄った肩に手を載せた。

 「なんで否定しないの。なんで犯してもいない罪に許しを請うの」

 押村さんは薄く涙の滲んだ目でおれを見上げた。決して泣かないという強い意志を感じられる目だった。そしてそれは、綸がそう思ってるならそれは事実なんだよとも言っているようだった。綸がそう感じているのなら、私はその罪を犯したのだと。静もそんなようなことを言っていたなと思い出して、悲しくなる。

彼はこういう時、なんと言うのだろう。例え良かれと思ってやったことでも、相手が傷ついたと感じたならそれは罪なんだよ、とでも言うだろうか。それなら、おれは静だって否定しよう。違うよ。そんなのおかしい。確かに、相手は傷ついたかもしれない。けれど、差し出した人の胸の内にあった、温かく柔らかな思いをも否定するのは、間違っている。相手が負った傷が本物だと言うのなら、差し出した者に宿っていた愛だって本物だろう。