「ふぅ。今日はこのくらいにしておくか」
あの一件から2年が経った。
いよいよ俺の人生のステージは、恐れていた30代へと進んでしまった。
どこぞの少女に『おじちゃん!』と純粋無垢な言葉を浴びせられたとて、もはや何の言い逃れも出来まい。
「近江さん」
思えば俺の人生、ずっとこうだった。
元来小心者ではあるが、それでいて突破口を切り開くために具体的な努力をした覚えがほどんどない。
ただただ将来を悲観するばかりで、人生の節目を知らないうちに通り過ぎている。
いや、実際は取返しのつかない地点に辿り着いてしまうまで、気付かないフリをしていただけだ。
「近江さん!」
だが、そんな俺にも厄介なことに俗に言う常識や倫理観が育ってしまっていた。
深く考えているようでその実、場当たり的に生きてきた俺にとって、ソイツらが人生の足を引っ張るとは夢にも思わなかった。
「近江さんっ!!!」
「っ!? あ、あぁ。すみません、理事長。ちょっと考え事してました」
「……敬語じゃなくてもいいって言ったじゃないですか。今さら近江さんに畏まられても何だかバカにされている気がします」
「ヒデェな……。いや、一応は上司だからな」
「何だかんだ律儀なんですよね、近江さんって」
あの一件の後、久慈方さんは現職に留任。
話によると、新加や陣海さんがかなり根回ししたらしいが、あまりその辺の話を深堀りするのも無粋というものだろう。
また、政府内での立場が危ぶまれていた新加については、その後着々と自身のシンパを増やし、ポストも内閣府の官僚の実質ナンバー2である内閣府審議官にまで出世していた。
その恩恵かは定かではないが、近頃政府の風当たりもマイルドになってきているらしい。
「まだ帰れませんよ。近江さん、書類に不備がありました。今日中に直しておいて下さいね」
理事長室の一角に臨時で備え付けられた俺のデスクに、ドスンと無造作に書類の山が置かれた。
「今日中って……。あと10分じゃねぇかよ。相変わらずドSだな、陣海さんは」
修正を促す陣海さんに対し、俺は恨めしい視線を送る。
俺はと言うと……、今は機構で働いている。
ポジションで言うと、陣海さんのサポート業務だから、理事長秘書の秘書ってところか?
「形式上はウチの職員なんですから、与えられた仕事くらいちゃんとやって下さい」
「へいへい……。悪うござんした」
俺はあの時、浄御原を殺した。
決して、アイツに促されたからではない。
俺の意志でアイツを解放したまでだ。
だから、これは俺一人が背負っていく業だ。
そうでも思わないと、俺の中のちっぽけな自尊心が疼いてどうしようもなくなってしまう。
それこそ自己満足だと言われても仕方ないが、結局ひと一人が償えるものなんてたかが知れている。
ある種の強迫観念に駆られるように反省するポーズをとり、壊してしまったものとは到底見合わない罰でお茶を濁す。
挙句、『これだけ謝っているんだから、許されて当然』とばかりに、自身を正当化しようとする。
そして、いつしかそんな自分に気づき、深い自己嫌悪に陥る。
こうなることが初めから分かっているなら、俺はずっとヒールでいい。
結局、罪と罰の等価交換などあり得ない。
犯した罪を評価するのも、それに見合った罰を与えるのも第三者なら、当事者が介入する余地はどこにある?
そう思った瞬間、弁護士という選択肢は俺の中から消えていった。
生憎、俺は部外者の枠を超えて善悪を判断できるほどフェアな視点を持ち合わせていないし、被害者・加害者双方の立場を慮れるほど感受性は強くない。
「面倒なことをお願いして申し訳ありません。何分彼女の抜けた穴は大きいので……」
「……悪かったな。勝手なことして」
「い、いえっ!! ごめんなさいっ!! そういう意味ではなくて……」
「あぁ、分かってる分かってる。これだけ色々と掻き乱しておいて、当の本人はもう直オサラバって考えるとな……。それなりに思うところはあるよ」
「そうですね……。私個人の本音を言えば、近江さんにはこのまま機構に留まって欲しいという想いはありますが……」
「さすがにそれは向こうに迷惑だろ」
「ですよね……。いやっ! もし機構に理解のある方が浄御原さんの後釜になってくれたら、私としても願ったり叶ったりだったので!」
久慈方さんはハハっと笑いながら、申し訳なさそうに話す。
そう。諸々の縁で今は機構に身を置いているが、飽くまでも期間限定だ。
それとは別に、これから俺はある責任を果たさなければならない。
「近江さん。僕も手伝いますから、早く終わらせて帰りましょう」
「あぁ、悪いな」
俺と陣海さんが書類に取り掛かろうとすると、不意に甲高い電子音が鳴り響く。
「あっ! すみません、私です」
久慈方さんが電話に出ると、陣海さんは何かを察したのか表情が強張った。
こんな時間に誰だ? 大層空気が読めるお方に違いない。
いや。電話一つでこれだけピリついた空気を提供できるわけだ。
むしろ〝空気を支配〟とでも言った方が良いのか?
「はい、久慈方です。はい、はい、えっ!? 今ですか!? いますけど……」
久慈方さんは俺の方向を見据えながら、電話越しの相手に答えた。
何だか色々と嫌な予感がする……。
「分かりました。お待ちしています」
電話を切った久慈方さんは、フゥと深い溜息をつく。
「どうしたんだ?」
「これから新加さんが来ます」
あの一件から2年が経った。
いよいよ俺の人生のステージは、恐れていた30代へと進んでしまった。
どこぞの少女に『おじちゃん!』と純粋無垢な言葉を浴びせられたとて、もはや何の言い逃れも出来まい。
「近江さん」
思えば俺の人生、ずっとこうだった。
元来小心者ではあるが、それでいて突破口を切り開くために具体的な努力をした覚えがほどんどない。
ただただ将来を悲観するばかりで、人生の節目を知らないうちに通り過ぎている。
いや、実際は取返しのつかない地点に辿り着いてしまうまで、気付かないフリをしていただけだ。
「近江さん!」
だが、そんな俺にも厄介なことに俗に言う常識や倫理観が育ってしまっていた。
深く考えているようでその実、場当たり的に生きてきた俺にとって、ソイツらが人生の足を引っ張るとは夢にも思わなかった。
「近江さんっ!!!」
「っ!? あ、あぁ。すみません、理事長。ちょっと考え事してました」
「……敬語じゃなくてもいいって言ったじゃないですか。今さら近江さんに畏まられても何だかバカにされている気がします」
「ヒデェな……。いや、一応は上司だからな」
「何だかんだ律儀なんですよね、近江さんって」
あの一件の後、久慈方さんは現職に留任。
話によると、新加や陣海さんがかなり根回ししたらしいが、あまりその辺の話を深堀りするのも無粋というものだろう。
また、政府内での立場が危ぶまれていた新加については、その後着々と自身のシンパを増やし、ポストも内閣府の官僚の実質ナンバー2である内閣府審議官にまで出世していた。
その恩恵かは定かではないが、近頃政府の風当たりもマイルドになってきているらしい。
「まだ帰れませんよ。近江さん、書類に不備がありました。今日中に直しておいて下さいね」
理事長室の一角に臨時で備え付けられた俺のデスクに、ドスンと無造作に書類の山が置かれた。
「今日中って……。あと10分じゃねぇかよ。相変わらずドSだな、陣海さんは」
修正を促す陣海さんに対し、俺は恨めしい視線を送る。
俺はと言うと……、今は機構で働いている。
ポジションで言うと、陣海さんのサポート業務だから、理事長秘書の秘書ってところか?
「形式上はウチの職員なんですから、与えられた仕事くらいちゃんとやって下さい」
「へいへい……。悪うござんした」
俺はあの時、浄御原を殺した。
決して、アイツに促されたからではない。
俺の意志でアイツを解放したまでだ。
だから、これは俺一人が背負っていく業だ。
そうでも思わないと、俺の中のちっぽけな自尊心が疼いてどうしようもなくなってしまう。
それこそ自己満足だと言われても仕方ないが、結局ひと一人が償えるものなんてたかが知れている。
ある種の強迫観念に駆られるように反省するポーズをとり、壊してしまったものとは到底見合わない罰でお茶を濁す。
挙句、『これだけ謝っているんだから、許されて当然』とばかりに、自身を正当化しようとする。
そして、いつしかそんな自分に気づき、深い自己嫌悪に陥る。
こうなることが初めから分かっているなら、俺はずっとヒールでいい。
結局、罪と罰の等価交換などあり得ない。
犯した罪を評価するのも、それに見合った罰を与えるのも第三者なら、当事者が介入する余地はどこにある?
そう思った瞬間、弁護士という選択肢は俺の中から消えていった。
生憎、俺は部外者の枠を超えて善悪を判断できるほどフェアな視点を持ち合わせていないし、被害者・加害者双方の立場を慮れるほど感受性は強くない。
「面倒なことをお願いして申し訳ありません。何分彼女の抜けた穴は大きいので……」
「……悪かったな。勝手なことして」
「い、いえっ!! ごめんなさいっ!! そういう意味ではなくて……」
「あぁ、分かってる分かってる。これだけ色々と掻き乱しておいて、当の本人はもう直オサラバって考えるとな……。それなりに思うところはあるよ」
「そうですね……。私個人の本音を言えば、近江さんにはこのまま機構に留まって欲しいという想いはありますが……」
「さすがにそれは向こうに迷惑だろ」
「ですよね……。いやっ! もし機構に理解のある方が浄御原さんの後釜になってくれたら、私としても願ったり叶ったりだったので!」
久慈方さんはハハっと笑いながら、申し訳なさそうに話す。
そう。諸々の縁で今は機構に身を置いているが、飽くまでも期間限定だ。
それとは別に、これから俺はある責任を果たさなければならない。
「近江さん。僕も手伝いますから、早く終わらせて帰りましょう」
「あぁ、悪いな」
俺と陣海さんが書類に取り掛かろうとすると、不意に甲高い電子音が鳴り響く。
「あっ! すみません、私です」
久慈方さんが電話に出ると、陣海さんは何かを察したのか表情が強張った。
こんな時間に誰だ? 大層空気が読めるお方に違いない。
いや。電話一つでこれだけピリついた空気を提供できるわけだ。
むしろ〝空気を支配〟とでも言った方が良いのか?
「はい、久慈方です。はい、はい、えっ!? 今ですか!? いますけど……」
久慈方さんは俺の方向を見据えながら、電話越しの相手に答えた。
何だか色々と嫌な予感がする……。
「分かりました。お待ちしています」
電話を切った久慈方さんは、フゥと深い溜息をつく。
「どうしたんだ?」
「これから新加さんが来ます」