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「蘭、あんたは大丈夫」
「名生 蘭。私はえらい えらいよ、すごく だから大丈夫」
「世界が私に適応していなかっただけだから」
「だからきっと、明日も大丈夫」
自分に言い聞かせるだけのひとりごと。夜の風を浴びながら、私は私を励ましている。
夜だけは、私は私のことを許してあげられる。認めてあげられる。名生 蘭という、死ぬまでやめられない人生わたしのことを肯定してあげられる。
1年以上、私はそうやって自我を保っている。
不登校になったのは高校2年生の4月。それから1年と2か月、私は一度も学校には行っていない。
日中、母が仕事に行っている間は、部屋にこもって読書をし、その感想文を書いた。
誰に見せるわけでもない。ただ、本を読み、それに感じたことを書きとめることが、学校に行かない私にとっての学習のようなものだと自分で思っていた。
カフェのバイトはやめた。桜井くんは何も連絡してこなかったけれど、それを不思議だとも思わなかった。
私たちは本当に、ただのバイト仲間でしかなかったからだ。桜井くんだって、まさか私とマイたちのいざこざに自分が関係しているなんて思うはずもない。
ラインは消した。必要なかったからだ。母とは電話でやりとりをしているし、中学の同級生とだって連絡を取り合う機会は減っていたから支障はないと判断した。
手持ちのSNSはリアルとのつながりを遮断し、適当なハンドルネームで登録し、好きな芸能人の投稿を見るためだけに使っている。
学校に行かなくなったことを機に、私はいろいろなものを手離した。要らなかった。感情を揺さぶるものは、もう何も欲しくなかった。
青春などというものは、もう私とはかけ離れたところにある。遥か彼方、私ひとりじゃ、もう見つけることすら出来ない。
辺りは変わらず静けさに包まれている。住宅街だからだろう。23時なんてまだまだ夜のはじまりに過ぎない。もっと街に近いところにいたら、人も灯りもあるのだと思う。
(散歩……しよっかな)
足を滑らせないようにそっとブランコを降りた。
生憎ハンカチを持ち歩いていないから、濡れたベンチには座れない。見たい動画があったけれど、座れないんじゃなあ…と諦める。
ながい夜を超えるために散歩でもしようかと思い立ち、公園を出ようとした。
──そんな時だった。
「…あ、いた」
「は?」
「不良少女。あんたはきっと、ここに居ると思ってた」
「……はい?」
ザッザッと砂を蹴りこちらに向かってくる男。街灯の明かりは乏しいけれど、距離が近ければ近いほど顔がよく見えるのは、朝も夜も変わらない。
その男を、私は知らなかった。
高校生の同級生でも、中学の同級生でも、またそれ以前の知り合いでもなかった。
記憶力は良い方だ。一度会ったことのある人の名前は忘れない。
学校の近くのコンビニで、私が入学してから3ヶ月の間だけレジにいたフリーターのお兄さんの名前まで覚えている。沢井さん。今はあのコンビニをやめてどこでバイトしてるんだろうなぁ……って。
ちがうちがう、今は沢井さんのことなんかどうでも良くて、だ。
「え、あの、だれですか」
「ヒノデ アヤ」
「ヒトデ?」
「ひーのーで!ヒノデ アヤな、俺の名前。漢字見たら綺麗すぎて目玉出るよ あんた」
「えー…と、意味がよく……」
「俺はあんたと話をしに来たんだ。なぁ、深夜徘徊不良少女」
───夜は、ひとりじゃ寂しいからさ
ヒノデ アヤ。
どういうわけか、彼は、私に会いに来たらしい。
よる【夜】
日の入りから日の出までの暗い間。太陽が沈んで暗くなっている間。よ。⇔昼。
[補説]気象庁の天気予報等では、18時頃から24時頃まで(または翌日の6時頃まで)を指す。また、18時頃から21時頃までを「夜のはじめ頃」、21時頃から24時頃までを「夜遅く」としている。→夕方
cf.デジタル大辞泉
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「ひので あや……」
「うん。俺の名前」
日之出 綺。そう名乗った男はしゃがみ込むと、雨で濡れた地面に木の枝でそう書いた。
漢字見たら美しすぎて目玉出るといっていたけれど、確かに美しい。残念ながら目玉は飛び出なかったけれど。「綺」という字でアヤと読むところも、現代っぽい珍しさがある。
日之出 綺。ひので あや。ヒノデ アヤ。
たとえ記憶力が良くなかったとしても忘れないだろうなと思った。
「つーか夜ってこんなに静かなんだ?俺、今日が初犯だからあんま感覚わかんなくて」
「初犯って……深夜に外に出るのは犯罪じゃないでしょ」
「未成年の深夜徘徊は補導対象よ?」
悪いことしてるのに変わりはねえだろ。そういって綺が笑う。笑顔があどけなくて、雰囲気が少しだけ柔らかくなったように感じた。
「不良少女、名前は?」
彼は私に会いに、23時過ぎの公園にやってきた。
私は彼を知らない。言ってしまえば不審者のようなもので、そんな彼に個人情報を与えることにはは少々抵抗があった。口を噤む私に、「怪しんでんのかおまえ」と寂しそうな声がかかる。
怪しんでるよ、そりゃあそうでしょ。
「……名生 蘭」
だけどでも、名前くらいなら教えてやってもいいと思えたのは、彼の顔がイケメンだったから……ということにしておきたい。
もちろん、普段から面食いをかましているわけでは決してない。ただ、理由がほしかっただけだ。不審者かもしれない男に衝動的に名前を教えるという行為に、訳をつけておきたかった。
深夜のテンションは、フツウの感覚を麻痺させる。
「蘭、ね。良い名前」
「あんたには負けるでしょ。……日之出 綺なんてさ」
皮肉ではなく、本当にそう思ったから言っただけだった。
けれど、そう紡ぐと綺は「意味わかんね」と吐き捨てた。綺が立ち上がり、スニーカーで砂に書いた名前を消し、木の枝をポイっと投げ捨てる。それから私を見つめると、
「名前に、勝ち負けとかなくね?」
何言ってんの?みたいな顔をして平然と言いのけた。
「名前って、死ぬまで変えられないもんだろ。どんなに嫌ったって一生変わんないまま。蘭は蘭だし、俺は俺だ。誰のほうがいい名前とか、そういうの無いと思う」
「……」
「一生離れらんないもののことは、どれだけ好きになれるかで人生の見方が変わるよ」
初対面、会って数分。それなのに何故、私はそんな話をされているのだろうか。
見た感じ同い年か、1つか2つの差だ。知ったように人生を語られても良い気はしない。むっと眉を寄せると、「怒んなよ」と笑われた。
それも、なんだか鼻に付いた。
一人の夜が好きだった。誰にも邪魔されない、私だけの時間だった。
住宅街のはずれに位置する公園。酔っ払いも不審者もいない、私だけの秘密基地のような場所。そこに突然土足で踏み込んでくるやつがいたら、不快に決まってる。
「言ったろ。俺は、蘭と話がしてみたかったんだ」
「…なんで」
「過去に2回、車でここを通った時に蘭の姿を見たことがあるから。もしかしたら毎晩ここにいんのかなって、ずっと気になってた。深夜の公園に1人でいるってさ、どんな理由でそこにいるのか知りたかった。そんで今日、ようやく親の目を盗んで家を抜け出すことに成功したわけだ。まーじでハラハラした。ドアってさ、神経注いだらまじ無音で閉められんのな。知れてよかった」
「……はあ?」
「てな感じで、成功したからとりあえず会いに来てみたってこと」
「意味わかんない」
「俺もだいぶわかんねーけどな」
衝動には逆らえんのだわ、
親の目を盗んで私に会いに来た変な男 改め日之出 綺が言う。
ドアを無音で閉められること、私は知らなかった。堂々と母に送り出されて家を出ているから、忍ぶという行為をしたことがなかったからだ。