世間は明日からゴールデンウイークに入る。当然会社勤めの私もだけれど、引っ越しに資金を費やしたため、今回のお休みは遠出することも叶わず。予定もないまま、大人しく家で過ごす予定だ。

 Uzdrowienie(ウズドリャビャニャ)のお向かいにあるカフェ「SAKURA」は、思った通りとても素敵なお店だった。店内の雰囲気も、扱っているメニューも。そして、梶さんを君付けで呼ぶ櫻子さんも、とても素敵な女性だった。
 あんまり素敵すぎて、梶さんの隣に座っている私の存在が霞むくらい。
 絵になる二人は見ているだけでうっとりとして羨望の眼差しを向けてしまうけれど、同時に胸に走るほんのちょっとの痛みに私は気づいてしまっている。
 この痛み。まだ少しの痛みだと、目を瞑ろうとしているけれど大丈夫だろうか。しっかりとラッピングペーパーに包んだまま乗り越えられるか、不安な気持ちを抱えていた。

 ベッドを背もたれにし、図書館で借りた本を開いた。本当はカフェに行こうかと考えていたのだけれど、櫻子さんと梶さんの仲のいい姿を目にする気にはなれなかった。
 ローテーブルに積み上げた一冊を手にし、ベッドに寄りかかる。記憶に残る二人の姿を追い出すように、一ページ一ページ活字を自分の中に取り込むようにして目で追った。時々、コーヒーを口にし。時々、深く息を吐き出し。時々スマホの時刻を確認する。繰り返す作業は業務のようで、本を読んでいるのか、ただ時間をやり過ごしているのかわからなくなる。
 そうやって過ごし、漸く陽が暮れそうになる頃、スマホが明滅し震えた。

「佑」

 画面に表れている名前を見て、まるで救いの神でも現れたみたいに無機質なその機械に手を伸ばした。

 佑から届いたメッセージには、久しぶりに路上ライブをやるから、サクラをして欲しいと書かれていた。
 いつもなら、少しばかり面倒に思うところだけれど、時間を持て余し、あの二人を脳内から追い出そうとしていた私にしてみれば、これほどありがたい誘いはなかった。それでもいつもの皮肉はつきものだからと、「えぇー」なんて返せば、どうせ予定もなく暇なんだろ? なんて図星の返信が届いて肩を竦めた。
 誰にともなく仕方ないふりを装い、弾むように玄関を飛び出した。

 路上ライブをする佑の拠点は、吉祥寺かあるいは下北沢だ。今日は、吉祥寺でやるらしいのだけれど、あの町はちょっとばかり煩い。吉祥寺だけではないが、最近は警察の取り締まりも厳しくなっているらしい。

 駅前で待ち合わせた佑は、アコギのハードケースを縦にして、右脚の甲の上に乗せるようにして立ち、荷物の入ったリュックを右肩に背負っていた。
 私の姿を認めると、佑が駅舎を出るため歩き出した。その横に並ぶ。

「許可は取ってるの?」
「ゲリラに決まってんだろ」

 得意気な顔で見返されたけれど、警察沙汰になったらどうする気だろう。迷惑以外の何者でもない。私にも、吉祥寺の町にも事務所にも。

 商店街のアーケードに入り、ほんの少し手前にある広くなった場所に立つ。佑はアコギケースを置くと、ゲリラライブの準備を始める。サクラの私は、少し遠巻きにその姿を眺めていた。

 ギターを取り出したハードケースの中にフライヤーを並べ、開いた蓋には、簡易的にテープでフライヤーを貼り付ける。今まで出したあまり売れていないCDも置き、宣伝ポスターもセロテープで簡単に貼り付けた。ギターを抱え、チューニングを始めるがアンプには繋がない。繋ぐと聴きつけた警察がすぐに飛んでくるから生声生演奏だ。

 佑の声は、よく通る。アンプなんかに繋がなくても、きっとこの夜に響いて、通り行く人の足を止めるはず。

 真剣な眼差しで音の確認をし、声を出し、喉の調整をする。あらかじめ買っておいたペットボトルの水を近くに置くと、あらかたの準備が整った。佑の表情は真剣そのもので、いつもそういう真面目な顔をしていればいいのにと、 ちょっとだけ皮肉に思い、始まるその時を待った。

 ハードケースの中を遠巻きにのぞき込み、貼り付けたポスターを見たらライブの告知だった。

 ライブ? 聞いてないんだけど。

 報告がなかったことに、僅かに嘆息した。
 佑は事務所から、もっと活動するよう言われているみたいだった。もちろん事務所側が用意してくるイベントやライブもあるけれど、個人的な活動は報告さえすれば認めてくれているらしいから、佑は時折小さなライブハウスに自ら交渉しステージに立っている。所属している事務所は大きくないから、売れてもいない佑に個人的なマネージャーはついていない。何かあるときは、直接事務所から連絡が入る。お金にならないミュージシャンに構っているほど、残念ながら事務所も暇ではないのだろう。交わした契約さえ守ってくれていれば、ある程度は自由にどうぞということのようだ。

 でも、このゲリラはさすがにマズいんじゃないだろうか。何かあったら、事務所にすぐ連絡が行くだろう。

 そうは思っても、やる気になっている佑の気持ちを今更折ることもできず、サクラの役に徹する私は甘いのか。

 チューニングをした後、佑がギターを鳴らした。一つ呼吸をして、まだ誰も立ち止まっていない場所で、まずはノリのいい曲をやり、通り行く人の足を止める作戦だ。立て続けに三曲、体を動かしリズムを取りたくなるような曲が続く。数人が足を止めた。カップルに、若い女の子が三人。物珍しそうに、ワンカップを持ったおじさんも立ち止まっている。

 次は、立ち止まってくれた人の足止めだ。聞かせる曲の披露だ。切ない歌詞と覚えやすい緩やかなメロディー。心を掴めれば、次の曲まで引っ張れる。

 また何人か足を止めた。佑を囲んで疎らな半円が描かれ始める。カップルの彼女が、アコギケースに置いていたフライヤーに手を伸ばし、ポスターへ視線を向けた。目に留めたからといって、ライブに必ず来てもらえるとは限らない。それでも、ほんの数パーセントでも可能性は広がる。

 佑のビジュアルは、いい方だ。事務所だって、最初はアイドル的ミュージシャンで売り出す心づもりでいたのだから。けれど、佑がそれを断固として拒否し、認めなかった。俺は曲を売りたいのであって、アイドルになりたいわけじゃないと大見えを切った。
 ジャケット写真も宣材用のポスターも、佑は顔出しせずに、風景やなんかでいいと思っている。実際、たった三枚しか出していないシングルCDのジャケットに、佑は顔出ししていない。
 ビジュアル売りを捨て、事務所の説得も聞き入れず、佑の思うように曲へと専念してきたわけだけれど、現在この有様だ。

 デビューシングルは若干粗削りなところもあるけれど、まずまず及第点という内容の仕上がり。その後の二枚はそれなりだな、という良くも悪くもない感想をもった。けれど、ここ一年ほどで作ったいくつかの曲は、本当にいいものができていると私は思っていた。やっと佑の心が、作った曲にしっかりとリンクし始めている気がするんだ。この曲たちをCDにして、ネットでも配信できたなら絶対に売れると思う。素人が何を言ってるんだ、と思われるかもしれないけれど。でも、ほら見てよ。立ち止まってくれる人の数が、少しずつ増えてきてる。サクラをしにきたけれど、今ではそれも必要ないくらいだ。

 ずっとうしろの方で歌声を聴く私の目の前には、佑の声に立ち止まる人たちの背中が増えていった。みんな佑の歌声に、曲に魅了されている。立ち止まってくれているのが、何よりの証拠だ。スマホで動画を撮っている人もいる。SNSでうまく拡散してくれないだろうか。

 そうやって今宵、いくつかの曲を通り行く人に届け、この町に届け、夜は更けていき舞台が幕を下ろした。警察が介入することもなく、無事終了したことにほっとする。

「ありがとうございました」

 佑がギターを抱えて頭を下げると、拍手が上がり自然と笑みが浮かぶ。初めから立ち止まり聴いてくれていた二十代前後くらいの女の子たちがライブチケットを求めて声をかけている。殆どの人がはけていく中、その女の子たちと数名がフライヤーを手にし、チケットを購入してくれた。
 遠巻きにその光景を眺めながら、佑に近寄り話しかけている一人の女の子の目が、明らかにハートになっていることに苦笑いを浮かべた。今回も、ビジュアルに惹かれたファンがお一人できたようだ。
 顔だけで寄ってくるファンを佑は毛嫌いするから、ちゃんと曲を聴いてあげてね。

 チケットを手にした彼女たちは、はしゃぐように声を上げ、一人は佑に近寄り何かを囁きかけ、頬を染めたあとアーケードの方へと消えていった。
 百人も入ればいっぱいになりそうなライブハウスのチケットが、今夜だけで十枚以上も売れた。

「やったじゃん、佑」
「おう」

 人がはけたのを見計らい傍へ行くと、顎を突き出し得意気な顔を向けてくる。

「路上ライブで手売りするって、意外とチケットがさばけたりするもんなんだね」
「俺の実力だ」

 鼻の穴を大きくして、佑がさらに得意気になる。それから一枚を私に差し出した。

「ついさっき刷り上がったばかりなんだ」

 どうやら出来立てほやほやのチケットらしい。六月の第一土曜の夜。場所は、ここ吉祥寺だ。馴染みで老舗のライブハウスでやるらしい。

「ありがと」

 チケットをお財布の中にしまい込み、片づけをし始めた佑のそばで立ち話をしていたら、さっき目をハートにしていた女の子が一人で戻ってきた。私の存在を無視するように、佑との間に割り込み入ると話し出す。私は後ろに身を引き少し離れた。下手にしゃしゃり出ると碌なことがないからだ。沈黙は金なり。

「佑君。ライブ、絶対に観に行くね」

 やたらと親しみを込めて佑をそう呼んだ彼女に、当の本人は、「あぁ、うん」なんて気のない返事をしながらフライヤーを片付けている。

 知り合いなのだろうか? 最近は佑の周辺に出没する女性のことをよく知らないので、この女の子の位置関係がいまいちわからない。

 片づけ続ける佑のそばにしゃがみ込み、佑君、佑君。としきりと笑顔で話しかけている彼女の態度は、なんとわかりやすいのだろう。あそこまで素直に感情を出して話しかけられるというのは、ちょっと羨ましいな。

 そんな風に考える私の脳内に浮かんでいるのは、梶さんの笑顔だった。同時に櫻子さんの微笑みも浮かんで、目の前にいる彼女のように、梶さんに向かって話しかける自分が余計に想像できなくなる。

 佑って、本当にモテるよね。しょっちゅう女の子がそばにいるし、ライブの時なんて黄色い声援が飛ぶことも多い。ライブ終わりの楽屋にも女の子が押しかけて来るけれど、関係者以外は入れて貰えないから、出待ちしている子もいる。

 佑のそばで話し込んでいた女の子は、ちょっと強引に、「じゃあまた」と佑から遠ざけられると、渋々というように傍を離れ駅に向かっていった。去り際に、離れた場所に立っていた私のことをじっと見て、何か言いたそうに睨みつけてきたけれど、結局何も言わないまま行ってしまった。佑の目の前だということもあって、攻撃的な感情を押し込めたのかもしれない。今の態度だけでもよく解るが、ある意味とても熱心なファンのようだ。

 それにしても、佑ってば塩対応だよね。下手に愛想を振り撒けば、しつこくされてしまうこともあるけれど、もう少しうまく立ち回れないものかな。

 なんにしても、睨みつけてくるってことは私がサクラだってことを理解しているわけで、佑との関係も知っているのかもしれない。佑のファンは、色んな意味で熱い子が多いからな。怖い、怖い。また、目の敵にされて嫌な目に合うのは御免だ。危害だけは加えられないよう、佑に釘を刺しておかなきゃ。

 漸く片付けが終わるころ、ポツリポツリと雨が降ってきた。

「やべ。降ってきた。行くぞ、雪乃っ」

 ギターを持った佑が、私に向かって声をかけた。駆け出す佑の背中を追い駅まで走り出す。足の速い佑に遅れを取り、背中が少し遠くなる。

「おせーよっ」

 踵を返し戻ってきた佑が、私の手を取り再び走り出した。昔から変わらない。足の遅い私を、佑はいつもこうして手を引き走っていたっけ。
 音楽にばかり明け暮れているけれど、佑は運動神経もそれなりにいいのだ。高校の体育祭を覗きに行った時、ダルそうにしながらもやる時はやるといった感じで、チームにしっかりと貢献していた。リレーでビュンビュンと追い抜く走りっぷりに、親心さながらにたくさん写真を撮ったのを思い出した。
 なんだかんだ面倒臭そうな態度をとりながらも、一番にテープを切った佑の表情は得意気だった。あの写真のデータ、どこにやったかな。

 佑に引っ張られるように足を出し続け、漸く駅舎に逃げ込み荒い息を吐きだす。思いの外、服や髪の毛が濡れてしまった。

「ギター、大丈夫?」

 貧乏な佑の商売道具が、壊れてしまっては大変だ。さすがの私も、新しい楽器を買い与えるほど稼いではいない。

 そんな風に考えて、ヒモかっ。と勝手に想像して笑ってしまった。

「雪乃こそ」

 ギターを足元に下ろし、しっとりと濡れた私の髪の毛に手を伸ばして滴を優しく払った。

 こういう時に見せる佑の目は、とても慈愛に満ちている。そこにあるのは、やはり家族愛だ。佑が時々見せるこの優しい瞳に、らしくないなんて笑い飛ばすことはしない。私も、きっと同じような目で佑を見ているだろうから。

 佑は、肩に引っ掛けていたチラシやチケットの収まるリュックの中から、くしゃくしゃになったタオルを取り出し、私の頭にかけた。

「拭いとけ」

 ぶっきら棒な言い方は、いつもの佑だ。

 自分の頭をざっと拭いた後、くしゃくしゃのタオルを佑の頭に被せてやった。とりあえず、というように髪の毛だけを拭いた私たちは、濡れた服のままやってきた電車に乗り込んだ。

「コンビニで、傘買えよ」
「佑もね」

 止みそうにない雨を電車の窓から眺め、お互いを労わりあい、それぞれの家路に着いた。