特に予定のない週末がやって来た。
先週も今週も、佑が週末にご飯を集りに来ないなんて、バイトに明け暮れているのか新しい彼女でもできたのだろうか。それとも、アレンジャーに曲を手直しされて、それに時間を費やしているのだろうか。なんにしても、私が暇なことには変わりがない。
引っ越してすぐに顔を出した雑貨屋、Uzdrowienieにはあれ以来行っていなかった。あれほどテンションを上げてあれもこれも欲しいと思ったけれど、一旦時間を置いてしまうと熱はそれほどでもないのか、スーッと鳴りを潜めていた。
隣人の梶優斗に、偶然出くわすことがないせいもあるだろうか。大人びた雰囲気の穏やかなあの微笑みを向けられたら、また雑貨熱を上げ、あれもこれもと欲しくなるのだろうか。
窓辺へ視線を向け、引っ越した時に聴いた鳥の鳴き声を思い出した。散歩がてら近所の散策へ出かけよう。
外はとてもいい天気だから、お弁当を持ってピクニックもいいけれど、今回は視察だけ。
森林公園に立ち寄ると、親子連れや恋人同士。公園の広さを活かして、サックスを吹いている人もいた。これだけ広ければ、心おきなく練習にも集中できるのだろう。風景画を描いているおじさんや似顔絵を描いている人もいて、やっぱりお弁当を持ってくればよかったなと青い空を仰ぐと、緑とのコントラストが心の中を清々しくしていった。
広々とした森林公園を抜け、少し歩いたところでイタリアンレストランを発見した。昼間はやっていないのか、今日はたまたま定休日なのか。CLOSEの札がドアにぶら下がっている。中の様子を見たくて窓ガラス越しにちょっと背伸びして覗いて見てみたけれど、中が暗くてよくわからなかった。そこから細い道を進んで行ったら、見覚えのある建物に出くわした。どうやら、図書館の裏側に出たようだ。
「へぇ~。ここに出られるんだ」
あ、そうだ。図書館で本を借りて、梶さんのお店の前にあるカフェでお茶をしようかな。
思い立ったら、急にワクワクとテンションが上がり。静かな図書館に少しばかり弾むように足を向けた。
図書館特有の静けさは、厳かであっても気後れするようなことはない。多分、利用している人たちのおかげだろう。絵本のコーナーには子供と母親。雑誌コーナーでは、近所のおじさんたちが暇つぶしのように新聞や雑誌を広げていた。学生は机に噛り付くようにペンを動かし、少女がのんびりと小説らしきものを読みふけっていた。小さな町にあるごくありふれた風景は、心をスッと軽くしてくれる。肩に力なんて入れなくていいのよ。身構えなくてもいいんだよ。興味のある本があったら、手に取って見てみてね。そんな風に言ってくれている気がした。
書棚の間を眺めながら歩き、あのカフェに似合いそうな本を探した。写真集のような、素敵なイラストのある大人の絵本がいいかもしれない。眺めているだけでうっとりする繊細なイラストと、心をつかむ優しい言葉の数々。棚の中から取り出した一冊を持ち、カウンターへ行く。図書カードを作って貰ったら、ここの住民です。と認められたような気持ちになって心が躍った。
弾む心のまま、軽やかに花屋の角を曲がる。Uzdrowienieに近づいていくと、いつでもどうぞ。と笑顔で迎えてくれるようにドアが開け放たれていた。お店の前には、以前と同じように可愛らしく、ワクワクするような雑貨の数々が置かれ、賑やかに迎えてくれた。少しだけそれらを眺めてから、お向かいのカフェ「SAKURA」に足を向けた。一段高くなっている甲板に上がり、ペンキで水色に塗られた木枠のドアを開けるとカウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
迎えてくれたのは、柔らかな雰囲気を持つ優しそうな大人の女性だった。三十代前半。梶さんと同じくらいの年齢かな。緩くかけられた背中まであるロングウエーブの髪の毛を一纏めにして結んでいる。清潔感のある真っ白なシャツに黒のカフェエプロンがシャキッとした爽快感を漂わせていた。一番上のボタンを外していて、そこから覗く首元に、華奢なチェーンのネックレスが見えて、それがとても似合っていた。
「お好きな席にどうぞ」
店内には数組のお客さんがいて、まだ余裕の空席具合だ。テーブル席もいいけれど、外を眺めたいな。目の前にあるUzdrowienieが見える窓辺のカウンター席がいい。そこに腰かけると、キラキラと眩しい太陽が店内に入り込んでいて、このお店を素敵に演出していた。
「眩しくないですか? カーテン引きましょうか?」
優しい気づかいだけれど、外を眺めたいのです。というか、Uzdrowienieの可愛らしい雑貨達を眺めたい。
「大丈夫です」と笑顔で返すと、優しい笑みを返された。
注文したカプチーノのソーサーには、ちょこんと一つアイスボックスクッキーが乗っていた。
「手作りなんです。レジ傍にも置いてありますので、よかったらどうぞ」
サービスです。と添えられた、バニラの香りを放つクッキーは、甘くとても軽い歯触りで美味しい。カップを持ち上げれば、カプチーノの泡がふんわりふるんと揺れた。
このカップ、可愛い。青い水玉模様が、等間隔で手書き風に描かれている。まるでお向かいさんで売っていそうなデザインだ。
「このカップ素敵ですね」
さっきの女性店員さんが近くを通った時に声をかけると、なんとお向かいさんで買ったものだという。
「長いお付き合いで。ここの食器類は、あちらで仕入れさせていただいております」
優しい笑みを私へ向けてから、彼女は窓ガラスの向こうにあるUzdrowienieに視線をやり微笑んだ。
「素敵なものばかりですから、お客様もよかったらのぞいてみてはいかがですか?」
そうなんです。素敵なものばかりですよね。と内心で共感した。同じ気持ちの人がいて、かなりテンションが上がっていたけれど、初めて来たカフェで友達のように話しかけるわけにもいかず、はい。と笑顔を返した。
図書館で借りてきた絵本を開き、時々お向かいさんへ視線をやり、カプチーノの美味しさにほっと息を吐く。それを何度か繰り返し本に視線をやっていると、カウベルが鳴りドアが開いた。何気なく顔を上げ視線を向けると、入って来たのは梶さんだった。
お向かいさんだとはいえ、まさかここへやってくるとは思いもよらず、驚いて梶さんを見たまま硬直してしまった。梶さんは、私の存在にはまだ気づいていない。
ここで逢えるなんてとドギマギとしながら、落ち着こうとグラスに手を伸ばし、レモン水を一口飲み込んだ。いつの間にか氷が解けていて、レモン水はほんのり温度を上げ始めていた。その温くなり始めた温度が自分の体温に同化するようで、ちょっとドギマギが和らいだ。
「いらっしゃい。休憩?」
「うん」
店員の彼女と梶さんが、気さくな会話をした。食器を仕入れているくらいだから顔見知りなのは当然なのだろうけれど、それよりもずっと、なんて言うか親密感があるように思えた。
どうしてそんな風に考えてしまう自分がいるのか。美香に言わせれば、恋でしょう。というところかな。そんなんじゃ、ないんだけどな。肩を竦ませたところで、梶さんが私の存在に気がついた。
「あっ。星川さん。こんにちはっ」
穏やかな印象の梶さんから、弾むように声をかけられてちょっと驚いてしまった。
「こんにちは」
挨拶を返せば、頬が少しだけ緩んでしまう。
やっぱり素敵な人。
だから、それが恋だって。と美香の声がまた聞こえてくる。
「休憩ですか?」
躊躇いがちに話しかけると、穏やかな笑みを浮かべ頷いた。
「隣、いいですか?」
え?
訊ねられた意味が解らず、一瞬時間が止まった。けれど、微笑む梶さんの顔を見ていたら、気がつかないうちに頷きを返していた。他にもいくつか席が空いていることは、後ろを振り返らなくてもわかる。なのに、するりと隣の席に腰を下ろすなんて。まだ、たったの三回しか会ったことがないのに、とても人懐っこい人。穏やかな空気感はあっても、年上だし、容易に近づけない雰囲気があったからとても驚いた。けれど、スルッとそばに来られても嫌な感じが全くしないのは、落ち着いた様子と穏やかな微笑みのせいだろうか。それとも、商売柄。お客様と接することが多いから、自然とそういった雰囲気になるのだろうか。
なんにしても、カウンター席で梶さんと並んで座るというのは、思いもよらぬサプライズでとても照れくさい。ドキドキし始める心臓の音を聴かれそうで、カップに手を添え気づかれないように息を吐き出し吸った。
「お知り合いなの?」
カフェエプロンの彼女が、梶さんの顔を見て訊ねた後、私のことを見る。
「お隣さんになった、星川さん」
梶さんが紹介してくれた。「こんにちは」と挨拶をすると、彼女はニコリと笑みを見せた。
「梶君は、いつものでいいのかな?」
彼女が、梶さんのことを君付けで呼んだ。瞬間的に、心臓がどうしてかキュッと締め付けられたようになる。彼女の視線が梶さんを優しく見つめている。
私と佑のような間柄なのだろうか。幼馴染のような、とても近しい雰囲気。ううん。それよりも、もっと近しい……。あ、もしかして、彼女さん? 梶さんと彼女は、恋人同士?
そう考えると、二人の雰囲気はピタリと当てはまった。さっきキュッとした心臓が、今度はギュっとなる。表情が硬くなりそうなのを堪えた。
「僕の顔に、何かついてるかな?」
笑顔で訊ねられて、ずっと梶さんのことを見続けていたことに気がつき慌ててしまう。
「あっ、いえっ。こ、このカフェ、とても素敵ですよね。通いつめちゃいそうです」
誤魔化すように、必死に言葉を繋げた。
「そんなこと言われたら、櫻子さん、ものすごく喜ぶんじゃないかな」
そう言って、梶さんはレジ傍に下がった彼女を振り返った。
彼女、櫻子さんていうんだ。ああ、だから「SAKURA」。
同じように背後を振り返り、彼女が放つ雰囲気ととても合う名前だと納得した。それにしても、恋人をさん付けで呼ぶなんて、何だか梶さんが可愛らしく思えてしまう。
梶さんの前にもカプチーノが届いた。彼のソーサーには、チョコチップクッキーがひとつ乗っていた。あれもレジ横に売っているのかな。
「星川さん、クッキー食べる?」
物欲しそうに見ていただろうか。恥ずかしいな。
遠慮する私のソーサーに、梶さんがチョコチップクッキーを置いた。
「帰りに買いたくなるように」
冗談めかして笑う。
カフェの回し者ですか?
可笑しくて私も笑ってしまった。
「ここで食器を仕入れて貰ってるから、繁盛すると助かるんだ」
なんて、正直者なのだろう。クシャリと表情を崩した笑みが、子供みたいで心臓がキュンっと反応してしまった。
ホントに素敵な笑顔。
美香の、惚れたな。って声がまた聞こえた気がした。
ダメだよ、美香。梶さんには、櫻子さんという素敵な彼女さんがいるんだから。
そんな風に言い聞かせる自分は、なんだか滑稽だ。
再び肩を竦めて、カップを口元に持って行った。冷め始めたカプチーノの泡が、カップの底でブクブクと思いを抱き込んで泡立っているみたいだった。
櫻子さんが彼女だろうと思ってから、少しだけ。本当にほんの少しだけ、キュッと切なく鳴る心臓の音が和らいだ。相手がいる人に想いを寄せても叶わない、と諦めの気持ちがラッピングペーパーみたいに心をきっちりしっかり包み込む。ダメだからね、って念を押すように角を合わせて折り込んで、綺麗な柄で誤魔化して、中が見えないようにしてくれる。
引き返せないくらい好きになる前でよかった。
ほんの少し体を斜めにして、櫻子さんがコーヒーをテーブルへ運ぶ姿を横目で追った。
本当に素敵な人。梶さんと二人で並んだら、とても絵になる。例えばこの二人が美術館で一緒に絵を眺めていたら、それそのものが絵画のようだろう。それほどお似合いの二人だ。私の入り込む隙間なんて、少しもない……。
隣では梶さんが優しい声音で、ここのコーヒーは美味しいだとか。目の前のUzdrowienieで働くアルバイト君は、みんなからあっ君と呼ばれているだとか。口は軽いけど、心の軽いやつではないんだよ、とか。パン、美味しかった? また貰ってね。だとか。ご近所の立ち話みたいな、とてもゆったりとした日常会話でこの場を優しい雰囲気にしてくれた。
帰りにレジ横にあったクッキーを買った。梶さんがくれたチョコチップと、初めにソーサーに乗っていたアイスボックスクッキーだ。家に帰ってから、借りた絵本とクッキーを前にする。
コーヒーを淹れてチョコチップクッキーを口にすれば、梶さんの甘いマスクと重なって、クッキーはさっきよりもずっと甘く感じた。胸がキュッとなるくらい、甘く感じたんだ。
梶さんがくれたマグカップの小鳥が、私のことを切なげに見ている気がした。
先週も今週も、佑が週末にご飯を集りに来ないなんて、バイトに明け暮れているのか新しい彼女でもできたのだろうか。それとも、アレンジャーに曲を手直しされて、それに時間を費やしているのだろうか。なんにしても、私が暇なことには変わりがない。
引っ越してすぐに顔を出した雑貨屋、Uzdrowienieにはあれ以来行っていなかった。あれほどテンションを上げてあれもこれも欲しいと思ったけれど、一旦時間を置いてしまうと熱はそれほどでもないのか、スーッと鳴りを潜めていた。
隣人の梶優斗に、偶然出くわすことがないせいもあるだろうか。大人びた雰囲気の穏やかなあの微笑みを向けられたら、また雑貨熱を上げ、あれもこれもと欲しくなるのだろうか。
窓辺へ視線を向け、引っ越した時に聴いた鳥の鳴き声を思い出した。散歩がてら近所の散策へ出かけよう。
外はとてもいい天気だから、お弁当を持ってピクニックもいいけれど、今回は視察だけ。
森林公園に立ち寄ると、親子連れや恋人同士。公園の広さを活かして、サックスを吹いている人もいた。これだけ広ければ、心おきなく練習にも集中できるのだろう。風景画を描いているおじさんや似顔絵を描いている人もいて、やっぱりお弁当を持ってくればよかったなと青い空を仰ぐと、緑とのコントラストが心の中を清々しくしていった。
広々とした森林公園を抜け、少し歩いたところでイタリアンレストランを発見した。昼間はやっていないのか、今日はたまたま定休日なのか。CLOSEの札がドアにぶら下がっている。中の様子を見たくて窓ガラス越しにちょっと背伸びして覗いて見てみたけれど、中が暗くてよくわからなかった。そこから細い道を進んで行ったら、見覚えのある建物に出くわした。どうやら、図書館の裏側に出たようだ。
「へぇ~。ここに出られるんだ」
あ、そうだ。図書館で本を借りて、梶さんのお店の前にあるカフェでお茶をしようかな。
思い立ったら、急にワクワクとテンションが上がり。静かな図書館に少しばかり弾むように足を向けた。
図書館特有の静けさは、厳かであっても気後れするようなことはない。多分、利用している人たちのおかげだろう。絵本のコーナーには子供と母親。雑誌コーナーでは、近所のおじさんたちが暇つぶしのように新聞や雑誌を広げていた。学生は机に噛り付くようにペンを動かし、少女がのんびりと小説らしきものを読みふけっていた。小さな町にあるごくありふれた風景は、心をスッと軽くしてくれる。肩に力なんて入れなくていいのよ。身構えなくてもいいんだよ。興味のある本があったら、手に取って見てみてね。そんな風に言ってくれている気がした。
書棚の間を眺めながら歩き、あのカフェに似合いそうな本を探した。写真集のような、素敵なイラストのある大人の絵本がいいかもしれない。眺めているだけでうっとりする繊細なイラストと、心をつかむ優しい言葉の数々。棚の中から取り出した一冊を持ち、カウンターへ行く。図書カードを作って貰ったら、ここの住民です。と認められたような気持ちになって心が躍った。
弾む心のまま、軽やかに花屋の角を曲がる。Uzdrowienieに近づいていくと、いつでもどうぞ。と笑顔で迎えてくれるようにドアが開け放たれていた。お店の前には、以前と同じように可愛らしく、ワクワクするような雑貨の数々が置かれ、賑やかに迎えてくれた。少しだけそれらを眺めてから、お向かいのカフェ「SAKURA」に足を向けた。一段高くなっている甲板に上がり、ペンキで水色に塗られた木枠のドアを開けるとカウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
迎えてくれたのは、柔らかな雰囲気を持つ優しそうな大人の女性だった。三十代前半。梶さんと同じくらいの年齢かな。緩くかけられた背中まであるロングウエーブの髪の毛を一纏めにして結んでいる。清潔感のある真っ白なシャツに黒のカフェエプロンがシャキッとした爽快感を漂わせていた。一番上のボタンを外していて、そこから覗く首元に、華奢なチェーンのネックレスが見えて、それがとても似合っていた。
「お好きな席にどうぞ」
店内には数組のお客さんがいて、まだ余裕の空席具合だ。テーブル席もいいけれど、外を眺めたいな。目の前にあるUzdrowienieが見える窓辺のカウンター席がいい。そこに腰かけると、キラキラと眩しい太陽が店内に入り込んでいて、このお店を素敵に演出していた。
「眩しくないですか? カーテン引きましょうか?」
優しい気づかいだけれど、外を眺めたいのです。というか、Uzdrowienieの可愛らしい雑貨達を眺めたい。
「大丈夫です」と笑顔で返すと、優しい笑みを返された。
注文したカプチーノのソーサーには、ちょこんと一つアイスボックスクッキーが乗っていた。
「手作りなんです。レジ傍にも置いてありますので、よかったらどうぞ」
サービスです。と添えられた、バニラの香りを放つクッキーは、甘くとても軽い歯触りで美味しい。カップを持ち上げれば、カプチーノの泡がふんわりふるんと揺れた。
このカップ、可愛い。青い水玉模様が、等間隔で手書き風に描かれている。まるでお向かいさんで売っていそうなデザインだ。
「このカップ素敵ですね」
さっきの女性店員さんが近くを通った時に声をかけると、なんとお向かいさんで買ったものだという。
「長いお付き合いで。ここの食器類は、あちらで仕入れさせていただいております」
優しい笑みを私へ向けてから、彼女は窓ガラスの向こうにあるUzdrowienieに視線をやり微笑んだ。
「素敵なものばかりですから、お客様もよかったらのぞいてみてはいかがですか?」
そうなんです。素敵なものばかりですよね。と内心で共感した。同じ気持ちの人がいて、かなりテンションが上がっていたけれど、初めて来たカフェで友達のように話しかけるわけにもいかず、はい。と笑顔を返した。
図書館で借りてきた絵本を開き、時々お向かいさんへ視線をやり、カプチーノの美味しさにほっと息を吐く。それを何度か繰り返し本に視線をやっていると、カウベルが鳴りドアが開いた。何気なく顔を上げ視線を向けると、入って来たのは梶さんだった。
お向かいさんだとはいえ、まさかここへやってくるとは思いもよらず、驚いて梶さんを見たまま硬直してしまった。梶さんは、私の存在にはまだ気づいていない。
ここで逢えるなんてとドギマギとしながら、落ち着こうとグラスに手を伸ばし、レモン水を一口飲み込んだ。いつの間にか氷が解けていて、レモン水はほんのり温度を上げ始めていた。その温くなり始めた温度が自分の体温に同化するようで、ちょっとドギマギが和らいだ。
「いらっしゃい。休憩?」
「うん」
店員の彼女と梶さんが、気さくな会話をした。食器を仕入れているくらいだから顔見知りなのは当然なのだろうけれど、それよりもずっと、なんて言うか親密感があるように思えた。
どうしてそんな風に考えてしまう自分がいるのか。美香に言わせれば、恋でしょう。というところかな。そんなんじゃ、ないんだけどな。肩を竦ませたところで、梶さんが私の存在に気がついた。
「あっ。星川さん。こんにちはっ」
穏やかな印象の梶さんから、弾むように声をかけられてちょっと驚いてしまった。
「こんにちは」
挨拶を返せば、頬が少しだけ緩んでしまう。
やっぱり素敵な人。
だから、それが恋だって。と美香の声がまた聞こえてくる。
「休憩ですか?」
躊躇いがちに話しかけると、穏やかな笑みを浮かべ頷いた。
「隣、いいですか?」
え?
訊ねられた意味が解らず、一瞬時間が止まった。けれど、微笑む梶さんの顔を見ていたら、気がつかないうちに頷きを返していた。他にもいくつか席が空いていることは、後ろを振り返らなくてもわかる。なのに、するりと隣の席に腰を下ろすなんて。まだ、たったの三回しか会ったことがないのに、とても人懐っこい人。穏やかな空気感はあっても、年上だし、容易に近づけない雰囲気があったからとても驚いた。けれど、スルッとそばに来られても嫌な感じが全くしないのは、落ち着いた様子と穏やかな微笑みのせいだろうか。それとも、商売柄。お客様と接することが多いから、自然とそういった雰囲気になるのだろうか。
なんにしても、カウンター席で梶さんと並んで座るというのは、思いもよらぬサプライズでとても照れくさい。ドキドキし始める心臓の音を聴かれそうで、カップに手を添え気づかれないように息を吐き出し吸った。
「お知り合いなの?」
カフェエプロンの彼女が、梶さんの顔を見て訊ねた後、私のことを見る。
「お隣さんになった、星川さん」
梶さんが紹介してくれた。「こんにちは」と挨拶をすると、彼女はニコリと笑みを見せた。
「梶君は、いつものでいいのかな?」
彼女が、梶さんのことを君付けで呼んだ。瞬間的に、心臓がどうしてかキュッと締め付けられたようになる。彼女の視線が梶さんを優しく見つめている。
私と佑のような間柄なのだろうか。幼馴染のような、とても近しい雰囲気。ううん。それよりも、もっと近しい……。あ、もしかして、彼女さん? 梶さんと彼女は、恋人同士?
そう考えると、二人の雰囲気はピタリと当てはまった。さっきキュッとした心臓が、今度はギュっとなる。表情が硬くなりそうなのを堪えた。
「僕の顔に、何かついてるかな?」
笑顔で訊ねられて、ずっと梶さんのことを見続けていたことに気がつき慌ててしまう。
「あっ、いえっ。こ、このカフェ、とても素敵ですよね。通いつめちゃいそうです」
誤魔化すように、必死に言葉を繋げた。
「そんなこと言われたら、櫻子さん、ものすごく喜ぶんじゃないかな」
そう言って、梶さんはレジ傍に下がった彼女を振り返った。
彼女、櫻子さんていうんだ。ああ、だから「SAKURA」。
同じように背後を振り返り、彼女が放つ雰囲気ととても合う名前だと納得した。それにしても、恋人をさん付けで呼ぶなんて、何だか梶さんが可愛らしく思えてしまう。
梶さんの前にもカプチーノが届いた。彼のソーサーには、チョコチップクッキーがひとつ乗っていた。あれもレジ横に売っているのかな。
「星川さん、クッキー食べる?」
物欲しそうに見ていただろうか。恥ずかしいな。
遠慮する私のソーサーに、梶さんがチョコチップクッキーを置いた。
「帰りに買いたくなるように」
冗談めかして笑う。
カフェの回し者ですか?
可笑しくて私も笑ってしまった。
「ここで食器を仕入れて貰ってるから、繁盛すると助かるんだ」
なんて、正直者なのだろう。クシャリと表情を崩した笑みが、子供みたいで心臓がキュンっと反応してしまった。
ホントに素敵な笑顔。
美香の、惚れたな。って声がまた聞こえた気がした。
ダメだよ、美香。梶さんには、櫻子さんという素敵な彼女さんがいるんだから。
そんな風に言い聞かせる自分は、なんだか滑稽だ。
再び肩を竦めて、カップを口元に持って行った。冷め始めたカプチーノの泡が、カップの底でブクブクと思いを抱き込んで泡立っているみたいだった。
櫻子さんが彼女だろうと思ってから、少しだけ。本当にほんの少しだけ、キュッと切なく鳴る心臓の音が和らいだ。相手がいる人に想いを寄せても叶わない、と諦めの気持ちがラッピングペーパーみたいに心をきっちりしっかり包み込む。ダメだからね、って念を押すように角を合わせて折り込んで、綺麗な柄で誤魔化して、中が見えないようにしてくれる。
引き返せないくらい好きになる前でよかった。
ほんの少し体を斜めにして、櫻子さんがコーヒーをテーブルへ運ぶ姿を横目で追った。
本当に素敵な人。梶さんと二人で並んだら、とても絵になる。例えばこの二人が美術館で一緒に絵を眺めていたら、それそのものが絵画のようだろう。それほどお似合いの二人だ。私の入り込む隙間なんて、少しもない……。
隣では梶さんが優しい声音で、ここのコーヒーは美味しいだとか。目の前のUzdrowienieで働くアルバイト君は、みんなからあっ君と呼ばれているだとか。口は軽いけど、心の軽いやつではないんだよ、とか。パン、美味しかった? また貰ってね。だとか。ご近所の立ち話みたいな、とてもゆったりとした日常会話でこの場を優しい雰囲気にしてくれた。
帰りにレジ横にあったクッキーを買った。梶さんがくれたチョコチップと、初めにソーサーに乗っていたアイスボックスクッキーだ。家に帰ってから、借りた絵本とクッキーを前にする。
コーヒーを淹れてチョコチップクッキーを口にすれば、梶さんの甘いマスクと重なって、クッキーはさっきよりもずっと甘く感じた。胸がキュッとなるくらい、甘く感じたんだ。
梶さんがくれたマグカップの小鳥が、私のことを切なげに見ている気がした。