週末。実家から少し貰ってきていたお米が切れかけていて、近所のスーパーへ出かけた。
 スーパーのお米売り場の前に立つと、いくつかの品種がいくつかの重さに分かれて、デンと平積みされていた。いつも買う品種の前に立ち五キロにするか。はたまた十キロにするか。腕を組んで悩む。私一人なら五キロでもしばらく持つだろうけれど、佑が度々やってくることは容易に想像できるから迷ってしまうのだ。けれど、十キロの米袋を抱えて帰る苦労を考え今回は五キロで手を打った。十キロはさすがに重すぎる。佑が来た時にまた買いに来ればいい。

 それでも、五キロのお米は徒歩で帰る私の腕にはずっしりと重く。スーパーで二重にしたビニール袋が千切れてしまう心配はないけれど、それを持つ私の手が千切れてしまいそうだ。

 何度か立ち止まり、右手から左手に、左手から右手に持ち替える。そのうちに、まるで赤ちゃんでも抱っこするようにして胸の前で抱えると、小学生だったころ、生まれて間もない佑を恐る恐る抱きかかえた時のことを思いだした。

「あんなに小さくて可愛らしかったのになぁ」

 今現在の佑の大きさを思うと、つい笑ってしまった。今は、身長が百八十近くもあって、百六十あるかないかの私は、常に見下ろされている。

「育ちすぎでしょ」

 漸くマンションのエントランスが見えて来たところで、同時に見慣れたママチャリも目に付いた。その傍に立っていた同じように見慣れた人物が、僅かに駆け足で近づいてきた。

「昼間っから来るなんて、珍しいじゃん」

 近づいてきた佑へ言うと、抱きかかえていた赤ん坊のようなお米の入る袋の重みが消えた。

「暇なんだって顔で俺を見るな」

 自覚している佑を見て笑うと、隣に並びお米の入るスーパーの袋を軽々と抱えた。

「ご飯でも集りに来たわけ?」
「よく解ったな」

 今度は、佑がケタケタと声を上げる。佑の笑い声は、歌っている時とは大きく違う。あんなに心に響くような声質なのに、まるで小さな子供が笑うように、イタズラで挑戦的だ。

「五キロなんて、すぐになくなるだろ」

 自分が食べることは想定済みのようで、自ら抱える米袋に若干不満そうな顔をしている。

「この大飯ぐらい」

 二人でエレベーターへ乗り込むと、一人で乗っていた時には感じなかった揺れが箱の中でわずかに起きた。二人と米五キロ。エレベーターの右上には、定員は六名。積載四百五十キロと記載されたシールが貼られている。そのシールをぼんやり見ているうちに五階へたどり着く。

「ドリアが食いてぇ」

 抱えている米を少しばかり持ち上げた佑が、昼食のリクエストをする。
 お米を持ってくれているわけだから希望に応えてもいいのだけれど、昼食のメニューはすでに決まっていた。

 佑を横目に、玄関の鍵を開けて部屋に入る。ダイニングテーブルに佑が置いたお米をスーパーの袋から取り出しつつ、面倒なの言ってくれちゃってと返しドリアを却下した。

「今日は、ほうれん草とベーコンのパスタだから」
「じゃあ、せめてクリームパスタで」
「女子かっ」

 佑のクリーム好きに突っ込みを入れてから敢えてにんにくを取り出すと、膨れた顔を向けてきた。その顔をニヤッとしながらスルーして、鼻歌交じりにペペロンチーノの準備をする。頬がまた少し膨れた。子供なんだから。

 たっぷりの水を張った鍋を火にかけ、にんにくを刻み、ほうれん草とベーコンも用意する。フライパンに惜しげもなくオリーブオイルを注ぎ入れ、にんにくの香りをさせれば、あれだけクリームに拘っていた佑もいい匂いだと笑みを浮かべた。お腹を空かせている佑にしてみれば、ドリアだろうとペペロンチーノだろうと、満腹中枢が反応しさえすれば、結局は拘る程のことでもないのだろう。

「ご飯が済んだら、買い物に付き合ってよ。自転車があると、嵩張るもの買う時に助かるんだよね」

 出来上がったパスタを向かい合って頬張りながら、佑を買い物へ付き合わせようとした。すると、面倒臭そうな目をされた。

「雪乃もチャリ買えよ」

 実家から越してくる時に、自転車も一緒に持ってきたいところだったのだけれど、母と共有して使っていたものだったので置いてきたのだ。

「売れる曲書いて、電動自転車プレゼントしてよ」
「けっ。言いやがる」

 パスタを完食した後、佑を引き連れ買い出しに行った。トイレットペーパーにティッシュ。佑が飲むこと前提の炭酸飲料の数々と洗剤類。角にある花屋さんにも寄った。小ぶりのポットに植えられた、観葉植物が欲しかったんだ。

「なに小洒落てんだよ」

 花というか、植物になど興味のない佑が、店内を見て回る私のあとを面倒くさそうについてくる。

「窓辺に置きたいなと思って。あと、部屋とトイレにも」

 あの部屋は陽当たりがいいから、緑があるだけで随分と雰囲気が明るくなると思うんだ。

「ポトスとアイビー。どっちがいいかな?」

 二つのポットを交互に見て、背後でダルそうにしている佑に訊いてみたけれど、面倒臭そうな目でどっちでもいいよと即答された。

「少しくらい考えてから返事をしてよ」

 不満を口にしてはみても、佑の意見を聞いて買うかといえばそうでもない。答えが決まっていても、なんとなく訊ねたくなるというのが女性の心理というものだ。結局、葉の色が明るいポトスを選んだ。

「そういえば、この先にお隣さんの経営している雑貨屋さんがあるんだよ。佑がチラシを捨てた、あのお店。見に行く?」

 捨てたのところをわざと嫌味っぽく言って訊ねると、ジトっとした目で見返された。

「俺が雑貨屋に興味があると思うのか?」

 真顔で問い返されて、僅かな間を空け笑ってしまった。

「あるわけないか」

 自転車の籠や荷台にたくさんの荷物を積み、落っこちないように二人で支えながら、自転車を押してマンションへとUターンした。

「この前。勝手にアレンジされるってごねてた昔の曲は、どうなったの?」

 部屋に戻り、買ってきた荷物を片付けながら訊ねると。テレビのリモコンを手にした佑が、ベッドにごろりと寝転がる。

「雪乃が、言うこと聞いておけって言うから……」

 片づけをしている背中に、佑の不満気な声が届く。

「聞いたんだ?」

 手を止めベッドに寝転がる佑を振り返ると、……少しな。と唇を尖らせるから思わず笑ってしまった。こんな時の佑は、小さい頃の面影が強く出る。なんだかんだと不満に思っても、私が言ったことをきく時に見せる顔つきだ。口では全てを否定しているようなことを言うけれど、心の中ではそれじゃダメだと自身でも気づいているのだろう。だから後押しが欲しいと思っていて、私もそれに気がつき促すようなことを口にする。

「その曲。売れるといいね」

 多くは言わない。音楽について私が知っていることなど、佑の半分もないし。専門的なことに口出ししたところで、佑もうん。とは思えないだろう。ただ佑の曲や声が、もっとたくさんの人に届いて欲しいと願っている。

「世に出るまでには、まだしばらくかかる」

 天井に向けて呟く声は、自分に言い聞かせてでもいるみたいだ。

「聴かせてよ」

 鼻歌交じりじゃなくて、佑の声と詞とメロディーが聴きたい。

「ギターねぇし」

 ベッドの上で起き上がると、ねだる私に視線を向ける。

「アカペラで」
「いつかな」

 さらに催促してみたのだけれど、どうやら今日は聴けそうにないようだ。
 ベッドに深く座って頭の後ろに手を当て、壁に寄りかかったまま佑が視線を逸らした。その態度に、今はまだその時ではないんだと、少しだけ残念に思った。

「ケーチ」

 気分を切り替え、わざと煽る。

 佑は完璧主義なところがあるから、しっかりと形になるまでは聴かせられないとでも思っているのだろう。それとも、原曲を知っている私に聴かせるのは、抵抗があるのだろうか。なんにしても、しばらくはお預けだ。

「なぁ。夜、カレーが食いてぇ」
「夜まで居座る気?」

 呆れた顔で振り返って訊くと、また唇を尖らせた。

「なんだよ。どーせ暇だろ?」
「それは、佑でしょ」

 言い合ってはみたものの、お互い様だとすぐに気がつき、二人で肩を竦めた。そもそも、一人暮らしでカレーなんて、そうそう作る機会があるものではない。余ったからといって冷凍できるわけでもない。じゃがいもは、冷凍するとパサパサのカスカスになってしまうからだ。だからと言って、ジャガイモのないカレーもなんだか味気ない。そうなると、一人暮らしが食べるカレーは、必然的にレトルトか。もしくは、某有名チェーン店のカレーということになる。

 佑がカレーを食べたいというなら、作ろうじゃないの。私も、家で作ったカレーが食べたいし。冷蔵庫の野菜室を開け、じゃがいも、人参、玉ねぎを取り出す。それから冷凍庫の抽斗を開けた。

「鶏肉でいい?」

 中には、先日スーパーで買った鶏肉がカチンコチンになって収まっていた。

「はぁ? カレーっつったら、豚だろう」

 再びベッドでゴロゴロしていた佑がムクリと起き上がり、ツカツカとキッチンへ来て冷凍庫の中を覗いた。

「鶏肉しかないから、我慢して」

 冷凍庫の中から鶏肉を取り出すと、中に豚肉がないのを確認した佑が私の手から鶏肉を奪う。

「カレーは、豚肉なんだよ」

 奪った鶏肉を冷凍庫へと戻すから、じゃあ買ってきてよと腕を組むと仕方ねぇなぁ、と玄関へ向かう。

「カレーのルゥもね」

 千円札を渡して満面の笑みで見送ると、「ちょっと待ってろよ!」と私の顔に向かってビシッと人差し指を突き付けスーパーへ買い出しに行った。渡り廊下に出て、ママチャリにまたがりスーパーへ向かう背中に、「いってらっしゃーい」と大きく手を振ると、振り返りもせず右手だけを上げて行ってしまった。

 佑がスーパーへ行っている間に、野菜の皮をむき、刻んでいく。鍋を用意して、お米を研いで炊飯器の準備をしたところで佑が戻ってきた。

 豚肉を買いホクホクとした顔で戻ってきた佑は、再びベッドへごろり。時折、テレビを見ている佑を振り返ると、懐かしさに目じりが下がった。

 佑の両親は共働きだから、夜は星川家で預かることがほとんどだった。私の父は残業も多く、子供が起きている時刻に帰ってくることはあまりなかった。その頃の母はまだ週三、四日の時短勤務で、夕方には仕事を終えて家にいた。録画しておいた子供番組を観ながら、テレビの前で夜ご飯ができあがるのを待つ佑を、母の手伝いでキッチンに立つ私は時折振り返り目を細めていた。

 小さい頃から歌が大好きだった佑は、テレビから流れてくるメロディはもちろんのこと、よくわからないメロディーを口ずさんでいることが度々あった。「なんの歌?」と訊ねる私に、「自分で考えたー」と嬉しそうに言っていたことも数知れない。

 中学に行くようになってからは鼻歌のレベルも上がっていた。ギターで少しずつ作曲をし始めた頃には、自分の作った曲を口ずさんだりもしていた。

 父が亡くなり、母の帰りが遅い日は、ギターを弾きながら私が作る夜ごはんが出来上がるのを待っていたっけ。大学のレポートに夢中になっている私に、無理やり作曲した曲を聴かせてきたこともあったな。数ある佑との思い出は、どれも微笑ましくて頬が緩む。

 具材を煮込み、部屋で大人しく待っている佑を振り返る。チャンネルがいくつか変わりだしたから、きっとそろそろ聴こえてくる頃だろう。

 ほら、鼻歌が聴こえ出した。これは、何の曲だろう。ああ、懐かしい。何年か前の冬に、突然閃いたと言って出来上がった曲だ。

 佑の声は、とても耳心地がいい。目を瞑り、ゆったりとした雰囲気の中で聴いていたくなる、優しくて、心に届くような声だ。弾き語りも素敵で、それはいつだって温かくて、私は何度も涙を誘われた。

 今は曲のヒットもなくて、たくさんの人に聴いてもらうチャンスは少ないけれど。必ず佑の声は、世の中に届くと信じている。
 怠け癖はあるし、拘りは強いし、我儘だし。周りとうまくやっていくのが下手な佑だから、チャンスを何度も逃してきた。だけど、私は大丈夫と信じている。だって、すぐ近くでずっと聴いてきたんだもの。この声をずっと聴いてきたんだもの。佑のこの声は、必ずたくさんの人に届く。

 鼻歌は、いつしか別の曲に変わっていた。

「いい曲だね」

 さっきの懐かしい曲とは、また違う。まだ一度も聴いたことのない曲だ。
 キッチンから離れてそばへ行き、声をかけると、ちょっと驚いた顔で佑が振り仰ぐ。それは、初めて私に曲を聴かせるときに見せる、照れくささを隠す驚き顔だ。

「どう思う?」

 曲のことを訊ねられ、ベッドに腰かけ佑を見た。

「静かな夜に似合う曲だね」
「さすが、雪乃。よく解ってる」

 共感を得られたことに勢いをつけ、私の方に向かって胡坐をかいた。

「なのに、アレンジャーがさ、もう少し明るい感じでとか言い出しやがってよ」

 ぶつくさと文句を言いだした佑の唇が尖っていく様を見て、つい笑ってしまった。思わず頭に手を伸ばし、よしよしと撫でてしまいたくなる。しかし、流石に大学生にもなってそんなことをしたら、佑のプライドを傷つけてしまうだろうからグッと堪える。

「佑の作った曲。楽しみにしてるからね」

 再びキッチンへ戻りカレーの仕上げにかかる。炊き上がるお米の香りに、佑も鼻歌交じりでダイニングのテーブルに着いた。
 出来上がったカレーは少し辛すぎたけれど、雪乃のカレーはやっぱ一番うめぇなぁ、と喜ぶ佑に釣られて頬が緩んだ。

「隠し味、あんだろ?」

 かき込むようにお皿を空にした佑は、自ら二杯目のお代わりに取り掛かる。炊飯器からご飯をよそい、鍋からルーを掬い上げてたっぷりとかけた。

「内緒だよ」
「なんだよ。教えろよ」

 さっき私が盛った量よりも少し多めに盛りつけたカレーを、佑がまた美味しそうに頬張っている。

「どうせ新しい彼女ができたら、私の隠し味を教えて作らせるんでしょ?」
「なんでわかるんだよ」
「なんでもお見通しです」

 目の前で得意気な顔をすると、気を取り直したように佑は饒舌に話し出した。この前まで付き合っていた彼女の料理がとんでもなくまずくて。どうやったらあの味が出せるのか、こっちが訊きたいくらいだったなんて言いながら、椅子の背もたれにふんぞり返った。料理が下手ってことは、味覚がおかしいのか。それとも、単に不器用なのか? と首を傾げつつも、ふんぞり返っていた体を元に戻し、再びカレーの乗ったスプーンを口へと運ぶ。口いっぱいにカレーを頬張りながら話は止まらない。

「ちゃんと、ゴックンしてから話しなさいよ」

 矢継ぎ早に話そうとする姿に、小さな子供みたいに注意をして笑った。それにしても。

「文句だけは、一丁前だよね」
「それが俺の醍醐味だ!」

 自信満々に言い切った佑に、意味が解らないと声を上げて笑った。うちの弟は、どうにも自己中で我儘だ。

 帰り際。大きなタッパーにカレーを入れて持たせると、ホクホクとした顔で受け取り帰っていった。
 新しい生活が始まっても、佑と私は何も変わらず。これが私達家族だと思うんだ。