スマホのアラームが鳴っている。ベッドの上ですでに目を覚ましていた私は、ゆっくりと手を伸ばし画面に触れて止めた。起き上がるまではしないまでも、仰向けのまま、脳はすっかり覚めていた。
 このマンションに越したことで、先週までかけていてアラーム時刻よりも、三十分ほど遅い時間に起きても出社までには余裕があった。家から駅までの距離が近くなっただけでなく、最寄り駅自体が会社に近づいたからだ。
 例えば会社の飲み会で終電を逃したとしても、ちょっと気合を入れて頑張れば、ここまで歩いて帰れないこともない距離だ。

 ベッドから抜け出し、キッチンで薬缶に水を入れ火にかける。薬缶が湯気を上げるまでの間に、洗面所で顔を洗い、歯を磨いた。
 そういえば佑は、うがいをする時に「ぐちゅぐちゅ、ぺ」という表現をする。これは、佑がまだ小さい頃に、私が何度も口にし、躾けていた言葉だ。それが未だに染みついているのかよく口にしていた。体つきは大きくなっていても、まだまだ子供みたいな発言をする佑は可愛いと思う。

 気がつけば、キッチンでは薬缶が湯気を上げていた。シューというミニSLでもホームに入ってきているのかという音を立てている薬缶の元に戻りガスを止めた。コーヒーの粉を入れたフィルターの周りから、ゆっくりとお湯を注ぎしばらく蒸らす。

 朝から大好きなコーヒーをゆっくりと飲む時間ができるなんて、幸せ過ぎる環境だ。梶さんから戴いたマグカップにコーヒーを注ぎダイニングの席に着いた。同じく、梶さんのところで購入したプレートには、マーガリンを塗った食パンとスクランブルエッグ。ついこの間までは、毎朝バタバタとして、パンを慌ててかじり飲み込んでいたのだけれど、それが嘘のようなゆったりとした時間を堪能できている。

 そうだ、ヨーグルトも食べていこう。

 昨日コンビニでおにぎりと一緒に買ったヨーグルトを取り出そうと冷蔵庫を覗いてみたけれど、あるはずの物がない。きっと佑が食べてしまったのだろう。キッチン傍のゴミ箱へ視線をやると、案の定、空になったヨーグルトのカップが捨てられていた。

「いつの間に」

 自宅のように振舞う佑の行動に、いちいち目くじらを立てることはあまりない。慣れた。というよりも、元々そういう奴だと理解しているから流してしまえる。
 しかたないから、今度は少し多めに買って入れておこう。昨日行ったスーパーで、一パック三個入りが百円で売られていたことを思い出し。主婦のようにお買い得、なんてポンッと手を打つ。

 そうそう、このダイニングテーブルは、佑の実家からの戴き物だ。佑の母親から、新しいダイニングセットを買いたいのだけれど、今まで使っていたものの処分に困っているという話を聞きつけたうちの母が譲り受けてきたのだ。処分するにも料金が発生してしまうことを思えば、私が貰い受けることで無駄がなくなると、佑のおばさんも快く譲ってくれた。中古とはいえ、傷も汚れもかなり少なくて、丁寧に使っていたのが解る。

 元々実家にあったダイニングセットが私の部屋にあるわけだから、佑も余計に我が家のような振る舞いをして遠慮がなくなっているのかもしれないと、再びゴミ箱の中に収まるヨーグルトの空を見て苦笑いを浮かべる。

 食事を済ませ、もう一度食後の歯磨きをする。鏡を見ながら、昨日美香に買ったハンドメイドソープのことを思い出し、歯ブラシを口に咥えたまま部屋に行き、通勤バッグの中へ入れた。手早く化粧を済ませて着替え、最後にスーツのジャケットを羽織り、パンプスに足を入れた。バッグを手にして外に出れば、清々しい空気と新しい町の新鮮さに自然と笑みが漏れた。

 駅までの道も新鮮で、足取りは軽い。馴染みのない駅。馴染みのない車両。どこから乗ったらベストだろうか。できるだけ空いている車両を探したい。乗り換えなしの一本で会社に辿り着くと、ICカードをかざしてフロアへ向かい自席を目指す。ついさっき来たばかりなのか、美香がパソコンを立ち上げたばかりのところだった。画面に、社名のロゴが浮かび上がっている。

「おはよ。荷物は片付いた?」
「おはよう。頼りになる助っ人がやって来たからね」

 同じようにパソコンの電源を入れてから、バッグに収まるハンドメイドソープを取り出し、美香へ差し出した。

「あ、可愛い。どしたの、これ」

 ふふ。と笑みを作ると美香も笑う。
 何から話せばいいのか。あれもこれも聞いて欲しい。

「引っ越し祝いにランチ奢ってあげるから、話聞かせてよ」

 隣の席にいる美香とは、同期で仲がいい。隣の席だから仲が良くなったのか、仲が良くなって、たまたま隣の席になったのかは忘れてしまったけれど、ランチはいつも一緒だ。お弁当を作ってきたり、コンビニか、どこかしらのお弁当を買ってきた時は休憩室で食べたり。そうじゃないときは、社食か近所の洋食屋だったり、カフェランチだったりを二人でしている。

 今日は、近所の洋食屋と決まった。決めたのは、美香だ。美香の体系は、ガリガリというわけではないけれど、決して太っていない。なのに食欲は旺盛で、サービスでパンのお代わりが自由だったり、大盛りが無料だったりする時には、必ずそうしている。この細い体の一体どこにその大盛りにした食べ物や、たくさんのパンが消えていくのか不思議なくらいだ。佑といい、美香といい。私のそばには、食欲旺盛な人が寄ってくるのかもしれない。

 そこで不意に、隣人でいて、雑貨屋を経営している梶優斗の顔が浮かんだ。彼は、食欲旺盛だろうか。一見、沢山食べるようなタイプには見えなかった。けれど、人は見た目ではわからないよね。と美香を見る。

「どれでも好きなもの頼んでいいよ」

 任せて。とわざとらしいほどに胸を張って、美香がランチメニューを手渡す。どれもお札一枚でお釣りがくる値段のランチメニューに、「太っ腹」と冗談を返して笑った。
 若干小ぶりのオムライスに、カニクリームコロッケが二つと、サラダが添えられたランチプレートを目の前に、美香の目が輝いた。

「オムライスが、普通盛りだったらもっといいのに」

 ちょっとばかり残念な口ぶりだけれど、スプーンで豪快に掬い取ったオムライスを口いっぱいに頬張り、モグモグと咀嚼している。いい食べっぷりだ。私の目の前には、小エビとブロッコリーのパスタが湯気を上げていた。ガーリックのとてもいい香りがしている。

 無心になって半分ほどまで食べていた美香が、で? と問う。パスタをフォークに絡めながら、訊ねる美香に週末の出来事を話していった。

 佑が時間になってもなかなか現れず、連絡さえしてこなかったこと。そうかと思えば、やって来て一息ついた後はやたらと働き出して、あっという間に荷物を片付けてくれたこと。隣人が、年上でちょっと素敵な人だったこと。雑貨屋を経営しているオーナーで、梶優斗という名前だということ。

 美香は話している途中で自分の意見を挟み、そこから自分の話へ転じさせてしまうというようなことはしない。まずはじっくり相手の話に耳を傾け、思考を巡らせてから何かしらの意見や感想を言うタイプだ。おかげで、いつも慌てることなく自分の話したいことを自分のペースで話すことができる。

 二日分の出来事を話している間に、湯気をあげていたはずのパスタは、すっかりその熱を下げていた。スプーンで絡めとろうとすると、温度を失いだした油が抵抗をする。幾度かフォークに巻きつけ、すっかり冷めてしまう前にパスタを食べきった。

「幼馴染君は、相変わらずな感じだね。雪乃からの話を聞いている分には、自由気ままで楽しそうだけれど。私が雪乃なら無理だな。まず、時間にルーズなのがダメ。もっとしっかりしてもらわないと。とりあえず、次来るときにはヨーグルト買って来いって言うな」

 美香が豪快に笑い飛ばす。

 佑がヨーグルトを買う金銭的余裕と思考を持ち合わせていないことを知っているから、つい無理な注文だよと苦笑いが浮かんでしまった。金欠の彼にしてみたら、たかが百円。されど百円の世界なのだ。

「いつも思うけど。雪乃が保護者みたいじゃん。幼馴染だからって、親もいるのにそこまで面倒見る必要、ある?」

 佑のことでこうして美香が疑問や意見を言うのは、これが初めてのことではない。忘れた頃に、佑について言及してくる。今の状態を続けるべきではないということを、時にはきっぱりと。時にはやんわりと諭すように話す。その都度佑とのことに考えを巡らせるのだけれど。結局は、今の状態がとても自然で落ち着くと結論付けるのだ。

 佑には、今まで何度も助けられてきた。私たち母娘は、何度も佑の存在に救われてきた。

 父が亡くなった日。涙を流すこともなく毅然と振舞っていた母の隣で、私の涙は一向に止まることがなかった。まだ幼かった佑は、そんな私の手を握り、小さな体で抱きついてきた。まるで、“大丈夫”と言われているような佑の抱きつき方は、寧ろ私の方が抱き締められている、そんな気さえした。「泣かないで」そう言って佑が差し出したピンク色した飴玉をきつくきつく握りしめた。

 佑との間柄を周囲にどう説明すれば理解して貰えるのか、未だに巧い言葉を見つけられずにいる。頭の中ではあれこれ考えているのだけれど、いざ言葉にして伝えようとすると、口に出した瞬間、それは別の物に変わってしまって、結局巧くいかないのだ。そのせいもあって、佑について何か言われたとしても、結局多くを語ることなく、口を閉ざしていた。

「まー、幼馴染君のことはいいよ。問題は、お隣さんだね。なんだっけ? 梶?」

 時々佑について意見してはきても、しつこく食い下がるということはない。黙り込んでしまった私が考えを曲げないことを半分は理解できなくても、もう半分では理解しようとしてくれているのだろう。もしくは、諦めだろうか……。

「梶優斗さん」

 梶さんの話を振られたことで佑のことは胸にしまい、どれほど素敵な雑貨の数々があったかを語って聞かせた。それに、お向かいにあったカフェだ。昨日は、買ったものに浮かれ過ぎて寄らずに帰ってきてしまったけれど、次は絶対に行ってみたい。

「ベタ惚れじゃん」

 美香が口角を上げてから、食後のコーヒーを一口飲む。

「そうなの。本当に素敵なものばかりで、お給料が出るたびに通い詰めて揃えたくなっちゃうよ」
「そうじゃなくて」
「え?」

 意味深な顔つきをした美香が、コーヒーをまた一口飲んでから背もたれにゆっくりともたれかかった。それから私の顔を見て、口を結んでしまう。因みに口角が僅かに上がっているから、何かしらの言葉を待っているようだ。私の疑問に応える前に、まだ話すことがあるでしょ? そんな顔つきをしている。

「人当たりのいい人だったよ。お母さんがパン作りにはまってるらしくて、食べきれないからってたくさんのロールパンをくれたの。佑がものすごい勢いで、ほとんど食べちゃったんだけどね」

 そこで一旦話を止めると、で? とさらに促された。

「雑貨屋さんはね、本当に素敵なお店だったよ。見るとね、全部欲しくなっちゃうくらい。引っ越し祝いにって、ペアのマグカップを貰っちゃって。お隣さんになったことだし、お近づきの記念みたいなものなのかな。あ、もちろん最初はいいですって断ったんだよ。でも、そのマグカップがね、あんまり素敵で。今度、美香も行こうよ。目の前にあるカフェもいい感じだったんだから」

 矢継ぎ早に話す私の顔を、美香はうん、うん。と小さく頷きながら楽しそうに聞いてくれた。そうして一呼吸おいてから、漸く口を開いた。

「雪乃、すっごく楽しそう。恋の予感だね」
「恋って」

 ちょっと苦笑いが浮かぶ。話が飛躍しすぎているからだ。確かに素敵な人だとは思うけれど、いきなり恋だなんて。

「前に付き合っていた人と別れてから、どれくらい?」
「一年近くかな。髪の毛も、結構伸びたでしょ?」

 若干自虐を含んだことを言って、肩先の髪の毛を耳にかけた。隠れていた耳を晒すと、十八歳の頃、同級生に空けて貰ったピアスの穴が現れる。そこには、ずっと同じピアスをはめていた。母が二十歳の誕生日にくれた、小さなダイヤのピアスだ。自分で買ったピアスは、今まで幾度となく失くしてきたけれど、母がくれたピアスは、キャッチがとてもしっかりしているおかげで、今まで一度も外れたことがない。今ではまるで体の一部のようで、はずすことなどできないくらいだ。曝け出された耳から覗くダイヤの粒が、キラリキラリと窓から入る昼間の光を浴びて光る。普段は髪の毛で隠れているから、今こそ自分の存在をこの瞬間に主張しなくては、というように光を反射させているみたいだ。

「そろそろ、新しい恋の時期なんじゃないですか? 幼馴染君の保護者ばかりしていないで、恋せよ乙女!」
「乙女って感じでもないと思うけど」

 乙女のワードに照れ臭くなり、さっき耳に引っ掛けた髪の毛を今度ははずし、再び耳を隠した。髪の毛に隠されてしまったダイヤは、輝きをひそめ、いつかまたね、というように沈黙する。

「充分、乙女だよ。一生幼馴染の相手だけを続ける気じゃないでしょ?」

 確かに、それはそうだけど。大袈裟だよ。佑が居ようが居まいが、恋人を作るのに関係がないように思うけど。

「そういえば。前に彼女の代役をさせられたって、言ってたじゃん」

 彼女の代役というのは、佑の彼女を装う偽恋人役だ。佑に頼まれて、今までに彼女役になったことは何度かある。佑のビジュアルだけに寄ってくるしつこい子を遠ざけるために、時折彼女のふりを依頼してくるのだ。これが散々な暴言を吐かれたり、要らぬ勘違いをされたりと、色々なすったもんだに巻き込まれるのだけれど。思い返せば、笑い話になることばかりだ。
 笑みを浮かべていると、笑い事じゃなくなるよなんて脅してきた。

「そのうち本気の子が現れて、関係ないのに痛い思いをしそうで、こっちが心配になるよ」

 眉根を下げた美香が息を吐く。私のことを考えてくれる美香の顔に向かって、大丈夫だよ。と笑みを返した。

「ねぇ。余計なお世話かもしれないけど。あまり関わらないようにしていった方がいいんじゃない?」

 佑についてあまりしつこくないはずの美香が、今日はどうしてか再び話を戻した。美香のことは好きだし、気も合うけれど。佑のことはなかなか理解してもらえない。私と佑の関係は、それほどにおかしなものなのだろうか。

「佑が生まれた時から、オムツを替えてあげるくらいの仲だよ」

 苦笑いで付け加えると、変な情がわいてるんだね。と肩を竦められてしまった。
 情なのだろうか。確かにこれだけ長く過ごしてきたのだから、情がないわけではない。だけど、どう考えても佑は家族で、弟で、頼りになる相談相手なのだ。十八年もの間続けて来た普通で当たり前のこの関係を崩すのは、何かとんでもなく大きなことが起きない限り無理だろう。それは、最悪の事態しか、今のところ思いつかなくて。そんなことにはなりたくないし、なって欲しくもないから。この関係は、このまま崩すことも変えることもなく続いていくのだと思う。

 言葉を止めてしまうと、美香が少し慌てたように付け足した。

「……ごめん。ちょっと余計なことを言い過ぎた。雪乃が家族や姉弟だっていう気持ちは、尊重しないとね」

 慌てる美香の目を見て、頷きだけを返した。

「とにかく。お隣さんだよ」

 カラリと表情を変えると、再び梶さんのことに話を戻した。

「お隣さんともっと仲良くなって、色々話を聞かせてよ」

 佑の時とは対照的に、瞳を輝かせる。

「何よ、色々って」

 キラキラとした目が興味津々で、子供のようだ。

「雪乃に合う人かどうか、見極めてあげる」

 得意気に笑う美香を見て、私も笑ってしまった。