櫻子さんのカフェ二号店がオープンしたのは、八月初めのことだった。最近注目され始めた土地のおしゃれな通りにオープンしたSAKURA二号店は、居抜きで内装と外観を少し変えただけだというのに、見てすぐにSAKURAだとわかる造りになっていたと梶さんから聞いている。

 一号店と同じように一段高くなった甲板には階段以外に緩やかなスロープもついていて、総ての人を快く迎えられるように気を配られていたらしい。櫻子さんらしい気配りだ。

 あの日話をして、蟠りは解消できたものの、人の心はそう簡単にはいかないもので。二号店がオープンしたからと、笑顔で足を運ぶ勇気が持てず。今は、櫻子さんが不在のSAKURAに行くのが精いっぱいだった。

 そうこうしているうちに、佑の曲は順調に仕上がり。今度こそというように、ネット配信やテレビ番組にラジオ出演、ライブのゲストだけではなく、ワンマンライブも決行されていた。事務所は、待ってましたとばかりに、漸く花が開くだろう佑と佑の曲をメディアに披露していった。

 今まで大きな石を投げたって波立つこともなかった佑の周りは、急激なビックウエーブに見舞われ、投げ入れた波紋はどんどん広がっていった。CMのタイアップ曲にもなり、突如として佑の周りは慌ただしく、本人は目が回るほどの忙しさのようだ。

 おかげで、忙しくなる以前に話していたように、ふらりと佑がこの部屋を訪ねてくるなんてことはなく。せいせいするなという半面、家族が遠のく寂しさも感じていた。まるでお嫁にでも出した父親みたいな心境だと梶さんに言ったら、その例えがそうとうツボだったらしく、珍しく大きな声で笑っていた。

 佑からは、時折メールが届く。今からスタジオで番組収録だとか。待ち時間のうちに仮眠をとらないと睡眠時間がないとか。うまい肉食わせてもらったから、今度雪乃を連れて行ってやるという得意げなメールも来ていた。

 今まで世話になった分、これからはもういいってくらい返してやるから、見てろよっ。なんて、どこか挑戦的であったかいセリフを送ってくるから、素直に楽しみにしていると返信しておいた。

 そんな佑のメールを見ては、やっぱり子が巣立っていったような感慨に耽り、しみじみとしてしまうんだ。

 美香には、「佑ロスかっ」と笑われた。

 そんな佑の住処も、年末前には変わるらしい。この部屋に近かったおんぼろアパートから、事務所が用意したオートロック付きのマンションに移り住むのだという。今現在も、あのアパートに帰ることはほぼないらしく、必要最低限の物を持って事務所が用意してくれたホテルに仮住まいをしているとか。一日二日は小綺麗な部屋にテンションも上がっていたけれど、今では落ち着かないと嘆いている。佑にしてみればおんぼろだろうが何だろうが、狭いあの部屋が自分の城なのだ。

 あのギシギシいう古い自転車は、持っていくのだろうか。新しいものに囲まれ、贅沢な暮らしをしたとしても、あの自転車だけは佑のそばにあったらいいのに。あの自転車に乗ってやってくるのが、私にとっての佑なのだと感じていたから。
 私がそばにいる理由が遠のいてきた寂しさを、自転車に肩代わりさせているのかもしれない。

 そうして私は、佑は、絶対に大丈夫。そう言い切った自分と佑に向かって、「ほらね」と鼻を高くしている。

 売れだした佑の周りには、以前よりもたくさんの女の子たちが現れるようになっていた。以前なら私の出番というところだけれど、今では事務所がしっかりと佑を守ってくれているようで安心だ。

 平手打ちを決め、全てダメになればいいと捨て台詞を吐いた彼女はどうしているだろう。できるなら、佑の成功を喜んで欲しいけれどムシのいい話だろうか。せめて、この先足を引っ張るような行動にだけは出ないでもらえるといいな。


 年が明け春になると、二枚目のシングル曲がリリースされた。佑らしいしっとりとまとめ上げた詩なのに、曲は明るくて、気がつけば口ずさんでしまう出来になっていた。映画のタイアップにも選ばれて、佑の音楽は益々順調だ。

 そういえば、歌番組に出演した時に「俺の一番大事な人へ贈ります」なんて番組内で言っちゃったものだから、メディアやファンがたくさんの憶測を繰り広げ、ちょっと騒がしくなったりもしていた。でも、それもきっといい思い出になるだろうな。

 影ながら佑を応援しつつ、梶さんとの日々も大切に育んでいた。時間の許す限り梶さんに会い、言葉を交わすことで互いの心の内を理解し合おうとしていた。

 好きだからと言って、総てを理解してもらえるというのは傲慢だ。理解してもらいたいのなら言葉にするしかない。それは簡単な時もあるけれど、とても難しくて、何度も言葉を選び直す必要もある。けれど、諦めず、投げ出さず、そうすることが大切なのだろう。全てが簡単にお気楽に過ぎて行くのなら、誰も失恋などしないし。すれ違いや、憤りに心を悩ませたりなどしない。

 私たちは、一つだけ決めごとをしていた。どんなに喧嘩をしたとしても、翌日には互いにごめんなさいをし、何がダメだったのか。どうしてこんなことになったのかを冷静に話し合い、そのあとにはお酒を飲んで乾杯をし、笑顔を見せあおうと。

 今のところ大きな喧嘩はしていないけれど、もしもそんな時が来た時のために、冷静に話し合うための心の準備はしておこうと思っている。

 私はいつだって彼の言葉を真剣に捉え、梶さんに理解してもらえるように心を伝えるようにしていきたい。梶さんが言葉を飲み込んでしまうことのないように、私が躊躇いに言葉をなくしてしまわないように。それが相手を想うということだと思うから。

 あっ君の卒業のことも考えて、Uzdrowienieでは新たな正社員スタッフの募集が始まっていた。優秀で気の合う人材というのは難しいようだけれど、そう育て上げるのも悪くないねと梶さんは今日も前向きだ。

 梶さんとの恋愛が再び始まり、この恋でワンランク成長できた気になっているけれど、佑にそんなことを言ったら笑われるだろうか。忙しい佑が暇を見つけることはしばらく難しいだろうけれど、ある日ひょっこりと現れたなら私と梶さんの仲を見せつけようと思う。ケッ、なんて言いながらも、きっと佑なら笑顔を見せてくれるだろう。
 だって、佑と私は大切な姉弟で家族なのだから。

 この町に越してきてよかった。隙間のない形の中に無理やり入り込んで、歪にしてしまったんじゃないかと悩んだけれど、今ではしっかりとした形をなし収まることができている。スルンと抵抗もなく温かく受け入れてくれる梶さんやあっ君やこの町に越してきたことは、間違いじゃなかった。凸凹な坂道を痛い思いをしながら下ったこともあったけれど、向かうべき明るい道を見つけ梶さんという素敵な人の胸に飛び込むことができたのだから。

 いつかまた凸凹に歪む日が来るのかもしれない。けれど、きっと大丈夫。言葉と想いと大切な人の力でその凸凹を少しずつでもいいから平らにしていけばいいんだ。

 情けなくたっていい。
 想いは心を込めてまっすぐ届ければ、それでいいんだ。