仕事が終わり、部屋の前でバッグからカギを取り出していると、不意に隣のドアが開いた。油断していた。音に釣られて視線を向けてしまってから、梶さんがドアに手をかけ立っている姿に心臓が止まるかと思った。訪ねるとは言っていたけれど、このタイミングだとは思いも寄らず、息をのみ、言葉もなく呆然としてしまった。
「少し、いいかな……」
躊躇うように同意を求める梶さんに、頷きを返した。
少し歩こうかと梶さんは部屋に鍵をかけ、エレベーターへと向かう。出しかけていた鍵をバッグに戻し、彼のあとを追った。
梅雨の気配が色濃くなってきた。湿気を含んだ空気と、昼間の熱がこもるような外気。いつ降り出してもおかしくないように、夜空には暗い雲が多かった。
考えてみれば、水曜なのだから、Uzdrowienieが定休日の今日、このタイミングで梶さんが訪ねてきても不思議ではない。
付き合うまでに感じていた、憧れのような想いの溢れるドキドキとする気持ちや、付き合ってすぐの熱を帯び盛り上がっていく感情とは駆け離れた心を抱えながら、梶さんの半歩後ろをついていく。
「昨日は、ごめん」
半歩ほど先を行く梶さんが、重い声を出した。私を残したまま戻らなかったことに、申し訳ないという感情はあるようだ。
街灯と二台並んで設置されている自動販売機の灯りが二人を照らす。駅からこちらに流れてくる人たちと時々すれ違いながら、頃合いを見計らうように梶さんが再び口を開いた。
「僕は、今の自分の仕事に誇りを持っているし、好きでやっていることだから夢中になるのは自分でも理解していた。ポーランドという国に興味を持ち、知れば知るほど好きになり、それを受け入れ、話を聞いてくれる相手には惜しみなく語って聞かせてきた。僕は、雪乃ちゃんに僕の仕事の話をしている時、本当に幸せだっんだ。興味を持ってくれたこと。僕が気に入り仕入れた商品を、愛しそうに眺め買ってくれたこと。その国の食べ物を一緒に食べ、美味しいと言ってくれたこと。それは、僕自信を受け入れてもらえたようで、とても舞い上がっていたよ。だからかな。普段からそばにあるもの全ても受け入れてもらえるんだって、勝手に思っていたみたいだね」
梶さんの言葉には、私自身にも重なる部分があって、心がチクリと痛んた。好きだからと言って、総てを受け入れてもらえるという考えは、傲慢なのだ。
私は、今まで周囲が佑を受け入れてくれないことが不思議でならなかった。男女間の繋がりなど一切ないのに、どうして理解して貰えないのだろうと。自分本位の思いだけを突き通してきた。けれど、今梶さんが言ったように、好きだからと言ってすべて受け入れてもらえるという考えは間違いなのだ。相手に受け入れて欲しいなら、努力をしなければいけない。言葉を尽くし、行動や態度で理解してもらえるまで、根気強く繰り返していくしかないのだ。そうすることで、初めて解りあえるのだろう。
梶さんは、一旦言葉を区切る。二人で歩いてきた道の先には、気がつけばあの森林公園の入り口があった。中に入ると、住んでいるだろう動物たちも息をひそめ、見つかってはいけないと姿を隠してでもいるようだった。
「座ろうか」
少し歩いた先にある、等間隔で並ぶベンチの一つに腰かけた。傍に座ることを自然と抑えるように、拳三つ分ほどを空けて梶さんが腰かける。その距離が切ない。
「櫻子さんと、別れた理由はね。彼女がバリスタの勉強をするために、メルボルンへ留学したからなんだ。コーヒーに魅せられた彼女は、卒業と同時にオーストラリアへと旅立った。僕に相談することもなく、さっぱりとした表情で、何の躊躇もなく彼女は空港で僕に手を振っていたよ。はっきりと別れを言われたわけではないけれど、いつ戻るのかもわからないし、留学についても話してくれもしなかったから、これは事実上の別れなのだろうって、僕はその時必死に心に言い聞かせてた。取り残された僕は気力をなくしたものの、丁度その時以前から話して聞かせて貰っていたポーランドについて叔母から学び、資金の援助を受けて店を開業するための準備を始めていた。叔母がついているとはいえ、商売なんて初めてのことだから、右も左もわからなくて。就職活動もせずにいることにも不安を覚えたよ。周りはすでに内定の出ている人もたくさんいるのに、自分はまだ勉強途中で、こんな状況で本当に店を持つことなどできるのかってね。店を持ったとしても、続けて行けるのか。どこか名のある企業に就職した方が安泰ではないかって、自分の将来に不安を覚えてた。日本とポーランドを何度も行き来し、輸入の仕方、契約の取り方、販売方法。法律云々。一人で全て抱えることに、好きだけじゃやっていけないんだってこともよく解った。あの頃の僕は、生きている中でも一番必死になっていたんじゃないかな」
梶さんは、懐かしむような、照れくさいような表情で目を細めた。
「卒業して、一年半後。僕は、この町にUzdrowienieを構えることができた。初めは、お客なんてまばらでね。物珍しい雑貨や食器を売る店に冷やかしも多かったな。いいものは、それだけで売れるなんて思ってたけど、大間違いなんだよね。その商品の魅力をどんな風に伝えるか、商品の陳列の仕方や、どうやってお客さんにこの店を知ってもらい、来店してもらうか。来てくれたお客さんに、どうやってアピールするか。どんなペースで新商品を仕入れて店頭に置き、どのタイミングでお客さんに声をかけ、どんな言葉で購買意欲を引き出すか。ホント、試行錯誤だったな。今でも、もっともっとたくさんの人に僕の好きなものを気に入ってもらえるようにするにはどうしたらいいのか、勉強中だけれどね。そんなある日。目の前にあった不動産屋が店をたたみ、店舗の取り壊しが始まった。今度はどんなお店ができるのかと思っていたら、突然櫻子さんがUzdrowienieを訪ねてきて、僕は本当に驚いたよ。何より驚いたのは、二か月後には不動産屋の跡地にお店をオープンするって聞かされた時だったけどね」
そこまで話して、梶さんが立ち上がる。
「喉が渇いたな。ちょっと待ってて」
ずっと話しっぱなしでいたからか、少し先にある自販機に向かって梶さんが歩いて行き、缶コーヒーを二つ手にして戻ってきた。
手渡された缶コーヒーを受け取り、私ものどを潤した。気がつかなかったけれど、私ものどが渇いていたようで、スルスルと流し込むようにコーヒーを口にした。
「まさか、もう一度櫻子さんに逢うことになるとは思ってもいなかったし。何より、目の前に彼女のカフェが建ち、まるで一緒に働くような現場ができ上がるとは思っていなかったら、不思議だったし、心強くなったよ。彼女は昔からしっかり者で、僕は何度も彼女に救われてきた。その時の安心感が蘇ってきたんだ。あの頃の彼女は、付き合っていた僕をあっさりと見切り、海外留学をするくらいのアクティブな人だったから、戻って来た事には正直嬉しくもなったけれど、あの頃のような恋愛感情は僕の中に芽生えることはなかったんだ。彼女も、そうだとずっと思っていた。けどね……、雪乃ちゃんの言うとおりだったみたいだよ。僕は、何もわかっていなかったし。淳史が言うように、その辺のことにはとても鈍感だったみたいだ」
自分自身に呆れてしまったように肩を落とし、大きく息を吐いた。それから、コーヒーを飲むと、夜空を仰いだ。
「あのあと、櫻子さんと話したよ」
あの後というのは、ダイニングを二人で出て行った時のことだろう。どんな風に言葉を交わしたのだろう。どんな風に櫻子さんの気持ちを受け止め、答えを出したのだろう。知らず、缶コーヒーを握る手に力がこもる。
「大学の頃の僕は、高嶺の花の彼女に夢中だったからね。今ではくすぐったくなるような甘い言葉も平気で言ってた。その中に、櫻子さんの淹れてくれたコーヒーの味をベタ褒めする言葉があったらしいんだ。言ったはずの僕はといえば、ただただ彼女に夢中だったから、どんな言葉を伝えたのか、浮かれすぎていて覚えてもいなかった。けど、僕が言った言葉で、どうやら櫻子さんの人生を動かしてしまっていたようなんだ」
梶さんのことだからきっと、世界一美味しいと櫻子さんの淹れたコーヒーを褒めたのだろう。梶さんを愛していた櫻子さんは、そんな彼の言葉に心を動かされ、極めることを選んだ。櫻子さんは、初めから決めていたのだろう。いつか梶さんの元に戻り、お店を開き、彼が来てくれる美味しいコーヒーを出す寛ぎのあるお店をオープンさせようと。櫻子さんは、本当に梶さんのことを好きだったんだ。
「言われたよ。全ては、僕を想うゆえだって……。雪乃ちゃんと出会うまでにも、何人かの女性と少しばかり付き合ったりもしたけれど、どの娘とも長続きがしなくてね。それは、僕の側の想いもあったけれど、櫻子さんにも原因があったことも告白された。彼女、僕の傍に来る女性に意地悪なことをしてきたって……。初めはそんな自分が嫌で悩んだこともあったけれど、少しずつマヒしていく感覚に支配されていったって。僕は、そんな彼女の気持ちにも気がつかない、ダメな男なんだ」
梶さんに近づく女性に嫉妬を抱き、櫻子さんは少しずつ黒に近づく感情に目を瞑り暮らしてきたのだろう。櫻子さんを見ていればわかる。本当はとても素敵な人のはずなんだ。私のために席を用意してくれたり、サービスのコーヒーを出してくれたり。彼女にとってそういったことは当たり前なのかもしれないけれど、そんな風に当たり前にできてしまうことこそ、彼女が素敵な女性だと言っている証拠だ。そんな櫻子さんが、嫉妬に心を乱され、澱のように底に溜まり沈んでいく黒い感情に罪悪感を覚えないはずがない。
みんな未熟だね。沢山の言葉を知っているはずなのに、伝えるべき相手にそれを話すことができないなんて。好きだから待っていて欲しいと言えなかった櫻子さん。突然切り離された感情に言葉をなくし、待っていると言えなかった梶さん。互いに再会したのに、今の感情を伝え合わなかったこともそうだろう。
私だってそうだ。佑のことを理解してもらえないことに首を捻ってばかりいないで、もっとたくさん話すべきなんだ。どうやったら伝わるのかなんてわからないけれど、伝わるまで必死になるべきだったんだ。まるで、伝わらない相手に責任があるように、諦めて溜息を吐いて黙ってしまうなんて傲慢だ。
「僕にもう一度チャンスをくれないかな?」
梶さんが強い意志の元、私の目をまっすぐに見つめる。
「櫻子さんとのこと、しっかりと線引きできるようにしたい。店ごと引っ越すなんてことは、難しくてできないけれど。僕の想いや態度なら、いくらだって変える努力はする。櫻子さんに対しての付き合い方を見直すよ。だから、もう一度雪乃ちゃんのそばにいることを、認めてくれないかな」
終わってしまうと思っていた二人の関係は、梶さんの強い想いのおかげで切れることなくつながり続けることとなった。いつだって一生懸命なのは、私ではなく梶さんの方なのだと、彼の想いの大きさを実感した夜だった。
「少し、いいかな……」
躊躇うように同意を求める梶さんに、頷きを返した。
少し歩こうかと梶さんは部屋に鍵をかけ、エレベーターへと向かう。出しかけていた鍵をバッグに戻し、彼のあとを追った。
梅雨の気配が色濃くなってきた。湿気を含んだ空気と、昼間の熱がこもるような外気。いつ降り出してもおかしくないように、夜空には暗い雲が多かった。
考えてみれば、水曜なのだから、Uzdrowienieが定休日の今日、このタイミングで梶さんが訪ねてきても不思議ではない。
付き合うまでに感じていた、憧れのような想いの溢れるドキドキとする気持ちや、付き合ってすぐの熱を帯び盛り上がっていく感情とは駆け離れた心を抱えながら、梶さんの半歩後ろをついていく。
「昨日は、ごめん」
半歩ほど先を行く梶さんが、重い声を出した。私を残したまま戻らなかったことに、申し訳ないという感情はあるようだ。
街灯と二台並んで設置されている自動販売機の灯りが二人を照らす。駅からこちらに流れてくる人たちと時々すれ違いながら、頃合いを見計らうように梶さんが再び口を開いた。
「僕は、今の自分の仕事に誇りを持っているし、好きでやっていることだから夢中になるのは自分でも理解していた。ポーランドという国に興味を持ち、知れば知るほど好きになり、それを受け入れ、話を聞いてくれる相手には惜しみなく語って聞かせてきた。僕は、雪乃ちゃんに僕の仕事の話をしている時、本当に幸せだっんだ。興味を持ってくれたこと。僕が気に入り仕入れた商品を、愛しそうに眺め買ってくれたこと。その国の食べ物を一緒に食べ、美味しいと言ってくれたこと。それは、僕自信を受け入れてもらえたようで、とても舞い上がっていたよ。だからかな。普段からそばにあるもの全ても受け入れてもらえるんだって、勝手に思っていたみたいだね」
梶さんの言葉には、私自身にも重なる部分があって、心がチクリと痛んた。好きだからと言って、総てを受け入れてもらえるという考えは、傲慢なのだ。
私は、今まで周囲が佑を受け入れてくれないことが不思議でならなかった。男女間の繋がりなど一切ないのに、どうして理解して貰えないのだろうと。自分本位の思いだけを突き通してきた。けれど、今梶さんが言ったように、好きだからと言ってすべて受け入れてもらえるという考えは間違いなのだ。相手に受け入れて欲しいなら、努力をしなければいけない。言葉を尽くし、行動や態度で理解してもらえるまで、根気強く繰り返していくしかないのだ。そうすることで、初めて解りあえるのだろう。
梶さんは、一旦言葉を区切る。二人で歩いてきた道の先には、気がつけばあの森林公園の入り口があった。中に入ると、住んでいるだろう動物たちも息をひそめ、見つかってはいけないと姿を隠してでもいるようだった。
「座ろうか」
少し歩いた先にある、等間隔で並ぶベンチの一つに腰かけた。傍に座ることを自然と抑えるように、拳三つ分ほどを空けて梶さんが腰かける。その距離が切ない。
「櫻子さんと、別れた理由はね。彼女がバリスタの勉強をするために、メルボルンへ留学したからなんだ。コーヒーに魅せられた彼女は、卒業と同時にオーストラリアへと旅立った。僕に相談することもなく、さっぱりとした表情で、何の躊躇もなく彼女は空港で僕に手を振っていたよ。はっきりと別れを言われたわけではないけれど、いつ戻るのかもわからないし、留学についても話してくれもしなかったから、これは事実上の別れなのだろうって、僕はその時必死に心に言い聞かせてた。取り残された僕は気力をなくしたものの、丁度その時以前から話して聞かせて貰っていたポーランドについて叔母から学び、資金の援助を受けて店を開業するための準備を始めていた。叔母がついているとはいえ、商売なんて初めてのことだから、右も左もわからなくて。就職活動もせずにいることにも不安を覚えたよ。周りはすでに内定の出ている人もたくさんいるのに、自分はまだ勉強途中で、こんな状況で本当に店を持つことなどできるのかってね。店を持ったとしても、続けて行けるのか。どこか名のある企業に就職した方が安泰ではないかって、自分の将来に不安を覚えてた。日本とポーランドを何度も行き来し、輸入の仕方、契約の取り方、販売方法。法律云々。一人で全て抱えることに、好きだけじゃやっていけないんだってこともよく解った。あの頃の僕は、生きている中でも一番必死になっていたんじゃないかな」
梶さんは、懐かしむような、照れくさいような表情で目を細めた。
「卒業して、一年半後。僕は、この町にUzdrowienieを構えることができた。初めは、お客なんてまばらでね。物珍しい雑貨や食器を売る店に冷やかしも多かったな。いいものは、それだけで売れるなんて思ってたけど、大間違いなんだよね。その商品の魅力をどんな風に伝えるか、商品の陳列の仕方や、どうやってお客さんにこの店を知ってもらい、来店してもらうか。来てくれたお客さんに、どうやってアピールするか。どんなペースで新商品を仕入れて店頭に置き、どのタイミングでお客さんに声をかけ、どんな言葉で購買意欲を引き出すか。ホント、試行錯誤だったな。今でも、もっともっとたくさんの人に僕の好きなものを気に入ってもらえるようにするにはどうしたらいいのか、勉強中だけれどね。そんなある日。目の前にあった不動産屋が店をたたみ、店舗の取り壊しが始まった。今度はどんなお店ができるのかと思っていたら、突然櫻子さんがUzdrowienieを訪ねてきて、僕は本当に驚いたよ。何より驚いたのは、二か月後には不動産屋の跡地にお店をオープンするって聞かされた時だったけどね」
そこまで話して、梶さんが立ち上がる。
「喉が渇いたな。ちょっと待ってて」
ずっと話しっぱなしでいたからか、少し先にある自販機に向かって梶さんが歩いて行き、缶コーヒーを二つ手にして戻ってきた。
手渡された缶コーヒーを受け取り、私ものどを潤した。気がつかなかったけれど、私ものどが渇いていたようで、スルスルと流し込むようにコーヒーを口にした。
「まさか、もう一度櫻子さんに逢うことになるとは思ってもいなかったし。何より、目の前に彼女のカフェが建ち、まるで一緒に働くような現場ができ上がるとは思っていなかったら、不思議だったし、心強くなったよ。彼女は昔からしっかり者で、僕は何度も彼女に救われてきた。その時の安心感が蘇ってきたんだ。あの頃の彼女は、付き合っていた僕をあっさりと見切り、海外留学をするくらいのアクティブな人だったから、戻って来た事には正直嬉しくもなったけれど、あの頃のような恋愛感情は僕の中に芽生えることはなかったんだ。彼女も、そうだとずっと思っていた。けどね……、雪乃ちゃんの言うとおりだったみたいだよ。僕は、何もわかっていなかったし。淳史が言うように、その辺のことにはとても鈍感だったみたいだ」
自分自身に呆れてしまったように肩を落とし、大きく息を吐いた。それから、コーヒーを飲むと、夜空を仰いだ。
「あのあと、櫻子さんと話したよ」
あの後というのは、ダイニングを二人で出て行った時のことだろう。どんな風に言葉を交わしたのだろう。どんな風に櫻子さんの気持ちを受け止め、答えを出したのだろう。知らず、缶コーヒーを握る手に力がこもる。
「大学の頃の僕は、高嶺の花の彼女に夢中だったからね。今ではくすぐったくなるような甘い言葉も平気で言ってた。その中に、櫻子さんの淹れてくれたコーヒーの味をベタ褒めする言葉があったらしいんだ。言ったはずの僕はといえば、ただただ彼女に夢中だったから、どんな言葉を伝えたのか、浮かれすぎていて覚えてもいなかった。けど、僕が言った言葉で、どうやら櫻子さんの人生を動かしてしまっていたようなんだ」
梶さんのことだからきっと、世界一美味しいと櫻子さんの淹れたコーヒーを褒めたのだろう。梶さんを愛していた櫻子さんは、そんな彼の言葉に心を動かされ、極めることを選んだ。櫻子さんは、初めから決めていたのだろう。いつか梶さんの元に戻り、お店を開き、彼が来てくれる美味しいコーヒーを出す寛ぎのあるお店をオープンさせようと。櫻子さんは、本当に梶さんのことを好きだったんだ。
「言われたよ。全ては、僕を想うゆえだって……。雪乃ちゃんと出会うまでにも、何人かの女性と少しばかり付き合ったりもしたけれど、どの娘とも長続きがしなくてね。それは、僕の側の想いもあったけれど、櫻子さんにも原因があったことも告白された。彼女、僕の傍に来る女性に意地悪なことをしてきたって……。初めはそんな自分が嫌で悩んだこともあったけれど、少しずつマヒしていく感覚に支配されていったって。僕は、そんな彼女の気持ちにも気がつかない、ダメな男なんだ」
梶さんに近づく女性に嫉妬を抱き、櫻子さんは少しずつ黒に近づく感情に目を瞑り暮らしてきたのだろう。櫻子さんを見ていればわかる。本当はとても素敵な人のはずなんだ。私のために席を用意してくれたり、サービスのコーヒーを出してくれたり。彼女にとってそういったことは当たり前なのかもしれないけれど、そんな風に当たり前にできてしまうことこそ、彼女が素敵な女性だと言っている証拠だ。そんな櫻子さんが、嫉妬に心を乱され、澱のように底に溜まり沈んでいく黒い感情に罪悪感を覚えないはずがない。
みんな未熟だね。沢山の言葉を知っているはずなのに、伝えるべき相手にそれを話すことができないなんて。好きだから待っていて欲しいと言えなかった櫻子さん。突然切り離された感情に言葉をなくし、待っていると言えなかった梶さん。互いに再会したのに、今の感情を伝え合わなかったこともそうだろう。
私だってそうだ。佑のことを理解してもらえないことに首を捻ってばかりいないで、もっとたくさん話すべきなんだ。どうやったら伝わるのかなんてわからないけれど、伝わるまで必死になるべきだったんだ。まるで、伝わらない相手に責任があるように、諦めて溜息を吐いて黙ってしまうなんて傲慢だ。
「僕にもう一度チャンスをくれないかな?」
梶さんが強い意志の元、私の目をまっすぐに見つめる。
「櫻子さんとのこと、しっかりと線引きできるようにしたい。店ごと引っ越すなんてことは、難しくてできないけれど。僕の想いや態度なら、いくらだって変える努力はする。櫻子さんに対しての付き合い方を見直すよ。だから、もう一度雪乃ちゃんのそばにいることを、認めてくれないかな」
終わってしまうと思っていた二人の関係は、梶さんの強い想いのおかげで切れることなくつながり続けることとなった。いつだって一生懸命なのは、私ではなく梶さんの方なのだと、彼の想いの大きさを実感した夜だった。