梶さんと別れた後、図書館に寄り、本を借りることにした。梶さんが訪ねて来るまでの時間つぶしだ。
たくさん並ぶ書棚の間を歩き、タイトルや著者の名前を眺めながらも思考は目の前の本とは別のところをさまよっていた。
スープの感想を訊く櫻子さんは、梶さんを放さないというように店頭で引き留め話し込んでいた。お客の数も減って落ち着いていたせいもあるのだろうけれど、そばにいる私の存在は相変わらず無き者状態で居た堪れなかった。
「じゃあ、私は……」
話の腰を折らないように控えめに頭を下げると、さっきまで会話に夢中になっていた梶さがピタリとスープの話をやめて私の手を握った。
「ご飯、何か少しでもいいから口にして。僕がいくまでの間、ゆっくり過ごすこと。いいね」
握られた手が温かくて、言葉も温かくて、急に涙が込み上げてきた。それをグッと堪え、笑みを張り付け頷いた。
「梶君、雪ちゃんの家に行くの?」
さっきまでテンション高くスープの話で盛り上がっていた櫻子さんの声が少し上ずった。梶さんは、短く頷きを返しただけで、櫻子さんのことをチラリと見るにとどまる。視界に入る櫻子さんの拳が強く握られているのが見えた。
私の頭に優しく手を置く梶さんが、歩き出す背中を見送ってくれた。梶さんの隣に並ぶ櫻子さんの視線が、相変わらず私を刺している気がして痛みさえ感じるようだった。
図書館の書棚に並ぶ無数の本を眺めていても、これといったものに出会わない。というよりも、どれも今の私には興味を惹くものがない。
梶さんは、本当に家に来てくれるのだろうか。櫻子さんに引き留められて、やってこない気がしてならない。
時計の針が真上を向くくらいまで待っても来なかったら、寝てしまおう。櫻子さんに感情を振り回されてクタクタだ。そして、翌日の日曜はゆっくりと睡眠をとって、晴れていたらお弁当を持って森林公園にピクニックにでも行こう。そんな風に気分を変えようと思っても、書棚を抜けた頃には溜息をいくつ吐いたかわからないほどだった。結局、何も借りずに家に戻った。
玄関から一歩部屋に入ると、カフェでなかったはずの食欲は少し回復していた。冷凍庫に常備してある冷凍のうどんを取り出し、出汁をきかせた素うどんを作って食べた。お腹が満たされると、少しだけ気分が落ち着いた。
「現金なものだよね。お腹が空いていただけなのかな」
自身の体調に呆れて肩を竦めた。ベッドにコロリと寝転がり、天井の目地を眺める。
梶さんは来てくれるだろうか。櫻子さんは引き止めたりしないだろうか。二人の顔が交互に浮かぶ中、満たされたお腹のせいか瞼がゆっくりと重くなり閉じていった。
いつの間にか転寝をしていたようで、窓の外はほんのりオレンジ色になっていた。あと数時間もすれば、梶さんが来てくれるはず。期待と不安を抱えて、ベッドから起き上がる。ダイニングの椅子にぼんやりと座り、特にすることも思いつかず、図書館で本を借りてこなかったことを後悔した。少しの間そうしていたけれど、じっとしているのも落ち着かなくなり、普段しない場所の掃除を始めた。考えてみれば、梶さんがやってくるのだから部屋をきれいにしておかないと恥ずかしい。
思い立つと、体は元気を取り戻していくようにテキパキと動き出す。母に似て、動いていないと落ち着かないのかもしれない。部屋中に掃除機をかけたあとは、トイレとキッチンを綺麗にした。
換気扇にも手を出して、油汚れを落とす。引っ越してまだ間もないとはいえ、毎日使う換気扇は、汚れがこびりついていた。
気がつけばUzdrowienieの閉店時刻が過ぎていた。慌ててゴミをまとめ、マンション外にあるゴミ集積所に持っていった。すると、エレベーターから降りてエントランスを出たところで、梶さんに出くわした。
「雪乃ちゃん」
声をかけられると一瞬で心に花が咲いたみたいに明るい気持ちになっていく。と、同時に大きなゴミ袋を片手に、さっきまで髪を乱して掃除をしていた自分の姿が恥ずかしくなり手櫛をしてみたり、着ているシャツを直してみたりした。
化粧だって油浮きしているだろう。なんて恥ずかしすぎるんだ。
「お疲れ様です」
ゴミ袋を軽く持ち上げ、「捨ててきますね」と小走りで集積所へ捨てに行った。
ゴミを置いてエントランスに戻ると、梶さんが待っていた。一緒にエレベーターへ乗り込み、五階へ向かう。
「体調は、どう?」
「大丈夫です」
エレベーターのドアが開き渡り廊下へ出る。並んで歩いていくと、梶さんが自分の部屋の前で足を止めた。
「僕の家で話す?」
訊ねられてコクリと頷いてから、あんなに必死になって掃除をしていた自分が滑稽で口角が上がった。
梶さんのお家の玄関はとても綺麗だったけれど、数えきれないくらいのスニーカーが所狭しと置かれていた。
玄関口の端に七足きれいに並べられ、その上に手作り風の木製棚が備え付けられている。六段ある棚の上に、みっちりといくつものスニーカーが並べられていた。元々備え付けられている扉のあるシューズボックスの中は解らないけれど、きっとそこにもたくさん詰まっている気がした。天井近くにある棚には、シューズが収まっていた箱が積まれている。
「スニーカーマニアなんだ」
私の視線に気がついて、梶さんが言い訳のように笑った。
確かに、梶さんの足元を見ると、いつも違ったスニーカーを履いていた。けれど、まさかこんなにたくさん所有しているとは思いもしなかった。どれも大切に履いているようで、それほど汚れが酷いというものはない。
「靴は好き?」
「はい。でも、こんなにたくさんは持っていません」
正直に言うと、「そうだよね」なんて笑っている。
玄関を上がるとすぐにキッチンとダイニング、そして奥には部屋がある。造りは一緒だけれど、置いてあるものが違うだけで全く別の部屋だ。
それに、結構綺麗にしてある。佑の部屋なんて、小さい頃から見てきたけれど、こんなにきれいじゃない。何なら、片づけなさいよ。とぶちぶち文句を言っていたくらいだ。
「綺麗にしてますね」
「汚すのは、自分だけだからね」
そうなんだ。汚さないように自らが気を付けて日々生活していけば、それほどひどく汚れていくこともないはずなんだ。佑に聞かせてやりたい。
「食事は?」
「済ませました」
「じゃあ、何か飲む? コーヒーかビールくらいしかないけど」
「じゃあ、コーヒーで」
海外のコーヒーメーカーが蒸気を上げて圧をかけている。一瞬で部屋の中が、コーヒーの香ばしくいい香りに包まれていった。
「洗面所、お借りします」
梶さんがコーヒーを淹れてくれている間に、手を洗わせてもらった。鏡に映る脂の浮いた顔にティッシュを当てて、テカリを抑える。ダイニングに戻った後、梶さんの姿をぼんやりと立ったまま見ていたら、気づかなくて、ごめんね。と座るよう促された。
ダイニングの椅子を引き腰かけ、全く違う部屋の雰囲気を眺めた。ベッドにデスク。パソコンに書棚。シンプルだけれど、綺麗に整理されている。木目の角が丸いテーブルは、梶さんのように優しい雰囲気だ。
コトリと目の前に置かれたぽってりとしたマグカップは、Uzdrowienieで見掛けたことがある。
「いただきます」
一口飲むとカフェの味みたいでとても美味しいし、カップの口当たりがいい。
「カフェにいるみたいに美味しいです。それに、カップが可愛らしいです」
「コーヒーメーカーの力とポーランドの力」
目の前に座る梶さんが微笑む。
コーヒーをゆっくりと飲む。自分の気持ちをちゃんと伝えるために、落ち着こう、そう思っていた。なのに、話し出す勇気が出なくて本題に入れないでいると梶さんが口を開いた。
「僕は……、雪乃ちゃんを傷つけているのかな?」
思いもしなかった言葉だった。梶さんは、そういったことに全く気がついていないものだと思っていたから、こんな風に逆に問われるとは思いもしなかった。
「実は、淳史に鈍感だと言われてね。ほら、櫻子さんのところでの試食会から、雪乃ちゃんの体調が悪くなったような気もするし。あの日、何か雪乃ちゃんに余計なことでも言ってしまったのかと気になっていて」
この人は、本気で気がつかないんだ。目の前で繰り広げられている櫻子さんの動向は、彼にしてみたら総てが当たり前で、流れていく風景と同じなのかもしれない。そこで少しくらい変わったことが起きたとしても、一瞬の出来事のように気がつかないまま過ぎていく。梶さんにとって櫻子さんは、それほどに当たり前で自然な存在なのだろう。
勇気を出して逢いに来たけれど、本当に自分の気持ちを話してしまっていいのだろうか。感情をさらけ出してしまったら、二人のお店にもめ事を持ち込んで、背を向け合うようなことになってしまうかもしれない。仕事での付き合いもある二人に、この先営業していく上で影響が出てしまうかもしれない。
自分の気持ちを言うだけなのに、周りへの影響があまりにも大きい気がしてきて直ぐに口を開くことができない。私が我慢するだけで、それは今まで通り丸く収まるのだ。だけど……。
「雪乃ちゃん?」
頭の中でグルグルと考えを巡らせていたら、目の前から瞳をのぞき込むようにしている梶さんと目が合った。
「やっぱり、体調が悪いのかな?」
心配する顔に向かって力なく首を振った。
この人は、きっととても優しい。でも、その優しさは、私だけにあるものじゃない。それぞれ形は違うのかもしれないけれど、周りにいる人すべてに対して優しいのだ。あっ君や櫻子さん。当然家族にだって、お客様にだって。みんなに優しい。そんな梶さんの姿は、傍から見ればとても素敵で穏やかな人に映る。けれど、一番そばにいて寄り添いたいと願う私にしてみたら、とても残酷なことだ。みんなに平等に優しいということは、私はいつまでも特別にはなれないということ。彼女である私にだけ優しくして欲しいと願うのは我儘だろうか。他の人に冷たくして欲しいわけではないけれど、私にだけは特別な優しさが欲しい。私の気持ちに気づく優しさが欲しい。
そう考えだしたら、じんわりと涙が滲んできてしまい、慌ててコーヒーを飲んで誤魔化した。
コチコチと、どこかにあるだろう時計の音が聴こえてくる。外の音は聞こえてこなくて、ただ時を刻む一定のリズム音がし、話し出す勇気の持てない私の口を閉ざした。
沈黙が辛い。カップを見つめたまま顔を上げられない。けど、梶さんは根気強く話し出すのを待ってくれていた。コチコチコチと鳴る音をいくつか数え、ゆっくりと静かに息を吸い、そして静かに吐き出してから口を開いた。
「梶さんは、優し過ぎです」
目じりに浮いた涙を押し止めて告げると、「そんなことないよ」と無邪気に、けれど静かに笑みをこぼした。その笑顔は大好きだけれど、それ以上に今は残酷だ。
「梶さんは、櫻子さんのことが好きですよね?」
訊ねる私の目を驚いたように見ている。それから、気を取り直したようにつなげた。
「好きの種類っていうのかな。それは違うけれど、彼女のことは好きだよ。長い付き合いだしね。色んな面でもいい相談相手になっているし、顧客でもあり、家族的な面もある。そう、雪乃ちゃんの幼馴染、佑君のような感じに近いのかな」
違うよ、梶さん。それは、違う。
声にならない感情が心の中で渦巻く。
佑と櫻子さんは違うんだよ。
心の中ではこれでもかっていうほど、梶さんの言葉を否定している自分がいた。なのに声になって出てこない。
「ただ、櫻子さんと僕の場合は、彼女が僕のことをあまり必要としていない強さを持っているからね。どちらかというと、僕の方が何かと頼ることが多いかな」
それも違うよ、梶さん。櫻子さんは、きっと強くなんかない。強くあろうと努力している人だよ。
苦笑いを浮かべている梶さんの、カップを持ち上げる指を眺め、表情をみた。よく笑うからか、目じりには優しいしわができている。
この人は、ずっとこういう生き方をしてきたのだろう。あっ君の言う鈍感な日常が当たり前で、すぐそばにいる大切な人と同様の優しさを周囲にも分け与えてきたのだろう。まるで聖職者のように。
「梶さんは本当に優しい人だと思います。とても紳士的ですし、きっとずっとこのまま優しくしてくれるだろうなって思います」
「紳士かな。照れるけれど、僕はずっと雪乃ちゃんに優しくしていきたいし、そうやってそばにいたいよ」
「ありがとうございます。でも、同じように梶さんは周りの人にも優しすぎるんです。……気づいていないですよね」
自虐的な笑みが、自然と浮かんでしまった。私の気持ちを突き通してしまえば、梶さんを傷つけてしまうかもしれない。それは、とても怖い。大切に思う人を傷つけるなんて、本当はしたくないのだから。だけど、伝えなくちゃ何も変わらない。このままでいいなんて思っていないし。それがどうにもならないのなら、辿り着く答えは、一つしかない。梶さんのことが大好きだから、できるならその答えは出したくない。
「雪乃ちゃん……」
意を決するための時間を待ちきれないように、梶さんが私の名前を呼んだ。それを合図に口を開いた。
「私にだけ、優しくしてほしいです。櫻子さんのことを家族のように大切にしている気持ち、佑のいる私にもわかります。けど、櫻子さんと佑では明らかに違うところがあります」
一旦言葉を止めると、続きを促すように梶さんが私の目を見つめる。
「佑は、私のことを本当の家族や兄妹のように心配してくれている。だけど、櫻子さんは違うということです」
「どういうことかな?」
梶さんは、本当に解らない様子で、僅かに首を傾げ困ったような顔をした。
「櫻子さんの気持ちは、今も梶さんにあります」
「雪乃ちゃん、それは昔の話で――――」
「――――梶さん」
互いに言葉を遮り、自らの言い分が正しいと主張をしあうように僅かなぶつかり合いをした。
お互いに一旦落ち着きを取り戻すように、コーヒーカップに手を伸ばす。あんなにいい香りだったコーヒーも、温度が下がってしまったことで半減していた。コトリとカップをテーブルに置く音が、静かな空間に響く。
「梶さんは、気づいていないだけです。私は、櫻子さんと梶さんがどんな風に付き合って別れて、どうして今のような状況になったのか知りません。だけど、櫻子さんの梶さんを見る目は、どんなに頑張って否定しようとしても、好きな人を見つめる目でしかありません。試食会の日、私苦しかった……。梶さんが櫻子さんとだけ話しているようで、櫻子さんにだけ目を向けているみたいで、苦しかった。多分梶さんにそんなつもりはなかったと思いますけれど、そばにいる私はとても苦しかったんです。こんなにみっともない嫉妬なんて、本当は我慢して閉じ込めていればいいだけなのかもしれない。だけど、あの日。スープを一口も食べられなかった私の気持ちや、櫻子さんに食器を見せることを優先された時の寂しい感情。駅まで送り届けて欲しいと願った思いに気づいてもらえたら、私はきっと救われた。けど、梶さんは、櫻子さんとの仕事に夢中で、そんな私の気持ちに気づきもしていなかった。それが苦しかったんです。それに、櫻子さんが見せる梶さんへの想いは、私には辛すぎます」
一息に話すと、目じりに涙が浮かんできて、堪えろって必死に瞬きを我慢した。涙は狡い。泣くのは、反則だ。相手が困るのがわかるじゃない。自分の気持ちを理解して欲しいなら、落ち着いた態度で冷静に話すべきなんだ。
なのに、自分の意志に逆らって、涙は頬を伝ってしまった。それが余計に悔しくて、涙が次々に零れてしまって止まらない。
「すみません。泣くなんて、狡いですよね」
涙をぬぐい、席を立つ。
これでお終いなのかな。このまま梶さんと距離ができて、もう抱き締められることもキスを交わすこともないのかな。
未練がましい感情に支配されながらも頭を下げた。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
毅然としなくちゃ。泣いて困らせてばかりじゃなくて、しっかりとした自分でいなくちゃ。
玄関へ向かう私を引き留めることもなく、梶さんは茫然としている。体調が悪くなって漸く会えた恋人からの言葉がこれでは、頭も混乱するだろう。時間を置いた方がいい。少し冷静になって、もっとよく考えた方がいい。
私も、梶さんも。
きっと、まだ終わりにしない方がいい。
たくさん並ぶ書棚の間を歩き、タイトルや著者の名前を眺めながらも思考は目の前の本とは別のところをさまよっていた。
スープの感想を訊く櫻子さんは、梶さんを放さないというように店頭で引き留め話し込んでいた。お客の数も減って落ち着いていたせいもあるのだろうけれど、そばにいる私の存在は相変わらず無き者状態で居た堪れなかった。
「じゃあ、私は……」
話の腰を折らないように控えめに頭を下げると、さっきまで会話に夢中になっていた梶さがピタリとスープの話をやめて私の手を握った。
「ご飯、何か少しでもいいから口にして。僕がいくまでの間、ゆっくり過ごすこと。いいね」
握られた手が温かくて、言葉も温かくて、急に涙が込み上げてきた。それをグッと堪え、笑みを張り付け頷いた。
「梶君、雪ちゃんの家に行くの?」
さっきまでテンション高くスープの話で盛り上がっていた櫻子さんの声が少し上ずった。梶さんは、短く頷きを返しただけで、櫻子さんのことをチラリと見るにとどまる。視界に入る櫻子さんの拳が強く握られているのが見えた。
私の頭に優しく手を置く梶さんが、歩き出す背中を見送ってくれた。梶さんの隣に並ぶ櫻子さんの視線が、相変わらず私を刺している気がして痛みさえ感じるようだった。
図書館の書棚に並ぶ無数の本を眺めていても、これといったものに出会わない。というよりも、どれも今の私には興味を惹くものがない。
梶さんは、本当に家に来てくれるのだろうか。櫻子さんに引き留められて、やってこない気がしてならない。
時計の針が真上を向くくらいまで待っても来なかったら、寝てしまおう。櫻子さんに感情を振り回されてクタクタだ。そして、翌日の日曜はゆっくりと睡眠をとって、晴れていたらお弁当を持って森林公園にピクニックにでも行こう。そんな風に気分を変えようと思っても、書棚を抜けた頃には溜息をいくつ吐いたかわからないほどだった。結局、何も借りずに家に戻った。
玄関から一歩部屋に入ると、カフェでなかったはずの食欲は少し回復していた。冷凍庫に常備してある冷凍のうどんを取り出し、出汁をきかせた素うどんを作って食べた。お腹が満たされると、少しだけ気分が落ち着いた。
「現金なものだよね。お腹が空いていただけなのかな」
自身の体調に呆れて肩を竦めた。ベッドにコロリと寝転がり、天井の目地を眺める。
梶さんは来てくれるだろうか。櫻子さんは引き止めたりしないだろうか。二人の顔が交互に浮かぶ中、満たされたお腹のせいか瞼がゆっくりと重くなり閉じていった。
いつの間にか転寝をしていたようで、窓の外はほんのりオレンジ色になっていた。あと数時間もすれば、梶さんが来てくれるはず。期待と不安を抱えて、ベッドから起き上がる。ダイニングの椅子にぼんやりと座り、特にすることも思いつかず、図書館で本を借りてこなかったことを後悔した。少しの間そうしていたけれど、じっとしているのも落ち着かなくなり、普段しない場所の掃除を始めた。考えてみれば、梶さんがやってくるのだから部屋をきれいにしておかないと恥ずかしい。
思い立つと、体は元気を取り戻していくようにテキパキと動き出す。母に似て、動いていないと落ち着かないのかもしれない。部屋中に掃除機をかけたあとは、トイレとキッチンを綺麗にした。
換気扇にも手を出して、油汚れを落とす。引っ越してまだ間もないとはいえ、毎日使う換気扇は、汚れがこびりついていた。
気がつけばUzdrowienieの閉店時刻が過ぎていた。慌ててゴミをまとめ、マンション外にあるゴミ集積所に持っていった。すると、エレベーターから降りてエントランスを出たところで、梶さんに出くわした。
「雪乃ちゃん」
声をかけられると一瞬で心に花が咲いたみたいに明るい気持ちになっていく。と、同時に大きなゴミ袋を片手に、さっきまで髪を乱して掃除をしていた自分の姿が恥ずかしくなり手櫛をしてみたり、着ているシャツを直してみたりした。
化粧だって油浮きしているだろう。なんて恥ずかしすぎるんだ。
「お疲れ様です」
ゴミ袋を軽く持ち上げ、「捨ててきますね」と小走りで集積所へ捨てに行った。
ゴミを置いてエントランスに戻ると、梶さんが待っていた。一緒にエレベーターへ乗り込み、五階へ向かう。
「体調は、どう?」
「大丈夫です」
エレベーターのドアが開き渡り廊下へ出る。並んで歩いていくと、梶さんが自分の部屋の前で足を止めた。
「僕の家で話す?」
訊ねられてコクリと頷いてから、あんなに必死になって掃除をしていた自分が滑稽で口角が上がった。
梶さんのお家の玄関はとても綺麗だったけれど、数えきれないくらいのスニーカーが所狭しと置かれていた。
玄関口の端に七足きれいに並べられ、その上に手作り風の木製棚が備え付けられている。六段ある棚の上に、みっちりといくつものスニーカーが並べられていた。元々備え付けられている扉のあるシューズボックスの中は解らないけれど、きっとそこにもたくさん詰まっている気がした。天井近くにある棚には、シューズが収まっていた箱が積まれている。
「スニーカーマニアなんだ」
私の視線に気がついて、梶さんが言い訳のように笑った。
確かに、梶さんの足元を見ると、いつも違ったスニーカーを履いていた。けれど、まさかこんなにたくさん所有しているとは思いもしなかった。どれも大切に履いているようで、それほど汚れが酷いというものはない。
「靴は好き?」
「はい。でも、こんなにたくさんは持っていません」
正直に言うと、「そうだよね」なんて笑っている。
玄関を上がるとすぐにキッチンとダイニング、そして奥には部屋がある。造りは一緒だけれど、置いてあるものが違うだけで全く別の部屋だ。
それに、結構綺麗にしてある。佑の部屋なんて、小さい頃から見てきたけれど、こんなにきれいじゃない。何なら、片づけなさいよ。とぶちぶち文句を言っていたくらいだ。
「綺麗にしてますね」
「汚すのは、自分だけだからね」
そうなんだ。汚さないように自らが気を付けて日々生活していけば、それほどひどく汚れていくこともないはずなんだ。佑に聞かせてやりたい。
「食事は?」
「済ませました」
「じゃあ、何か飲む? コーヒーかビールくらいしかないけど」
「じゃあ、コーヒーで」
海外のコーヒーメーカーが蒸気を上げて圧をかけている。一瞬で部屋の中が、コーヒーの香ばしくいい香りに包まれていった。
「洗面所、お借りします」
梶さんがコーヒーを淹れてくれている間に、手を洗わせてもらった。鏡に映る脂の浮いた顔にティッシュを当てて、テカリを抑える。ダイニングに戻った後、梶さんの姿をぼんやりと立ったまま見ていたら、気づかなくて、ごめんね。と座るよう促された。
ダイニングの椅子を引き腰かけ、全く違う部屋の雰囲気を眺めた。ベッドにデスク。パソコンに書棚。シンプルだけれど、綺麗に整理されている。木目の角が丸いテーブルは、梶さんのように優しい雰囲気だ。
コトリと目の前に置かれたぽってりとしたマグカップは、Uzdrowienieで見掛けたことがある。
「いただきます」
一口飲むとカフェの味みたいでとても美味しいし、カップの口当たりがいい。
「カフェにいるみたいに美味しいです。それに、カップが可愛らしいです」
「コーヒーメーカーの力とポーランドの力」
目の前に座る梶さんが微笑む。
コーヒーをゆっくりと飲む。自分の気持ちをちゃんと伝えるために、落ち着こう、そう思っていた。なのに、話し出す勇気が出なくて本題に入れないでいると梶さんが口を開いた。
「僕は……、雪乃ちゃんを傷つけているのかな?」
思いもしなかった言葉だった。梶さんは、そういったことに全く気がついていないものだと思っていたから、こんな風に逆に問われるとは思いもしなかった。
「実は、淳史に鈍感だと言われてね。ほら、櫻子さんのところでの試食会から、雪乃ちゃんの体調が悪くなったような気もするし。あの日、何か雪乃ちゃんに余計なことでも言ってしまったのかと気になっていて」
この人は、本気で気がつかないんだ。目の前で繰り広げられている櫻子さんの動向は、彼にしてみたら総てが当たり前で、流れていく風景と同じなのかもしれない。そこで少しくらい変わったことが起きたとしても、一瞬の出来事のように気がつかないまま過ぎていく。梶さんにとって櫻子さんは、それほどに当たり前で自然な存在なのだろう。
勇気を出して逢いに来たけれど、本当に自分の気持ちを話してしまっていいのだろうか。感情をさらけ出してしまったら、二人のお店にもめ事を持ち込んで、背を向け合うようなことになってしまうかもしれない。仕事での付き合いもある二人に、この先営業していく上で影響が出てしまうかもしれない。
自分の気持ちを言うだけなのに、周りへの影響があまりにも大きい気がしてきて直ぐに口を開くことができない。私が我慢するだけで、それは今まで通り丸く収まるのだ。だけど……。
「雪乃ちゃん?」
頭の中でグルグルと考えを巡らせていたら、目の前から瞳をのぞき込むようにしている梶さんと目が合った。
「やっぱり、体調が悪いのかな?」
心配する顔に向かって力なく首を振った。
この人は、きっととても優しい。でも、その優しさは、私だけにあるものじゃない。それぞれ形は違うのかもしれないけれど、周りにいる人すべてに対して優しいのだ。あっ君や櫻子さん。当然家族にだって、お客様にだって。みんなに優しい。そんな梶さんの姿は、傍から見ればとても素敵で穏やかな人に映る。けれど、一番そばにいて寄り添いたいと願う私にしてみたら、とても残酷なことだ。みんなに平等に優しいということは、私はいつまでも特別にはなれないということ。彼女である私にだけ優しくして欲しいと願うのは我儘だろうか。他の人に冷たくして欲しいわけではないけれど、私にだけは特別な優しさが欲しい。私の気持ちに気づく優しさが欲しい。
そう考えだしたら、じんわりと涙が滲んできてしまい、慌ててコーヒーを飲んで誤魔化した。
コチコチと、どこかにあるだろう時計の音が聴こえてくる。外の音は聞こえてこなくて、ただ時を刻む一定のリズム音がし、話し出す勇気の持てない私の口を閉ざした。
沈黙が辛い。カップを見つめたまま顔を上げられない。けど、梶さんは根気強く話し出すのを待ってくれていた。コチコチコチと鳴る音をいくつか数え、ゆっくりと静かに息を吸い、そして静かに吐き出してから口を開いた。
「梶さんは、優し過ぎです」
目じりに浮いた涙を押し止めて告げると、「そんなことないよ」と無邪気に、けれど静かに笑みをこぼした。その笑顔は大好きだけれど、それ以上に今は残酷だ。
「梶さんは、櫻子さんのことが好きですよね?」
訊ねる私の目を驚いたように見ている。それから、気を取り直したようにつなげた。
「好きの種類っていうのかな。それは違うけれど、彼女のことは好きだよ。長い付き合いだしね。色んな面でもいい相談相手になっているし、顧客でもあり、家族的な面もある。そう、雪乃ちゃんの幼馴染、佑君のような感じに近いのかな」
違うよ、梶さん。それは、違う。
声にならない感情が心の中で渦巻く。
佑と櫻子さんは違うんだよ。
心の中ではこれでもかっていうほど、梶さんの言葉を否定している自分がいた。なのに声になって出てこない。
「ただ、櫻子さんと僕の場合は、彼女が僕のことをあまり必要としていない強さを持っているからね。どちらかというと、僕の方が何かと頼ることが多いかな」
それも違うよ、梶さん。櫻子さんは、きっと強くなんかない。強くあろうと努力している人だよ。
苦笑いを浮かべている梶さんの、カップを持ち上げる指を眺め、表情をみた。よく笑うからか、目じりには優しいしわができている。
この人は、ずっとこういう生き方をしてきたのだろう。あっ君の言う鈍感な日常が当たり前で、すぐそばにいる大切な人と同様の優しさを周囲にも分け与えてきたのだろう。まるで聖職者のように。
「梶さんは本当に優しい人だと思います。とても紳士的ですし、きっとずっとこのまま優しくしてくれるだろうなって思います」
「紳士かな。照れるけれど、僕はずっと雪乃ちゃんに優しくしていきたいし、そうやってそばにいたいよ」
「ありがとうございます。でも、同じように梶さんは周りの人にも優しすぎるんです。……気づいていないですよね」
自虐的な笑みが、自然と浮かんでしまった。私の気持ちを突き通してしまえば、梶さんを傷つけてしまうかもしれない。それは、とても怖い。大切に思う人を傷つけるなんて、本当はしたくないのだから。だけど、伝えなくちゃ何も変わらない。このままでいいなんて思っていないし。それがどうにもならないのなら、辿り着く答えは、一つしかない。梶さんのことが大好きだから、できるならその答えは出したくない。
「雪乃ちゃん……」
意を決するための時間を待ちきれないように、梶さんが私の名前を呼んだ。それを合図に口を開いた。
「私にだけ、優しくしてほしいです。櫻子さんのことを家族のように大切にしている気持ち、佑のいる私にもわかります。けど、櫻子さんと佑では明らかに違うところがあります」
一旦言葉を止めると、続きを促すように梶さんが私の目を見つめる。
「佑は、私のことを本当の家族や兄妹のように心配してくれている。だけど、櫻子さんは違うということです」
「どういうことかな?」
梶さんは、本当に解らない様子で、僅かに首を傾げ困ったような顔をした。
「櫻子さんの気持ちは、今も梶さんにあります」
「雪乃ちゃん、それは昔の話で――――」
「――――梶さん」
互いに言葉を遮り、自らの言い分が正しいと主張をしあうように僅かなぶつかり合いをした。
お互いに一旦落ち着きを取り戻すように、コーヒーカップに手を伸ばす。あんなにいい香りだったコーヒーも、温度が下がってしまったことで半減していた。コトリとカップをテーブルに置く音が、静かな空間に響く。
「梶さんは、気づいていないだけです。私は、櫻子さんと梶さんがどんな風に付き合って別れて、どうして今のような状況になったのか知りません。だけど、櫻子さんの梶さんを見る目は、どんなに頑張って否定しようとしても、好きな人を見つめる目でしかありません。試食会の日、私苦しかった……。梶さんが櫻子さんとだけ話しているようで、櫻子さんにだけ目を向けているみたいで、苦しかった。多分梶さんにそんなつもりはなかったと思いますけれど、そばにいる私はとても苦しかったんです。こんなにみっともない嫉妬なんて、本当は我慢して閉じ込めていればいいだけなのかもしれない。だけど、あの日。スープを一口も食べられなかった私の気持ちや、櫻子さんに食器を見せることを優先された時の寂しい感情。駅まで送り届けて欲しいと願った思いに気づいてもらえたら、私はきっと救われた。けど、梶さんは、櫻子さんとの仕事に夢中で、そんな私の気持ちに気づきもしていなかった。それが苦しかったんです。それに、櫻子さんが見せる梶さんへの想いは、私には辛すぎます」
一息に話すと、目じりに涙が浮かんできて、堪えろって必死に瞬きを我慢した。涙は狡い。泣くのは、反則だ。相手が困るのがわかるじゃない。自分の気持ちを理解して欲しいなら、落ち着いた態度で冷静に話すべきなんだ。
なのに、自分の意志に逆らって、涙は頬を伝ってしまった。それが余計に悔しくて、涙が次々に零れてしまって止まらない。
「すみません。泣くなんて、狡いですよね」
涙をぬぐい、席を立つ。
これでお終いなのかな。このまま梶さんと距離ができて、もう抱き締められることもキスを交わすこともないのかな。
未練がましい感情に支配されながらも頭を下げた。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
毅然としなくちゃ。泣いて困らせてばかりじゃなくて、しっかりとした自分でいなくちゃ。
玄関へ向かう私を引き留めることもなく、梶さんは茫然としている。体調が悪くなって漸く会えた恋人からの言葉がこれでは、頭も混乱するだろう。時間を置いた方がいい。少し冷静になって、もっとよく考えた方がいい。
私も、梶さんも。
きっと、まだ終わりにしない方がいい。