ダイニングのテーブルで、お隣さんから貰ったパンをすっかり完食した佑は、半分ほどカップに残っていた冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、「やっつけちまおうぜ」と言ってサクサクと動き出した。遅れてきた分を挽回するかの如く、まるでガソリンが満タンになった車のようによく働いてくれた。

 業者によって部屋の隅に積まれた段ボールを、上から順に床に下ろし、貼られているガムテープを勢いよく剥がす。段ボールの中から荷物を取り出し、適切な場所に収め。収める場所がわからなければ、私に問い。段ボールが空になればぺたりと折り畳んで玄関先に持っていき、また次の段ボールに貼られているガムテープをビリビリと音を立て勢いよく剥がす。

 一連のその動きは、時々機械仕掛けのようで、繰り返しのボタンを押して観ている動画のようでもあった。その姿をぼんやりと眺めていたら、「動けよ」と笑われた。我に返ったように私も荷物を片付ける。
 剥がされたガムテープの残骸や、隙間を埋めるために詰め込まれていた丸まった新聞紙。持って来てはみたけれど、やっぱり必要ないと思った古いノートやファイル。気に入っていたけれど、首の周りが緩く波を打っているTシャツ。それらをゴミ袋に入れて、一階にあるゴミ置き場へと捨てに行った。

 ゴミを捨てて戻ると、佑は相も変わらず一連の動作を繰り返していて、満タンになったはずのガソリンが突然切れてしまわないだろうかと、不意に心配になるほどの働きぶりだった。そんな佑のおかげで、段ボールに収まっていた荷物はその日のうちにどこかしらの適切な場所へと収めることができた。

 書棚に収まった本。脱衣所兼洗濯機の置かれた場所に収まる洗剤やタオル類。玄関には靴や傘。クローゼットには上着やスーツがかけられ、箪笥の中には衣服が納められた。細かな雑貨は書棚の空いた隅のところや、飾り棚に置かれ、カーテンもつけられている。その収まり具合に、ここの住人である私よりも佑の方が満足そうな顔をしていた。初めから、どこに何を置くのかデザインし、決まっていたかのように収め切ったというように、誇らしげな顔つきで部屋を見渡していた。

「完璧だな」

 顎を突き出し得意気な表情に苦笑いを向けててから、お風呂のスイッチを押しにいった。

 綺麗にクリーニングを終えているバスルームは、バスタブも洗い場も鏡も、どれもつるりとしていて滑らかに見えた。お湯張りスイッチを押して、排水溝に栓をする。機械音声のあとに流れ出てきたお湯が、湯船の中に流れを作る。湯船の端まで勢いをつけて流れ出たお湯は、緩やかなカーブの壁にぶつかり戻ってくると、次にはグルグルとはいかないまでも円を描いたり、再び向こう岸に行こうと流れたり、複雑な動きを見せつつ水位を増していった。少しの間、ぼんやりと水位の増えていく様子を眺めていたら、部屋の方から佑に呼ばれた。

「電話鳴ってるぞ。おばさんから」

 佑が言うおばさんとは、うちの母のことだ。
 お風呂場のドアを閉めてキッチンへ戻った。ダイニングテーブルに置かれたままのスマホ画面には、母の名前が映し出されメロディーを奏でていた。

「すぐ沸くから、先にいいよ」

 スマホを手にして通話ボタンを押しながら言うと、おう、とか。ああ、とか。言ったような佑が、着ていたシャツを脱ぎながら遠慮なく脱衣所へと消えていった。その姿を見送り、「もしもし」と電話の向こうにいる母へと話しかけた。

 久しぶりの休日をのんびり過ごすことができたのか、母が穏やかな口調で引っ越しは無事済んだのかと訊ねる。
 佑が手伝いに来てくれて、滞りなく終わったことや。今、その本人はお風呂で疲れを癒していると話すと、お疲れさんだね。と母は優しく言った。

 佑が私のところに遅い時間までいようが、お風呂に入り泊まっていこうが、母は何の心配もしていない。それは私達が小さい頃からの習慣で、ふた家族の中での常識だった。誰が何と言おうと崩れることのない、私たちの普通だ。

 私たち家族の間には、信頼がある。その信頼は、元をたどればうちの母と佑のお母さんとの親友関係にあった。説明すると長くなるが、二人は中学の時からの親友で。示し合わせたわけでもないのに、結婚して住み始めた家がお隣さんになるという、なんとも素敵な偶然に見舞われていた。

 母は佑の母親を頼るし、佑のお母さんもうちの母を信頼し助けを求める。お互いがお互いを助け合うことは十代からの彼女たちの当たり前で、それは親になった今でも続いているのだ。おかげで私と佑の間柄も、母親たちと同じような関係性を築くことができていた。

「今度遊びに来なよ」

 そう言う私に、「ケーキがいい?」と訊ねるけれど、母にそんな時間がないのはお互いに理解していた。そんな風に時間を過ごすことができたらいいのにね、という希望的観測のような挨拶だ。

 母は根っからの貧乏性で、動いていないと落ち着かないのよ、とよく笑顔で言っている。母一人子一人だから、それだけじゃないことを私も佑も知っていたけれど、その笑顔には笑顔で返すことにしていた。

 私が小学校四年の時に父が亡くなってから、母は看護師という手に職もあったおかげか、その仕事で最大限私にできる金銭的余裕を作る努力をしてくれた。夜勤も問わず、常に働き尽くめだった。一人家に残された私は、幼い佑と一緒にいることで寂しくはなかったし。佑の両親も共働きだったから、私が佑と一緒にいることでどこかへ預ける必要もないし、シッターを頼む必要もなく、安心してくれていたようだ。おかげで佑を本当の弟のように可愛がってきた。今の口の利き方だけを見れば、どう考えても佑の方が年上に感じてしまうけれど、どこかしら子供だなって思う部分はまだまだあって、私はそれが可愛くてならない。

「あんまり無理しないでね」

 電話口から掛けた声に、母がふっと小さく息を漏らして笑った。ヘンな気を遣っちゃって、というところだろうか。

「美味しいケーキ、期待してるね」と希望的観測の約束事に念を押し、母との通話を終えたところへ、佑がお風呂から上がってきたから私も入る。

 引っ越し作業でかいた汗を流しゆっくりと湯船につかると、さっきグルグルと流れていたお湯の動きを再現したくて手で円を描き、闇雲にバシャバシャとしてみたけれど巧くいかなかった。白い肌に当たる波や滴をぼんやりと眺めたあと天井を仰ぐ。新しい部屋のお風呂は、実家よりも狭くて。湯船で足は延ばしきれない狭さが、なんだかおかしかった。

 お風呂から上がると、部屋ではテレビが点いていた。ベッドに寄りかかりながら、勝手にペットボトルの冷たいお茶を飲んでいた佑が、私の姿を見て立ち上がりこちらへ来る。

「雪乃は、ビールか?」

 バスタオルで髪の毛の水分を取りつつ、うん。と応えると、実家から数缶拝借してきた缶ビールを冷蔵庫から取り出してくれた。テレビでは知らない芸人が知らないギャグをやり笑いを取っていたけれど、何が面白いのか少しもわからなかった。テレビを見ていた佑も笑っていない。何となく音や映像が欲しい時ってあるから、多分たまたま放送していた番組をそのまま流し続けていただけなのだろう。

「おばさん。なんだって?」
「お疲れさまって。いつか、ケーキ持って遊びに来るって」
「そっか……」

 ふっと漏らした佑の、少し悲しげでいて優しい笑みは、私の母を気遣う癖だ。そのいつかがいつになるのか、佑も希望的観測だと知っているのだ。

「お休みだったから、今日は少し眠れたみたい」

 それだけで、佑は全てを理解したように一度頷いた。

「雪乃。俺、絶対売れるから」

 誓いを立てるのは、自分のためだけじゃないことを知っている。佑も、私の母のことを心配してくれているのだ。いつか話していたことがある。「俺が売れたら、お前ら親子に楽させてやる」と。何を生意気な、と笑い飛ばしたけれど、佑は意外と本気で思ってくれている。

 確信めいたその言い方はもう何度目かになるけれど、こんな時の佑を私は絶対にからかったりしない。私自身も、そのことを確信しているからだ。

「佑なら、絶対に大丈夫」

 お互いの真剣な眼差しが、誓いは確かなものなのだと言い聞かせていた。

 御客用とは名ばかりの、ほぼ佑専用になってしまうだろう布団に佑が潜り込む。一生懸命に引越しの手伝いをしたせいか、佑は疲れてしまったようであっという間に静かな寝息を立てた。それに倣うように、私もベッドへ潜り込み、新しい住まいでの夜をあかした。

 早朝。始発の電車が動き始める頃にフラフラと起き上がった佑は、朝食もとることなく、じゃあな。と部屋を出た。エントランス前に停めていたマイチャリにまたがり帰っていく姿を、渡り廊下からパジャマ姿のまま身を乗り出し見送った。

 朝ご飯を食べ、大きく欠伸を何度か繰り返しながら出かける準備をする。
 元々使っていたタオル類や、少しばかりの食器は実家から持ってきたけれど、新しい生活には新しい物が欲しくなるものだ。キッチン用品やバス用品に、その他諸々。あれこれと買い物リストを頭に思い描くと、ワクワクとしてくる。食器やバスタオル。使い古されたマグカップの代わりも欲しい。スプーンやフォークやお皿。可愛い洗濯バサミやスリッパも欲しいな。

 新しい物に思いを馳せながらも、バッグを手にし、一先ず近所の大型スーパーに行き、食料品と日用品の買い出しをしてきた。部屋に戻り、買ったものを冷蔵庫や食品棚におさめてから、昨日貰ったチラシを手にした。

 再びバッグを手にし、その中にチラシを入れ、隣人の梶優斗が経営しているという雑貨屋へ行ってみることにした。チラシの裏には簡単な地図も載っている。何か素敵なものがある予感がして、履きなれたスニーカーのつま先をタンタンと鳴らすと更に気分が上がった。

 晴れやかで穏やかな陽気は、新しい生活に素敵な花束をプレゼントしてくれているような気持ちになった。

 新生活、おめでとう。

 町や空気が、そう言ってくれている気がした。

「ありがとう」